Masuk松島玲子(まつしま れいこ)は二十歳のときに陸奥昌彦(むつ まさひこ)と恋に落ち、二十二歳で一生をともにすることを誓い合った。結婚して五年、子どもはできなかったが、陸奥家からの重圧に耐えながらも、彼は表情ひとつ変えずに彼女を抱きしめ、「愛している」と言い続けた。当時、誰もが「玲子は昌彦の命そのものだ」と言い、彼女もまたそれを疑わなかったが、昌彦に婚外子がいるというニュースが世間に広まるまでは。 その日、彼は土砂降りの雨の中、一日中跪いていた。「あの夜、俺は嵌められたんだ。麻里子が俺に薬を盛ったからさ……だから麻里子のことをお前と勘違いしてしまった。玲子、信じてくれ。愛しているのはお前だけだ。これからもずっとお前だけを愛する。頼むよ、俺を置いていかないでくれ」 玲子は彼の言葉を信じて、陸奥家が提示した「母を追い出し、子は残す」という条件付きの提案を受け入れた。 だがその後、白石麻里子(しらいし まりこ)が陸奥家に住み込みで妊娠生活を送り始めた頃から、あの自分しか愛さない人は麻里子のために千億に及ぶ重要な会議をすっぽかした。さらに二人の情熱が最高潮に達しようとしていたその時、ドアの外で麻里子が「暗いのが怖い」と呟くと、昌彦は迷うことなく玲子を置き去りにし、麻里子の元へ向かい、その夜は彼女のそばで過ごした。 玲子はその変化に気づいた。初めて、彼女は離婚届を差し出した。その日のうちに、昌彦は結婚指輪を握りしめたまま浴室で手首を切った。資産数億の社長が遺書に記されていたのは、たった一行の言葉だった。【玲子と添い遂げられぬなら、死を選ぶ】 二度目の時、彼女が口を開こうとした瞬間、昌彦は麻里子からの電話を切った。そして、二人が愛し合っていた頃に訪れた場所をすべて巡りながら、「俺の人生にお前は必要だ」と宣言した。一度、二度、三度……と、それを繰り返すうち、彼の態度は次第に形だけのものと変わっていった。九十九回目となると、彼女は荷物を持って家を出た。が、彼はもう追いかけもせず、謝りもすることはなかった。 「玲子は甘やかされすぎなんだ。あんなに騒いでも、本気で別れたことなんて一度もない。放っておけ。そのうち頭が冷えたら、また戻ってくるさ」だが彼は知らなかった。あの雨の夜、家を出た玲子が、二度と帰らなかったことを。次に目を開けたとき、玲子は昌彦に婚外子がいると知った、あの日に戻っていた。 ……
Lihat lebih banyak一年後、アフリカのある国、国境沿いの難民キャンプ場。玲子はカメラを拭きながら、無心に、ただ機械のように手を動かしている。「れ、玲子さん……」テントの幕がめくられ、小林雫(こばやし しずく)が水の入ったカップを両手に抱えて、おずおずと入ってくる。「どうしたの?」玲子が顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。「お礼を言いたくて……」雫はカップを差し出し、感謝のこもった目で見つめる。「今日、玲子さんが引っ張ってくれなかったら、あの武装したトラックに轢かれてたかもしれません」「大したことじゃないわ」玲子はカップを受け取りながら言った。「ここではお互い助け合うのが当たり前よ。覚えておいて、安全が最優先。ニュースは命のあと」雫は彼女を見つめ、もじもじと指を絡ませていた。「玲子さんって、何も怖くないみたい……どうしてここに来たんですか?」玲子の手が、カメラを拭く動作の途中でぴたりと止まった。彼女は顔を上げ、目の前の少女をじっと見つめた。その若々しい顔が、何年も前の自分とダブって見えた。心に傷を負い、危険の極みで感覚を麻痺させていた、あの頃の自分自身と。「じゃあ、雫はどうしてここに来たの?」玲子が問い返す。その言葉は心の錠前を外す鍵のようで、雫は目を潤ませ、今にも涙がこぼれそうだ。「笑われるかもしれませんが……私、ここに来たのは、ある人を忘れたいからです」雫の声は震えていた。「彼から離れれば離れるほど、地の果てまで逃げて、毎日生死の境をさまよっていれば、いつか忘れられると思ったんです。でも……まだ夢に出てくるし、彼のSNSの投稿一つで、一日中落ち着かなくなって……玲子さん、私、どうしようもない女ですよね?」玲子はカメラを置き、隣の防湿マットを軽く叩いた。「いいえ、あなたはどうしようもない女なんかじゃないわ。雫、どうしてそんなふうに思うの?さあ、ここに座って。実はね、私がここに来たばかりの頃も、あなたと同じだったの」玲子はカメラをそっと置き、静かに言った。「私も、ある過去を忘れたくてここに来たの」雫は顔を上げ、涙を含んだ瞳で彼女を見つめた。「毎日がむしゃらに働いて、くたくたになるまで動いていれば、倒れ込むように眠って、あの記憶に悩まされずに済むと思ってたの」玲子の指先が無意識にカメラの縁をなぞる。「でもね、結局逃げ
A市、陸奥グループ最上階の社長室。巨大な窓の外には、きらびやかな都市の夜景が広がるが、室内は静まり返っていた。昌彦は一人、窓際に立ち、がらんとしたオフィスに背を向けている。目の前の巨大スクリーンには、ジュネーブの授賞式が無音でライブ中継されていた。彼は音を消し、映像だけを確認したいようだ。スクリーンに映る、見慣れた、そしてどこかよそよそしい女性。彼女の落ち着いた足取り、彼女が発する一つ一つの言葉を見聞きするたびに、胸の奥が見えない手で強く締め上げられる。息が詰まるような痛みが全身を走った。五年が過ぎた。あの時、手を放した約束を守るかのように、彼女を邪魔することはなかった。しかし彼は、ありとあらゆるルートを使って密かに彼女を追い、その情報を掌握していた。危険な紛争地帯に深く入り込む彼女の姿、国際的な賞を受賞した少年兵の写真に隠された瀕死の体験、そして一介の戦場ジャーナリストから首席記者へとたどってきた道のりまでも。彼は、彼女のことをずっと見守っている。守られるべき弱い存在から、やがては他者を守り、作品をもって世界に語りかける存在へと。その一歩一歩の歩み、駆け出しの頃の面影を刻みながら、確かに前へと進む彼女を。彼は彼女を誇りに思っている。その誇らしさは、胸を突き破って溢れ出すほどのものだ。だが同時に、さらに深く、骨の髄にまでしみ込むような悲しみと後悔が、彼を襲った。この輝かしい功績に、彼も共に喝采を送ることができたはずなのに、今となっては彼とは全く無関係で、むしろ彼から離れたことによる新たな始まりが生み出したものだった。スクリーンに映し出された映像が、会場の観客席を映し、一瞬、周作と彼の妻の微笑む顔に焦点を合わせた。昌彦は、あの男が玲子を見る目に、純粋で何の混じり気もない賞賛と祝福が込められているのを見た。そして、玲子がスピーチを終えてステージを下り、周作夫妻とごく自然に抱き合う姿も。それは、生死を共にした戦友同士の友情であり、真摯で率直なものだった。昌彦はふと、五年前にL国の埃っぽいキャンプ場の外で、玲子が彼を断った時の言葉を思い出した。「昌彦、あなたの愛は、私にとって檻でしかなかった。今、籠から解き放たれた私は、自分の空へ羽ばたこうとしているの」彼女の言葉に、当時の彼はどこか腑に落ちないものを感じていた。
「Rei、何ぼーっとしてるの?早く来て!周作さんがすごいもの持ってきたよ!」入口のところで同僚が声を張り上げた。玲子は我に返り、スマホをバッグに放り込み、笑顔で外へ出た。中庭では、周作がジープの荷台からいくつもの箱を下ろしていた。中には焼きたてのパンがぎっしり詰まっている。生活物資が極端に乏しいこの土地では、新鮮なパンはまるで金以上も貴重なものだ。「うわっ!スイカだ!周作さん、どこで手に入れたの?」「信じられない!もう一年近くスイカなんて見てなかったよ!」みんなが歓声を上げる。周作はにこりと笑い、ナイフでスイカを真っ二つに割った。鮮やかな赤い果肉が顔をのぞかせる。「地元の友人がくれたんだ。みんなで分けよう、さあ食べて」玲子にも一切れ渡した。ひと口かじると、ひんやりと甘い果汁が口いっぱいに広がり、心の奥まで染み渡った。彼女は、たった一切れのスイカで満足そうに笑う仲間たちの顔を見渡し、少し離れたところで地元の子どもたちとじゃれ合う周作の姿を見つめた。その瞬間、ふいに――この人生って、案外悪くないのかもしれないと思った。そうだ。多くのものを失った。けれど、それ以上にたくさんのものを手に入れた。新しい友人、新しい仕事、そして新しい生活。何よりも大切なのは――誰かに頼らず、自分の足で立つ「新しい自分」を手に入れたこと。それだけで、もう十分だ。玲子は顔を上げ、戦火に染まって赤く霞むL国の空を見上げた。そして、久しぶりに、心の底からの笑みを浮かべた。今まで、ありがとう。これから、よろしく。五年後。ジュネーブ、パレ・デ・ナシオン。煌びやかに照らし出された授賞ホールは満席で、厳かな緊張と期待が空気に漲っていた。世界から集まった報道関係者、外交官、有名人たちが、今年の「世界平和ニュース賞」の発表を固唾を呑んで待ちわびている。「それでは、本年度の世界平和ニュース賞の受賞者をご紹介申し上げます」授賞者である国際報道界の重鎮が、わざと間を取りながら声を伸ばし、最後に力強く読み上げた。「――東国出身のフォトジャーナリスト、松島玲子さん!」その瞬間、ホール全体を嵐のような拍手が包んだ。スポットライトが一斉に客席を照らし出す。すると、ひとつの人影が、静かに浮かび上がった。彼女はシンプ
あの夜、昌彦は奇妙な夢を見た。夢の中で、玲子が交通事故で命を落としていた。全身が血に染まり、体は冷えきっているのに、彼女は最後の力を振り絞って彼に言った。「昌彦、私たち……離婚しましょう。来世では、もうあなたに会いたくない」彼は悪夢から飛び起き、全身が冷や汗でびっしょりだった。窓の外には、L国の月が大きく、丸く浮かんでいる。けれどその光はどこか冷たく、悲しみに見えた。彼は窓際に歩み寄り、望遠鏡を手に取って、遠くに灯りがついている小さな記者ステーションを見つめた。彼は知っている。玲子はあそこにいる。もう二度と自分が足を踏み入れてはならない世界で、彼女は懸命に、そして自由に生きている。――手放せ。心の奥で、そう囁いている。お前はすでに彼女の半分の人生を潰したんだ。まさか、これからの未来まで奪うつもりなのか?彼女が求めている自由も、望んでいる尊重も、お前には与えられない。お前にできる唯一のことは、彼女の世界から完全に姿を消すことだけだ。昌彦はゆっくりと望遠鏡を下ろした。空っぽの手を見つめながら、初めて「無力」という言葉の意味を痛感した。たとえ世界一高価なダイヤを手に入れ、軍の物資を調達できようとも、玲子の心からの笑顔一つ、彼女の振り向きすら得ることはできない。彼は間違っていた。そして、その間違いは取り返しのつかないほど深刻だった。彼はゆっくりと見向きを変えて、スマホを手に取って牧野に電話をかけた。「牧野……」その声には、かつてない疲労と嗄れがにじんでいた。「一番早い便で、帰国のチケットを取ってくれ」もう、手放す時が来た。L国を離れる前日、昌彦はひとつの行動を取った。彼は海外基金を通じて、「前線報道連盟」に匿名で多額の寄付を行った。その資金の使い道も指定した――Reiが所属する撮影記者チーム専用で、全装備を更新すると同時に、最高レベルの安全保障と医療支援を提供すると。すべてを終えたとき、彼の肩から重い荷が下りたような感じだった。これが、彼にできる彼女への最後のことだと分かっていた。空港には波のように人が押し寄せている。昌彦はVIPラウンジの一角に座り、窓の外で離着陸を繰り返す飛行機を見つめながら、手の中のスマホを強く握りしめた。画面に映るのは、もう何度