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第152話

Author: 玉酒
スマホのスピーカーから、美羽の弾むような声がダイニングルームの隅々まで響いた。

華子の眉間に深い皺が寄った。

しばらくしてようやく、和彦が低く「うん」と返事をした。

美羽への答えとも、美穂への返事とも取れる、気のない声。

「愚か者め!」通話が終わるや否や、華子は抑えきれずに吐き捨て、指先で数珠を弾く手が速くなった。「外の飯がそんなに美味しいのか、家に帰りもせず……みっともない!」

美穂は慌てて携帯を置き、華子の背をそっと撫でた。「おばあ様、どうかお気を静めて。先に召し上がりましょう。せっかくのお料理が冷めてしまいます」

彼女の声は柔らかく、ほどよい親しみを帯びて、老人の背をなぞるようにゆっくりとさすり、まるで子どもをあやすような忍耐を見せていた。

その夜の食卓は、異様なほど静かだった。

美穂は少しずつ箸を進め、横目で華子が何度も箸を持ち上げては置き、やがて椀まで下ろして、壁の時計をじっと見つめるのに気づいた。

針が7時半を指す頃、ようやく外から車のエンジン音が響いた。

華子の背筋がぴんと伸びた。

美穂は聞こえていないフリをして顔を上げず、携帯を操作して実験データをメモに記録していた。和彦がいつ帰るかなど、さほど気にしていなかった。

「おばあ様」ダイニングに入ってきた和彦は、細長い指でネクタイを緩めながら、ほのかな香りを漂っていた。

美羽が愛用している香水と、まったく同じ香り。

彼が美穂の横を通るとき、彼女の鼻は少し動き、無意識のうちに眉をひそめた。

和彦は冷めた料理に視線を流し、無表情に言った。「外で食べてきた」

華子の顔色が一変した。「おばあちゃんの言うことも聞かないのか!美穂にわざわざ呼ばせておいて、その態度は何だ!」

和彦の冷ややかな視線が一瞬だけ美穂にとどまった。

彼女は自分の世界に沈み、窓の外の月光のように静かな横顔を見せていた。

彼は口元をわずかに吊り上げ、薄い笑みを浮かべながら、辛抱強く老婦人をなだめた。「忘れるはずがないよ。手が空いた途端、すぐに戻ってきたんだ」

そう言い残すと、すぐさま「まだ処理が必要な書類がある」と言い訳して二階へ上がってしまった。

華子は階段の曲がり角に消える背中を睨みつけ、手のひらで卓を叩いた。食器がカタカタと鳴り、歯を食いしばって言った。「もう、目に余る!」

その時ようやく美穂が顔
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Comments (2)
goodnovel comment avatar
hime kichi
おばあ様の気持ちより自分の気持ちを大事にしたら?こんな男と一緒にいる意味ないやん。 それにしてもこの手の男はみんな美羽のように女に騙される愚か者。
goodnovel comment avatar
カナリア
もうおばあちゃん帰ったし美穂も帰ればいいんじゃないかしら? 仕事が残ってるって清には言って出ればいいじゃん 一緒にいる意味なんてない
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