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美穂は指先をわずかに動かした。全身が重だるく、とりわけ額には鈍い痛みが断続的に走っていた。「水村さん、お目覚めになりましたか?」ベッド脇で付き添っていた看護師がすぐに身を乗り出し、気遣わしげに声をかけた。「ご気分はいかがですか?痛むところはありませんか?」美穂は軽く首を振る。声はかすれていた。「……大丈夫です。運転手さんは?それと……陸川社長は?」看護師の表情が一瞬曇り、声を落とす。「運転手の方は軽傷で、すでに一般病棟に移られました。ただ、陸川社長は……まだ救急処置室にいらっしゃって、状態はあまり良くありません」美穂の胸が大きく沈む。身を起こそうとしたが、看護師にそっと肩を押さえられた。「水村さん、まだ安静が必要です。ベッドから降りてはいけません」「彼に会いに行きます」美穂の声には迷いがなかった。瞳には隠しきれない不安が宿っている。まさか和彦が、私を救うために、車を使って暴走するベントレーを止めようとするなんて思いもしなかった。いつも冷たい態度を崩さないあの男が、ここまでするなんて。その時、病室のドアが開き、峯が入ってきた。手には保温ポットを持っている。美穂が目を覚ましたのを見ると、ほっとしたように表情を緩めた。「美穂、やっと目が覚めたか。具合はどうだ?」「峯兄さん……和彦は?どうなってるの?」美穂は峯の手をつかみ、焦った様子で尋ねた。峯は小さくため息をつき、ベッドの傍らに腰を下ろす。「まだ処置中だ。医者の話では、脳内出血を起こしていて、かなり危険な状態らしい」少し間を置き、さらに言った。「それと、処置室の前で陸川明美と陸川深樹を見かけたんだが……妙に嬉しそうだった」美穂の胸が冷え込む。これまでのあの親子の数々の策略が頭をよぎった。――今回の事故、本当にただの事故なのだろうか?「峯兄さん、今回の事故の真相を調べて」美穂の瞳が冷たく研ぎ澄まされる。「明美たちの仕業じゃないかと思うの」峯はうなずいた。「すでに人を動かしている。安心しろ。もし本当に奴らの仕業なら、絶対に逃がさない」一方その頃――病院の廊下の奥では、明美と深樹が窓辺に立ち、声を潜めて話していた。明美は高級感のあるワンピースに身を包み、満足げな笑みを浮かべている。「まさか和彦があんなに愚かだったなんてね。美穂なんかのために、自
盛夏の京市は、突如として降り出した激しい豪雨に包まれていた。大粒の雨が陸川グループ本社のカーテンウォールを激しく叩き、細かな水しぶきを弾きながら、窓外の摩天楼をぼやけたシルエットへとにじませていく。だが最上階の会議室の空気は、外の嵐以上に張り詰めていた。和彦は上座に腰掛け、火もつけていない葉巻を指先に挟みながら、鋭い視線でスクリーンに映し出された四半期決算報告を見据えている。ダークグレーのオーダーメイドスーツに身を包み、厳粛な会議の場にあっても、その佇まいにはどこか倦怠を帯びた高貴な気配が漂っていた。「海外市場の開拓は、進捗が十五パーセント遅れている」彼の声は静かだったが、有無を言わせぬ威圧感を帯びている。「来週までに解決策を提出しろ」下に並ぶ各部門の責任者たちは一斉にうなずき、誰一人として彼の視線を正面から受け止めようとはしなかった。ただ一人、隅の席に座る鳴海だけが、こっそりスマートフォンでメッセージを返信していた。口元には面白がるような笑みが浮かんでいる。――莉々がまた陸川家本家で騒ぎ、和彦に会わせろと執事に食い下がったものの、門前払いされたという連絡が入ったばかりだった。その時、会議室のドアが乱暴に押し開けられた。芽衣が血の気の引いた顔で飛び込んでくる。手にはスマートフォンが握りしめられ、声は震えていた。「社長……大変です!お車が……郊外の幹線道路でブレーキが効かなくなったそうです!しかも……しかも水村さんが車に乗っています!」カラン――和彦の手から万年筆が滑り落ち、磨き上げられた会議テーブルの上を転がっていく。彼は勢いよく立ち上がり、椅子が床を引っかいて耳障りな音を立てた。それまで冷静だった瞳は、一瞬で動揺に塗り替えられる。「……今、何と言った?」和彦は芽衣の腕をつかみ、その指の関節が白くなるほど力がこもる。「どうして美穂が、俺の車に乗っている?」彼の反応に芽衣は思わず息をのんだが、慌てて説明する。「運転手の話では、水村さんはラボへ向かう途中で渋滞に巻き込まれ、社長の指示で別ルートを使って送ることになったそうです……ところが郊外道路に入った途端、ブレーキが効かなくなったと……!」和彦はもう会議どころではなかった。芽衣を押しのけ、足早に会議室を飛び出す。エレベーターを待つ余裕もなく
美穂は胸の奥がふっと温かくなり、少し冷めたご飯を温め直して、ゆっくりと口に運んだ。ちょうどいい温もりが胃にも心にも染み渡り、夜の冷えをやさしく追い払ってくれる。食べ終えるとリビングに戻り、スマートフォンを手に取って、今日の発表会のアーカイブ映像を見返した。最初はただの一つのアイデアに過ぎなかった。そこから数えきれないほどの研究開発を重ね、そして今日、ついに正式にリリースされた。知夏はまるで我が子のように、少しずつ成長し、ようやく多くの人に認められる存在になったのだ。画面をスクロールすると、コメントは知夏を応援する言葉で埋め尽くされていた。美穂は小さく微笑む。――よかった。これまでの努力は、決して無駄じゃなかった。その時、スマートフォンが突然震え、新着メッセージが表示された。差出人の番号には見覚えがある。メッセージを開くと、そこにはただ一行だけ。【知夏は素晴らしい。身の安全に気をつけて】美穂の指先が一瞬止まり、胸にかすかな波紋が広がる。この番号の持ち主が誰なのか、よく分かっていた。雪の夜、背後に静かに横付けされたマイバッハのことを思い出し、すべてを察した。数秒ほど考え込んだ末、返信の文章を打ち込む。だが送信ボタンを押す直前で削除した。何と返せばいいのか、分からなかった。「ありがとう」?それとも、どうして黙って助けたのかと問いただすべきだろうか。美穂はバルコニーに出て、目を伏せながら下の夜景を見下ろした。街灯の光が星のように、真っ暗な通りに点々と瞬いている。心の中で、そっと思う。過去にどれだけ衝突があったとしても、今はもう知夏が動き出した。これから先、やるべきことはまだたくさんある。もっと研究開発に力を注ぎ、知夏でより多くの人を助けたい。和彦のことは……もういい。彼が助けたいなら助ければいいし、そうでなくても構わない。一人でも、この道を進んでいける。美穂が振り向いてリビングへ戻ろうとした瞬間、スマートフォンが激しく震えた。峯からのビデオ通話だった。通話に出ると、まだ何も言わないうちに、画面の向こうの峯が焦った様子で口を開いた。背後には空港の大きなガラス窓が見える。「美穂、港市で重要な情報を突き止めた。――お前の両親は、生きている可能性がある」美
しばらくして、深樹は低く鼻で笑い、背筋を伸ばして座り直した。白く整った顔に表情らしい変化はない。だが、その瞳の奥には隠しきれない陰険な光が潜んでいる。綿密に仕組んだ計画が、またしても失敗に終わった。本来なら、部下にSRの予約システムに大量の偽注文を入れさせることで、販売データを混乱させるつもりだった。発表会の数字に影を落とし、美穂の成功に小さな傷を残すはずだったのだ。だが、和彦はそれを事前に察知していた。技術部に指示して偽注文を排除させただけでなく、発表会の注目度を逆手に取り、SRの株価まで押し上げてしまった。余計なことを……さらに、自分が手配したネガティブ報道も、陸川グループの広報部にあっさり封じられた。胸の奥に、久しく感じていなかったほどの怒りが込み上げる。ここまで苛立ったのは、自分の本当の出自を知った時以来だった。血の繋がったあの男は、すでに自らの手で葬った。だが、それでも怒りは消えなかった。「使えない連中だ」深樹はもともと感情を表に出さない。演技が必要な時以外、怒りを見せることは滅多にない。煙草を一本取り出し、火をつける。煙の向こうで、視線はさらに冷たく沈んでいく。そのとき、スマートフォンが震えた。明美からのメッセージだった。【深樹、ホテルにもう一か月も滞在してるの。手持ちのお金がもう足りないわ。そっちは進展がありそう?このままだと、いずれ和彦に見つかってしまうわ】画面を斜めに眺め、鼻で笑う。――この女、金がなくなれば、すぐ頼ってくる。口元に煙草をくわえたまま、キーボードを叩く。【計画は一時的に停滞している。陸川和彦は想定以上に慎重だ。もう少し身を隠していろ。新しい手を準備している。次は必ず奴を失脚させ、陸川グループを奪い取る】送信ボタンを押すと、スマートフォンを無造作にデスクへ放り投げた。視線がSRのロゴへ向かう。雪の夜、和彦が自ら運転して美穂を守った光景が脳裏に浮かんだ。冷笑が口元に浮かぶ。和彦の弱点は――美穂だ。知夏の販売を妨害できないなら、直接美穂を狙えばいい。暗号化されたフォルダを開く。そこには、美穂が起業してからの各種資料、知夏開発時の初期設計図まで保存されていた。素早くキーボードを打ち、知夏関連の特許情報を検索していく
和彦は本革のチェアに深く身を沈めていた。左脚を右膝に重ね、パンツのセンターラインは乱れなく真っ直ぐ伸びている。足首の骨格のラインがシャープに浮かび上がる。細長い指先には火をつけていない葉巻。白く冷たい指の関節が軽く唇に触れ、目はモニターに映る経済ニュースを追っていた。【SRテクノロジー「知夏」オンライン発表が爆発的受注、医療テック銘柄が単日5%上昇】見出しはひときわ目を引く。切れ長の目がわずかに細まり、身を乗り出してマウスを操作する。画面は別のページへ切り替わった。そこにはすでに抑え込まれているゴシップ記事がいくつか並んでいる。【陸川グループ社長、想い人のために企業利益を軽視?緊急会議欠席で提携機会喪失】添えられた写真は、雪の夜の高架道路で黒いマイバッハが白い車の前に割り込んだ瞬間を捉えたものだった。ぼやけた画質でも状況は十分伝わる。和彦の表情は動かない。内線電話を手に取り、広報部に繋いだ。「俺に関するネガティブ記事は、すべて処理済みか」電話の向こうから、広報部長の慎重な声が返ってくる。「ご安心ください。関連情報はすべて削除済みです。主要メディアにも連絡を入れており、追加報道はありません。加えて、新エネルギー分野への投資計画を発表し、世間の関心をそちらへ誘導しました」「分かった」通話を切り、デスク上のライターを手に取る。火が灯り、葉巻の先端が赤く揺らめいた。長いまつげが影を落とす。吸い込むたび、火種がかすかに明滅する。離婚前、自分は美穂が穏やかに「陸川家若夫人」でいてくれればいいと思っていた。だが今になってようやく気づいた。彼女が本当に輝くのは、彼女が心から愛する分野に身を置いているときなのだと。その瞬間。コン、とノックの音が響いた。芽衣は分厚い書類の束を抱えて入ってきて、慎重な様子で口を開いた。「社長、取締役会から連絡がありました。医療テック分野への投資拡大を検討するかどうか、確認したいとのことです。特にSRの知夏プロジェクトに関心が集まっています。医療ロボットは今、明らかな成長領域です。機会を逃すのは惜しい、と」和彦はゆっくりと顔を上げた。端正な眉がわずかに動く。視線の奥に、ごく微細な揺らぎが走った。彼自身、SRへ投資するつもりは前からあった。
会議室は臨時の祝賀パーティー会場へと姿を変えていた。天井の照明フレームにはリボンが絡み、テーブルにはシャンパンやケーキ、彩り豊かなフィンガーフードが並ぶ。社員たちは三々五々集まり、誰の顔にも抑えきれない喜びが浮かんでいた。美穂はシンプルなオフホワイトのワンピースを身にまとい、シャンパンを手にして技術チームのメンバーに囲まれている。知夏の開発のため、幾度となく徹夜を共にした仲間たちだ。「水村社長が最後まで私たちをチームに残してくださらなかったら、このプロジェクトには参加できませんでした。本当に……あの時、信じてくださってありがとうございます」技術部のリーダーは感極まった様子で言った。その目には敬意がはっきりと浮かんでいる。「配信のコメントでも、知夏がまるで人間みたいだって話題になっていました。見た目も綺麗だって」美穂は微笑み、グラスを軽く合わせた。「みんなで積み重ねた成果よ。あなたたちがいなければ、知夏はここまで来られなかった」そう言ってシャンパンを一口飲む。冷たい液体が喉を通り、ほのかな果実の香りが広がる。すでに何杯か飲んでいたせいか、少し酔いが回る。ようやく社員たちの輪から抜け出し、部屋の隅のソファに腰を下ろすと、こめかみを軽く押さえた。そこへ清霜がジュースのグラスを二つ持って近づき、隣に座る。一つを差し出した。「飲みすぎは胃に悪い。少しこれで落ち着いて」美穂は受け取り、冷たいグラスの感触で少し意識がはっきりする。賑やかな会場を見つめながら、ぽつりと呟いた。「千葉さん、思うことがあるの。成功すればするほど……周りに残る人が少なくなっていく気がして」清霜は一瞬だけ言葉を探したが、すぐに理解した。起業したばかりのこの一年、周囲の人間関係は大きく変わった。理念の違いで離れた者もいれば、利害で距離ができた者もいる。今、本当に信頼できる人間はほんのわずかだ。清霜は美穂の手の甲を軽く叩き、静かに言った。「友人は数じゃない。質よ。例えば菅原さんは、水村さんのために予定を調整してここに来た。峯さんだって、きっと裏で支援しているでしょうし……それに……」そこで言葉を切り、話題を変えた。「そうだ、知夏のカスタマイズ機能について。千葉メディカルとして密接な連携を希望している。リハビリセンターの設備更
美穂が和彦に連れられて京市に戻ったという知らせは、すぐに陸川家の本家に伝わった。その夜、華子は電話一本で美穂を本家に呼び出し、厳しく叱責した。明るく広々としたリビングは非常に静かだ。空気には沈香が漂い、非常に濃厚だった。美穂は大人しく華子の足元に半跪きし、手にした槌で相手の腿を軽く一定のリズムで叩いていた。彼女は顔を上げ、目を閉じて休んでいる華子をこっそり見やると、手招きして執事を呼んだ。「どうしましたか?」執事は身をかがめ、敬意を込めて尋ねた。美穂は小声で言った。「香りを少し薄くして、おばあ様が匂いすぎると眠れなくなるよ」執事は意図的に鼻をすすると、室内の香り
突然、綺麗な女性が連れてこられたことで、男ばかりのプログラマーたちは一気に盛り上がった。彼らは肩で天翔を押しのけ、目をこっそり美穂に向けながら、早く説明するよう促した。「押さないでくれ」天翔は嫌がりながら彼らを押しのけ、美穂を指差して真面目に紹介した。「この前話した水村さんだ。新商品に入ってたエラー、彼女がその最適解を導き出した。今は終わりを手伝ってもらってる。みんな拍手で迎えてくれ」パチパチと熱烈な拍手が起こった。美穂は眉を軽くひそめ、静かに尋ねた。「間もなく新商品発表会なのに、どうしてまだ終わってませんか?」天翔は手を挙げて拍手を抑え、照れ笑いしながら答えた
あの頃の二人は若くて、怖いもの知らずで、自由気ままに生きていた。美穂は笑いながら、グラスを軽く掲げ、将裕のグラスにそっと当てた。「ありがとう、将裕」一方その頃、莉々は、スマホの画面に表示されたブロックの通知をじっとにらみつけていた。その甘美な顔立ちには、驚きと戸惑いが隠しきれなかった。あんなに順調に話が進んでいたのに、将裕がどうして急に態度を変えたのか、彼女には理解できなかった。わざわざ仕事の予定をキャンセルしてまでホテルに行って、彼のつまらない曲を聴いた。しかも、冷たい態度まで取られてしまったのに、結局こんな結果なのか?彼女は急に悔しさを覚え、連絡先をくまなく
莉々は彼の言うことに従い、何度も頷いて言った。「わかりました。おじさんの友人が気に入ってるなら、その人に差し上げましょう」「ありがとう」志村家の家主はにこやかに笑いながら言った。「知彦と仲が良いから、これからもうちに遊びに来なさいね」その言葉を聞いて、莉々はようやく和彦がなぜ諦めさせたのか理解した。大した価値のないジュエリーを手放しただけで、志村家の当主に恩を売れたのだから、彼女は大きく得をした。志村家の家主は華子の方を向いて言った。「新しい血赤珊瑚の数株を、改めてお届けします。割愛してくれたお礼として、受け取ってください」華子は彼よりも年長であり、敬意を払







