INICIAR SESIÓN唯はカフェから帰宅したその夜の間中、スマホの画面をぼんやりと見つめ続けた。
真っ白な、離婚届のテンプレート。そして――翌日の午後。
インターホンが鳴った。唯はエプロンを外しながら玄関へ向かった。
宅配かと思いきや、モニターに映ったのは見知った顔だった。長い黒髪をストレートにして、ブランドもののコートを完璧に着こなした女性。
化粧は濃すぎず、でも存在感が強い。いかにもキャリアウーマンという雰囲気なのに、どことなくセクシーさもあった。――佐倉彩音。
涼の元恋人で、今も黒崎グループで働いている。「こんにちは」
流石に知り合いともなると、ドアを開けないわけにも行かない。
仕方なくドアを開けると、彩音は微笑んだ。でも、笑顔なのに、目が笑っていない。「久しぶりね」
「お久しぶりです……」
「突然ごめんなさい。でも、話しておきたくて」
けれど。胸の奥では。小さな期待が生まれ始めていた。唯はスマホを見つめる。『桜井さんにそう言っていただけると嬉しいです』何度読んでも。意味は変わらない。それなのに。読むたびに胸が落ち着かなくなる。何か返事をしなければ。そう思う。けれど。何を書けばいいのかわからない。『ありがとうございます』も違う気がする。『そんなことないです』も違う。そもそも。どうしてこんなに悩んでいるのだろう。仕事の連絡なら。もっと簡単に返せるのに。「まだ悩んでるの?」美咲が呆れた声を出す。唯は慌ててスマホを隠した。「悩んでない」「五分くらい同じ画面見てるけど」図星だった。唯はぐったりと机へ突っ伏した。すると。美咲が面白そうに笑う。「そんなに嬉しかったんだ」「違う」「じゃあ何でそんな顔してるの」唯は返事ができなかった。嬉しかった。それは事実だ。だから困っている。結局。唯は短く打ち込む。『ありがとうございます』それだけ。本当はもっと色々考えていたのに。送れたのはそれだけだった。送信ボタンを押す。しばらくして返信が届く。『こちらこそ、ありがとうございます』高倉らしい返事だった。唯は少しだけ笑う。そのとき。続けてメッセージが届いた。『今日は少し早く帰れそうです』そこまでは、さっきと同じだった。だが。次の一文を読んで、唯は目を瞬かせる。『実は少し疲れてい
自分は今。高倉のことを考えて笑っている。その事実に。胸が小さく揺れた。唯は慌ててスマホを伏せる。まるで。自分自身に見つかってはいけない秘密を隠すように。「どうしたの?」美咲が聞く。「何でもない」「その顔で?」全く説得力がなかったらしい。唯は視線を逸らした。そのまま仕事へ戻ろうとする。けれど。無理だった。高倉から届いたメッセージが頭から離れない。『今日は定時で帰れそうです』本当にただの報告だ。それなのに。なぜ自分へ送ったのだろう。以前なら。こんな連絡はなかった。仕事の話だけ。必要なことだけ。それが高倉だったはずだ。唯は小さく息を吐く。考えすぎだ。そう思う。けれど。考えてしまう。そのとき。スマホが再び震えた。唯は反射的に画面を見た。また高倉だった。さすがに驚く。今日はどうしたのだろう。メッセージを開く。そこには短く書かれていた。『失礼しました』唯は目を瞬かせる。続きが届く。『仕事の報告をする必要はありませんでした』唯は思わず吹き出した。どうやら送ったあとで気づいたらしい。確かに。定時で帰れることは業務連絡ではない。「何?」美咲が聞いてくる。「高倉さん、自分で送っておいて反省してる」「何それ」美咲も笑い出す。唯は画面を見つめた。律儀というか。真面目というか。高倉らしい。唯は少し考える。
その事実を認めるのが。どうしようもなく恥ずかしかった。唯はパソコンへ向き直る。仕事をしよう。今はそれが先だ。そう思う。だが。画面を見ても頭へ入ってこない。美咲の言葉が離れなかった。『会いたくない人の連絡は待たないよ』本当にそうなのだろうか。唯は小さく息を吐く。考えたくない。けれど。考えてしまう。そのとき。スマホが震えた。唯の肩がぴくりと揺れる。反射的に画面を見る。そして。今度こそ。高倉からだった。唯は思わず固まる。美咲が横から覗き込んだ。「来たじゃん」「覗かないで」慌ててスマホを隠す。けれど。耳まで熱くなっている自覚があった。唯は画面を開く。『お疲れさまです』短い文章だった。続きがある。『先ほどの件ですが』唯は自然と表情を引き締めた。仕事の話だ。そう思う。『週刊プライム側からのメールは削除せず保存してください』『今後の対応で必要になる可能性があります』やはり仕事だった。唯はほっとしたような。少しだけ残念なような。自分でもよくわからない気持ちになる。『わかりました』返信する。すると。すぐに既読がついた。今日は本当に忙しいのだろうか。それとも。たまたまなのだろうか。そんなことを考えていると。返信が届く。『ありがとうございます』いつもの高倉だった。律儀で。真面目で。少しだけ堅い。
そこには。高倉とのトーク画面が表示されたままだった。唯は慌てるようにスマホを伏せる。まるで見られてはいけないものを見られた気分だった。「いやいや」美咲が呆れたように言う。「その反応がもう答えでしょ」「違うから」「違わない」即答だった。唯は反論しようとして。結局、何も言えなくなる。最近ずっとこうだ。美咲に何か言われるたびに否定する。けれど。そのたびに言葉が弱くなっている気がする。仕事へ戻ろう。そう思ってパソコンへ向かう。だが。集中できない。高倉との電話を思い出してしまう。『ご心配いただき、ありがとうございます』あの声。少しだけ笑った声。そして。『その言葉は、そのままお返しします』唯は小さく息を吐いた。本当にだめだ。こんな状態では仕事にならない。そのとき。事務所の電話が鳴る。唯は反射的に受話器を取った。取引先からの確認連絡だった。十分ほどで通話は終わる。仕事の話をしている間だけは余計なことを考えずに済んだ。だが。受話器を置いた途端。また頭の中へ高倉が戻ってくる。「重症だね」美咲がぽつりと言った。「聞こえてるから」「聞こえるように言った」全く悪びれていない。唯はため息を吐く。すると。美咲が少し真面目な顔になった。「ねえ」「何?」「唯さ」美咲は少し考えるように言葉を選んだ。「高倉さんに会いたい?」唯は固まった。会いたい。その言葉は予想以上に破壊力があった。好きかどうか。そう聞かれるより。ずっと。胸の奥へ刺さる。会いたい。そう思っているだろうか。唯は考える。昨日。高倉が事務所へ来た。帰るとき。少し寂しかった。今日も。電話を切ったあと。もう少し話したいと思った。朝の連絡が嬉しかった。昼の連絡も。気づけば。連絡を待っている自分がいる。そこまで考えて。唯は慌てて思考を止めた。「……わからない」それが精一杯だった。美咲は優しく笑う。「そっか」からかう様子はなかった。むしろ。どこか安心したようにも見える。「でもね」美咲が続ける。「会いたくない人の連絡は待たないよ」唯は何も言えなかった。図星だったからだ。そのとき。スマホが震える。唯の心臓が跳ねる。思わず画面を見る。そして。自分でも驚く。無意識だった。送
メールを転送してから十分も経たないうちに。高倉から返信が届いた。『転送ありがとうございます』まず最初に礼が書かれている。唯は思わず小さく笑った。こういうところは本当に変わらない。どんなときでも礼を欠かさない。その下へ視線を移す。『返信はしないでください』『今後、週刊プライムからの連絡はすべて保管をお願いします』『こちらで対応します』簡潔だった。けれど。迷いのない文章だった。唯は画面を見つめる。こちらで対応します。最近何度も聞いている言葉だ。それなのに。読むたびに少し安心してしまう。そのとき。スマホが震えた。今度はメッセージではなく着信だった。唯は思わず目を見開く。高倉からだった。「え?」美咲も気づいたらしい。「電話?」唯は頷く。そして慌てて通話ボタンを押した。「もしもし」『お忙しいところ申し訳ありません』落ち着いた声が耳へ届く。それだけで。胸の奥が少しだけ落ち着く。自分でも不思議だった。『メールの件ですが』すぐに本題へ入る。仕事の話だ。それなのに。なぜか少しだけ残念に思ってしまう。唯はそんな自分へ呆れた。『今後、同じような連絡が増える可能性があります』「はい」『取材依頼だけならまだ対応しやすいのですが』そこで高倉の声が少し低くなる。『周囲への聞き込みが始まるかもしれません』唯は表情を引き締めた。「美咲にも?」『可能性はあります』隣で聞いていた美咲が顔をしかめる。「うわあ&he
考えすぎだ。唯はそう自分に言い聞かせる。けれど。胸の奥のざわつきは消えなかった。「返さないの?」美咲が面白そうに尋ねる。唯はスマホへ視線を落とした。『昼食は食べましたか』画面には相変わらずその文章が表示されている。仕事の進展報告のあとに。なぜ昼食確認が入るのだろう。普通ならおかしい。おかしいはずなのに。最近はもう慣れてしまっていた。『これから食べます』唯はそう返信する。数秒後。『それなら安心しました』と返ってきた。やっぱり。その言葉だった。唯は思わず笑う。「また安心したって?」美咲が聞いてくる。「……うん」「もう口癖じゃん」確かにそうかもしれない。安心しました。最近の高倉は本当によくそう言う。唯はスマホを伏せた。そして。ふと気づく。以前なら。高倉から連絡が来るたびに緊張していた。何て返そう。変じゃないだろうか。そう考えていた。けれど今は違う。自然に返事をしている。自然にやり取りをしている。それが当たり前になり始めていた。そのことに気づいて。唯は少しだけ戸惑う。そのとき。事務所の電話が鳴った。唯と美咲は同時に顔を上げる。一瞬だけ緊張が走る。昨日のことがあるからだろう。だが。電話は取引先からだった。仕事の確認。ただそれだけ。通話を終えたあと。唯は小さく息を吐く。「びっくりした」







