Share

冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。
冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。
Penulis: ぶりっ子

第1話

Penulis: ぶりっ子
香月温子(こうつき あつこ)が息を切らしながら山の中腹にあるヴィラに辿り着いた時には、中のパーティーはとっくに始まっていた。

門番は彼女が来るとは思っていなかったようで、少し驚いた様子だった。

「奥様、どうしてこちらへ?皆様はもうお食事を済ませてしまわれましたのに……」

夫の誕生日パーティーだというのに、名ばかりの妻である彼女は忘れ去られ、この界隈の誰もが、彼女に連絡一つよこさなかった。

温子は門番に微笑みかけ、ヴィラのドアを押そうとしたその時、中から話し声が聞こえてきた。

「梓穂さん、どんなプレゼントを贈ったんですか?伊吹さん、ずっと梓穂さんのプレゼントの袋をじっと見て、随分前から楽しみにしているようです」

「俺が?」

「いやいや。その袋、もう穴が開くほど見つめてましたって。せっかく梓穂さんが今回帰国したんだし、もうさっさと温子さんと別れた方がいいんじゃないですか?みんなも気分悪いでしょうし」

「そうですよ。そもそも、あいつが薬を盛って伊吹さんのベッドに忍び込んだんでしょう?あの時、伊吹さんが一時的に情に流されて、あいつの世間体を気遣って妻の座を与えなかったら、とっくの昔に世間の唾にまみれて生きていけなかったでしょう」

中央に座る男は、仕立ての良いダークスーツを身につけ、シャツの襟元はボタンが二つ開けられていた。彼の雰囲気は生まれつき人を寄せ付けず、深く彫られた目元、高い鼻、薄い唇は、まるで色彩豊かな毒蝶のよう。今、細く吊り上がった目尻が、どこか冷淡で傲慢な雰囲気を醸し出している。

「急ぐ必要はない」

「伊吹さん、三年経ってもまだ急がないんですか?あの女、昔、梓穂さんの姉を植物状態にしたんですよ。おばあ様が庇ってなければ、とっくに俺たちが始末してましたよ」

灰原伊吹(はいばら いぶき)のすらりと美しい指が、手中のライターをもてあそぶ。その視線が、ふと、入り口の影を捉えた。

そこでようやく、皆は温子がいつの間にかそこに立っていることに気づいた。

誰かが小声で尋ねた。「誰か、あいつに連絡したのか?」

その場に返事をする者はおらず、どうやら彼女は招かれざる客だったらしい。

温子は睫毛を伏せた。

温子は穏やかで涼しげな顔立ちで、小ぶりな卵型の顔をしている。淡い色のカシミヤのセーターを着て、額の髪は優しく耳の後ろに留められている。

その容姿だけを見れば、誰も彼女があんな恥知らずな真似をするとは思わないだろう。だが、実際にそれらのことをしたのは、紛れもなく彼女自身だった。

手にプレゼントを携え、中央に座る伊吹を見つめる。胸は締め付けられて、じわりじわりと痛みが染み渡り、指先までぎゅっと握りしめた。

伊吹のもとへ歩み寄り、丹精込めて用意したプレゼントを差し出す前に、彼はわずかに眉をひそめ、気だるげにからかった。「誰が来ていいと言った?」

周囲から嘲笑が漏れる。それは、温子の誇りを寸分ずつ打ち砕くかのようだった。

傍らにいた篠崎梓穂(しのざき しほ)はそれを聞き、伊吹を咎めるように睨みつけ、温子の腕を引いて座らせた。「一応、あなたの奥さんなんだから、プレゼントを渡しに来るのは当然でしょう?温子さん、早く座って。伊吹ったら、本当に意地悪な性格なんだから」

温子は口を真一文字に結び、何も言わなかった。正真正銘の妻であるはずなのに、元婚約者の梓穂に場を取り繕ってもらうなんて。この場にいる誰もが彼女を歓迎していなかった。

それでも彼女は来た。

ただ、十八歳の時、彼が「二十八歳の誕生日を一緒に過ごそう」と言ってくれたから。

彼女は直接、伊吹の隣に座り、梓穂を押し退けた。

梓穂の顔色が一瞬で凍りつき、険しい表情になった。しかしすぐに気を取り直したように尋ねる。「伊吹にどんなプレゼントを用意したの?」

詮索好きな誰かが、直接手を伸ばして開けてみた。中にはマフラーが入っており、タグはなく、手編みのように見えた。

梓穂の声が再び響く。「あら、私と本当に気が合うわね。私もマフラーを贈ったのよ」

二本のマフラーはそうして並べられた。どちらも手編みで、どちらの出来が良いのかは判別できない。

誰かがうっかりテーブルに触れると、蓋の開いたワインボトルが突然倒れ、酒が二本のマフラーへと流れ出した。

伊吹は手を伸ばし、そのうちの一本を手に取った。もう一本はびしょ濡れになり、酒の匂いが充満していた。

彼が手に取ったのは、梓穂のマフラーだった。

温子は、二ヶ月かけて編んだマフラーが酒に浸されているのを見て、一瞬で顔色を失った。心臓は鈍く、痺れるように痛んだ。

梓穂はため息をつき、慰めるように温子の腕を組んだ。「温子さん、怒らないでね。これ、持って帰って洗えばまた使えるわよ」

温子はやはり梓穂を無視し、伊吹を見つめた。

伊吹は目を伏せ、その瞳に宿る感情を覆い隠していた。

場の雰囲気は微妙なものになった。温子はまるで、楽しんでいたパーティーを台無しにしたかのよう。人々は次々と立ち上がり、帰ると言い出し始めた。

温子は動かずにその場に座り、テーブルに置き去りにされたマフラーを見つめていた。まるで、自分自身を見ているかのように。

他の人々が次々と去っていく中、彼女は立ち上がろうとする伊吹を見つめ、静かに言った。「伊吹、誕生日おめでとう」

伊吹は聞こえていないかのように振る舞った。この周囲にいるのは皆、彼の親しい友人たちだ。

二十一歳の時、灰原家に見つけ出された頃、伊吹はすでに裸一貫から成り上がった新進気鋭のビジネスマンだった。そして、彼の隣には十九歳の香月温子(こうつき あつこ)がいた。

七年の歳月を経て、その新進気鋭のビジネスマンは、今や権力の中枢を担う巨頭となっていた。しかし、二人の間の愛情はもはや跡形もなく消え去っていた。

共に苦労し、無名だったあの辛い日々は、まるで前世の出来事のようだ。

伊吹は梓穂を送り届けるよう指示した。

梓穂は手を上げ、彼の肩にそっと触れた。「二人でちゃんと話し合ってね。いつも喧嘩ばかりじゃだめよ」

誰かが鼻で笑った。「梓穂さん、本当に気が長いですね」

「気が長いわけじゃないわ。ただ、あの頃の温子さんもまだ幼かったし、きっと悪気はなかったんだと思うの」

「わざとじゃないって、とんでもない。他人の人生を台無しにして、その上厚顔無恥にも梓穂さんの居場所を奪ったくせに、よくもまあ顔を出せるもんだ」

声は嫌悪感を露わにし、次第に小さくなっていった。

温子は座ったまま、まるで急所を突かれたかのように、全身の血の気が引いて、唇の色もわずかに薄くなっていた。

温子は立ち上がり、ずぶ濡れのマフラーを掴み取ると、伊吹を見つめた。

「伊吹」温子は一度、静かな声で彼を呼んだ。

伊吹のスーツはすでに腕にかけられていた。それを聞くと、彼はネクタイを軽く緩め、彼女を見ることなく、目に見えて苛立ちを募らせた。「また何か言いたいのか?」

温子は微笑んだ。その美しい唇から紡ぎ出されたのは、「私たち、離婚しましょう、伊吹」という言葉だった。

伊吹の瞳に驚愕の色が走り、その目元には陰鬱な影が幾重にも重なった。「今度はどんな新しい手口だ?あの時、薬を盛って俺に触れさせたくせに、今更高潔ぶって離婚だと?温子、お前は疲れないのか?」

「ごめんなさい、三年もあなたの時間を無駄にしてしまって。でも、今回は本気なの」

伊吹の瞳から嘲りが寸分ずつ消え去り、彼は勢いよく温子を引き寄せた。

指先で温子の顎を強く掴み、彼女が痛みに眉をひそめるのを見て、ようやくその得体の知れない鬱屈が少し和らいだ。「今更、無駄にしただと?てめえ、三年前は何をしてたんだ?温子、いいか、離婚したいんだろ?金は一銭たりともやらんぞ!」

「私、何もいらないから」

温子の瞳は澄んでおり、声は相変わらず穏やかで、一点の曇りもないようだった。

当時、伊吹が灰原家に見つけ出された後、彼の傍にいた温子は灰原家の両親に養女として迎えられた。

誰もが知っていた。灰原家は、ようやく見つけ出した次男が、平凡な出自の女性と結婚するのを望まず、手っ取り早く養女の身分を与えることで、世間の口を封じたのだと。

伊吹は温子の冷ややかな顔を見つめ、何も言わずに喉を詰まらせ、そして背を向けた。

「いいだろう、身一つで出て行け。後悔するなよ」

Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi

Bab terbaru

  • 冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。   第100話

    野乃花は何も言わなかった。青ざめた顔のまま、その場を離れる。海舟の執務室へ戻ると、脇に下ろしていた指が、ゆっくりと握り込まれていった。それでも、ついに我慢できなくなる。「社長。先日、私に買わせたネックレスは……あの方への贈り物だったのですか」野乃花は数年、海舟のそばにいた。けれど温子とは会ったことがなく、二人がどういう関係なのかも知らなかった。海舟の視線は、手元の書類に落ちたままだった。声だけが、いつも通り穏やかだった。「俺が何をするか、秘書に説明する必要があるのかな」野乃花は、美しい女だった。そして商談の場では、ひどく鋭い。その鋭さを、苦手に思う取引先も多かった。だが、実力があるのも確かだった。海舟の代理として交渉に出れば、頑として首を縦に振らなかった相手でさえ、最後には署名させてしまう。どんな手を使っているのかまでは、誰も知らない。海舟はそばの箱を指で示した。「夕方の会食に同行してくれ。夜は篠崎家へ行く。そちらには来なくていい」仕事絡みの会食で、海舟が連れていくのはいつも野乃花だった。けれど、いわゆるあの界隈の集まりになると、必ず外される。野乃花は、うっとりするような目で海舟を見つめた。海舟は魅力的で、紳士的で、強い。けれど、まるで心というものだけが抜け落ちているような人だった。野乃花の目元が赤くなる。それでも彼女は休憩室へ向かい、服を着替えた。美しいドレスだった。商談の席に出れば、男たちの視線が自然と彼女に集まる。野乃花が何より誇っているのは、その脚だった。誰もが一度は目を留め、褒めずにはいられない。そこに、海舟の秘書という肩書きが加わる。その肩書きは、彼女をいっそう魅力的に見せた。近づきたい。支配したい。そう思わせる光をまとわせた。野乃花は、海舟の思惑に気づいていないわけではない。それでも、海舟のそばに置かれる人間が自分である限り、彼女は秘書でいられる。それだけでよかった。そう思いながらも、入社したばかりの温子のことを考えると、胸の奥に小さな棘が残った。けれど、それ以上は聞けない。海舟が買わせたのは、ペアネックレスだった。温子の首元にあったのは女物。では、男物はどこにあるのか。野乃花はそっと海

  • 冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。   第99話

    悦加の顔は、憎しみで歪んでいた。温子が伊吹のそばにいる。その席を当然のように占めている。そう思うだけで、あの女への憎しみが、胸の奥でどす黒く膨らんでいった。温子は手元の書類を整理しながら、悦加にどう返すべきかを考えていた。そのとき、机の上にふっと影が落ちた。海舟だった。海舟は外では、いつも穏やかで、物腰の柔らかい紳士として知られている。その彼が、温子のデスクを指先で軽く叩いた。ついてきなさい、という合図だった。温子はすぐに立ち上がり、海舟の後について執務室へ入った。その横で、野乃花の顔に一瞬だけ浮かんだ強ばりには気づかなかった。「お兄様、何かありましたか」海舟はこめかみを軽く揉んだ。「昨夜、母がかなり怒っていた。しばらく灰原家には近づかないほうがいい。外で会ったとしても、できるだけ避けなさい」里奈は曲がりなりにも上流の夫人だ。灰原グループまで乗り込んできて、騒ぎ立てるような真似はしないだろう。温子は小さくうなずき、まつげを伏せた。温子自身も、里奈には会いたくなかった。「温子、キヨチクでの暮らしには慣れたか。使用人を二人ほど回そうか。体が強くないだろう」「大丈夫です。自分で簡単に作れますから」家に誰かがいるほうが、かえって落ち着かなかった。海舟は小さく息をつき、手を振った。「今夜、篠崎家でパーティーがある。伊吹も行くだろうが、おそらく君は連れていかない」篠崎家の人間は、温子を骨の髄まで憎んでいる。もし姿を見せれば、その場で追い出されてもおかしくなかった。今夜のパーティーは、梓穂が篠崎家の後継者となることを正式に披露する場だった。歌舞音曲の世界に関わる名士たちも多く来る。国の関係者も顔を出すだろう。何しろ、それは国の文化そのものに関わる場なのだから。梓穂は、あの五曲によって、名実ともに上流の中心へ押し上げられた。温子は、胸の奥がひどくざわついた。この界隈の人間は、皆、梓穂を大事に扱う。そんな中で、今さらあの五曲のことを口にしたところで、温子はただの笑い話にしか見えないだろう。「お兄様、ほかに何かありますか」海舟はそばに置いていた小さな箱を取った。見ただけで、ネックレスだと分かる。「少し前に用意していたものだ。仕事を始めた祝いに。

  • 冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。   第98話

    クラウディ・コーヴに、温子の荷物はもうほとんど残っていなかった。キャンバスバッグひとつで、十分だった。キヨチクへ戻るつもりだった。どうしても、伊吹と同じ屋根の下にいたくなかった。「温子!」伊吹が追いかけて外へ出たときには、温子はもう見知らぬ車に乗り込んでいた。戻ってくる前に、呼んでおいた車だった。温子は振り返りもしなかった。伊吹はその場に立ったまま、車がゆっくり遠ざかっていくのを見ていた。やがて手を上げ、眉間を押さえる。頭が痛かった。温子がキヨチクへ戻ると、割れていた掃き出し窓はもう直っていた。前よりも丈夫なガラスに替えられている。シャワーを浴び、ベッドに横になる。そのまま、ネット上の流れを少しだけ確認した。温子は新しい投稿をしていなかった。トレンドも、上位三位以内から二十位台まで落ちている。林家が金で押さえたのだろう。金があるだけで、人は少し強くなれる。今の温子の手元には一億二千万円がある。それだけで、胸のざわつきはずいぶん薄れた。寝返りを打ち、目を閉じる。そのまま眠ろうとしたとき、スマホが短く鳴った。また、あのときと同じ気味の悪い画像だった。流れてきた音楽も、聞き覚えのあるものだった。けれど今回は、体が強ばることはなかった。音が鳴った瞬間、温子はスマホの音量を最小にした。そして、そのままベッドの下へ放り投げる。ベッドサイドの灯りだけは、つけたままにした。誰がこんなものを送りつけてくるのか、まだ分からなかった。うとうとしたまま朝を迎えた。温子は身支度をし、タクシーで灰原グループへ向かった。部署では、最近の騒ぎの話で持ちきりだった。いちばん話題になっているのは、やはり人間型ナイチンゲールの復帰だった。「知ってる?人間型ナイチンゲール、鬱だったって噂あるよ。家庭環境もよくなかったらしい」「家庭環境がよくなかったなら、なんであの頃に配信で投げ銭を受けなかったんだろうね。あの人が配信してた頃って、まだ今ほど配信ブームじゃなかったけど、ほぼ一人勝ちだったじゃん。一日で数億円くらい投げられててもおかしくなかったよ」「噂なんていろいろあるよ。妊娠してたとか、旦那に浮気されたとか。もう何でもあり」「なんか、もう亡くなってるって話まで出

  • 冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。   第97話

    目の前の山を越えれば、見える景色は増えていく。見えるものが増えれば、人の心も変わる。伊吹はシートに背を預けたまま、スーツのポケットの中にある封筒を指先でつかんでいた。それでも、どうしても取り出せなかった。後ろからクラクションが続けざまに鳴った。その音でようやく、伊吹は車を前へ出した。クラウディ・コーヴに戻っても、車から降りる気にはなれなかった。そのまま、運転席に座り続けた。一時間ほど経ってから、ようやくあの封筒を取り出した。けれど、見なかった。腹立ちまぎれに封筒ごと二つに引き裂き、車の窓から外へ投げ捨てる。破れた紙が、夜風にあおられて散った。まるで、誰かの隠してきた心が、ばらばらにこぼれていくようだった。さらに三十分ほど経ってから、伊吹は車を降りた。しゃがみ込み、散らばった紙片を一枚ずつ拾い集める。背後から足音がした。振り返らなくても、温子だと分かった。温子は誰かと電話をしていた。伊吹が車の陰にしゃがんでいたため、彼女はまだ気づいていない。「はい。離婚を考えています。裁判になった場合の流れを、先に確認しておきたくて。もし相手がどうしても書類に署名してくれないなら、訴訟に進むしかないと思っています。ありがとうございます。お手数をおかけします」温子が着ているのは、相変わらず自分で買った服だった。何度も洗われているせいか、生地はくたっと柔らかく見えた。温子は伊吹に気づかないまま、車の反対側を通って、リビングへ続く扉を開けた。家の中からは、料理の匂いがした。けれど、食欲は少しも湧かなかった。玄関でうつむき、靴を脱いでいると、背後で扉が開いた。伊吹が入ってくる。かすかに酒の匂いがした。温子は反射的に、横へ身を引いた。伊吹は強く扉を閉めた。その余光が、温子のその動きを捉える。思わず、笑いが漏れた。「そんなに避けるなら、いっそ壁に張りついてろ。ヤモリのふりでもするか?」温子は胸の奥がむかついた。この人の口からは、どうしていつもこんな言葉しか出てこないのだろう。黙って靴を履き替える。少し迷ってから、できるだけ穏やかな声で言った。「話をしよう」「時間がない。お前と話すことなんてない。離婚もしない」「伊吹、そんなことして楽しい?」こ

  • 冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。   第96話

    伊吹は、急にすべてが煩わしくなった。眉間に皺を寄せる。「知らない。俺は帰る」そう言って、そばの上着を取った。残された聡史は、不機嫌そうな浩司へ視線を向けた。「梓穂のことが気になるなら、本人に電話すればいい。お前、梓穂とは悪い仲じゃないだろう。どうして伊吹から聞き出そうとする」「忠告したかっただけだ。温子みたいな女とは、さっさと離婚しろってな。梓穂は何年も待ってる。あんなにいい子を待たせておいて、片方では温子と夫婦面を続けるなら、ただの最低男だろ」聡史は眉をひそめた。それ以上は、何も言わなかった。伊吹が車に乗り込むと、里奈から電話が入った。「手紙が出てきたの。来て見なさい。どう見ても、温子の字なのよ」七年前。温子が灰原家の養女という形で迎えられたとき、彼女は二か月ほど灰原家で暮らした。けれど、ほどなくして伊吹の袖をそっと引き、声を潜めて言った。ここは落ち着かない。二人で借りていた部屋に戻りたい。伊吹は断らなかった。昔から、温子の頼みを拒むことだけは苦手だった。車を灰原家へ向けた。里奈はこめかみに指を当て、怒りを抑え込んでいるようだった。肩がかすかに震えている。伊吹を見るなり、テーブルの上へ一通の手紙を投げ出した。「よく見なさい。あなた、自分がどんな女を妻にしたのか分かっているの?」封筒は薄いピンク色だった。若い女の子が選びそうな、少し甘い色。表には何も書かれていない。伊吹が中の便箋を広げると、見慣れた筆跡が目に入った。【お兄様へ瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ】それだけだった。けれど、たったそれだけで十分だった。里奈は、堪えきれないようにテーブルを叩いた。「こんなもの、何年前に書いたと思っているの。あの女が前に使っていた部屋の隙間に、ずっと隠してあったのよ。今日、使用人が見つけなければ、私だって知らないままだった。これはどういう意味?海舟が今も結婚しないのは、まさかあの女が妙な気を持たせたからじゃないでしょうね」伊吹は便箋をたたみ、ポケットへ入れた。「お母様。こんな時間に俺を呼んだのは、そのためですか」里奈は怒りのまま立ち上がった。「とぼけないで。この句の意味くらい分かるでしょう。どう読んでも、恋

  • 冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。   第95話

    その夜、伊吹は家に戻らなかった。外で、何人かと酒を飲んでいた。聡史が顔を出したのは、少し遅れてからだった。機嫌は、見るからによくない。伊吹はグラスを指先で弄びながら、まだ帰る気になれずにいた。聡史は席に着くなり、伊吹の手元を見た。強い酒だった。何も言わずにグラスを取り上げ、中身を脇のごみ箱へ流し込む。「おい。それ一本四百万円だぞ。もったいないだろ」聡史は空になったグラスを置いた。「まだ体を潰す気か。二年前、溺れかけたときだって、運よく助かっただけだ。胃も悪いくせに、そんな飲み方をしていたら、温子を若後家にするぞ」伊吹は背もたれに体を預けた。どこか投げやりな仕草だった。「あいつが俺のために若後家でいると思うか?俺が死んだら、数日もしないうちに、次の男を探すだろうよ」聡史は、その言い方に引っかかるものを覚えた。伊吹と知り合って、もう七年以上になる。もっと前にも、一度、温子を見たことがあった。温子が体調を崩し、伊吹が検査に連れてきたときだ。あの頃の伊吹は、ようやく自分で金を稼ぎ始めたばかりだった。それでも温子には、惜しみなく使っていた。病気といっても、重いものではない。それなのに伊吹はひどく落ち着かず、担当医をつかまえては、同じようなことを何度も尋ねていた。最後には担当医が音を上げ、聡史のところへ回してきた。聡史はその頃、まだ二十代前半だった。家の病院で、研修をしていた。少し開いた病室のドアの向こうに、伊吹の姿が見えた。ベッドのそばに座り、温子のために果物を剥いていた。温子は冷たい水を飲んだことがきっかけで、急性胃腸炎を起こしていた。もともと体が弱かったせいもあって、発作のように倒れたのだという。入院していた数日間、食事はいつも伊吹が持ってきた。自分で作ったものらしかった。温子はそれを、嬉しそうに食べていた。けれど、伊吹の目の下に濃い隈を見つけると、すぐに泣きそうな顔になった。「伊吹、最近すごく忙しいんでしょ?私、病院の食堂で食べられるから、無理して持ってこなくていいよ」「お前に食わせないで、誰のために稼ぐんだよ。忙しいのは忙しいけど、これくらいの時間はある」そんな時間など、あるはずがなかった。当時の伊吹は、いくつもの取引先に足元を見られてい

  • 冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。   第7話

    百合子はホッと胸をなでおろし、再び温子に優しく語りかけた。「温子ちゃん、いつ帰ってくるの?昨日雨が降ったから、また風邪を引いてないか心配で、栄養のあるスープを持ってきてやったんだよ」伊吹は契約書をめくりながら、冷笑した。「うちには、スープを作る使用人がいないとでも思っているんですか?」どうやら百合子は、世間の噂を聞きつけ、二人の様子を見にわざわざやって来たらしい。温子は目を伏せ、従順に答えた。「今日、仕事を探しに出ていたんです。すぐに戻ります」百合子は安堵の笑みを浮かべて言った。「いいよ。一人で家に閉じこもっていると、気が滅入って病気になってしまうんじゃないかと心配だったんだよ

  • 冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。   第6話

    鈴木社長の顔色が一瞬で青ざめた。どこでこのお方の機嫌を損ねたのか分からず、恐怖で身動きが取れなかった。伊吹は大股で去っていき、もう温子を一瞥することさえなかった。鈴木社長は呆然と立ち尽くし、皆の姿が見えなくなってようやく、背中に冷たい汗が流れていることに気づいた。彼はひどく恥ずかしく思い、それ以上健吾に何も言わず、すぐに言い訳をして立ち去った。それはまるで一目散に逃げ出すかのようだった。他の者たちも次々とそれに続いて去っていった。温子は健吾のために車のドアを開けた。健吾は車に乗り込むと、契約書を手に取って眺め、「今夜はなかなかやるじゃないか。てっきりその場で顔をしかめるかと

  • 冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。   第9話

    梓穂は灰原グループで働いているわけではないのに、ここの全てに手慣れた様子だった。一方、温子は伊吹の妻として三年も過ごしながら、灰原グループのドアがどちらに開くのかさえ知らなかった。以前の温子なら、きっと胸が締め付けられるような思いだっただろう。しかし、今の彼女はもはや何も感じなかった。数秒の息苦しさの後、スマホを取り出し、健吾に電話をかけた。健吾は明らかに驚いた様子で言った。「お前、入館カードを持ってないのか?」「はい」健吾は手を上げてこめかみを揉んだが、彼女のプライベートなことには深入りせず、「俺の知り合いを下まで行かせるから、いっそのことロビーで契約書に署名してしま

  • 冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。   第8話

    百合子は安堵のため息をつき、こめかみを揉んだ。「疲れたよ。この一ヶ月はここに泊まるから、余計な騒ぎを起こすんじゃないよ」伊吹は「はい」と頷き、その夜のうちに准平に指示して、従順な使用人を数人手配させた。主寝室に戻ると、聡史がちょうど中から出てくるところだった。聡史は医者で、他の誰よりも穏やかな性格だ。「じゃあ、俺はこれで。彼女の体はゆっくりと養生させる必要があるんだ。そうだ、近いうちに病院で全身検査を受けさせたほうがいい」「ああ」聡史はまだ何か言いたそうだったが、伊吹が今、機嫌が悪いと感じて、そのまま立ち去った。伊吹は主寝室のドアの前でしばらく立ち尽くし、指先をドアノブ

Bab Lainnya
Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status