LOGINそのとき、ノックの音がした。「お父さん、いらっしゃいますか?」白露の甘い声が廊下から響く。「入れ」扉が開き、白露がトレーを抱えて花のような笑顔で入ってきた。「お父さん、今日は私が悪かったです。ご迷惑をおかけしました。お詫びに、お好きな果物とお菓子を用意しました。もう怒らないでください、ね?」白露は果物を机に置き、いつものように光景の首に腕を回して甘えようと近づく。――いつもなら、それで大抵の怒りは引いてくれた。だが今日は違った。光景はすっと手を上げ、彼女を制した。「それが最後だ。身分にそぐわない振る舞いはやめなさい。お前は宮沢家のお嬢様だ。少し金を持っているからといって威張り散らし、人を人とも思わない成金と同じでは困る。言動には品格が要る。そうでなければ、市場で喧嘩を売るだけの安っぽい女と何が違う?」白露の腕が空中で固まる。引きつった笑みだけが残った。「......はい。お父さん、次はしません」光景はそれ以上、何も言わなかった。だが、彼女が運んだ皿には手をつけない。「お父さん、数日後は毎年の競馬会ですよね?この前、私の乗馬服を褒めてくださったから、同じ仕立てでお父さんの分も作りました。さっきデザイナーが持ってきたんです。下で試着してみませんか?」まだ機嫌が直っていないと見た白露は、必死にご機嫌取りを続ける。「白露。今年の競馬会、お前は行かなくていい」光景の声が冷たく落ちた。「......え?」白露は驚いた。「どうしてですか?毎年、私をお連れになるじゃないですか!」「今年は、例外だ」「どうしてですか!」白露の目が見開かれ、顔の造作が歪み始める。「当日は盛京の名家の令嬢方が集まるんですよ。私が行かないなんて、ありえません!」「今年の競馬会は、初露を連れて行く」光景は視線を伏せ、彼女を見ようともしない。「どうしてそんな――!」白露の頭の中で蜂の群れが暴れたようになった。「どうしても何もない。初露も私の娘だ。宮沢家のお嬢様だ」光景はそのときだけ、鋭い目を上げた。「それに、お前は何年も続けて顔を出してきた。そろそろうんざりだろう。初露は一度も行っていないし、盛京で彼女を知らない者も多い。今後は、表に
優希の大きな手が初露の細い背中に触れたとき――彼ははっと息を呑んだ。衣服は汗でびっしょりと濡れていた。優希の切れ長の目がすっと細められる。胸の奥が、崩れ落ちるように痛んだ。息が苦しい。――自分は、また彼女を無理させてしまった。彼女に過去の痛みを思い出させ、復讐なんて言葉を口にさせた。本当は、そんなこと何一つしなくていい。彼が愛する人は、ただ穏やかに生きていればいい。すべての苦しみも汚れも、代わりに背負うのは自分の役目だ。「......初露、お前の姉がいじめたのか?」光景の低い声が、鋭い矢のように初露の心を突き刺した。彼女はびくりと震え、視線を落とす。細い指がスカートの裾をぎゅっと握りしめた。けれど何も言わない。「そうなのか?白露がお前をいじめてきたのか?言いなさい。父さんが、必ずお前のために動く」「おじさん」優希が静かに口を開いた。「初露のことは、ご存じですよね。彼女は白露のように愛嬌を振りまいたり、言葉で人を喜ばせたりはできません。それに、相手が家族となれば、余計に強く出られない。優しすぎるんです。だから、ただ耐えるしかありませんでした。ずっと、ひとりで」その声には怒りを押し殺した冷たさがあった。「でも――もういいでしょう。今さら昔のことを責めても仕方ありません。それに、おじさんにとってはどちらも大切な娘です。どちらを責めることもできないでしょう?」まるで白露の名を出さずに、白露を断罪するような言葉だった。光景の顔はみるみる暗くなり、膝の上の手が固く握りしめられる。優希は初露をそっと抱き起こし、腕を自然に彼女の腰へ回した。強く、でも優しく――誰にも触れさせないように。「昔のことは、もういいんです。おじさんの顔を立てて、これ以上は言いません。でもこれからは違います。俺は初露と一緒に生きます。彼女のことは全部、俺が守ります。もし誰かが再び彼女に指一本でも触れたら――たとえその相手が誰の娘でも、血を見る覚悟をしてもらいます」その言葉を残し、優希は初露を連れて書斎を後にした。......沈黙。光景はただ、冷たい空気の中に立ち尽くした。心臓を締めつけるような重い息苦しさ。「......優希も、白露が初露をいじめていたと知っていたのか?」光景は呆然と
幼いころから白露に「バカ、バカ」とからかわれてきたが、初露は決してバカではなかった。「同棲」という言葉を聞いた瞬間、細い肩がびくりと揺れる。唇の端に残るオレンジジュースの甘さが、わずかに苦みに変わった。優希はそっと彼女の冷えた手を握りしめた。「伯父さん、俺、昔はたしかに遊び人でした。でも、人は変われるでしょう?チャンスを一度くれませんか?」軽く眉を上げ、どこか挑むような笑みを浮かべる。「昔は女好きでしたけど、下品な真似はしてません。誰も自分の家に連れ込んだこともありません。初露は初めての、そして最後の女です」「優希、別に――」「正直に言います。もう初露なしでは生きていけません」優希は胸の奥から溢れる愛情をそのまま言葉にした。初露の手の甲に熱いキスを落とし、目の奥は深く溺れるような色を帯びる。「一日でも会えないと、俺は狂いそうになる」その低く甘い声が、初露の耳の奥を撫でる。心の奥がくすぐったく、ふわりと痺れる。――彼女も同じだった。優希と離れていると、食事ものどを通らず、抱かれないと、眠れない。光景は頬を赤くした。長い人生、いろんな男女を見てきたが......ここまで堂々と甘える男は初めてだ。『いや、ちょっと下品じゃないか?』と内心で頭を抱える。「初露を潮見の邸に戻したくないのには、もう一つ理由があります」優希が急に真顔になった。「......理由?」光景が眉を上げる。「初露が、誰かにいじめられるんじゃないかと心配なんです」「なんだと?」光景の眉間に深い皺が寄った。「初露はこの家の宝だ。ここは初露の家でもある。誰にいじめられるというんだ?」「伯父さん、あなたはお忙しいんです。家の中で何が起きているか、全部はご存じないでしょう。『家』だからといって、必ずしも幸せとは限りません」優希は白露の名を出さなかった。未来の義父に娘同士の確執を告げるのは、あまりに無粋。彼の顔に泥を塗るだけだ。それに――初露を守るのは、自分の役目だ。光景が真実を知ったところで、何もできはしない。あの『毒蛇のような女房』を、彼は今も持て余しているのだから。中野は黙って立ち、ちらりと光景を見る。潮見の邸の誰もが知っている。初露が長年、白露に押さえつけられてきたことを。――知らなかったのは、実の父だけ。
「母さんに災難が降りかかってから、ずっと動いてるのは私よ。世話して、気を配ってきたのも私。初露は?毎日、優希と同棲して遊び回ってるだけ。お母さんのために、あの子が何かした?よく言うわ、『嫁をもらえば母を忘れる』って。あの子はそれ以上。まだ本田家に入ってもいないのに、産み育てた母を、もうきれいさっぱり忘れてる!」秦は雷に打たれたみたいに固まった。言葉が出ない。――初露が優希に嫁げば自分に有利かどうか。今はそんな次元じゃない。家の外へ一歩も出られず、この身すら危うい。娘の縁談に気を回す余裕など、どこにもない。子は身から落ちた肉と言うが、所詮は自分の外側にあるもの。まず自分が強く、生き延びること。それだけが最優先だ。「......いいわ。認める」秦は真っ黒な隈を浮かべ、歯ぎしりを立てた。「あなたが高原を消してくれるなら、私が保証する。本田家は絶対に初露を受け入れない」その一言に、白露の瞳がぎらりと光る。――たとえ優希が馬鹿みたいにあの子しか見えなくても、関係ない。本田家の門をくぐれないなら、永遠に『外の女』。決して正妻にはなれない。......書斎には、珍しく穏やかな空気が流れていた。光景と優希は、世間話を交えながら近況を語り合う。長輩として、光景は優希の事業のことをいくつか尋ねた。優希は準備万端。答えは淀みない。幼い頃から優希は隼人とつるみ、潮見の邸へは自分の家より通い詰めた。だが今は立場が違う。『未来の義父』を前に、修羅場をくぐってきた彼でも、少しだけ胸が高鳴る。「優希様、お茶でございます。初露お嬢様には、お好みのオレンジジュースを」中野がトレーを運んだ。「ありがとう、中野おじさん」初露はグラスを両手で受け取り、無邪気に笑った。春の花みたいに明るい笑顔。幼い頃と変わらない。中野は思わず口元を緩める。――同じ『宮沢会長の娘』でも、白露お嬢様と初露お嬢様は雲泥の差だ。率直に言えば、白露には令嬢の品も節度も見えない。秦はまだ『夫人らしさ』を装うが、白露は装うことすらしない。まるで、どこから連れてきた野生児。彼はずっと心配していた。初露お嬢様の未来を。自閉の気がある彼女は、恋も結婚も子も――普通の女の子のようには望めないのでは、と。だが、それは杞憂だった。優希が
白露は鼻をすんと鳴らし、目の奥に冷たい光を宿した。「......あのこと、全部お母さんが高原に命じたんでしょ?私には関係ないわ。巻き込まないで」「この、出来損ないの娘が!」秦の怒声が部屋に響く。「こんな時に自分だけ逃げようっての?母親が危険な目にあってるのに、手も貸さずに隠れる気?私が捕まったら、お前も無事じゃ済まないんだからね!」その目の険しさに、白露は背筋が凍った。――もう、この二人の関係は母娘じゃない。同じ泥にまみれた『共犯者』だ。「それで、どうするつもり?また何か企んでるの?」白露は歯を食いしばって、吐き捨てるように言った。秦の顔から血の気が引き、冷気のような声が落ちた。「――高原を殺す」「か、殺す?でも今あいつ、警察に捕まってるのよ?どうやって?」白露はもう『殺す』という言葉に怯えもしない。母に育てられた年月が、彼女の良心を鈍らせていた。考えるのは恐怖ではなく――方法だった。「刑務所の中にはね、人の命を金で扱う者がいくらでもいる。金さえ渡せば、簡単に『事故』を起こせるわ。あの男を消すのなんて、造作もない」そう言って、秦は机の引き出しからカードを取り出し、白露に放り投げた。「この中のお金、全部使いなさい。早く片をつけて。私を待たせないで」白露はそのカードを握りしめた。手の中にあるのは、金属でも権力でもない――鋭い刃だった。「......お母さん。この件は私がやる。でも条件があるの」「条件?あなた、母親に取引でも持ちかける気?」秦は腰に手を当て、怒りで震える指を白露の鼻先に突きつけた。白露は落ち着いた声で言い返した。「母さん、正直に言うけど――お父さん、もう母さんを見限ってる。初露のあの小娘は、優希といちゃついてるし、桜子とも仲良し。あの子は使い物にならない。母さんに残された味方は、私だけよ」その冷笑に、秦は眉をひそめた。......この娘、私にそっくりだ。だからこそ、怖い。「それで、何が望みなの?」「優希はもう私を嫌ってる。どうやっても一緒になれない。だったら――初露も、絶対に優希と結婚できないようにしてやる」白露の声は、牙をむいたように鋭かった。「今夜、優希は初露を連れてお父さんのところに来たの。三人で仲良くおしゃべりしてた。あの様子じゃ、お父さんも二人の仲を認めたも同
「優希、覚えていてくれてありがとう」光景は満足そうに微笑んだ。「俺だけじゃありません。初露も、隼人も、みんな伯父さんのことを気にしてますよ」優希の目が細くなった。甘い言葉が、飴よりも甘ったるい。もちろん、ただのゴマすりではない。未来の義父へのご機嫌取りでもあり、親友の好感度を上げるためでもあった。「初露とも久しぶりだ。二人とも、書斎へ来なさい。ゆっくり話そう」光景は優しい笑みを浮かべ、手を差し伸べた。「おいで、初露。こっちにおいで」大きくなってからは父との距離が開いたが、幼い日の記憶の中で――父は、いつも誰よりも優しかった。「お父さん......」初露の瞳がうるみ、そっと優希の手を離して歩み寄る。その様子を見て、優希の胸の奥がじんわり熱くなった。目の奥がかすかに赤く染まる。どんなに自分が愛しても、守っても――家族の温もりに勝てるものはないのだと、痛いほど分かっていた。人は、愛がなくても生きていける。でも、家族を失う痛みには、誰も耐えられない。初露が近づくと、光景はゆっくりと両腕を広げ、彼女を抱きしめた。「よく帰ってきたな」娘の柔らかな黒髪を、愛おしそうに撫でる。初露は小さな顔を父の胸に押し当てた。不意に胸の奥が震え、言葉にできない感情が込み上げてくる。ぽたり、ぽたり――涙が二滴、光景の整ったスーツを濡らした。その光景を見た白露の怒りは、ついに限界を超えた。彼女の目にも涙が滲む。――自分こそ、宮沢家の長女。聡明で美しく、誰よりも勝ち気。いつも両親の注目を浴び、初露を圧倒してきたはずなのに。けれど今――裕也も、秦も、そして優希までもが、少しずつ、すべてを初露の手に奪われていく。ついには、父の愛情までも。白露の心に、嫉妬と憎悪が黒い炎のように燃え広がる。――憎い。憎い!......そのころ。自室で軟禁されていた秦は、高原に関するニュースとSNSのコメントを目にして、真っ青になっていた。指先が震え、頭が真っ白になる。慌てて竜也が残した薬を取り出し、注射器を二本。しばらくして、ようやく呼吸が整う。思考も少しずつ戻った。まさか――T国へ逃げた高原が捕まるなんて。しかも、静の死因の噂が、また自分に火の粉をかけるとは。まだ警察から呼び出しはない。ということは、高原はまだ自