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初恋を忘れられないあなたへ、継母なんてもうごめん
初恋を忘れられないあなたへ、継母なんてもうごめん
作者: 柏璇

第 1 話

作者: 柏璇
桜峰市。

夜の八時。

水野グループの祝賀会は、グラスを合わせる音と笑い声、軽やかな会話で賑わっている。

人々に囲まれていた水野蒼司(みずの そうじ)は、かつて家が没落した後、ゼロから立ち上がり、水野グループを再上場へ導いた人物だった。今日の祝賀会は、その功績を称える場でもあった。

「おめでとうございます、蒼司さん。本当に若くして有能でいらっしゃいますね」

「これからもぜひ、お付き合いさせていただきたいですな」

「お仕事だけじゃなく、ご家庭も円満だとか。うちの奥さんなんて、いつも『良妻がいれば何も心配ない』って言ってますよ。あんな奥さんがいるなんて、本当にうらやましいです」

無理もない。若くして継母となり、二人の子どもを立派に育て上げた彩乃を妻に持ち、それを羨ましく思わない男はいないだろう。

その名が出た瞬間、人々に持ち上げられた蒼司は周囲をゆっくりと巡った。

黒のイブニングドレスをまとい、上品に来客と会話を交わす女性――それが蒼司の妻、高瀬彩乃(たかせ あやの)だった。

この祝賀会は、ひと月前から彩乃が自ら準備してきたものだった。それでも忙しい合間にも子どもたちの世話を欠かすことはなかった。

今、子どもたちは健やかに成長し、蒼司の仕事も安定している。その陰には間違いなく彩乃の貢献があった。

この点については、蒼司もはっきりと認めていた。

彩乃が子どもたちを連れて近づき、蒼司の腕にそっと手を絡めた。

人々はすかさず褒め言葉を贈った。「蒼司さんと奥さま、それにお子さんたち……まさに理想の家族ですね」

「本当にお幸せそうで」

彩乃は柔らかく微笑み、応えた。「皆さんのおかげで、これまで蒼司がやってこられました。これからも……」

その言葉を遮るように、会場入口で驚きの声が上がった。「真理?あなた、真理じゃない?」

警備員が怪訝そうに言った。「美佐さん、この人、ずっと入口付近をうろうろしてましてね。お知り合いですか?」

声は小さくなかった。瞬く間にその名は会場中に広がった。

彩乃は「真理」という名前を聞いた瞬間、心臓がぎくりと跳ねた。

反応する間もなく、腕から蒼司の温もりが消えた。

彼は早足で入口へ向かい、その表情には緊張と期待が入り混じっていた。

――真理?

この世に何人の真理がいるというのか?

ましてや、この場に現れるのは、ほかに誰がいるというのか?

入口では、警備員が一人の女の腕をつかんでいた。「どなたです?招待状は?」

「放せ!」その低く鋭い声は、蒼司の口から発せられた。

人々も慌ててその後を追った。

藤沢真理(ふじさわ まり)という名を知らない者はいなかった。

それは蒼司の幼なじみで、かつて婚約までしていた女性。そして彩乃が育ててきた、二人の子どもの実母でもあった。

「真理……本当に君なのか?」蒼司はその腕をつかみ、信じられない様子で見つめた。

その切迫した様子は、彩乃の胸にも鋭く響いた。

「蒼司……子どもたちがあまりにも恋しくて……どうしても会いたくて来ただけなの。邪魔するつもりはなかった……ごめん……」

質素な服をまとい、赤く潤んだ瞳の真理は、彩乃のそばにいる二人の子どもを名残惜しそうに見つめた。

蒼司の胸に痛みが走った。

昔の真理は明るく笑い、堂々としていた。今のように怯え、落ちぶれた姿ではなかった。

蒼司は彼女をじっと見つめ、まるでまた突然姿を消すのを、恐れているかのように問いかけた。「……この数年間、どこにいたんだ?」

会場の空気が一気に冷え込む。

「蒼司さんがつかんでいるあの人は誰?愛人か?」

「真理だよ。あの藤沢家のお嬢さん。昔、蒼司さんと婚約してたけど、金融危機で両家とも傾いたんだ。確か双子を産んだあと、行方をくらませて、結婚も果たせなかったはず」

「彼女があの双子の実の母親なのか?じゃあ……奥さまは?」

視線が一斉に彩乃へ注がれた。

彩乃は二人の子どもを連れ、夫が自分の目の前で他の女を気遣う様子を見ていた。

真理の目には深い悲しみ、そして懇願の色があふれていた。「産後すぐ病気になって……あの頃はお互いに苦しかったわ。これ以上、あなたの足を引っ張りたくなかったの。勝手にいなくなったのは私が悪かった。でも子どもたちは何も悪くない。あなたはもう出世したのね……でもどうか、子どもたちを大事にして……」

その言葉は他人にはまるで、彩乃が継母として子を粗末にしているかのように、聞こえてしまった。

蒼司は眉をひそめた。――産後に病を?

だから自分から去ったのか?病気で迷惑をかけたくない一心で。

真理はもがきながら言った。「もう行くわ、蒼司。手を離して……」

それに対し蒼司は静かに「まだ行くな」と返した。

その言葉を聞いて、周囲の人々はそれぞれ思惑をめぐらせたが、ひときわ多くの視線が彩乃に向けられた。

しかし、彩乃にこの場の雰囲気を止めることなどできるはずもなかった。

真理が子どもたちの実母である事実は、誰にも覆せないのだから。

そのとき、双子の姉の水野若葉(みずの わかば)が顔を上げて彩乃に尋ねた。「ママ、パパが抱いてるあの人、誰?」

弟の水野陽翔(みずの はると)も無邪気に言った。「パパ、なんで他の人を抱っこしてるの?」

場はさらに静まり、幼い声がはっきりと響いた。

蒼司は一瞬はっとしたように周囲を見渡し、口を開いた。「皆さん、もう遅いですし、また改めてお招きします」

「では、蒼司さん、お先に失礼します」

人々が去り、静けさが戻った。

蒼司は真理の涙をそっとぬぐった。「泣くな。子どもに会いたいなら、今夜は泊まっていけ。好きなだけ一緒に過ごせ」

「……本当に?」怯えたような笑みを浮かべ、真理は彩乃に向き直った。

「彩乃さん、ごめんなさい。ただ子どもたちに会いたいだけなんです。気を悪くなさらないで」

ここまで言われて、「嫌です」とは言えなかった。

実母が子に会うのは、当然のことだった。

彩乃は目を伏せ、答えた。「もちろん、構いません」

彼女の了承を聞いた蒼司は、ほっとしたように執事へ指示を飛ばした。「ゲストルームを用意してくれ。埃ひとつないように。真理は潔癖だから」

潔癖症があるまで覚えていたことに、真理は感謝と喜びをにじませた。

彩乃は黙って視線を落とした。

真理は部屋に入ると、子どもたちの前に膝をつき、そっと頬に触れようとする。

だが、若葉も陽翔も本能的に数歩後ずさる。

真理の顔に絶望の色が浮かんだ。「……蒼司、あの子たち、私を嫌ってるの?」

蒼司はすぐに子どもたちに向かって言った。「若葉、陽翔。この人こそ、お前たちのたった一人の母親だ。ほら、『ママ』と呼びなさい」

――たった一人の母親?

彩乃の胸が締めつけられた。

それじゃ、自分は何なんだろう?

家の家政婦たちも眉をひそめた。

彩乃は実母ではなかったが、生まれて間もないころから、双子を育ててきた存在だった。

その言葉はあまりにも酷かった。

「やだ!」陽翔が怒って声を上げた。「この人、ママじゃない!ママはこっち!」

そう言って彩乃の腕にしがみつき、その背中に隠れた。

――ママが本当のママじゃないなんて嘘だ。

パパが嘘をついてるんだ!

蒼司は子どもたちに優しく説明した。「彩乃はお前たちの実の母じゃない。真理こそが……この世で一番、お前たちを愛している人だ。親に勝る存在なんていない。そんな態度をするな、礼儀がなってないぞ」

彩乃は顔を上げ、蒼司をまっすぐ見据えた。

母が子を愛することを否定はしない。だが、その言葉は自分の存在を完全に否定していた。

この数年間、二人をわが子のように育て、自分の子さえ持たなかったというのに。

若葉は鼻を鳴らし、きっぱりと言った。「そんなの知らない!一番優しい人はママよ!私たちを育ててくれたのもママ!彩乃だよ!他の女なんかじゃない!」
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