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第5話

Author: 朝比奈 柚葉
看護師はそれだけを言い残すと、律真に背を向けて去っていった。

律真はその場に立ち尽くし、しばらくの間、まるで時が止まったかのように動けずにいた。

きっと、彼の脳裏に浮かんだのは——手術台の上で、絶望の中でかけた私からの最後の電話。あるいは、寅人が私の遺体を運びながら、病院の廊下ですれ違っていったあの瞬間かもしれない。

律真は突如として病院の出口へと駆け出した。だが、彼が向かったのは、私の墓ではなく、紗良の部屋だった。

おかしくて、思わず笑ってしまった。私は思っていた。せめて、私の死を知った時くらい、少しは罪悪感を覚えるのではと。

だけど彼にとって、死んだ私より、生きている紗良のほうが大事だった。

律真がマンションのドアの前に到着した時、扉は半開きになっていた。足を止めた彼の耳に、室内から会話が聞こえてきた。

「あんたら、まだ足りないっての?金はもう渡したでしょ?しつこいなら警察呼ぶわよ」

紗良の強気な声。律真は条件反射のように、扉に手を伸ばした。

その時——室内の男の笑い声が響いた。

「たった四十万ぽっちで俺たちを黙らせるつもりか?こっちは騙そうとした相手が判事だって知ってるんだぜ。もうちょいくれよ。一千万払えなきゃ、真実を全部霧島律真にぶちまける。

そしたら、あいつもおまえの正体に気づくだろうよ」

律真はそっとドアの隙間から中を覗いた。私もその男たちの顔を見た瞬間、全身が震えた。

あれは——かつて紗良が「綾瀬竹音に差し向けられた」と言っていた不良たちだ。

けれど紗良は、律真がすぐ外にいることなど知るはずもなく、眉をひそめながら無造作に銀行カードを男たちに投げつけた。

「これが私の全財産よ。受け取るならさっさと受け取って、この街から消えなさい。二度と顔を見せないで」

リーダー格の、顔に傷のある男がニヤリと笑った。

「へぇ、おまえのあの飼い主、霧島は相当金持ってるって噂だったが……それに比べておまえは、貧乏くさくて笑えるな。一千万も出せねえなんて、情けねぇ」

紗良は苛立ちを隠さず睨み返す。

「結婚してなきゃ、私は部外者よ。彼の財産なんて一銭も相続できないの。でも、これが長期戦ってやつよ。じきに全部、私のものになる」

——さすがだ。

紗良は、決して律真に金をせびらなかった。生活が苦しくても彼からお金をもらおうとはしなかった。
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