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利用された御曹司は、もう私の夫になる気満々
Author: 瑞木結花

第1話

Author: 瑞木結花
「――入金を確認しました。400万円」

機械的なアナウンスが、薄暗いホテルの一室に響き渡った。

窓の外では、空に残っていた最後の夕焼けも、ゆっくりと沈み始めていた。

小湊結月(こみなと ゆづき)は震える手でボタンを留めていた。

入金を知らせる声を聞いた瞬間、涙が音もなく床へ落ちた。

服は脱ぐより、着るほうが難しい。

そして結月の面子も尊厳も、一時間前に宮野慎也(みやの しんや)の元を訪れた時点で、すでに跡形もなく捨て去っていた。

背後から、男の憐れむような声が聞こえた。

低く、掠れた声だった。

「子供のために、もう少しましな納骨先を用意してやれ」

結月は舌先を強く噛んだ。

血の味が口の中いっぱいに広がる。

「ありがとう」

どんな理由であれ、こんな時だけは相手に感謝していた。

ベッドに横たわっていた慎也が煙草に火をつけた。

短く刈り込まれた髪、左眉にある途切れた傷。

それだけでも、彼はひどく凶暴で恐ろしげに見えた。

結月が体に残った無数の痕を服で再び覆い隠していくのを見ながら、慎也は目を細め、少しからかうような口調で尋ねた。「俺たちの関係を、あいつに知られるのが怖くないのか?」

結月の体が一瞬、強張った。

「好きにすれば」

あいつ――慎也が言っているのは桐山涼介(きりやま りょうすけ)だと、結月には分かっていた。

だが、知られたところで何になる?

あの人が気にかけるはずがない。

涼介は想い人をなだめるのに忙しく、自分の生死など、彼の眼中にないのだ。

もし涼介が少しでも昔の情を覚えていて、桐山家の若様という立場からほんの少しでも手を差し伸べてくれていたなら、自分だってここまで追い詰められることはなかった。

それに、自分と涼介は三年前にはすでに離婚している。

ただ、世間には公表していないだけだった。

結月は鏡に向かい、服を整え、乱れた髪をきちんとまとめた。

せめて、娘の最後を見送る時だけは、きちんとした姿でいたかった。

振り返って自分のスマートフォンを手に取ろうとした瞬間、手首を慎也に掴まれた。

慎也はゆっくりと煙を吐き出し、逆光の中で結月の顔を見つめた。

その表情からは、何を考えているのか読み取れない。

「結月、だったらこれから俺についてくれば……」

「慎也」

結月は手首を強く引き抜いた。

目尻はまだ赤く腫れている。

それでも慎也を冷たく見据えるその眼差しには、いくつもの棘が宿っていた。

「本気で言ってるの?それとも私の耳がおかしいの?私にとって、あんたも同じくらい気持ち悪い」

拒絶されても、慎也は腹を立てなかった。

気だるげに体を後ろへ預け、残念そうな顔をしてみせる。

「本当に薄情だな。俺たち、何年も知り合いなのに」

「あんたと親しいと思ったことなんて、一度もないわ」

結月はもう相手にせず、振り返ることもなく部屋を出ていった。

慎也は立ち上がると窓辺へ歩み寄り、再び煙草に火をつけた。

数分後、スマートフォンに涼介から着信があった。

慎也は何気なくスピーカーに切り替えた。

「慎也、聞いたぞ。女とホテルに入ったんだって?

いったいどんな女だよ。三十年間身を持してきた宮野家の次男まで、その気にさせるなんて」

周囲から、誰かが冗談めかして声を上げた。

慎也は長年誰にも手を出さなかったせいで、周りからは「ようやく目覚めた」なんて言われている。

涼介に「せっかくのいいところを邪魔するな」と囃し立てる声も飛んだ。

慎也は口の端を吊り上げた。

「落としたら連れていって、お前にも紹介してやるよ」

涼介は豪快に笑った。

「お前にも落とせない女がいるのか?」

慎也は気だるげに笑っていた。

だが、その目には冷たい光しかなかった。

「いるよ。他人の女だ」

「……」

電話の向こうが一瞬静まり返った。

次の瞬間、「うわ……」という驚きの声が次々と上がった。

慎也はそのまま電話を切り、煙草を灰皿に押しつけて火を消した。

立ち上がったところで、ふと視線が絨毯の上に落ちた。

そこには、切れたブレスレットが落ちていた。

表面はすでに色褪せている。

一目見ただけで、露店で売られている安物だと分かる。

だが、ほんの三十分前までは、このブレスレットは結月の手首にあった。

慎也は腰を屈め、それを拾い上げた。

---

ホテルを出た結月は、そのまま火葬場へ向かった。

娘の満(みちる)を火葬した後、残った金で海辺の霊園に一区画を購入した。

海の見える静かな丘の上で、視界を遮るものもない、見晴らしのいい場所だった。

来世では、娘が自由気ままなカモメになってほしい。

自分が行きたいと思う場所なら、どこへでも飛んでいけるように。

もう病に苦しめられることもなく、狭い病室に閉じ込められ、死を待つ必要もないように。

娘は解放された。

そして、自分もまた解放された。

結月は夜になるまでずっと娘の墓の前に立ち続け、それからようやく霊園を後にした。

一度病院へ立ち寄り、娘の遺品を整理してから、桐山家へ戻った。

口にしたところで、誰も信じてはくれないだろう。

豪邸に住んでいる結月が、たった数十万円の葬儀費用すら用意できなかったのだから。

邸宅には明かりがついていた。

使用人たちはそれぞれ仕事をしながら、楽しそうに話している。

結月が中へ入っても、誰一人として相手にしなかった。

結月はとうに慣れていた。

そのまま一人で二階へ向かう。

背後から、侮蔑に満ちた声が聞こえてきた。

「本当に図々しいわよね。男に捨てられたっていうのに、まだしがみついてるなんて」

「それでも外聞がいいから、あの人も手放したくないんでしょうね」

「ああ、でもあの人も可哀想よ。娘まで病弱なんだもの。私だったら、いっそ死んだほうがマシだわ」

ガシャン!

花瓶が、話していた使用人たちの足元へ勢いよく叩きつけられた。

砕けた破片が飛び散り、数人の脚からたちまち血が流れ出す。

結月は階段の踊り場に立っていた。

あまりにも青白い顔に、漆黒の瞳が陰鬱なほど冷たく光っている。

まるで悪鬼のようだった。

結月は話していた者たちを睨みつけ、掠れきった声で言った。「二度と娘のことを口にするな。次に言ったら、その口を引き裂く」

声は決して大きくなかった。

むしろ、異様なほど静かだった。

それなのに、使用人たちはまるで鬼に睨まれたかのような寒気を感じ、たちまち蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

「ふん、自分を女主人だと思ってるんだから。結局は桜井さんの足を地面に這いつくばって拭く卑しい女のくせに……」

桜井春奈(さくらい はるな)の名が出た途端、使用人たちの態度は明らかに恭しくなった。

何しろ、春奈こそが桐山家の本当の未来の女主人なのだから。

その言葉は、まるでわざと結月に聞かせるようだった。

だが、結月はもう気にしていなかった。

娘が白血病を患い、涼介だけがドナーの適合者だったからこそ、結月はここにしがみつき、どれだけ人に踏みにじられても耐えていたのだ。

自分だって、好きでこんな目に遭っていたわけではない。

体にはべたつくような不快感と鈍い痛みが残っていた。

結月は無表情のまま浴室へ入り、シャワーを浴びた。

肌には、慎也に強く掴まれたり、噛まれたりした痕が残っている。

シャワーの水がそこを流れていくたびに、相手に体を支配されていた感覚が再び蘇ってきた。

どうしても堪えきれず、便器へ駆け寄って吐いた。

気持ち悪い。

吐き終えると、結月は冷たい表情のまま水を流した。

風呂から上がっても、髪を乾かす力すら残っていなかった。

結月は乱雑に布団を体へ巻きつけ、そのまま丸く縮こまった。

娘が救急搬送されてから埋葬するまで、すでに三日間、一度もまともに休んでいなかった。

眠れないだろうと思っていた。

ところが、目を閉じた途端、何も分からなくなるほど深い眠りに落ちた。

どれほど眠ったのか分からない。

ぼんやりとした意識の中で、誰かが自分の布団を剥がそうとしているのを感じた。

反射的に、布団を強く抱きしめた。

次の瞬間、ぞくりと背筋を走るものを感じ、結月は一気に目を覚ました。

部屋には明々と明かりが灯っていた。

酔った涼介が、結月の体を押さえつけていた。

結月が目を覚ましたのを見ると、涼介は鼻で笑った。

「起きたか?まるで死んだように寝てたな」

ろくに休めていなかったせいか、結月の頭はまだぼんやりしていた。

だが、状況を理解した瞬間、反射的に手を振り上げた。

そして――

「出ていけ!」

結月は涼介の頬を力いっぱい平手打ちした。

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