砂漠の夜は、眠りから覚めることなく続いているようだった。王宮を発った二人は、まだ黒々とした星の名残を背に、無言で歩き続けていた。足元の砂は夜の冷気に湿り、足跡だけがくっきりと残されていく。歩みを進めるごとに、影が長く伸び、ふたつの人影が時に重なり、時に離れて揺れていた。
サリームの胸の奥では、微かな息苦しさが静かに波打っていた。神殿へ向かう道を知っているはずなのに、足はしばしば止まりかける。あの場所に何が待っているのかを思うと、背中を冷たいものがなぞるようだった。痣はもう痛みを発していない。だが、そのかわりに胸の奥に罪の記憶が疼いていた。
振り返れば、アミールが静かに後を追ってきている。昨夜の沈黙が二人の間に残り、言葉はどちらからも生まれなかった。だが、不思議とその静寂は不安ではなく、むしろどこか慰めにも似ていた。砂を踏みしめる足音が、ふたつの心臓の鼓動のように等しく響いていた。
神殿の尖塔が、夜明け前の空にぼんやりと影を落とし始める。サリームはその姿を見て、ほんの少しだけ足を止めた。石造りの階段、冷たい大理石の床、そして記憶のなかで何度も繰り返された祈りと血の儀式。それらがいっせいに胸を押し寄せてきた。
アミールが、そっとサリームの横に並ぶ。彼の横顔は夜明けの光にかすかに照らされていた。目を伏せたその姿に、サリームは言いようのない安堵を感じる。けれど、同時に痛みも走る。アミールはこの場所に、どんな気持ちで戻ってきたのだろうか。兄を失い、自分をも呪いの源と見ているのではないか。
一歩、また一歩と進むたびに、砂がさらさらと音を立てて流れる。二人の影は時折交差し、そのたびにサリームは自分が誰と並んで歩いているのかを問い直していた。アミールはザイードの弟であり、自分が最も愛してはいけない相手だった。それでも、今この夜明け前の道で隣にいるのは紛れもなくアミール自身だった。
神殿の階段の前で、サリームは立ち止まった。石の冷たさが足元から伝わり、胸の鼓動が高鳴る。かすかに手が震えた。その震えを悟られたくなくて、サリームは一歩、後ずさった。
アミールが、そっとサリームの手に触れた。冷たい指先が、砂に触れるよりも柔らかく温かかった。
「行きましょう」
夜明け前の王宮は、息を潜めたような静けさに満ちていた。窓の外には、夜と朝の境がゆっくりと溶けあい、淡い朝靄が庭園を覆いはじめている。アミールとサリームは、寝台の上で互いの体温を確かめるように静かに寄り添っていた。言葉はなかった。必要もなかった。ふたりの間に流れる時間は、もう“語り”や物語に頼るものではなかった。ただ存在する、そのこと自体が幸福だった。サリームはアミールの髪をゆっくりと撫でる。その指先が額に、頬に、首筋に触れてゆくたび、アミールのまぶたが静かに揺れる。小さく息を吸い、吐き、肌が重なり合う。夜の余韻と新しい朝の気配が、ふたりの身体の間に薄く、柔らかな光を宿していた。「アミール」低く囁かれた名に、アミールはそっとサリームの手を握る。その手の温もりが、これまでの全てを慰めてくれる。ふたりは目を合わせ、微笑み合う。それだけで言葉より深い約束が交わされた気がした。サリームはアミールの唇にそっと口づける。触れるだけの、静かなキス。アミールは身を委ね、胸の奥に湧き上がる安堵と歓びに身を浸す。「君といると、私のなかにたくさんの光が生まれる」その声に、アミールは静かに頷いた。「私も同じです。もう、語りも物語も要りません。ただ、あなたの隣にいるだけで十分です」サリームの手が、アミールの肩から背へ、ゆっくりと滑っていく。優しく抱き寄せ、頬と頬を寄せ合う。ふたりの呼吸が、重なり合う音だけが部屋に満ちる。布がめくれ、肌と肌が触れ合う。サリームはアミールをそっと寝台に横たえ、腰に手をまわす。アミールの脚がサリームの脚に絡み、静かな官能が波のように身体を包んでいく。「もう、何も怖くない」「私も」囁き合いながら、ふたりは互いの身体の中に安らぎと確かさを探していく。サリームはゆっくりとアミールに入り、アミールは王を受け止める。どちらかが導くのではなく、ふたりでひとつの幸福を分かち合う。アミールはサリームの肩に腕をまわし、静かに快楽と安心を味わう。その吐息や小さな震えが、夜明けの光と混じり合い、部屋いっぱいに満ちていく。どちらから
夜の王宮は、深く澄んだ静寂に包まれていた。細い月が窓辺に光を落とし、王の私室には灯火がひとつだけ静かに揺れている。アミールは椅子に座り、膝の上に手を重ねてサリームを見つめていた。王冠は今夜、卓の上に外されている。その金属の曲線が、炎の影に沈んでいた。サリームはゆっくりとアミールの前に座り、少しだけ息を整えた。語り部のいない夜。今この瞬間だけは、王もただ一人の人間だった。「アミール」王の低い声が、夜の空気を震わせる。その響きは、これまで何度もアミールが語ってきた“物語”とはまるで違っていた。言葉を紡ぐのは、王自身の意志だった。「私は…いつも弱い自分を隠してきた。王であること、誰も傷つけないこと、すべての正しさを背負うこと。それが“生きる”ことだと信じてきた」静かな炎が王の横顔を照らす。そこには幼さと老いが入り混じり、これまで見たことのない陰影があった。「だが私は、失うことも、傷つくことも、恐ろしかった。ザイードの死も、アミール、おまえを愛することも…心のどこかでいつも、すべてを失うことへの恐怖ばかりを抱えていた」アミールは黙って王の声を受け止めていた。語り手としてではなく、ただ傍らにいる者として。「私は王として、命令し、守り、罰し、赦しを与えてきた。しかし本当は、誰よりも救われたかった。私自身が…自分の痛みを、誰かに伝えたかったのだと、今なら分かる」王冠の影が卓の上に長く伸びる。サリームはそれに目を落とし、指先でそっと撫でた。「私は初めて、物語を語りたいと思う。自分のために、そして君のために」サリームは顔を上げ、アミールをまっすぐに見つめる。「私の人生は、孤独と後悔と罪の繰り返しだった。だが…今こうして、君がここにいてくれることで、私は違う夜を生き直せる」言葉はときにたどたどしく、けれどまっすぐに響いた。「私は、君を愛している。これは呪いでもなく、罰でもなく、ただの私の人生の物語だ。君が私の隣にいる限り、私はこれから何度でも、自
夜の帳が静かに王宮を包み込む。宴の余韻も遠く、廊下の灯火がひとつずつ消えてゆくころ、アミールは自室に戻っていた。薄暗い部屋の奥、机の上には長いあいだ使い込んだ筆記具と、古びたインク壺が並んでいる。窓の外では、風が微かに壁を撫でていた。アミールは静かに椅子に腰を下ろす。しばし何もせず、指先でペンの軸を転がし、インク壺の蓋を開けては閉じる。その動作に、どこか名残惜しさが滲む。それは、兄の死以来ずっと自分と世界をつなぐ唯一の手段だった。語ること、記すこと、言葉にして誰かに捧げること。そのすべてが、彼自身の鎧であり、同時に檻だった。机の上には未完の物語が一枚だけ置かれている。まだ語られていない王の夜、書きかけの言葉が小さな光となって紙の上に残っていた。アミールはそれをじっと見つめ、ためらいがちに手を伸ばす。けれど、指先は紙の端に触れただけで、そっと離れた。深い沈黙が部屋を満たす。その静けさの中で、アミールは自分の呼吸だけを頼りに目を閉じる。「語らなくても、ここにいられるのだろうか」ふと、そんな問いが胸の内をかすめる。だがその問いは、不思議なほど恐ろしいものではなかった。むしろ、言葉も物語も必要としない“ただの自分”が、今この空間に確かに存在している気がした。沈黙がこんなにもあたたかく、柔らかいものなのだと、初めて知った夜だった。アミールはゆっくりとペンを箱にしまい、インク壺の蓋をしっかりと閉じる。仮面や古いノート、語り部である証の小さな品々も、一つ一つ手に取ってから、引き出しの奥にしまい込んだ。自分を語るために用いたすべての道具が、いまは静かに闇の中に沈んでいく。手放すことで、自分の中に小さな空洞が生まれる。それは喪失の痛みではなく、未知の自由の予感だった。窓を開けると、夜風がふわりと部屋に入り込む。インクの香りと夜の空気が交じり合い、胸の奥まで沁みてくる。遠く王宮の塔の上に、淡い星が瞬いていた。アミールはその光を見上げる。物語に頼らなくても、王と沈黙を分かち合い、同じ夜空を仰ぐことができる。それだけで、なぜか満たされていた。
宴の余韻が去り、王宮には深い静寂が戻っていた。広間には金色の燭台がいくつか残るのみで、人々のざわめきも、笑い声もすっかり消え失せている。石の床に残る香の残り香だけが、かすかに漂い続けていた。アミールは高窓から差し込む淡い光の下、ひとり広間に佇んでいた。壁に並ぶ絵皿や装飾の影が、静けさのなかでゆるやかに長く伸びている。宴のあいだ、彼は無意識のうちに“語り部”としての自分を探していたのだと気づいた。どこかで、誰かに語りかけることで自分の輪郭を保っていた。それが兄の名を背負って生きてきた証でもあり、王に寄り添うための役割でもあった。けれど今、アミールの胸に満ちているのは不思議な静けさだった。誰のためでもなく、誰かの代理でもない。ただ、ここに自分がいること。王宮という広大な空間の片隅で、たったひとりの自分として夜を迎えている。それだけで十分だった。静かな足音が、石の床をゆっくりと進む。宴のあとの廊下を、アミールは迷わず歩いた。王の気配は遠くにある。けれど、いつもなら後ろめたさと恐れに引き戻されていたはずのこの道も、今夜だけは特別だった。どこにも“語り”を求める声はない。ただ宮殿の光が、静かに彼の背を押してくれる。小さく吐息をつく。自分のためにここにいる。その決意が胸に宿るたび、足取りは少しずつ確かなものになっていく。「アミール」不意に、背後からサリームの声が響いた。振り返ると、王は広間の入口に静かに立っていた。宴の名残を纏いながら、どこか安堵したような顔でこちらを見ている。「どうした、こんなところで」アミールは微笑み、肩をすくめる。「静けさを感じていたかったのです。もう、誰かの物語を語らなくても、ここにいられる気がして」サリームはゆっくりと近づき、アミールの隣に並ぶ。ふたりの足音だけが、大きな空間に穏やかに響いた。「おまえがここにいるだけで、私は…安心する」王の声はいつになく素直で、心の奥底からの響きをもっていた。アミールはその言葉を静かに受け止める。役割や肩書きではなく、“今ここにいる自分”に
朝焼けが王宮の窓辺を淡い紅に染めていた。長い夜の余韻を残したまま、王の部屋には静けさが広がっている。アミールは椅子に腰かけ、窓から射し込む光に手を伸ばしていた。その掌の先に、サリームがそっと近づく。手紙を胸に抱いた王は、ゆっくりとアミールの前に腰を下ろした。「アミール」サリームは静かに語りかける。その声には、これまでのどの夜とも違う透明な響きがあった。「私は、ずっと恐れていた。愛すれば、必ず失われる。そう信じることで、自分自身を罰してきた。でも…」サリームは手のひらをそっと広げ、自分の手首を見つめる。そこにはまだ、淡く痣が残っていた。しかし、その痛みもどこか遠いものになっている。「ザイードが遺した言葉を、今夜ようやく受け入れられた気がする。私は私自身を、どこかで赦したかったのかもしれない」アミールは黙って耳を傾けていた。王の声が朝の空気に溶けていく。「呪いは、本当は私の内にあった。誰にも与えられてなどいなかった。私は“愛すれば死ぬ”と物語にして、自分を閉じ込めてきた」サリームはゆっくりとアミールの手を取る。ふたりの指が重なり、手の温もりが過去の冷たい影をゆっくりと溶かしていく。「私は、これからは違う物語を生きたい。“愛することで生き直す”物語を。君と一緒に、新しく歩き始めたい」アミールの胸が静かに震える。その震えは、喜びにも似ていた。「あなたがそう言ってくれて嬉しい」小さな声だったが、確かな決意が込められていた。窓の外では、朝焼けが宮殿の塔を赤く染めている。ふたりの影が床に並び、これまでのどんな夜よりも長く、温かな形を描いていた。「私の人生が物語であるなら、私は今日からその語り手になる」サリームはそう言って、アミールの目をまっすぐに見つめる。「君と共に語り、共に生きる物語を選び直したい」アミールは、そっと王の手を引き寄せ、軽く額を触れ合わせる。「私も、あなたと歩む新しい物語を生きていきたい」ふたりの間に、
夜が更け、王宮の空気がひときわ静まりかえる。アミールの語りが終わり、ふたりの間には穏やかな沈黙が流れていた。蝋燭の灯が小さく揺れ、サリームの頬に影を落としている。その横顔はどこか安らぎを帯びていたが、瞳の奥にまだ癒えぬ痛みの色が残っていた。サリームはふと、机の奥にしまい込んでいた小さな箱の存在を思い出す。長いあいだ開けることのなかった箱。その中には、かつてザイードから託された手紙が一通だけ、封も切られぬままに眠っていた。立ち上がると、サリームは無言で箱を手に取り、机の前に座り直した。アミールはそっと王の動きを見守っていた。その瞳には、静かな祈りのようなものが浮かんでいる。封蝋を剥がし、そっと手紙を取り出す。紙は時の重みに少し黄ばんでいる。インクの染みが、ザイードの震える手の跡を思わせた。ゆっくりと広げる。ザイードの筆跡が、王の名を優しく呼びかけている。「サリームへ」その一行だけで、胸の奥が熱くなる。サリームは指先を震わせながら、静かに文を追った。「私は、君を裏切ったことはない。君の前で何も語れなかったのは、恐れと、愛のせいだった。君がもしも私を赦してくれる日が来たなら、それだけで私は満たされるだろう。君が誰かを、再び心から愛し、生きる日が来ることを願っている。呪いなどどこにもない。ただ、君自身が君を許してほしい。私もまた、君を愛している。誰よりも深く」インクの染みが、いくつもの涙の跡のように広がっている。サリームは目の奥に熱いものがこみあげるのを抑えきれず、声もなく涙を流す。長いあいだ、手紙の存在ごと心の奥底に封じ込めていた感情。ザイードの言葉は、静かにサリームの胸の檻を開いていく。「赦してくれ…私は、君を守りたかっただけだった」つぶやくように、ザイードの手紙は続いている。「どうか、愛することを怖れないでほしい。私は君の生を望んでいる。君は君のために生きてほしい。…それが、私の最後の祈りです」涙がぽたりと手紙に落ち、インクの文字をかすかに滲ませる。サリームは手で顔を覆い、しばし声を殺して泣いた。アミールはそっとその背