神谷朔(かみや さく)が小山奈美(こやま なみ)のために用意したクルーズでの誕生日パーティーは、突如として転覆事故に見舞われた。 朔はためらうことなく、私が乗るはずだった救命いかだの最後の空席を奈美に譲った。 水の中でもがく私を見ながら、十か月の妊娠の末に生まれたはずの息子――神谷陽斗(かみや はると)は、泣きじゃくりながら叫んだ。 「ママを上げさせないで!奈美お姉ちゃんが落ちちゃう!」 私は割れた木板一枚にすがりつき、どうにか岸へとたどり着いた。胸の内は、もうすっかり冷え切っていた。 うつ病の診断書を手に、私はただこの命を早々に終わらせてしまいたいと願うばかりだった。 だが、本気で生きる気力を失った私の姿を前に、朔と陽斗はすがりついて泣き崩れる。 「お願いだ、行かないで。お前がいなければ、本当に俺らはやっていけないんだ」
Lihat lebih banyak私が死んだ後、朔は日々うつろに過ごすようになった。酒をあおるか、ただ呆然と座り込むばかり。そして別荘には、ときおり彼の狂気じみた笑い声が響き渡る。神谷グループの株は暴落し、朔は役員会から放逐され、やがて精神科専門の病院へ送られた。その隙を突いて、悠真は大半の案件を奪い取り、神谷家の会社を叩き潰した。すべてが沈静化したかに見えたころ、【神谷朔が病院を脱走した】というニュースが、神谷グループの名が再び世間の口の端に上った。朔のような精神を病んだ人物が外にいれば、社会に危険を及ぼす可能性が高い。そのため、神谷グループは一刻も早く彼を捜し出さなければならなかった。神谷グループは大規模な捜索を始めたが、一か月たっても手がかりはなかった。誰もが、彼はすでに命を落としたのだと思っていた。家族でさえ形ばかり探したのち、彼を見捨てた。悠真は私が死んだあと、結婚もせず、ただ一人で五年の歳月を過ごした。そんなある日、彼が地元のスラム街近くの土地を開発するために現地視察へ行ったとき、ゴミをあさって口にしている一人の若者を目にした。その若者は骨と皮ばかりにやせ衰え、黒ずんだ肌の下から白く浮き上がった骨が見えた。ゴミ箱のそばで、犬の口から奪い取った半分に折れた骨を、むさぼるように食べている。ぼさぼさの髪に顔の半分が隠れていたにもかかわらず、悠真はこの人物が長らく行方不明だった陽斗であることを見抜いた。陽斗は悠真の顔を見るなり、怯えて逃げ出したが、すぐに捕まった。悠真は陽斗を家へ連れ帰った。飢えきった陽斗は、五杯のごはんを続けざまに平らげてようやく箸を置いた。「陽斗、いくつか聞かせてくれ」陽斗が腹を満たしたのを見届けてから、悠真はようやく口を開いた。少し気まずそうにしながらも、陽斗はこくりと頷いた。「お前の父さんは、どこへ行ったか知っているか?」「父さん」という言葉を聞いた瞬間、陽斗はびくりと身を震わせ、まるで何か恐ろしいことを思い出したかのようだ。長いあいだ黙り込んだあと、彼はようやく小さく頷いた。「知ってる」「どこだ?」陽斗は首を横に振り、ぽつりと答えた。「死んだ」病院から逃げ出した朔は、逃亡中の奈美を見つけ出し、言葉巧みに無人島へ連れ出したという。そして、残酷に殺した。発見された遺体は四肢を断た
肉体は滅びても、私の魂はまだこの世界に留まっている。私は、顔を真っ黒にした陽斗が、焦りの色を隠せずに私の行方を尋ねているのが見える。「悠真おじさん、ママは?」陽斗は悠真が上がってくるのを見たが、あたりをきょろきょろ見回しても、私の姿はどこにも見えなかった。恐怖がその小さな体を覆い尽くし、彼は胸を引き裂くような叫び声を上げる。「ママはどこ!どうしてママは上がってこないの?ママが欲しい、ママが欲しい……うっ、うっ……」悠真は顔面蒼白で、力をすべて吸い取られたかのようにその場に崩れ落ちた。だが朔は、私が嫉妬で芝居をして隠れているだけだと決めつけ、私に一瞥さえ向けなかった。「美桜、もう隠れてるんじゃない。お前のそんなつまらない芝居にはもううんざりだ。さっさと出てきて、家に帰るぞ」私は彼の言葉に一切応えなかった。今回は、本当に、完全に死んでいたのだから。悠真は崩壊寸前の顔で、魂が抜けたみたいに呟く。「救助隊を……早く呼べ」朔は鼻で笑う。「なんだ、お前まで美桜と同じように芝居をするつもりか?」悠真はふらりと立ち上がると、朔の襟首をつかんで怒鳴る。「救助隊だ!早く呼べ!美桜は落ちたんだ、落ちたんだよ!」それでも朔は、私が本当に死んだとは信じようとしなかった。救助隊が崖の下を三日三晩捜索を続けた末に、ようやく歪んだ顔つきの私の遺体が発見された。これを突きつけられて、朔は信じたくなくても信じざるを得なくなった。私の遺体を目にしたその瞬間、彼は膝をつき、崩れ落ちながら号泣した。「いやだ……そんなはずはない。お前が俺を騙してるんだろ?これは美桜じゃない、美桜じゃない!」私は、朔がこれほど取り乱す顔を見たことがなかった。奈美が傷ついたときでさえ、ここまで絶望はしなかった。朔は本当に私を愛しているのだろうか?いや、そうではないと思う。彼が求めていたのは、私がそばにいることで手に入る都合のよさであって、彼が愛してやまなかったのは、結局ほかでもない自分自身だ。悠真は私の無残な死に様を見て、痛みに顔をゆがめ目を閉じたが、なぜか口元に笑いが漏れた。「朔、見ろよ。ほら、美桜は死んだ。満足か?」満足か?「彼女が……奈美を害そうとした。そう、彼女なんだ……」「お前はまだ信じようとしないのか?」悠
奈美の誕生日を祝うため、私たちは郊外でキャンプをすることになった。最近の私の気持ちが安定していたことから、朔は特別に私も連れて行くことにしたのだ。そしてまさにこの日、私は奈美に連れられて山頂へ行った。こうなる日が来るだろうことは、ずっと前からわかっていた。朔は私のことで奈美を突き放している。あの高慢な彼女が、それを許して私を生かしておくはずがない。そして今日こそが、彼女にとって私を葬り去る絶好の機会だ。「美桜、あなたも卑劣な手を使うね。朔を繋ぎとめるために、うつのふりまでして。今日、はっきりさせてやるわ。朔が選ぶのは、あなたか――それとも私か」言い終えるか終えないかのうちに、遠くから朔と陽斗、それに悠真が駆けてくるのが見えた。奈美もそれを見ていた。彼女は私の耳元に寄り、低く囁く。「死にたいよね?叶えてあげる」そう言うと彼女は私の手をつかみ、身を預けるようにしてそのまま崖の下へ身を投げた。死角から見れば、あたかも私が奈美を突き落としたように見える角度だ。朔が狂ったような声を上げる。「美桜、何をしている!」命惜しみな奈美が、こんな芝居のために身の危険を冒すはずがない。彼女はあらかじめ地形を調べていたのだろう。崖のすぐ下にはこんもりと茂った木の茂みがあり、奈美はちょうどその上に落ちた。一方の私は、細い枝に引っかかって宙吊りになり、ぶらぶらと揺れている。奈美は谷に響き渡る声で助けを求め、悲鳴を芝居がかった調子で撒き散らす。邪魔なこの枝に苛立ちを覚えつつも、彼女が私を死へ運んでくれたことにはどこか感謝していた。私は体を大きく揺らし、自分からそのまま落ちようとした。そのとき、朔がロープをつけて崖を下りてきた。けれど向かった先は私ではない。茂みの上の奈美だ。「バキッ」という音とともに枝が割れ、私が崖へ落ちそうになったそのとき、上へ引っ張られる衝撃が走り、腕に裂けるような痛みが走った。悠真が私の手をしっかりと掴んでいた。そして、この頃、朔はすでに奈美を抱きかかえて、山頂へと戻っていた。陽斗は泣きじゃくりながら、拳で打ち足で蹴りつけ、どうして私を助けなかったのかと朔を責め立てた。奈美を落ち着かせた朔は、口元に得意げな笑みを浮かべて言う。「お前に何が分かる?お前の母さんは嫉妬して奈美
そして、ある日。私は、廊下での騒ぎに眠りを破られた。「朔!美桜はいま重いうつ病だ。いつ自殺してもおかしくない。治療に連れていくべきなのに、日も差さない部屋に閉じ込めておいたら、彼女は壊れる!」悠真の声だ。見舞いに来て、朔に追い返されているのだろう。私は二人の口論など無視して、もう一度眠ろうと目を閉じる。だが、朔の取り乱した怒鳴り声が、私の眠気を根こそぎさらっていった。「分かってる、分かってるさ!でも……でも医者は言ったんだ。彼女のうつは俺のせいだって。治すには、俺を忘れさせるしかないって……俺が彼女を手放せるわけがない!美桜を俺から離せるなんて、できるはずがない」そのあとは、物のぶつかる音ともみ合う気配にかき消され、よく聞き取れなかった。その夜、部屋の扉がほんのわずかに開き、朔が気配を探るように顔をのぞかせ、「美桜、まだ起きてるか?」とささやく。もちろん返事はしなかった。すると、彼は忍び込むように部屋へ入ってきた。暗闇の中、近づいてくる足音がはっきりと響き、顔が目の前に迫る。彼の荒い息づかいさえも鮮明に聞こえている。「美桜、ごめん」腰を下ろし、朔が初めてまともに謝った。だが、私はもう堪えきれなかった。跳ね起きると、振り抜いた手のひらで彼の頬に真っ赤な手形を残した。「あんたは一体いつまで私を閉じ込めるつもりなの?自分のやっていることが違法な監禁だって分かってるの?」私の平手をくらって顔を一方にそらしたが、朔は怒りも見せず、私の手を強く握りしめて懇願した。「構わない。お前がそばにいてくれさえすれば、他はどうでもいい」私は冷たく笑った。「あなたの奈美も、どうでもいいの?」「美桜、俺は奈美とはもう長いこと連絡を取っていない。もしお前が気にするなら、彼女には俺たちの世界からきっぱり消えてもらう」私は勢いよく朔の手を振り払い、軽蔑の眼差しを向けた。「ときどき本気で思うの。あなたは滑稽だって。奈美に相手にされないと、犬みたいに舐めて媚びて。いまは私に愛想を尽かされて、また愛を演じるわけ?病んでいるのは私じゃなくて、むしろあなただと思う。奈美は最初からあなたを愛していない。今の私も同じ。あなたへの愛はもう、とっくの昔に消え失せた誰がそんな身勝手なバカを好きになるの?」朔は全身を震わせ
おそらく私が部屋で一人退屈しないようにと、朔はときどき陽斗を私の部屋へ寄こす。陽斗の私への態度もがらりと変わり、持っているおもちゃやお菓子をすべて私の前に並べる。「ママ、これは僕がもったいなくて食べられなかったケーキ、ママにあげるね。それから、ママが遊んじゃダメって言ったゲーム機も、全部ママに預けるよ。ママ、笑ってよ。ママは前、僕のこと一番好きだったよね。ママ……」陽斗はまだぺらぺらとしゃべり続けていて、私は騒がしさにうんざりした。「黙れ!誰があんたのママよ」私は彼が差し出したお菓子を乱暴に床へ投げつけ、砕けたポテトチップがあたりに散らばった。陽斗は怯えたように私を見つめ、目にたまった涙が一気にあふれ出すと、声をあげて泣き叫んだ。「ちがう!ママはママだよ。ぼくのママは、ママしかいない!」泣き声は部屋の隅々まで響き渡った。本当は一人で静かにしていたかったのに、朔はわざわざこの騒音の元を私の部屋に押し込んできたのだ。「うるさい!」怒鳴っても、返ってきたのはさらに大きな号泣だ。「やだ、ママ!ママはもうぼくを愛してないの?ママ、ぼくはママの子どもだよ……」絶え間ない泣き声が脳を直撃し、私は完全に崩れた。思わず手を伸ばし、陽斗の首をつかむ。カメラに向かって叫んだ。「朔!子どもを絞め殺されたくなかったら、さっさと誰かを寄こして連れ出しなさい!」陽斗は両頬を真っ赤にして、大きく息を荒げた。自分の母親が自分を本気で殺すなんて、信じられなかった。私の爪が陽斗の皮膚に食い込み、首筋に細い傷が走った瞬間、外の護衛たちが飛び込んできて、私と陽斗を引き離した。宙を引きずられながら、陽斗は泣き叫ぶ。「やだ、やだ、ママがいい!ママ、ごめんなさい、もう騒がないから!ママ、ごめん」彼の抵抗はまったく効き目がなく、そのまま引きずられるようにして連れ出されていった。それから数日間、私は陽斗の姿を見なかった。おそらく朔が、彼が私を刺激しないようにと近づけさせなかったのだろう。けれど、朔が私のもとへ来る頻度は目に見えて増えていった。しかも来るたびに大きな花束のバラや、さまざまなブランドのバッグ、さらには金銀の宝飾品まで抱えてきて、私を機嫌よくさせようとした。「美桜」朔はその日もいつものように私のもとへや
神様がわざと私に意地悪をしているのだろうか。鋼のフォークには当たらず、草むらに落ちて衝撃が和らぎ、私は生き延びた。病院へ運ばれ、救命処置で私は一命を取りとめた。度重なる自殺未遂と、診断書に書かれた重度の鬱を見て、朔はようやく私が見世物をしているのではなく、本当にうつ病を患っているのだと確信した。彼は私がまた自殺しないように、私を寝室に閉じ込めた。家中の刃物はすべて隠され、机や椅子の角にさえ丸みが付けられている。私は干からびた魚みたいに天井を眺める――死ぬだけのことなのに、どうしてこんなにも難しいのだろう。私は窓辺に立ち、荒れ果てた庭に視線を向けた。ここにはかつて、私のいちばん好きなバラが咲き乱れていた。けれど奈美がが不注意で棘で指を傷つけたというだけで、朔は私の丹精をすべて焼き払った。部屋を見回し、窓を割って逃げ出すのに使えそうなものを探した。ちょうどこのとき、扉が開いた。近づいてくる足音が静まり返った夜を破り、次の瞬間、腰がきゅっと締めつけられ、両手が私の腹にぴたりと重ねられた。ガラスには、朔が頭を私の肩に預けている影が映っている。彼はどうやら酒を飲んでいるらしく、口から漏れる声はふわふわと漂い、柔らかくて現実味がなかった。「美桜」熱い吐息が私の首筋にかかる。「前はあんなに明るかったのに。どうして、うつになんて」朔の目が陰る。「きっと嘘をついてるんだろ?嫉妬してるんだ。お前は俺を愛してる」朔は黙ったまま、私の返事を待っていた。私は鼻で笑い、彼の強まる手を力いっぱい引き離すと、くるりと身を返し、まるで滑稽なものを見るように彼を見やった。「私がうつになったのは、誰のおかげだと思ってる?」朔は苛立たしげに眉をひそめる。「俺は本当に、奈美のことを妹みたいにしか思ってない。何もないんだ。小さい頃からの仲で、彼女の両親に頼まれて面倒を見ているだけだ」震えが指先にまで広がる。この人がどうしてこんな厚かましい言葉を平然と口にできるのだろう。「面倒を見る?あんたの言う面倒を見るって、人をベッドに連れ込むこと? 彼女のためなら、自分に子どもを産んだ妻さえ、簡単に捨てられるってことなの?」私は怒鳴り声を上げた。それはまるで、これまで朔から受けてきた数々の屈辱や苦しみを一気にぶちまけるかの
Komen