突然のすごい音に、ボクは跳び跳ねた。
そして、ぼさっと柔らかい寝台に落ちる。 鐘の音がこんなに大きく聞こえるなんて……そうか、ここはいつもの街じゃなかったんだっけ。 気が付いて、ボクは周囲を見回した。 その耳に、彼の声が飛び込んできた。 「目が覚めたのか?」 見ると、テーブルの脇に座り頬杖をついている彼がいた。『似合わない』と自分でも言っていた神官の服を着て。 そして、テーブルの上には、何だか良く解らない分厚い本が開いた状態で置いてあった。 寝ていたとはいえ、彼が起きたのに気がつかなかったなんて。 こいつ、一体何なんだ? 驚くボクに、彼は微笑を浮かべながら床を指差した。 そこには昨日同様、彼が残してきたとおぼしき食事が置いてある。 すとん、と寝台から降り立ち、ボクはそれを食べ始める。 彼はしばらくそんなボクを見ていたが、やがてあの分厚い本を読み始めた。 すっかり食べ終わってボクが毛繕いを始めると、彼は静かに立ち上がる。 食べ物が置かれていた布を拾い上げ、丁寧に折り畳むとそれを懐へしまいこんだ。 でも、いつも残してくるなら、君の分が足りなくなるんじゃないの? 鳴きながら見上げるボクの頭を、彼はくしゃくしゃとかき回した。 せっかくきれいにしたのに、台無しじゃないか。 抗議の声を上げるボクに、彼は笑った。 「本当によく食べるな」 大きなお世話だよ。 再び鳴くボクに背を向けて、彼はテーブルに戻ると、分厚い本を読み始める。 一体何を読んでいるのかな。 興味を覚えて、ボクは使われていない椅子の上にに飛び乗り、そこからテーブルの上に飛び移る。 「これは、『祈りの書』。一応、修行しないといけないから」 ボクの視線に気が付いた彼は、本から目を離すことなく言った。 恐る恐る、ボクも眺めてみる。 見開きのページにはびっしりと蛇かミミズがのったくったような模様が印刷されている。 いや、模様じゃなくて文字かな? どちらにしても、ボクには意味が解らないから同じことだ。 テーブルの上で伸びをして、そのまま丸くなる。 静かな室内には、彼がページをめくる音だけが響く。 どのくらい時間が経っただろうか。 あまりの静かさに、ボクが眠ってしまいそうになった頃、不意に扉を叩く音がした。 何事か? あわててボクは顔を上げて、そちらを見やる。 一方彼は、読みさしのページにしおりを挟んで本を閉じると、扉の方へ歩みよった。 彼は短く返事をして扉を開ける。 そこに立っていたのは、『導師さま』だった。 「殿下のお使いがお見えよ。すぐにお行きなさい」 「解りました」 やはり短く返事をすると、彼は後ろ手で扉を閉めた。 そのままボクの前を素通りし、奥の部屋へと消える。 再び現れた彼は昨日街で着ていたような腰丈の上衣を着て、左肩には長い剣を背負っていた。 君、神官じゃなかったの? それに、殿下って、偉い人なんじゃないの? 瞬くボクに向かって、彼は少し複雑な表情を浮かべていた。 「……一緒にくるか?」 もちろん、行くに決まってるさ。 ボクはテーブルの上からすとん、と飛び降りた。 そして、とてとてと彼の足元にじゃれついた。 「解った。じゃ、迷子になるなよ」 言いながら彼は扉を開ける。 同時にまぶしい光が目に入ってきた。 昨日の雨が嘘のような良い天気だった。 『孤児院』から出ると、彼はすたすたと歩き出す。 聖堂の前を横切り、緑の庭を通り抜ける。 一体どこへ向かっているんだろう。 でも、周囲を見回していると本当に迷子になりそうなので、ボクは必死に彼の後を追った。 そして、急に視界が開けた。 しっとりと濡れた土の広場が広がっている。 「あそこにいるのが、『殿下』。俺の恩人。一応」 彼の指差した先には、一人の少女が立っていた。 「遅いじゃないか! 何をしていたんだ?」 ボクらの姿を認めると、『殿下』は機嫌悪そうにそう言った。 回りにいるお着きの大人達はみんなその声に小さくなっているのに、彼はまったく動じない。 「遅いもなにも……。今日は師匠は来ないんだろ? 準備していなかったから仕方ない」 ……ちょっと待ってよ。 『殿下』でしかも『恩人』でしょ? そんな言葉使いでいいの? 驚いて顔を上げるボクの視線と、殿下のそれとがぶつかった。 赤茶色の髪と、澄んだ青緑色の瞳を持った、なかなかの美少女だ。 その殿下は、大きな目でボクを見つめながら言った。 「何だ、これは?」 「何って……見れば解るだろ? どこからどう見ても、猫」 「いや、そうじゃなくて」 言いながら殿下は、ボクと彼とをまじまじと見比べた。 「……お前、こんな趣味、あったのか?」 「さあ、な」 ぶっきらぼうに言い放つと、彼は背負っていた剣を下ろした。 がちゃり、と、重い音が響く。 「時間が無いんだろ? 早く剣を抜いたらどうだ?」 その言葉に殿下は納得がいかないようだったが、深々とため息をつくと、ボクに向かってこう言った。 「お前も大変な奴に拾われたな。苦労するぞ」 そしてボクの頭を一撫ですると、殿下はおもむろに剣を抜いた。 剣と剣とがぶつかるのを、ボクは初めて見た。 街の子どものチャンバラごっこ程度の物かと思っていたのだけれど、大違いだった。 鉄と鉄とがぶつかる激しい音。 そして飛び散る火花。 その激しさに、ボクは何度か思わず飛び上がりそうになった。 お着きの人達の噂話を引っくるめて解ったことは、ここは『練兵場』という所であること。 殿下は皇帝の第二皇女で、かなり跳ね返りのお転婆姫だということ。 二人の剣の先生は同じ人であること。 そして、剣を習い始めたのは、彼の方が後であること。 けれど、端から見ても剣の腕は殿下よりも彼の方が上のように見える。 がちん。 鈍い音がした。 彼が殿下の剣をなぎ払ったのだ。 取り落とした剣を拾おうとする殿下の背に、彼の無感動な声が投げ掛けられる。 「……いい加減、これくらいで良いだろ? 今日はもう……」 「嫌だ! お前から一本取るまで……」 「……師匠から怒鳴られるのは、俺なんだぞ」 あきらめろ、とでも言うように彼は剣をひく。 一方殿下はその場に座り込み、泣きじゃくり始めた。 困ったように立ち尽くす彼と、お着きの大人達。 どうやら、ボクの出番らしい。 引き上げてくる彼と入れ違いに、ボクはとてとてと殿下に歩みよる。 そして、涙に濡れたその頬をぺろり、となめる。 同時に正午を告げる聖堂の鐘が、高々と鳴り響いた。 ※ そんなこんなあるけど、孤児院での生活はおおむね平和だった。 『祈りの書』を黙読する彼の足元で丸まっていたり、子ども達にもみくちゃにされたり、彼の剣の稽古を遠巻きに眺めたり……。 そして、彼はいつしか少年から青年へと成長していた。 小柄だった身長もいつしか殿下よりも頭一つ半くらい高くなった。 ある日のこと、彼の部屋を一人の女性が訪ねてきた。 穏やかな微笑みを浮かべたその人を見るなり、彼の表情が一瞬強ばった。 殿下に怒鳴られても眉一つ動かさないのに。 いつものごとく、部屋の片隅に丸まって、ボクは耳をそばだてる。 が、彼はつかつかとボクに歩みより抱き上げると、有無を言わさず部屋の外へ放り出し、荒々しく扉を閉めた。 一体どういうことなのだろう。 後ろ足で立ち上がり、ボクはかりかりと扉に爪をたてる。 室内からは二人が何か話している声が聞こえるのだが、その内容までは解らない。 やがて、静かに扉が開いた。 出てきた女性は、わずかに腰をかがめボクの頭を優しく撫でながら言った。 「あの子は大変な選択をしてしまったけれど……。あなたもあの子を支えてあげてちょうだいね」 支える? どういうこと? 疑問を抱きながら、ボクは室内に滑り込む。 テーブルに行儀悪く腰をかけた彼は、いつになく厳しい表情を浮かべていた。 そして一言、言った。 ここを出ていく、と。 「俺は、もう子どもじゃないから、孤児院にはいられない。どうやら神官の適正も無いみたいだから、ここを出ていく」 出ていくって……。 でも、一体どこへ行くのさ? そう一声鳴くボクの目の前に、彼はひざまずく。 夜空の色をした瞳は、やっぱりどこか涙をこらえているようだった。 「猊下のお名前を頂いたんだ。……武官として、殿下を守る」 猊下って、さっきの女の人? 首をかしげるボクに、彼は柔らかく笑った。 こんな彼の表情を見るのは、初めてだった。 彼はボクの背を撫でながら、さらに続ける。 「大司祭猊下の『息子』として一軍を率いる将になる。前線に引っ張られることになるけれど、これ以外に仕方ないんだ」 前線ってことは、戦場に出るってことじゃないか! それじゃあ……。 「大丈夫。そう簡単には死なない。でも、お前はどうする?」 このまま孤児院に残ってもいいんだぞ。 言いながら彼は立ち上がる。 その後ろ姿は、あまりにも孤独で寂しげだった。 一緒に行くよ。だって、猊下に頼まれたんだから。 思わずボクは駆け寄り、彼の足元にじゃれついた。 しばらく、彼はボクを見つめていたけれど、すい、とボクを抱き上げる。 そして、ボクの目を見ながら、言った。 「……面倒見るって、約束したんだっけ……」 泣き笑いのような表情を浮かべ、彼はボクの頭を少し乱暴にかき回した。篭の鳥の立場から脱したメアリではあったが、次第に宮殿とは比べ物にならない質素で不自由な生活に苛立ちを隠さぬようになっていった。 屋敷内を自由に歩けるようになったものの、外出することはかなわない。 用意される食事や衣類はそれなりに上質なものなのだが、やはり今までと比べるとかなり見劣りする。 自分に対して絶対の忠誠を誓ったゲッセン伯は、あれ以来目立った動きをしている様子は見られない。 このままでは、いつになったら皇帝の座へ返り咲けるのかわからない。 焦りにも似た感情は、日々大きくなっていく。 そんなある日、メアリは晩餐の席でゲッセン伯に向かいこう切り出した。 「そなたの私に対する変わらぬ忠義、嬉しく思っています。ですが……」 一度言葉を切って、メアリは伯爵をじっとみつめる。 その視線にやや怒りにも似た感情が含まれているのを見て取って、ゲッセン伯は緊張した面持ちで姿勢を正した。 それを確認して、メアリは意地の悪い微笑を浮かべつつ言葉を継いだ。 「一体、いつ私を然るべき場所へ戻してくれるのです?」 然るべき場所とは言うまでもなく玉座であり、皇宮である。 それを理解して、ゲッセン伯は色を失った額に浮き上がる冷や汗を拭いながらしどろもどろになって答えた。 「……ただ今、志を同じくする者と計画を進めているところでございます。ですが、事は慎重に進めねばなりませんので、同志の選定が……」 確かに見極めは大切であるから、この言には一理ある。 寝返られ計画が頓挫したら、元も子もない。 しかし……。 「それにしても、随分と時間がかかっているのではなくて?」 私はあとどれくらい待てばいいのです? そう問うメアリに、ゲッセン伯はしばし沈黙した後口を開いた。 「……実は、小賢しいことに両者共に身辺の警護を固めております。そればかりか、追手を差し向ける動きもあります。我らに対する警戒が緩むまで、今しばらく……」 あまりにも無策で平凡な返答に、メアリはわずかに形の良い眉根を寄せる。 目を閉じ息をつくと、諦めたような口調でつぶやいた。 「……わかりました。そなたがそう言うのでしたら、しばし待ちましょう。ですが……」 一転してメアリは無垢な少女のような笑みを浮かべてみせる
ちょうどその頃、皇宮の一室では議論が行われていた。 出席者はミレダとフリッツ公イディオット、議題は次期皇帝の位にどちらが就くかである。 実のところ、なかなか後継者が決まらないという現状は、両者にとって困った事態を招いていた。 国内に二人が婚礼を上げた上で共同統治をしてはどうか、という空気が流れ始めたのである。「困りましたね。私は育ての父の言葉を信じたいのですが……」 言いながらイディオットは腕を組む。 先代のフリッツ公によると、彼は紛れもなく先帝の息子でミレダの異母兄に当たるという。 だが、真実を知る者はすでに皆この世を去っており、それを証明することはできない。 見えざるものの教義では従兄妹同士の結婚は禁じられていないので、民意が拡大し抑えきれなくなれば、最悪従わざるを得なくなるかもしれない。 イディオットの主張が正しければ、両者は見えざるものの意思に反することになってしまうのだ。「だから、とっとと従兄殿が即位すれば良いんだ」 父上が皇帝の証である印璽を託したのは、つまりはそういうことじゃないのか。 そう言いながら足を組み直し、卓に頬杖をつくミレダ。 赤茶色の巻き毛に青緑色の瞳。 よく似た容姿を持つ二人は、お互いの顔を見やりながら深々と吐息を漏らす。「ですが、継承権を持つのは殿下です。それを差し置いてその位に就く訳にはいきません」 それにしても、どうして殿下はそれほどまでに即位を拒まれるのですか。 イディオットからそう問われ、ミレダはわずかにうつむいた。「私は、その器じゃない。……人ひとり救えそうもない私に、国民すべての生命が背負えるはずがない」 予想外の答えだったのだろうか、イディオットは数度瞬く。 それを意に介すことなく、ミレダは更に続けた。「それに、即位するとなると、ルウツの血を残さなければならない。その……好きでも
「……だからって、どうしてウチにつれてくるんだよ?」 言いながらロー・シグマは卓の上に手際よく料理と酒を並べる。 それが済むとユノーの隣にどっかりと腰を下ろし、目の前の杯に酒を注ぐと断りもなく飲み干した。 そんなシグマに、ユノーは申し訳なさそうに頭を下げる。 「すみません……。他に心当たりが無かったので……」 「そうじゃなくてさあ。泣く子も黙る朱の隊隊員が、エドナ駐在武官殿を接待するのに、こんな場末の酒場ってのはどうかと思うぜ?」 杯を卓に戻すなり、シグマはもっともなことを言う。 ここは、シグマが退役し始めた店……いわゆる大衆向けの酒場だった。 店主が言うとおり、異国の使者の接待にふさわしいかと言えば、はなはだ疑問である。 一方両者のやり取りを向かいの席で『見て』いたロンドベルトは、さも楽しくて仕方がないとでも言うように笑った。 「そうお気になさらず。堅苦しいのは苦手ですので」 その言葉を受けて、ユノーはロンドベルトに向き直ると、改めて頭を下げた。 「本当に申し訳ありません。お恥ずかしながら、父が他界してからずっとぎりぎりの生活だったので……」 言いながらユノーはロンドベルトの杯に酒を注ぐ。 真紅の液体に満たされたそれを口許に運んでから、ロンドベルトはおもむろに切り出した。 「失礼ですが、ロンダート卿のお父上は武人……騎士だったのでしょう? でしたらそれなりの恩給が出るのではありませんか?」 その言葉を受けて、ユノーは目を伏せ首を左右に振ると、ややためらった後で幼い頃に自分の家に起きたことをかいつまんで説明する。 神妙な面持ちで聞いていたロンドベルトは、その目をわずかに細め驚いたように告げた。 「では、貴方のお父上も『あの場所』におられたのですか。それは、何とも奇遇ですね」 その言葉に引っかかりを感じたユノーは思わず首をかしげ、おずおずと尋ねた。 「すみませんが、『あの場所』とおっしゃいましたが、一体……」 まるでそ
皇都に奇妙な緊張感が流れている。 期待と不安、好意と憎悪など、相反する感情が渦巻いている。 そう、ついに長きに渡り戦闘状態にあったエドナから、全権大使一行が到着したのである。 とは言っても、国民感情は複雑だ。 全員が諸手をあげて和議に賛成しているわけではない。 どこに大使達に良からぬことを仕掛けようと考える輩がいるとも限らない。 そんな訳で当日皇都には厳戒令が出され、一般市民の外出は禁じられた。 一方の当の大使も、重騎兵に囲まれた馬車に乗って人気のない皇都に入った。 本当にこれで平和が訪れるのだろうか。 大使公邸へと向かう隊列を見ながら、ユノーはそんな思いにとらわれて深々とため息をついた。 宙に浮いてしまった皇帝の位。 姿を消した廃立されたメアリ。 国内が不安だらけなこの状況で、エドナから大使を迎え入れても大丈夫なのだろうか。 けれど、ユノーはそんな思考を無理矢理中断し頭から振り落とした。 貴族とはいえ最末端の下級騎士である自分が、国家の中枢で行われている政に疑問を覚えても仕方がないと思ったからだ。 そうこうしているうちに、今日の勤務も何事もなく終了した。 引き継ぎのあと、いつものように一人詰所を片付けていたユノーの耳に、何やら言い争うような声が飛び込んできた。 よもや、ミレダが抜け出してこちらに向かう途中見つかってしまったのだろうか。 そう思い、ユノーは片付けの手を止めて、不謹慎と理解しながらも思わず耳をそばだてる。 と、いらだったような声が段々と近づいてきた。「ですから、このような所に来られては困ります!」「一刻も早くお戻りください! 当方といたしましても、安全を保証致しかねます!」 おや、とユノーは首をかしげる。 声の主が近衛なのか朱の隊なのかは定かではないが、その声音がいささか乱暴だ。 言葉使いこそ丁寧なのだが、明らかにミレダに対するそれとは異なる。 一体、外で何が起きているのだろうか。 湧き上がってきた好奇
詰所では引き継ぎと報告が行われている。 すべての報告が終わりようやく閉会の段という頃、前触れもなく扉は開いた。 室内に緊張が走ると同時に、その場にいる全員が一斉に立ち上がる。 入ってきたのは、珍しく二人の護衛を従えたミレダである。 一同の視線を一身に集めた彼女は、いつになく硬い表情を浮かべている。 「諸君ら、ご苦労」 発せられる声も、どこか硬い。 いや、ここは私的な場所ではないのだから、とのユノーの考えは、次の瞬間もろくも打ち砕かれた。 「……姉上が、姿を消した。残念ながら警備をしていた部隊には、生存者はいなかった」 どよめきが次第に大きくなる。 皆、不安げに顔を見合わせている。 だが、ミレダがすいと片手を上げると、再び水を打ったかのように静まり返る。 ユノーは息を詰めて、ミレダの言葉を待った。 「おそらくは統率された軍隊、あるいはそれと同等の能力を有する者の犯行だろう」 張り詰めた空気が痛い。 ユノーは背を汗が伝い落ちるのを感じた。 「今後、諸君らにも姉上の探索に当たってもらうことになるだろう。だが……」 ひと度ミレダは言葉を切り、目を伏せた。 「諸君らには、実戦の経験がない。つまりは、人を実際に殺めた経験がないということだ」 瞬間、ユノーは初めて人を斬ったときの事を思い出した。 両の手に、あの時の感覚が蘇る。 「……どうしたんだ? 真っ青な顔して」 隣に立つ同僚から声をかけられて、ユノーははっと我にかえる。 下手をすれば、そのまま意識を失っていただろう。 目礼で謝意を伝えると、ユノーは改めてミレダをみつめる。 「相手は人を殺すことをためらわない、一番厄介な相手だ。だが、ようやく実現した平和のためにも、必ず見つけ出さなければならない」 姿を消した女帝メアリは好戦派で、ルウツによる大陸統一を画策していたという。 当然のことながら、この平和な世を
あくまでもこれは伝聞ですから真偽の程は定かではなありませんが、と断ってからペドロは難しい表情を浮かべて腕を組む。 そして、やや目を伏せながら続けた。 「殿下の来訪以降、シエルは食事もとらなくなったそうです。以前は食堂には出て来ていたそうなんですが、本当に部屋へ引きこもったきりだとか」 このままでは、処分が下される前にシエルがどうにかなってしまうのではないか。 そう心底心配そうに言うペドロ。 ユノーはなるほど、とつぶやき同意を示した。 「正直、ロンダート卿なら会うと思っていたんですよ。ですが、ここまでシエルが頑固だったとは考えてもみませんでした」 「けれど、閣下は殿下のことを誰よりも大切に思っていたのではないですか? それが、どうして……」 「思うに、この国の現状を鑑みてのことでしょう」 ペドロの言うとおり、ルウツは今エドナとの和平にこぎつけたとはいえ、極めて不安定な情況にあった。 なぜなら、この国の根幹とも言える皇帝の位が未だ空位のままだからである。 皇位継承権を持つ唯一の人物であるミレダ、そしてその従兄で皇帝の証たる印璽を亡父から託されたフリッツ公。 両者は共に至尊の冠を戴くことを固辞し、それを譲り合っていた。 ミレダが先の出兵から戻れた暁には臣籍に下ると名言していたのを思い出し、ユノーは深々とため息をつく。 ひと度ミレダがこうと決めたら、それを曲げるとは考えにくい。 一方のフリッツ公の言い分はこうだ。 自分は一応皇帝の血をひいてはいるが父親の代から臣下。 正当な継承者がいる状況で自分がその位に就くのは、あまりにもおこがましい……。 互いに即位を拒否する両者に共通するのは、この国を導く皇帝という存在には自分はふさわしくない、という強い信念だった。 そして両者の周囲では、まことしやかに流れる希望論があった。 すなわち、両者の共同統治という形……ミレダとフリッツ公の婚姻を推す声である。 そんな世相もおそらくはシエルの耳に入っているのだろう。 ミレダへの別離宣言は