室内に入ると同時に、ボクらは子ども達に取り囲まれた。
ボクと同様ずぶ濡れになった少年は、無言でボクを子ども達に押し付けると、少し機嫌悪そうにどこかへと歩み去っていく。
どういうつもりなんだよ。
ボクは抗議の声を上げる。
それが届かなかったのか、聞こえないふりをしているのか、彼は振り返ることは無い。
子どもに取り囲まれたら、後は予想通り。
広間に連れてこられたボクは、子ども達に撫でられまくった。
その間、ボクは自分を取り囲む人間達を観察する。
さっきの女の子は、彼を『お兄ちゃん』と呼んでいたけれど、全然似ていない。
歳も、見かけもバラバラな子ども達。
一体ここは、何なのだろうか。『家族』という訳ではなさそうだ。
そうこうするうちに、先ほどの『導師さま』がやってきた。少し困ったような笑みを浮かべて。
「さあさあ、食事の時間よ。手をよく洗って、食堂へいきなさい」
優しい声に、子ども達は口々に返事をしながらボクの前から去っていく。
少し暗い室内に取り残されたボクは、小さく伸びをすると、ボサボサになってしまった体を丁寧に舐め始めた。
未だ腑に落ちないボクの目の前で、扉は音もなく開いた。
とっさに毛繕いをやめ、顔を上げる。
そこに立っていたのは、あの少年だった。
けれど、街で会った時とは違って生成りのくるぶし丈の服を着ている。
首をかしげるボクの前に彼は座ると、何やら手に持っていた包みを床の上に広げた。
「こんな物だけど、食えるか?」
どうやら彼は、自分の食事を残して持ってきたらしい。
ボクにとっては、これ以上ないごちそうだった。
おとなしく食べ始めたボクを見ながら、彼はわずかに笑った。
「ここは、『孤児院』って言って……ここにいる子どもは、みんな一人なんだ」
そんなボクを見つめながら、彼は静かに切り出す。
一瞬ボクは食べるのをやめて、彼の顔を見上げた。
「導師さまがここのみんなの『母さん』なんだ。君もさっき、見ただろ?」
なるほど。だからみんな、全然似ていないのか。
納得して、ボクは再び食べ始める。けれど、彼の言葉は、更に続く。
「本当に親の顔を知らなければ、それを受け入れることができるんだろうけど……。俺の父さんと母さんは、もうどこにもいないから……」
だから、初めて会った時、彼は一人ぼっちだと言ったんだな。
すでに包みの中身は、あらかたボクのお腹の中におさまっていた。
その食べっぷりに、彼は少し驚いたような表情を浮かべている。
けれど、そのずるずると引きずるような服は何なのさ。
ボクは小さく鳴いて、彼の足に体をすり付けた。
彼の手が優しくボクの背中を撫でる。
「似合わないだろ? こんな格好。でも、これでも一応修士だから、嫌だけど着ないわけにはいかないんだ」
修士? 聞き慣れない言葉に、ボクは首をかしげた。
街の時とは違って暖かい手が、ボクの頭を撫でる。
「一番下の神官。それが修士。修士の上が導師で、その上が司祭。で、一番上が大司祭」
そうなのか、初めて知った。
でも、君はまだ子どもなのに神官なの? それって、すごい事なんじゃないの?
再び首をかしげるボクに、彼はわずかに苦笑いを浮かべていた。
「仕方ないのさ。俺は許されない事をしてしまったから……。こうしなきゃ、生きていく訳にはいかないんだ」
言いながら彼は、今度は腰にさしていた短剣を撫でる。
訳が解らないよ。
ボクの鳴き声に、彼は笑う。
その笑顔はやっぱり、どこか寂しげで、今にも泣き出しそうに見えた。
泣くなよ。君も男だろ?
再び彼の足元にボクは体をすり付けた。
が、彼は無駄のない動作で立ち上がる。
気が付けばボクは彼の腕の中へおさまっていた。
「今日は冷たかっただろ? 暖かい場所で、寝よう」
そう言う彼に、ボクは小さく鳴いた。
※
連れて来られた場所は、ボクにとっては、まるで天国のような所だった。
雨露がしのげるだけでもありがたい生活だったのに、『寝台』なんていう柔らかい寝床まである。
とてとて、と走り出し、脇目もふらずにそこへダイビングしたボクを見て、彼は声をたてて笑った。
そういえば、笑う声を聞くのは、初めてだったかな?
そんなことを考えながら、ボクは彼を見つめる。
ボクの視線を背に受けて、彼は壁に設えられていた燭台の炎を一つずつ消していく。
漆黒に包まれていた部屋の中に、テーブルに置かれたランプの炎だけがぼんやりと浮かび上がる。
薄暗がりの中にたたずむ彼は、やはりどこか寂しげだった。
どうしたんだよ。
一声ボクは鳴く。
けれど、返事はなかった。
代わりにごそごそと何やら音がする。
どうやら彼は着替えているようだった。
でも、何でわざわざ明かりを落としてから?
首をかしげるボクをよそに、寝台の上に腰かけた彼はボクの喉を優しく撫でた。
「君は、良いな。とても自由で……」
言いながら彼は一つため息をつく。
こちらを見つめる彼の瞳は、やっぱりどこか寂しげで、泣き出しそうだった。
突然のすごい音に、ボクは跳び跳ねた。 そして、ぼさっと柔らかい寝台に落ちる。 鐘の音がこんなに大きく聞こえるなんて……そうか、ここはいつもの街じゃなかったんだっけ。 気が付いて、ボクは周囲を見回した。 その耳に、彼の声が飛び込んできた。「目が覚めたのか?」 見ると、テーブルの脇に座り頬杖をついている彼がいた。 『似合わない』と自分でも言っていた神官の服を着て。 そして、テーブルの上には、何だか良く解らない分厚い本が開いた状態で置いてあった。 寝ていたとはいえ、彼が起きたのに気がつかなかったなんて。 こいつ、一体何なんだ? 驚くボクに、彼は微笑を浮かべながら床を指差した。 そこには昨日同様、彼が残してきたとおぼしき食事が置いてある。 すとん、と寝台から降り立ち、ボクはそれを食べ始める。 彼はしばらくそんなボクを見ていたが、やがてあの分厚い本を読み始めた。 すっかり食べ終わってボクが毛繕いを始めると、彼は静かに立ち上がる。 食べ物が置かれていた布を拾い上げ、丁寧に折り畳むとそれを懐へしまいこんだ。 でも、いつも残してくるなら、君の分が足りなくなるんじゃないの? 鳴きながら見上げるボクの頭を、彼はくしゃくしゃとかき回した。 せっかくきれいにしたのに、台無しじゃないか。 抗議の声を上げるボクに、彼は笑った。「本当によく食べるな」 大きなお世話だよ。 再び鳴くボクに背を向けて、彼はテーブルに戻ると、分厚い本を読み始める。 一体何を読んでいるのかな。 興味を覚えて、ボクは使われていない椅子の上にに飛び乗り、そこからテーブルの上に飛び移る。「これは、『祈りの書』。一応、修行しないといけないから」 ボクの視線に気が付いた彼は、本から目を離すことなく言った。 恐る恐る、ボクも眺めてみる。 見開きのページにはびっしりと蛇かミミズがのったくったような模様が印刷されている。 いや、模様じゃなくて文字かな? どちらにしても、ボクには意味が解らないから同じことだ。 テーブルの上で伸びをして、そのまま丸くなる。 静かな室内には、彼がページをめくる音だけが響く。 どのくらい時間が経っただろうか。 あまりの静かさに、ボクが眠ってしまいそうになった頃、不意に扉を叩く音がした。 何事か? あわててボクは顔を上げて、そちらを見やる
数日後、ボクらは孤児院を出た。 子どもたちは口々にまた来てね、と言いながら、いつものごとくボクをもみくちゃにする。 少々乱暴な送別会が終わると、ボクは彼の後を追った。 引っ越し、なんていっても荷物なんてたいしたことはなかった。 僅かな着替えと、古ぼけた剣が一本。 それをまとめて背負った彼は、迷うことなく歩みを進める。 いつも練兵場へ行くのとは正反対の方へ向かっているのは、ボクにも解った。 この方向に、何があるんだろう。 そんなボクの疑問に答えるかのように、周囲の空気はがらりと一変した。 道ばたを走り回る子ども達。 窓から翻る洗濯物。 まるで街みたいだ。「ここは、『兵舎地区』。近衛兵みたいな、陛下の御身辺を常にお守りする兵と、その家族が住む所」 言いながら、彼は最も奥まった所にある家に歩み寄り、扉に鍵を差し入れた。 かちゃり、という音の後、扉はぎしぎしと開いた。 さっそく駆け込んだボクは、屋内に入るなり、盛大にくしゃみをした。 床には一面、ホコリが積もっていたのだから。「どうやら、ずいぶん長いこと、使われてなかったみたいだな」 言いながら、彼は荷物を寝台の上に放り投げた。 すると盛大にホコリが舞った。「今からでも、戻っていいんだぞ。いや、帰った方が良いかもしれない」 大きなお世話だよ。 ボクはぽん、と跳ね上がって寝台の上に着地する。 そして、その上に放置された物を見つめた。 ふとその視界に、鈍く光る剣が入ってきた。 それは、いつも殿下との稽古で使っていたそれじゃない。「これは、
立ち尽くす殿下。 表情を崩さない彼。 その間でうろうろするボク。「どうした? 本当の事を言っただけじゃないか」 言いながら、彼は笑った。 視線同様、おぼつかない足取りで、彼はこちらに歩み寄る。 言葉を失う殿下とボクの前を素通りして、彼は扉に手をかけた。「お前……酔っているのか?」 殿下の言葉に、ボクはあらためて彼を見つめる。 確かにその右手には、中身が半分程になった緑色の瓶が握られていた。 それをテーブルの上に置くと、彼は崩れるように寝台に座り込んだ。 あわててボクも、その隣に飛び乗る。「すまなかったと思っている。けれど……」 言いさした殿下の言葉が途切れたのは、彼が身に着けていたマントを殿下へ向けて放り投げたからだ。「……持って行け。深窓のお姫様がずぶ濡れになる訳にもいかないだろ? ……多少血の匂いが染み付いているかもしれないけど、我慢しろ」「そうじゃなくて、私は……」「いいから、早く行け! ……これしか生きる道が無い事は、俺自身が一番知ってる。だから……」 あなたが気にする事は、何もない。 囁くような小さい声で、彼は言った。 彼の隣にいたボクの耳に辛うじて入る大きさだったので、それが殿下に届いていたかは、定かでは無い。 マントとボクら。 しばらく交互に見つめていた殿下は、また来る、とだけ言い残して家を出て行った。&
冬はあっという間に訪れた。 暖炉には赤々と炎がたかれ、ほの暗い室内を柔らかく照らし出す。 その暖かい光の中で、彼は相変わらず本を写すという作業を続けていた。 その作業に一体どんな意味があるのか、ボクにはまったく解らない。 一心不乱に作業を続ける彼を、丸まりながら見つめる日々が過ぎていった。 そんなある夜、彼はいつもよりかなり早くその作業を切り上げると、頬杖をつきながらボクに言った。「今日は『年越しの祭』だ。孤児院……猊下からお誘いを受けているんだけど、来るか? あまり気は進まないけれど……」 それって、逆にすっぽかす方がまずいんじゃないの? 寝台から飛び下りると、ボクは彼の足元で鳴いた。 諦めた、とでも言うように小さく吐息をつくと、彼は静かに立ち上がると、大きく伸びをした。 防寒用のマントを神官の長衣の上から着込むと、彼はボクを促して外にでた。 はりつめたような冬の外気に身震いするボクを、彼は問答無用で抱き上げた。「降って来たら雪だろうな」 呟く彼の胸元で、ボクは注意深く周囲を見回した。 どこの部屋にも明るい光が灯っている。 みんな、静かにお祝いしているんだろうな。 そんなことを考えるボクの頭上を、彼の声が通過していった。 最後に家族で過ごしたのは、いつだったかな、と。 そのうち、家族で過ごした時間よりも一人の時の方が長くなる。 そう言う彼の表情は、夜目がきくボクにもはっきりとは見えなかった。 やがて、目の前には石造りの建物が現れた。 無言で彼が扉を叩くと、音もなく開かれ
年が明けても、ボクらの生活は変わらなかった。 相変わらず彼は神官の長衣を着こんで、いつ終わるともしれない作業を続けている。 そしてボクは、寝台に丸まってそんな彼の姿を見つめている。 ふと、かりかりというペンが紙を削る音が止まった。 あわてて顔を上げると、彼が立ち上がり扉の方へ向かうのが見えた。 何事だろう。 瞬きするボクをよそに、彼は無言で扉を開く。 と、そこには、何やら包みを抱えた殿下が立っていた。「どいてくれ。とにかく、中に入れろ」「……わざわざのお運び、どういうことだ?」 そう言う彼の口元には、どこか斜に構えた笑みが浮かんでいる。 そう言えば孤児院からの帰り道で……。「宴会、宴会。それがすんだら茶話会。一体あいつらは何を考えているんだ? まったく、ただの無駄遣いとしか思えない!」 殿下は深窓のお姫様らしからぬ大股で入って来るなりそう言い放つ。 扉を閉める彼に向かいテーブルの上にある物を片付けるよう、視線で命令した。 大当たりだろ? とでも言うようにボクを見てから、彼はテーブルの上を占領していた本と紙の束を寝台の上へと移動させる。 そうしてできあがった空間に、殿下は持ってきた荷物を広げ始めた。 銀の食器にティーセット。 もちろんそれは空ではなく、温かい湯気のたつ料理や菓子で満たされていた。「……茶話会と宴会は無駄遣いと言ったのは、どこの誰だ?」「さて、どこの誰だったかな」 そうはぐらかしてから、殿下は皿の一つを手に取り、寝台の上で固まっていたボクに歩み寄る。
下級とは言え、貴族の物としてはあまりにもみすぼらしい墓石に、老婦人は持ってきた花束を手向けた。 そしていつものように合掌し深々と頭を垂れる。 この冷たい石の下には、彼女の一人息子がその妻と共に眠っている。 隊長命令に背くという武官としては致命的な行為を犯し、皇帝から死を賜った息子と、将来を悲観しその後を追った妻が。 その結果老婦人とその孫の家は、代々受け継いできた騎士籍は皇帝預かりとなり、貴族籍より除名という厳しい処分を受けた。 今では周囲からは裏切り者と後ろ指をさされながら、皇都の片隅でひっそりと身を隠すようにして暮らしている。 改めて老婦人は、墓石を見つめる。 除名された貴族籍への復活と預かりとなっている騎士籍とを取り戻すという悲願のため、最後に残された肉親である孫が今戦場へ引き出されようとしていた。 けれど彼女にとって、今更身分などはどうでも良いものになっていた。 とにかくその無事の帰還を祈るため、彼女はここへやって来たのである。 けれど墓石は何も語ろうとはしない。 深く溜息をつき、彼女はその場を離れた。 人気のない、木漏れ日が降り注ぐ共同墓地の中を、老婦人は背を丸めながら家路につく。 近く皇都を離れる孫のために、好物を用意してやろう、と思いながら。 と、その時だった。 墓地の中でも一際じめじめとした所にある、皇国に仇なす逆賊者達が埋められている場所へと向かう苔むした脇道から、前触れもなく一人の青年が姿を現した。 殆ど訪れる者もない、忌まわしい場所へと続くその道から。 年の頃は、老婦人の孫と同じくらいだろうか。 一目見てそれと解る下級神官の質素な長衣を身につけ、首からは何やら古代語が刻まれた護符を下げている。 全く癖のない真っ直ぐなセピア色の髪は背に届くほど長い。 自分を見つめる視線に気が付いたのか、青年は一瞬驚いたように顔を上げる。 そして、僅かに会釈をすると足早に
『蒼の隊』。 それはルウツ皇国の中でも極めて特異な存在だった。 ルウツの主な戦力は、色分けされた名で呼ばれるのが習わしである。 かつてロンダート家が所属し、皇宮警備や皇都の治安維持を主な任務とする皇帝直属の『朱の隊』。 皇帝を支える代表的な五つの伯爵家がもつ『緑』・『白』・『黒』・『黄』・『紫』の各隊。 そしてユノーが今回配された『蒼の隊』である。 『蒼の隊』はいかなる門閥にも属さない、流れの傭兵や、のし上がろうとする平民、そして失地回復をもくろむ没落貴族などから構成される、いわば混成部隊だった。 そのありとあらゆる階層出身の混成部隊を率い、由緒ある五伯家以上の働きをさせているのは、格を重んじる皇国で唯一の平民出身の司令官だった。 記録上の軍歴は約二年半。 だが初陣より一部隊を率いて以来、未だ敗戦を知らない。 その平民出身の彼のことを、庶民は尊敬を込めて、敵国はこれ以上ない畏怖の念を込めて、そしてルウツの高官や名だたる貴族達は蔑みを込めて、こう呼んでいた。 『無紋の勇者』と。 だが、華々しい働きとは裏腹に、その素性はあまり人々には語られていない。 解っているのは、司祭館にある孤児院で育ち、ルウツの大司祭であるカザリン・ナロード・マルケノフの養子となった、という事。 もっともこの養子縁組は、平民である彼が一部隊を率いる『勇者』の位を得るために、子爵家の出身の大司祭が動いた形ばかりのものだとも言われている。 シーリアス・マルケノフ。 それが、その渦中の人物の名前だった。彼を直接知る人は、口をそろえて言う。 あの人は得体の知れない人だ、と。 深い藍色の瞳は常に無表情で、何を考えているのかを決して他者に悟らせることはない。 そして、自分以外の存在はおろか、自分自身にさえも関心が無いように見える。そう評する人もいた。 噂には当然
この一歩一歩が、自分を確実に死へと導いている。 そう思うと、ユノーは情けなくも身体の震えを止めることが出来なかった。 騎馬の群がたてる規則正しい金属音に混じって、ユノーの手綱を握る指先がカチカチと小刻みな音を立てていた。 何事かと彼の脇をすり抜けていく古参の騎兵や騎士達は、くすんだ癖毛の金髪と優しげな水色の瞳のせいで実年齢よりも幼く見えるユノーの顔をのぞき込む。 そして彼らは等しく同情するように溜息をついて、ユノーを追い越していく。 恐らくユノーの置かれた状況を理解してのことだろう。 この『寄せ集め隊』には、しばしば同じような境遇の人間が配置されるのが慣例となっているのだから。「初陣なのか?」 急に背後から声をかけられ、驚きのあまりユノーは馬から落ちそうになる。 何より、こんなに接近されるまで気配を感じ取ることが出来なかった自分自身を、ユノーは恥ずかしく思った。 そんな自己嫌悪に捕らわれながらも、彼はようやく鞍の上に腰を落ち着ける。 すると、声をかけた当の本人はあっさりと馬首を並べる。 こちらを見つめるその鋭い視線を、ユノーは無言で受け止めた。「初陣で騎士待遇か。さすがは血筋がはっきりした貴族様だな。どこの馬の骨とも解らない俺とは大違いだ」 皮肉混じりに投げかけられた言葉を、ユノーは珍しく怒りを含んだ声で否定した。「そう言われても今回は仮待遇です。今は貴族籍から除名処分中なので、この戦いで死んででも軍功をあげなければ、本当に家名が取りつぶしになってしまいます」 身分を盾にして遊びに来たわけではない。 そう生真面目に答えるユノーに、横に並ぶその人は含み笑いで応じる。 更なる怒りを感じながら彼は隣に並ぶその人を注意深く観察した。 年の頃は、さして変わらないように見えた。 せいぜい一つか二つ違い、というところだろう。 けれど、その人が身にまとっている空気は、明らかに幾度も修羅場をくぐり抜けてきた人の……戦場に生きる人のそれだった。 それを裏付けるよ
窓の外には『平和な日常』がある。 朝目覚め、昼働き、夜眠るという、戦いとは縁もゆかりもない日々が。 果たしてこの大陸て、無数の人々が戦火によってその生涯を終えていることを、どれほどの人間が知っているのだろうか。 何の変哲のない、ありふれた日常を夢見て死んでゆく人々を心に留めている人間がどれだけいるのだろうか。 そんなことを考えながら、ロンドベルト・トーループは笑みを浮かべた。 皮肉に満ちた死神の笑みを。 ザハドの戦が終結してから、十日と少しが経過した。 本来ならば本隊と共に任地アレンタへ戻っているはずの彼は、エドナ宗主であるマケーネ大公直々の命令により、エドナの首都に滞在することを余儀なくされていた。 彼にとって、首都は最も多感な少年時代を唯一の肉親である父親と過ごした場所である。 しかし、その父は既にこの世を去り、残っているのも楽しい思い出ばかりではない。なぜなら武家の家に生まれたにもかかわらず光を持たなかった彼は、力が発現するまで父親との関係はあまり良いとは言えなかったからである。 今回も待っている運命は十中八九、彼にとって喜ばしいものではないだろう。 その根拠は、彼自身が一番良く知っている。 屈辱的な負け戦となったこの度のザハドの戦い、そのきっかけを作ったのは、ロンドベルトに他ならなかったからである。 常勝軍団イング隊を率いザバドの地でシグル隊と合流し、敵蒼の隊を殲滅(せんめつ)する。それが今回彼に下された命令だった。 が、彼は意図的に南下を遅らせシグル隊を単独で敵にぶつけ、ほとぼりが冷めようといったところで行軍を再開したのである。 結果、イング隊の損害は皆無に近かったが、不幸なシグル隊は壊滅的被害を受けた。 自軍を守るために最良の方法を取ったわけではあるが、シグル隊を派兵したアルタント大公が黙っているはずがない。 エドナでは
国境の向こう側にいる人間は、この風景を見たら何と思うだろうか。 自らが犯した罪の重さを目の当たりにし、深く後悔するだろうか。それとも、最早何も感じぬほど既にその神経は麻痺しているのだろうか。 丘陵を埋め尽くす無数の墓碑を見やりながら、エドナ連盟アレンタ方面軍通称イング隊司令官付き副官ヘラ・スンは深々とため息をつく。 物言わぬ墓碑の群れは、戦場から帰還した彼女達を出陣した時とまったく変わらぬ様子で迎えた。 いや正確に言うと、その数は出陣時よりも増えているかもしれなかった。 戦が続く以上死者は増える。わかりきったことなのだが、いざそれを改めて目の前に突きつけられると、言葉も無かった。 ここは大陸の北の果て。 大陸全土で信奉されている『見えざるもの』の聖地にもっとも近い場所、と言えば聞こえはいいのだが、早い話が僻地である。 その最果ての地に駐屯しているのが『不敗の軍神』、もしくは『黒衣の死神』と恐れられているロンドベルト・トーループである。 そのような名声を得ている人物が、なぜ首都から離れたこんな所に配されているのか。 理由は、彼が戦において常に紛うことなく敵の進路を言い当てるからである。それはまるで不思議な力に裏付けられているようであった。 事実ロンドベルトは不可思議な力を持っていたのだが、それを知るのは上層部のごく一握りの人物と副官のヘラに限られていた。 その能力をもってして、権力の転覆を謀られたらたまった物ではない。 エドナの宗主は、数ある大公家から持ち回りで選出されるのだが、普段いがみ合っていた彼らの意見はその点では一致していた。 そして、下された命令にロンドベルトが従ったのは、権力者達の考えが至極真っ当だったからである。 ──下手に命令に背いて、付け入る隙を与える訳にはいかないだろう?── 言いながらロンドベルトが笑ったのは、初めてその力のことを聞い
深淵の闇の中に、漆黒の衣服を身にまとった男がいる。黒い髪に黒い瞳を持つその人は揺らめくランプの炎を見つめていた。 いや、正確に言うと見えてはいないのだが、彼の脳裏には仄かなその光が確かに映し出されている。 彼の黒玻璃の瞳は、生まれつき光を持たない。 けれど、持って生まれた司祭に匹敵するその『力』が、あらゆる物を見ることを可能にしていた。 目の前にあるランプの炎はもちろんのこと、この部屋に置かれた調度品の配置もはっきり見えている。無論その力は戦場でもいかんなく発揮され、幾度となく混戦を勝利へと導いてきた。 その不思議な能力で味方からは神格視され敵からは恐怖の対象となっている彼の名は、ロンドベルト・トーループ。『不敗の軍神』『黒衣の死神』などという二つ名を持つ彼はだが、今は少々というよりかなり不機嫌だった。 なぜなら戦から首都へ無事帰還し軍本部へ戦況の報告に訪れるなり、明確な理由の説明もなく軟禁に近い状況に置かれてしまったからである。 静けさの中、扉を叩く音が響く。 入れ、との声に応じて室内に入ってきたのは、まだ年若い女性だった。 彼と同様、黒衣に身を包んだ女性の名は、ヘラ・スンといい、ロンベルトの右腕と言っても良い存在で数少ない彼の腹心の部下である。その手には、一枚の紙が握られていた。 「騒ぎの原因は、解ったかな?」 彼がここに押し込められる少し前から、首都にはいつになく騒がしい空気が流れていた。彼は帰還するなりそれを感じ取り、副官であるこのヘラに軟禁される直前、密かに調査を命じていたのである。 危機的状況であるにもかかわらずどこか面白がっているようなその声に、女性は呆れたような表情を浮かべつつも一つうなずいた。 「どうやら街に、敵国の密偵が潜り込んでいたようです。……捕縛された一人は残念ながら尋問中に自死したのですが、こんな物を」 差し出されたそれを手に取ると、彼はわずかに目を細める。 同時に、鮮明な画像が彼の脳裏に広
久しぶりに立った戦場は、ひどいものだった。まったく統制のとれていない敵軍は、勝機も見えないのに突撃を繰り返してくる。そのたびに無数の敵の屍(しかばね)が自陣の前に積み上がり、鉄臭い血の匂いが周囲に漂う。 自分が配備された場所は大隊長の守備という最前線から離れた場所であったから、直接敵と切り結ぶことはなかったが、遠目に見ても敵の攻撃はあまりにも無謀に見えた。やがて、臭覚が麻痺した頃、斥候から情報が入ってきた。 曰く敵の司令部は、圧倒的不利な状況に全軍を置いて逃げ出したところを運悪くこちらの伏兵とぶつかり、あっけなく崩壊したらしい。戦場に残された部隊は指揮系統を失い、戦線を維持するのも困難な状況である、と。 義父の心配は、どうやら取り越し苦労だったようだ。そう安堵の胸を撫で下ろした時だった。後背の大隊長の部隊がにわかに動き出した。 指揮系統を失った敵を叩きに、大隊長自ら前線に出るのだろうか? そんなことを思った刹那、単騎がこちらに向かってくるのが見えた。ほかでもない、息子だった。いぶかしげに見やる自分のもとに駆け寄ると、息子は早口にこう告げた。「父……中隊長殿、敵が来ます!」 自分は耳を疑った。自棄になった一部の敵が血迷ったのだろう、そう思った。だが、息子は青ざめた表情で一点を指差しさらに続ける。「あちらの方角です! 大隊長殿はすでに退避を初めておられます。中隊長殿は……」 息子が言い終える前に、息子が指差した方向から無数の矢が飛んできた。盾を構えるのが間に合わなかった者たちが、ばたばたと落馬していく。間近に落ちた矢には、所属する部隊を示す特徴は見られなかった。 一体どういうことなのだろう。 疑問に思ったのもつかの間、無数の馬蹄の音が近づいてくる。そこに現れた部隊の大部分を占めるのは、不揃いの武具を身にまとい、思い思いの武器を構えた一団だった。おそらくあれは……。「傭兵だ! 注意しろ!」 しかし、個々の武勲に固執し徒党を組むことの少ない傭兵達が、なぜ統制されているのだろう。し
初陣以来、息子は着々と軍功を重ね、自分など足元にも及ばないほどの速さで出世していった。それは無論『目』という特異な力もそうだが、それ以上に武芸に励んだ結果でもあり、勇敢さが評価されたためでもあった。 駄馬の家系から駿馬が生まれたようなものだと当初自分は自嘲気味に思っていた。しかし、息子はそんな自分を心底尊敬してくれていると理解したとき、その考えは消えてなくなった。ただただ息子が無事に生きて戻ることを願い、共に生きながらえることができたことを喜ぶのが無二の楽しみになっていた。 そんなことが続いて、何年かの時が流れた。息子は大隊長付の副官的立場となっていた。そして自分のもとにも新たな辞令が届けられた。久しぶりの前線勤務、役職は中隊長だった。 それを知った息子は、父上と共に戦えるのですね、と心底嬉しそうな表情を浮かべていた。だが、目を輝かせている息子とは裏腹に、自分はこの人事に何かきな臭いものを感じていた。 自分が前線を離れて、もうかなりの年月が経つ。鍛錬こそ怠ってはいないが、実戦におけるカンというものはだいぶ鈍っているだろう。そんな自分を、なぜ今更前線に引っ張り出そうというのだろうか。 しかし、自分は国に仕える武人である。どんな裏があろうとも、下された命令には従わなければならないのだ。吐息を漏らしながら、自分は自らの武具を手入れしている息子を見やる。 志願して武人になった息子ではあるが、果たしてそれは息子の本当の意思だったのだろうか。自分は、卑しい利己心から息子の可能性を潰してしまったのではないだろうか。そして、唯一の家族である息子を、何やら恐ろしいものの中に巻き込んでしまったのではないだろうか。自分は、人の親として許されざることをしてしまったのかもしれない。 しかし、なぜこんなことを思うのだろう。自らの思考に疑問を抱きつつ、自分は武具を整えていた。 ※ 出陣を目前に控えたある日の昼下がり、かつての上官……つまりは亡くなった妻の父であり、息子にとっては祖父にあたる人が、珍しく家を訪ねてきた。 妻のことがあってからすっかり疎遠になっていた人が、一体どうして。
息子の決意を聞いた自分は、それまで教育係に丸投げにしていた鍛錬にまめに顔を出すようにした。時には直接剣をあわせたり、組手をした。加えて用兵術の方は知人のつてを頼って、かつて何度も武勲を上げた高名な退役指揮官の元へ通わせることにした。 直に剣をあわせてみると、驚くべきことに息子はかなり筋が良かった。一方で用兵術の方も大変飲みこみが早いようで、このままいけばどこへ出しても恥ずかしくない指揮官になれる、との有り難い言葉を頂いた。 いつしか息子の身長は自分よりも高くなり、成年を迎えた息子は、徴兵を待たずに志願して自ら武人となった。配属されたのは偶然なのか忖度なのかは定かではないが、所属する分隊こそは違うが自分と同じ部隊だった。 複雑な思いにとらわれる自分をよそに、辞令を手にした息子は自分に向かって深々と頭を下げこう言った。「今まで私を育ててくださり、感謝のしようもありません。この上は父上の名を汚さぬよう、立派な武人となってみせます」 そして、以後は一兵卒として厳しくご指導いただければ幸いです、とはにかんだように笑って見せた。 もっともその頃は、息子の剣技の腕は自分よりも遥かに卓越したものとなっていたので、教えられることなど無いも同然だった。しばし悩んたあと、自分は息子の肩を叩きながら、こう告げた。 より長く戦ってこそ国のためになる。決して、死に急ぐな。必ず生きて帰ることを考えろ、と。 ※ 程無くして、我々に出陣の命が下った。自分は後方の補給部隊、息子は前線の攻撃部隊の配属だった。 敵国の内部に張りめぐらせていた情報網が崩壊した今、敵の動きをつかむのは至難の業だった。戦闘は後手後手に周り、攻撃を仕掛けてくる敵を迎え撃つのに充分な準備期間を取ることはなかなか難しかった。 短期間で補給計画を練る自分をよそに、息子は支給された真新しい武具を嬉々として手入れしていた。 果たして、また息子に生きて会うことができるだろうか。 気がつけば自分はそんなことを考えていた。そして内心首をかしげる。やはり自分の内面は変化したのではないだろうか。 それまで自分は、
諜報機関の知人に会い家に戻ってからというもの、息子は部屋に閉じこもってしまった。もともと自分と居間で話すことなどほとんどなかったが、その様子は明らかにおかしかった。なぜなら教育係による訓練にも出ては来なくなってしまったのだから。 辛うじて乳母が運んでいる食事は受け取っているようだが、それもほとんど食べてはいないようだった。深夜には時折泣き声やうめき声が漏れ聞こえてくるので、たぶん満足に眠れていないのだろう。 そういえば自分も思い返してみれば、初陣を生き抜いて戦場から戻ってきたあとには、しばらくの間眠ることも食べることも満足にできなかった。成人を迎えていた自分ですらそうだったのだ。それを考えれば、無理もないことだろう。 やはり異国の凄惨な光景をいきなり眼前に突きつけられるというのは、年端もいかない息子にとっては、受け入れ難いほど衝撃的なものだったのだろう。命令だったとはいえ、配慮が足りなかった。そう自分自身を恥じた。 そしてふと、自分はあることに気がついた。それまで愛情のかけらすら持てずにどうしたらよいかわからなかった息子のことを、自分は今こうして心配している。加えて、申し訳ないことをしたと後悔の念を抱いている。これは一体、どういうことなのだろう。 自らの中に突如として生まれたもやもやとした感情をうまく整理することができず、自分は室内をうろうろと歩き回る。果たして自分は一体どうするべきなのだろうか。熟考した末ある結論に達し、自分は意を決して息子の部屋へ足を向けた。 息子の部屋の扉は、その心の内を示すかのように固く閉ざされていた。大きく息をついてから、扉を三度叩いた。もちろん返答はない。 けれど、ここで戻ってしまっては、自分は二度と息子と向かいあうことはできない。そう自らを奮い立たせ、扉を押し開いた。 薄暗い部屋の中で、息子は寝台に突っ伏して低く泣いていた。一大決心をしてここに来たつもりなのに、自分は息子に対して何と言葉をかけてよいかわからず、ただ戸口に立ち尽くしていた。 と、不意に泣き声がやんだ。おそらくは私の気配に気づいたのだろう。そして、息子は涙にぬれた黒い瞳をこちらに向けてきた。「…
敵国内の情報網を統括する知人は、すぐに息子を連れてくるように自分に告げた。それを聞き、自分はとあることを察した。我が国は今、重大な問題に直面しているという話が水面下で持ち上がっていた。息子の目は、その問題を打破するのに適したものだったからだ。 初めて自分と二人で外出すること、しかも外出先が自分の職場と関係がある場所であると知った息子は、年相応の子どもらしく嬉しそうだった。自分はそんな息子に若干の後ろめたい気持ちを感じていたが、これも息子のためなのだと無理矢理に思い込もうとしていた。 自分と息子を執務室に入れると、知人は座るようにうながした。そして、猫なで声で息子に向かいこんなことを言った。「君か。この国を助けてくれる有望な少年は」 初めての場所に加え、それなりの地位を持つ人物に対峙しているということもあり、息子はかなり萎縮しておびえている。かすかに震えながら、無言で一つうなずくのが精一杯のようだった。 その様子を察したのだろう。知人はいかつい顔に似合わぬ笑顔を浮かべてみせた。「そう固くなることはない。話はお父上から聞いているよ。君は見えないけれど見えているんだろう?」 まったく矛盾するようなその問いかけに、息子は戸惑いながらももう一度うなずいた。その反応に知人は満足そうな表情を浮かべると、卓に片肘を付きながら息子ににじり寄る。「どういうふうに見えているのか、教えてくれないか? 私の顔は、どうかな?」 すると、息子はぽつりぽつりと話し始めた。ふくよかな顔に太い眉に立派なひげ。息子は知人の顔の特徴を紛うことなく答える。その言葉は知人を満足させたようだ。にやりと笑うと、知人はおもむろに本題へ入った。「どうだろう、その不思議な能力を、この国のために貸してはくれないかな?」 思いもよらないことだったのだろう。息子は不安げに隣に座っている自分の顔をのぞき込んできた。 無理もないことだろう。いきなりこんなところへ連れてこられ、力を貸せなどと言われるのだから。 知人は鷹揚に頬杖を付き、睨めるような視線で息子を見やった。「
翌日、自分は息子と乳母を伴って聖堂へと向かった。 見えざるものに仕える神官にとっては禁忌である殺人をなりわいとする武人の自分である。当然のことながら信仰心などは皆無だ。聖堂など、自分にとってはもっとも不似合いな場所であり、めったに足を踏み入れることのない場所なことは、自分が一番良く知っている。 最後にこの場所を訪れたのは、妻の葬儀のときだったかもしれない。定められた日に行われる礼拝に預かることも皆無であるから、当然息子がここに来たのは初めてのことだった。 そんな信仰に薄い家族が血相をかえて飛び込んできたものだから、この地域の聖堂を預かっている主任司祭は驚いたような表情を浮かべながらも我々を迎え入れた。 光指す祭壇を背にして立つ主任司祭は、向かいあう長椅子に腰をかけている我々を、一体何事かとでも言うように見つめている。 自分は、物珍しそうに堂内を見回す息子に視線を送る。その様子はまるで普通の子どものようだった。しかし……。 意を決して自分は立ち上がり、率直に主任司祭に告げた。どうか息子を診てはくれないか、と。 それでもまだ要領を得ないような主任司祭に、自分はそれまでのことをとつとつと語った。 知っての通り、自分の妻は息子をこの世に生み出すのと引き換えにその生命を失ったこと。 妻が護ったとも言える息子は、武人の跡継ぎとも言える立場にあるのに目が見えないこと。 このようなことが重なり、自分は息子をずっと愛せずにること。 そんな息子が昨日、顔に傷を負った自分を前にして、それを心配する言葉を投げかけてきたこと。 今まで胸につかえていたことを一息に話し終えると、自分は力が抜けたかのように長椅子に深々と腰を掛けた。一方の主任司祭は、時折うなずきながら自分の言葉にじっと耳を傾けていてくれていた。 では、少々お待ちください、そう断ってから、主任司祭は乳母と共に聖堂の調度品について語り合う息子をしばらくと見つめる。それから息子と乳母の方に歩み寄った。 息子のかたわらに立った主任司祭は、息子に向かい事細かに聖堂内の彫刻や調度品について説明を始める。息子は黒い目を輝かせてその説明を聞いていた。 その様子を注意深く見ていると、主任司祭は息子の目の前で指を動かしてみたり、遠くにある彫刻を指さして息子の目