室内に入ると同時に、ボクらは子ども達に取り囲まれた。
ボクと同様ずぶ濡れになった少年は、無言でボクを子ども達に押し付けると、少し機嫌悪そうにどこかへと歩み去っていく。 どういうつもりなんだよ。 ボクは抗議の声を上げる。 それが届かなかったのか、聞こえないふりをしているのか、彼は振り返ることは無い。 子どもに取り囲まれたら、後は予想通り。 広間に連れてこられたボクは、子ども達に撫でられまくった。 その間、ボクは自分を取り囲む人間達を観察する。 さっきの女の子は、彼を『お兄ちゃん』と呼んでいたけれど、全然似ていない。 歳も、見かけもバラバラな子ども達。 一体ここは、何なのだろうか。『家族』という訳ではなさそうだ。 そうこうするうちに、先ほどの『導師さま』がやってきた。少し困ったような笑みを浮かべて。 「さあさあ、食事の時間よ。手をよく洗って、食堂へいきなさい」 優しい声に、子ども達は口々に返事をしながらボクの前から去っていく。 少し暗い室内に取り残されたボクは、小さく伸びをすると、ボサボサになってしまった体を丁寧に舐め始めた。 未だ腑に落ちないボクの目の前で、扉は音もなく開いた。 とっさに毛繕いをやめ、顔を上げる。 そこに立っていたのは、あの少年だった。 けれど、街で会った時とは違って生成りのくるぶし丈の服を着ている。 首をかしげるボクの前に彼は座ると、何やら手に持っていた包みを床の上に広げた。 「こんな物だけど、食えるか?」 どうやら彼は、自分の食事を残して持ってきたらしい。 ボクにとっては、これ以上ないごちそうだった。 おとなしく食べ始めたボクを見ながら、彼はわずかに笑った。 「ここは、『孤児院』って言って……ここにいる子どもは、みんな一人なんだ」 そんなボクを見つめながら、彼は静かに切り出す。 一瞬ボクは食べるのをやめて、彼の顔を見上げた。 「導師さまがここのみんなの『母さん』なんだ。君もさっき、見ただろ?」 なるほど。だからみんな、全然似ていないのか。 納得して、ボクは再び食べ始める。けれど、彼の言葉は、更に続く。 「本当に親の顔を知らなければ、それを受け入れることができるんだろうけど……。俺の父さんと母さんは、もうどこにもいないから……」 だから、初めて会った時、彼は一人ぼっちだと言ったんだな。 すでに包みの中身は、あらかたボクのお腹の中におさまっていた。 その食べっぷりに、彼は少し驚いたような表情を浮かべている。 けれど、そのずるずると引きずるような服は何なのさ。 ボクは小さく鳴いて、彼の足に体をすり付けた。 彼の手が優しくボクの背中を撫でる。 「似合わないだろ? こんな格好。でも、これでも一応修士だから、嫌だけど着ないわけにはいかないんだ」 修士? 聞き慣れない言葉に、ボクは首をかしげた。 街の時とは違って暖かい手が、ボクの頭を撫でる。 「一番下の神官。それが修士。修士の上が導師で、その上が司祭。で、一番上が大司祭」 そうなのか、初めて知った。 でも、君はまだ子どもなのに神官なの? それって、すごい事なんじゃないの? 再び首をかしげるボクに、彼はわずかに苦笑いを浮かべていた。 「仕方ないのさ。俺は許されない事をしてしまったから……。こうしなきゃ、生きていく訳にはいかないんだ」 言いながら彼は、今度は腰にさしていた短剣を撫でる。 訳が解らないよ。 ボクの鳴き声に、彼は笑う。 その笑顔はやっぱり、どこか寂しげで、今にも泣き出しそうに見えた。 泣くなよ。君も男だろ? 再び彼の足元にボクは体をすり付けた。 が、彼は無駄のない動作で立ち上がる。 気が付けばボクは彼の腕の中へおさまっていた。 「今日は冷たかっただろ? 暖かい場所で、寝よう」 そう言う彼に、ボクは小さく鳴いた。 ※ 連れて来られた場所は、ボクにとっては、まるで天国のような所だった。 雨露がしのげるだけでもありがたい生活だったのに、『寝台』なんていう柔らかい寝床まである。 とてとて、と走り出し、脇目もふらずにそこへダイビングしたボクを見て、彼は声をたてて笑った。 そういえば、笑う声を聞くのは、初めてだったかな? そんなことを考えながら、ボクは彼を見つめる。 ボクの視線を背に受けて、彼は壁に設えられていた燭台の炎を一つずつ消していく。 漆黒に包まれていた部屋の中に、テーブルに置かれたランプの炎だけがぼんやりと浮かび上がる。 薄暗がりの中にたたずむ彼は、やはりどこか寂しげだった。 どうしたんだよ。 一声ボクは鳴く。 けれど、返事はなかった。 代わりにごそごそと何やら音がする。 どうやら彼は着替えているようだった。 でも、何でわざわざ明かりを落としてから? 首をかしげるボクをよそに、寝台の上に腰かけた彼はボクの喉を優しく撫でた。 「君は、良いな。とても自由で……」 言いながら彼は一つため息をつく。 こちらを見つめる彼の瞳は、やっぱりどこか寂しげで、泣き出しそうだった。篭の鳥の立場から脱したメアリではあったが、次第に宮殿とは比べ物にならない質素で不自由な生活に苛立ちを隠さぬようになっていった。 屋敷内を自由に歩けるようになったものの、外出することはかなわない。 用意される食事や衣類はそれなりに上質なものなのだが、やはり今までと比べるとかなり見劣りする。 自分に対して絶対の忠誠を誓ったゲッセン伯は、あれ以来目立った動きをしている様子は見られない。 このままでは、いつになったら皇帝の座へ返り咲けるのかわからない。 焦りにも似た感情は、日々大きくなっていく。 そんなある日、メアリは晩餐の席でゲッセン伯に向かいこう切り出した。 「そなたの私に対する変わらぬ忠義、嬉しく思っています。ですが……」 一度言葉を切って、メアリは伯爵をじっとみつめる。 その視線にやや怒りにも似た感情が含まれているのを見て取って、ゲッセン伯は緊張した面持ちで姿勢を正した。 それを確認して、メアリは意地の悪い微笑を浮かべつつ言葉を継いだ。 「一体、いつ私を然るべき場所へ戻してくれるのです?」 然るべき場所とは言うまでもなく玉座であり、皇宮である。 それを理解して、ゲッセン伯は色を失った額に浮き上がる冷や汗を拭いながらしどろもどろになって答えた。 「……ただ今、志を同じくする者と計画を進めているところでございます。ですが、事は慎重に進めねばなりませんので、同志の選定が……」 確かに見極めは大切であるから、この言には一理ある。 寝返られ計画が頓挫したら、元も子もない。 しかし……。 「それにしても、随分と時間がかかっているのではなくて?」 私はあとどれくらい待てばいいのです? そう問うメアリに、ゲッセン伯はしばし沈黙した後口を開いた。 「……実は、小賢しいことに両者共に身辺の警護を固めております。そればかりか、追手を差し向ける動きもあります。我らに対する警戒が緩むまで、今しばらく……」 あまりにも無策で平凡な返答に、メアリはわずかに形の良い眉根を寄せる。 目を閉じ息をつくと、諦めたような口調でつぶやいた。 「……わかりました。そなたがそう言うのでしたら、しばし待ちましょう。ですが……」 一転してメアリは無垢な少女のような笑みを浮かべてみせる
ちょうどその頃、皇宮の一室では議論が行われていた。 出席者はミレダとフリッツ公イディオット、議題は次期皇帝の位にどちらが就くかである。 実のところ、なかなか後継者が決まらないという現状は、両者にとって困った事態を招いていた。 国内に二人が婚礼を上げた上で共同統治をしてはどうか、という空気が流れ始めたのである。「困りましたね。私は育ての父の言葉を信じたいのですが……」 言いながらイディオットは腕を組む。 先代のフリッツ公によると、彼は紛れもなく先帝の息子でミレダの異母兄に当たるという。 だが、真実を知る者はすでに皆この世を去っており、それを証明することはできない。 見えざるものの教義では従兄妹同士の結婚は禁じられていないので、民意が拡大し抑えきれなくなれば、最悪従わざるを得なくなるかもしれない。 イディオットの主張が正しければ、両者は見えざるものの意思に反することになってしまうのだ。「だから、とっとと従兄殿が即位すれば良いんだ」 父上が皇帝の証である印璽を託したのは、つまりはそういうことじゃないのか。 そう言いながら足を組み直し、卓に頬杖をつくミレダ。 赤茶色の巻き毛に青緑色の瞳。 よく似た容姿を持つ二人は、お互いの顔を見やりながら深々と吐息を漏らす。「ですが、継承権を持つのは殿下です。それを差し置いてその位に就く訳にはいきません」 それにしても、どうして殿下はそれほどまでに即位を拒まれるのですか。 イディオットからそう問われ、ミレダはわずかにうつむいた。「私は、その器じゃない。……人ひとり救えそうもない私に、国民すべての生命が背負えるはずがない」 予想外の答えだったのだろうか、イディオットは数度瞬く。 それを意に介すことなく、ミレダは更に続けた。「それに、即位するとなると、ルウツの血を残さなければならない。その……好きでも
「……だからって、どうしてウチにつれてくるんだよ?」 言いながらロー・シグマは卓の上に手際よく料理と酒を並べる。 それが済むとユノーの隣にどっかりと腰を下ろし、目の前の杯に酒を注ぐと断りもなく飲み干した。 そんなシグマに、ユノーは申し訳なさそうに頭を下げる。 「すみません……。他に心当たりが無かったので……」 「そうじゃなくてさあ。泣く子も黙る朱の隊隊員が、エドナ駐在武官殿を接待するのに、こんな場末の酒場ってのはどうかと思うぜ?」 杯を卓に戻すなり、シグマはもっともなことを言う。 ここは、シグマが退役し始めた店……いわゆる大衆向けの酒場だった。 店主が言うとおり、異国の使者の接待にふさわしいかと言えば、はなはだ疑問である。 一方両者のやり取りを向かいの席で『見て』いたロンドベルトは、さも楽しくて仕方がないとでも言うように笑った。 「そうお気になさらず。堅苦しいのは苦手ですので」 その言葉を受けて、ユノーはロンドベルトに向き直ると、改めて頭を下げた。 「本当に申し訳ありません。お恥ずかしながら、父が他界してからずっとぎりぎりの生活だったので……」 言いながらユノーはロンドベルトの杯に酒を注ぐ。 真紅の液体に満たされたそれを口許に運んでから、ロンドベルトはおもむろに切り出した。 「失礼ですが、ロンダート卿のお父上は武人……騎士だったのでしょう? でしたらそれなりの恩給が出るのではありませんか?」 その言葉を受けて、ユノーは目を伏せ首を左右に振ると、ややためらった後で幼い頃に自分の家に起きたことをかいつまんで説明する。 神妙な面持ちで聞いていたロンドベルトは、その目をわずかに細め驚いたように告げた。 「では、貴方のお父上も『あの場所』におられたのですか。それは、何とも奇遇ですね」 その言葉に引っかかりを感じたユノーは思わず首をかしげ、おずおずと尋ねた。 「すみませんが、『あの場所』とおっしゃいましたが、一体……」 まるでそ
皇都に奇妙な緊張感が流れている。 期待と不安、好意と憎悪など、相反する感情が渦巻いている。 そう、ついに長きに渡り戦闘状態にあったエドナから、全権大使一行が到着したのである。 とは言っても、国民感情は複雑だ。 全員が諸手をあげて和議に賛成しているわけではない。 どこに大使達に良からぬことを仕掛けようと考える輩がいるとも限らない。 そんな訳で当日皇都には厳戒令が出され、一般市民の外出は禁じられた。 一方の当の大使も、重騎兵に囲まれた馬車に乗って人気のない皇都に入った。 本当にこれで平和が訪れるのだろうか。 大使公邸へと向かう隊列を見ながら、ユノーはそんな思いにとらわれて深々とため息をついた。 宙に浮いてしまった皇帝の位。 姿を消した廃立されたメアリ。 国内が不安だらけなこの状況で、エドナから大使を迎え入れても大丈夫なのだろうか。 けれど、ユノーはそんな思考を無理矢理中断し頭から振り落とした。 貴族とはいえ最末端の下級騎士である自分が、国家の中枢で行われている政に疑問を覚えても仕方がないと思ったからだ。 そうこうしているうちに、今日の勤務も何事もなく終了した。 引き継ぎのあと、いつものように一人詰所を片付けていたユノーの耳に、何やら言い争うような声が飛び込んできた。 よもや、ミレダが抜け出してこちらに向かう途中見つかってしまったのだろうか。 そう思い、ユノーは片付けの手を止めて、不謹慎と理解しながらも思わず耳をそばだてる。 と、いらだったような声が段々と近づいてきた。「ですから、このような所に来られては困ります!」「一刻も早くお戻りください! 当方といたしましても、安全を保証致しかねます!」 おや、とユノーは首をかしげる。 声の主が近衛なのか朱の隊なのかは定かではないが、その声音がいささか乱暴だ。 言葉使いこそ丁寧なのだが、明らかにミレダに対するそれとは異なる。 一体、外で何が起きているのだろうか。 湧き上がってきた好奇
詰所では引き継ぎと報告が行われている。 すべての報告が終わりようやく閉会の段という頃、前触れもなく扉は開いた。 室内に緊張が走ると同時に、その場にいる全員が一斉に立ち上がる。 入ってきたのは、珍しく二人の護衛を従えたミレダである。 一同の視線を一身に集めた彼女は、いつになく硬い表情を浮かべている。 「諸君ら、ご苦労」 発せられる声も、どこか硬い。 いや、ここは私的な場所ではないのだから、とのユノーの考えは、次の瞬間もろくも打ち砕かれた。 「……姉上が、姿を消した。残念ながら警備をしていた部隊には、生存者はいなかった」 どよめきが次第に大きくなる。 皆、不安げに顔を見合わせている。 だが、ミレダがすいと片手を上げると、再び水を打ったかのように静まり返る。 ユノーは息を詰めて、ミレダの言葉を待った。 「おそらくは統率された軍隊、あるいはそれと同等の能力を有する者の犯行だろう」 張り詰めた空気が痛い。 ユノーは背を汗が伝い落ちるのを感じた。 「今後、諸君らにも姉上の探索に当たってもらうことになるだろう。だが……」 ひと度ミレダは言葉を切り、目を伏せた。 「諸君らには、実戦の経験がない。つまりは、人を実際に殺めた経験がないということだ」 瞬間、ユノーは初めて人を斬ったときの事を思い出した。 両の手に、あの時の感覚が蘇る。 「……どうしたんだ? 真っ青な顔して」 隣に立つ同僚から声をかけられて、ユノーははっと我にかえる。 下手をすれば、そのまま意識を失っていただろう。 目礼で謝意を伝えると、ユノーは改めてミレダをみつめる。 「相手は人を殺すことをためらわない、一番厄介な相手だ。だが、ようやく実現した平和のためにも、必ず見つけ出さなければならない」 姿を消した女帝メアリは好戦派で、ルウツによる大陸統一を画策していたという。 当然のことながら、この平和な世を
あくまでもこれは伝聞ですから真偽の程は定かではなありませんが、と断ってからペドロは難しい表情を浮かべて腕を組む。 そして、やや目を伏せながら続けた。 「殿下の来訪以降、シエルは食事もとらなくなったそうです。以前は食堂には出て来ていたそうなんですが、本当に部屋へ引きこもったきりだとか」 このままでは、処分が下される前にシエルがどうにかなってしまうのではないか。 そう心底心配そうに言うペドロ。 ユノーはなるほど、とつぶやき同意を示した。 「正直、ロンダート卿なら会うと思っていたんですよ。ですが、ここまでシエルが頑固だったとは考えてもみませんでした」 「けれど、閣下は殿下のことを誰よりも大切に思っていたのではないですか? それが、どうして……」 「思うに、この国の現状を鑑みてのことでしょう」 ペドロの言うとおり、ルウツは今エドナとの和平にこぎつけたとはいえ、極めて不安定な情況にあった。 なぜなら、この国の根幹とも言える皇帝の位が未だ空位のままだからである。 皇位継承権を持つ唯一の人物であるミレダ、そしてその従兄で皇帝の証たる印璽を亡父から託されたフリッツ公。 両者は共に至尊の冠を戴くことを固辞し、それを譲り合っていた。 ミレダが先の出兵から戻れた暁には臣籍に下ると名言していたのを思い出し、ユノーは深々とため息をつく。 ひと度ミレダがこうと決めたら、それを曲げるとは考えにくい。 一方のフリッツ公の言い分はこうだ。 自分は一応皇帝の血をひいてはいるが父親の代から臣下。 正当な継承者がいる状況で自分がその位に就くのは、あまりにもおこがましい……。 互いに即位を拒否する両者に共通するのは、この国を導く皇帝という存在には自分はふさわしくない、という強い信念だった。 そして両者の周囲では、まことしやかに流れる希望論があった。 すなわち、両者の共同統治という形……ミレダとフリッツ公の婚姻を推す声である。 そんな世相もおそらくはシエルの耳に入っているのだろう。 ミレダへの別離宣言は