 Masuk
Masuk数日後、ボクらは孤児院を出た。
子どもたちは口々にまた来てね、と言いながら、いつものごとくボクをもみくちゃにする。 少々乱暴な送別会が終わると、ボクは彼の後を追った。 引っ越し、なんていっても荷物なんてたいしたことはなかった。 僅かな着替えと、古ぼけた剣が一本。 それをまとめて背負った彼は、迷うことなく歩みを進める。 いつも練兵場へ行くのとは正反対の方へ向かっているのは、ボクにも解った。 この方向に、何があるんだろう。 そんなボクの疑問に答えるかのように、周囲の空気はがらりと一変した。 道ばたを走り回る子ども達。 窓から翻る洗濯物。 まるで街みたいだ。 「ここは、『兵舎地区』。近衛兵みたいな、陛下の御身辺を常にお守りする兵と、その家族が住む所」 言いながら、彼は最も奥まった所にある家に歩み寄り、扉に鍵を差し入れた。 かちゃり、という音の後、扉はぎしぎしと開いた。 さっそく駆け込んだボクは、屋内に入るなり、盛大にくしゃみをした。 床には一面、ホコリが積もっていたのだから。 「どうやら、ずいぶん長いこと、使われてなかったみたいだな」 言いながら、彼は荷物を寝台の上に放り投げた。 すると盛大にホコリが舞った。 「今からでも、戻っていいんだぞ。いや、帰った方が良いかもしれない」 大きなお世話だよ。 ボクはぽん、と跳ね上がって寝台の上に着地する。 そして、その上に放置された物を見つめた。 ふとその視界に、鈍く光る剣が入ってきた。 それは、いつも殿下との稽古で使っていたそれじゃない。 「これは、『宝剣』。勇者の称号を持つ人間に与えられる物」 言いながら彼は剣を手に取った。 ボクはそれを良く見ようと、彼の膝の上に無理矢理潜り込む。 「皇帝陛下への絶対の忠誠と、それを示す戦を行う者に与えられる力の象徴、だとさ」 なんだよ、それ? わけが解らず瞬くボクに、彼は苦笑を浮かべて言った。 「良く解らないだろ? 俺にもまったく意味不明だ。……でも」 剣の柄を撫でながら、彼は低く呟く。 「行く限りは、勝つ。そして、生き延びてみせる」 その彼の手を見て、ボクは息を飲んだ。 彼の手が、僅かに震えている。 あわてて彼の顔をボクは見上げる。 凍りついたような夜空の色をした瞳が、ボクを見下ろしていた。 「今までは、猊下や殿下のご厚意で生かされていた。今度はそれをお返しする番だ。だから……必ず帰ってくる。これから先、ずっと……」 ボクも待っているのを、忘れないで。 一声鳴くボクの頭を、彼は優しく撫でてくれた。 ※ そして、ついにその日はやってきた。 彼は、無言で旅装を整えている。 ボクは、淡々と作業を続ける彼をただ見つめることしかできなかった。 「だいたい、一ヶ月くらいかかるかな。何事もなく終われば」 そんなボクの視線に気がついたのか、彼はボクに向かって苦笑を浮かべた。 「……もっとも、俺が戻って来ない事を期待している奴らの方が多いけど、な」 そんなこと、言わないでよ。 ボクだって、殿下だって、猊下だって、君が戻って来るのを待っているんだから。 寝台から飛び降りたボクは、小さく鳴きながら彼の足元にじゃれついた。 そんなボクの頭を、彼はいつものようにくしゃくしゃとかき回す。 「心配するな。……俺は、これで終わりにするつもりはない」 けれど、彼の手はやっぱり震えている。 本当に、戻って来てね。 もう一度、ボクは小さく鳴く。 その夜、いつもより早く寝台に潜り込んだ彼は、何度も寝返りをうっていた。 ※ 翌朝、ボクが目を覚ました時、彼は甲冑という物を着込み、マントを羽織っていた。 その姿に驚くボクを彼は抱き上げると、彼は家を出、ボクを下ろしてから扉を閉めた。 追い出すつもりなの? 抗議の声を上げるボクに、彼は言った。 「……俺がいない間、この家の中でどうやって食っていくんだ?」 確かにその通りだ。 ボクでは、この扉を開け閉めすることはできない。 食事を持って来てくれる彼がいなくなれば、ボクは飢え死にしてしまう。 「孤児院に顔を出せば、たぶん大丈夫だろう。何ならそのままそっちに居座ってもかまわない」 ……やっぱり、ボクを追い出すつもりなの? 見上げるボクに、彼は困ったように笑う。 「お前は、俺と違って自由なんだ。だから……」 それでも、ボクは君を待っているよ。だから、帰って来てね。 「……じゃ、行ってくる」 そんなボクの視線から逃れるように、彼は足を踏み出した。 だんだんと小さくなっていくその後ろ姿を、ボクはいつまでも見つめていた。 ※ それから、ボクの野良生活が始まった。 いや、毎晩彼の家の軒先で夜を過ごすので、完全な野良という訳ではない。 昼間は孤児院に顔を出したり、近所の家のお世話になったりしたので、街にいた頃よりは遥かに幸せだった。 けれど、どこか寂しさと不安があった。 言うまでもない。彼が心配だったから。 そんなこんなで、約束の一ヶ月が過ぎようとしていた。 夕方から広がり出した雲は、低くたれ込め今にも泣き出しそうに見える。 「お前、まだ奴の所にいたのか?」 いつものように軒先で丸まっていたボクの耳に、懐かしい声が飛び込んできた。 間違いようもない、あのお転婆殿下がそこに立っていた。 「……とんでもない状況だったらしい」 ボクを軽く撫でてから扉に寄りかかると、殿下は重い口を開いた。 「戦闘なんて統率の取れた物じゃない。敵味方入り交じっての殺し合いだ。……運良く相手が浮き足立ったのと、こちらの指令部が壊滅しなければ、負けていただろうな」 指令部が壊滅したのに? 首をかしげるボクに、殿下は苦笑を浮かべてみせた。 「指令部なんて言っても、名ばかりの馬鹿共だ。戦いのことなんか、何も知っちゃいない。負けるのを見越して、そんな所に奴を放りこんだんだ」 そして、殿下は悔しそうに唇を噛む。 自分にもっと力があれば、こんなことにはさせなかったのに、と。 でも、どうしてそんな所に? さらに首をかしげるボクに、殿下はかがみこみ、ボクと目線を合わせた。 これって、『恐れ多いこと』なんだろうな。 そんな事をぼんやりと考えるボクの頭を、殿下は優しくなでた。 どこかの誰かとは大違いだ。 「どうやら、降ってきそうだな」 言いながら、殿下はボクを抱き上げた。 青緑色の瞳は、上空を見つめていた。 「自己顕示欲に取りつかれた指令部は、現状を無視して突撃命令を繰り返したそうだ。自分たちは安全な場所に陣取って……。敵の別動隊が指令部を急襲してくれなければ、今ごろ……」 でも、指令部がなくなったら、終わりじゃないの? まだ納得がいかないボクの耳に、殿下の声が流れこんでくる。 「戦場を渡り歩いてきた奴らは、自分たちがどうすれば生き延びられるか、本能的に知っている。……つまりあいつは、烏合の衆になりかけた奴らを、実力でまとめあげ、自らを司令官として認めさせたんだ」 これで名実共に『蒼の隊』の奴らは、あいつにたいして絶対の忠誠を誓うだろうな。 そう言いながら、殿下は寂しげに笑った。 でも、最初からそうしていれば、もっと犠牲者は少なくてすんだんでしょ? だから殿下も辛く感じているんじゃないの? 声を上げるボクを、殿下は静かにおろした。 「できれば、そうしてやりたかった。けれど、初陣で司令官待遇なんて過去に前例がない。頭の固い着飾った奴らが首を縦に振る訳がない。何よりあいつは家柄も無い孤児で、しかも……」 不意に、殿下の言葉が途切れた。 ぽつぽつと雨が大地を打つ音が、代わりに聞こえてくる。 けれど、殿下が口を閉ざしたのは、それが理由じゃなかった。 なぜなら、その視線の先には……。 「親は敵国の間者。本人はその取り締まり部隊を一人残らず惨殺した大罪人、だったからさ……」 降りだした雨を気にも止めず、どこか焦点の定まらない目をこちらに向けた彼が、そこに立っていた。
疑わしい貴族の屋敷を一つ一つ潰していくロンドベルトの額には、いつしか玉の汗が浮かんでいた。 その顔色も、目に見えて青ざめている。 しかし、未だその人を見つけることはできなかった。 「少し、休まれてはいかがですか?」 当初は疑惑の視線を向けていたシモーネが、以外にも一番始めにロンドベルトの体調を心配する声をかける。 同じく懐疑的な印象を抱いていたであろうシグマが杯に飲み物をついで、ロンドベルトに向かい差し出した。 「そうだよ、さっきからぶっ通しじゃねえか。……ひでえ顔色してるぜ?」 それらの言葉を受けたロンドベルトは、大きく息を吐き出すと額の汗を拭い、わずかに苦笑を浮かべた。 「情けないものですね。昔は無数の『草』の様子を見てもなんともなかったのですが」 言いながら杯を受け取ると、ロンドベルトは一気にその中身をあおった。 そして、再び息をつく。 「大口をたたいたにもかかわらず、お役に立てず申し訳ない限りです」 しかし一同は等しく首を左右に振った。 そして、シモーネは申し訳なさそうに目を伏せた。 「いいえ、もっと対象を絞り込んでいればいらぬ苦労をおかけしなくても済んだんですが……」 「公爵閣下も、今はお立場が以前とは違いますから。仕方がありませんよ」 遠慮がちにそう告げるペドロに同意を示すように、ユノーはうなずいた。 確かに愚昧公と呼ばれていた頃とは異なり、フリッツ公は今やこの国の皇帝になるかもしれない存在である。 当然、四六時中護衛に囲まれて、不自由な生活を強いられているらしい。 「……それにしても、他に手がかりになるような物は無いのでしょうか? それなりの数の軍勢をうごかせる、というだけでは……」 あまりにも抽象的で雲をつかむようだ、とロンドベルトは言う。 確かにそのとおりだった。 戦闘部隊を軍として統括し、国だけが動かすことができる権利を持つエドナとは異なり、ルウツでは大貴族が私兵とも言える配下の騎士団を持っている。 何か、決め手になるものは……。 そこまで考えが及んだとき、ユノーはあることを思い出す。 次の瞬間、こんな言葉が口をついて出ていた。 「申し訳ありませんが、あと一か所だけ見ていただくことは可能ですか?」 一同の視線が、ユノーに集中する。 一体何事かと言わ
「私も仲間に入れていただけませんか?」 そう言うロンドベルトの顔には、笑みはない。 どうやら今までの会話はすべて聞かれていたらしい。 やはり自分が尾行されていたのか、と肩を落とすユノーに向かい、ロンドベルトはあわてて言葉をかける。 「先程私が話したことは、すべて事実ですよ。宿舎の食事には本当に飽きましたので。私がここにいるのは、全くの偶然です」 そう慰められてもユノーの気持ちが晴れるはずもない。 うつむくユノーをよそに、ペドロは鋭くロンドベルトをにらみつける。 「では、その言葉を信じるとして……。どうしてあなたは、かつての敵であるシエルを助けようなどと思うのです?」 一同の視線を一身に受けて、ロンドベルトはわずかに苦笑を浮かべる。 そして、いつになく穏やかな口調で切り出した。 「そう、ですね。強いて言えば、借りを返したいといったところでしょうか」 聞けば、ランスグレンにおける最終決戦のおり、シエルは戦意を失ったロンドベルトをあえて撃たなかったという。 「不思議なことに、敵に情けをかけられても怒りはわきませんでした。ですが、恩義は返すべきだ。そう思いまして」 言い終えて、ロンドベルトはわずかに目を伏せる。 『黒衣の死神』と恐れられるその人らしからぬ表情に、一同は等しく絶句する。 それを意に介すことなく、ロンドベルトはさらに続けた。 「無論、立場が立場ですから、無理強いするつもりはありません。そして希望が通らなかったとしても、他言するつもりはありません。ですが、少なからずお力にはなれると思うのですが」 「それは一体、どういう……」 相変わらず厳しい表情を浮かべたままのペドロ。 その隣に立つユノーは思わずあっ、と声を上げた。 同時にシグマも何かを思い出したかのように、ぽんと手を一つ打つ。 そんな二人の様子に、ペドロとシモーネはわけがわからず首をかしげる。 予想通りの反応に含み笑いで応じてから、ロンドベルトは改めて自らの『瞳』に隠された事実を両者に説明した。 なおも疑いの眼差しを向けるペドロに対して、シモーネは興味深げにロンドベルトに尋ねる。 「では、将軍閣下は見えざる瞳であらゆるところを見ることができる、そうおっしゃるんですか?」 「少なくとも、昔は。今は多少カンが鈍っているかもしれません
朱の隊は、朝からある話題で持ち切りだった。 なんでも昨日深夜に司祭館から救援要請があり、急ぎ当直の部隊が駆けつけてみたところ、当の司祭館は誰もそのようなことはしていないと言うのである。 その言葉の通り周辺は静まり返り別段変わった様子もなく、駆けつけた部隊は何かの間違いだったのだろうと考えて戻ってきた、ということだった。 「司祭館を騙ったいたずらか。誰だか知らんが罰当たりなことをするやつがいるな」 そう言う先輩隊員に、ユノーは曖昧な表情を浮かべてうなずいて返す。 だがその心の内には言葉になりきらない違和感がくすぶっていた。 それが一体何であるのか自分でも理解できぬまま彼が午前中の任務についていたときである。 かすかに名を呼ばれたような気がして、ユノーは立ち止まり周囲を見回す。 と、柱の影でペドロがこちらに向かい手招きをしていることに気が付いた。 その顔には、戦場さながらの緊張感が張り付いているようである。 一体何事かと疑問に思いつつ、ユノーがそちらへ歩み寄ると、彼が挨拶の言葉を口にするより早くペドロはこう切り出した。 「今夜、シグマの店に来ていただくことは可能ですか?」 訳がわからず、ユノーは思わず首を傾げる。 なぜなら、ペドロは他人を酒席に誘うような人柄ではないからだ。 それが一体どういう風邪の吹き回しだろう。 そんなユノーの内心の疑問に答えるように、ペドロは言葉を継いだ。 「詳しくは、シグマの店でお話します。ここではどこにどんな目が光っているかわかりませんから……」 いつものぼそぼそとした口調は、だが切羽詰まっているように思われた。 どうやら何かあったらしい。 しかも、相当に大変なことが。 「わかりました。今日は日勤なので、終わり次第伺います」 そのユノーの返答に、ペドロは目に見えてほっとしたような表情を浮かべる。 が、それをすぐにおさめると、こう続ける。 「ありがとうございます。この件は、くれぐれも他言無用でお願いします。例え殿下であっても」 はて、と再びユノーは首をかしげる。 ペドロの方が自分よりもはるかにミレダに近い立場にあるはずだ。 にもかかわらずこのようなことを言うとは、一体どういう訳だろう。 戸惑いを隠せずにいるユノーに向かい、くれぐれもお願いしますと
広間を出たところで厳重に目隠しをされたシエルは、追い立てられるように歩かされた。 途中、階段を昇り降りしたのだが、果たしてどこをどうそしてどれくらい歩いたのかはわからない。 だが、辛うじて理解できたのは、おそらくは皇都を出てはいないだろうということくらいである。 ということは、彼らは皇都から湧き上がって来た、ということになる。 本当に皇都には何が潜んでいるかわからない。そこに巣食うモノたちは、得体がしれない。まさに魔窟だ。 そうシエルが心のうちで皮肉に満ちた笑みを浮かべていた時、ようやく先行きの見えなかった行軍は唐突に終わりを告げた。 目隠しを外された視界にまず入って来たものは暖かな応接間ではなく、冷たい石造りの壁と床だった。 所望されている割には歓迎されてはいないらしい。 そんなことをシエルがぼんやりと考えていると、かすかな光が近付いてくるのが見えた。 と、周囲を固めていた騎士達は一斉にそちらへ向かいかしずく。 迎え入れられたのは、この冷たく殺風景な空間にはいささか不似合いに見える豪奢な服装に身を固めた女性だった。 女性は自らにかしずく騎士達には一瞥もくれず、まっすぐにシエルに向かい歩み寄る。 そしてその正面に立つなり、労働を知らぬ白く細い手で彼の頬に平手打ちを浴びせた。 呆気にとられるシエルに向かい、女性は開口一番こう告げた。 「ひざまずきなさい。無礼でしょう? 私を誰だと思っているの?」 そう激高する女性の顔を、シエルは訳も分からずまじまじと見つめる。 うなじ辺りでまとめたゆるく波打つ赤茶色の髪に、異様な光を湛える宝石のような青緑色の瞳。その容姿は彼がよく知るとある人物と告示している。 なるほど、とシエルは納得したものの、なぜ自分がこの場に引き出されたのかは未だにわからない。 そうこうするうちに、周囲の騎士達はシエルの肩に手をかけ腕を取り、無理矢理に膝を折らせようとしてきた。 しかし、意外にも目の前に立つ女性は、片手を上げると騎士達を制した。と、その背後に付き従っていた小肥りの男が声を上げる。 「へ、陛下、よろしいのですか? このような無礼者……」 「構いません。道理と礼儀をしらないなら、教えてあげれば良いのだから」 言い終えると、陛下と呼ばれた女性は改めてシエルを鋭く睨みつ
星の見えない、暗い夜だった。 燭台に揺らめくろうそくの炎を見つめながら、シエルは大きくため息をついた。 さすがにこの暗さでは、教典を読むこともできない。 かと言って眠る気にもなれず、卓に頬杖を付いたまま再び大きく息をつく。 どのみち、寝台に入っても眠れる保障はない。 未だ過去に囚われている自分自身に呆れ、思わず苦笑を浮かべた時だった。 わずかに空気が動いたのを感じて、シエルは思わず立ち上がり意識を研ぎ澄ます。 常に司祭館を包んでいるはずの清浄な空気が、かすかに不浄な物に浸食されていた。 この神聖な空間を犯そうとするものを、彼は何よりも理解している。 そう、彼が三年弱の間身を置いた戦場に充満する張りつめた殺気そのものだった。 一体、どうしてこんなところに。 疑問と不安を抱きつつ、シエルは卓の上に置いていた短剣を手に取る。 扉を押し開くと、更に暗い廊下へと足を踏み出した。 意識を研ぎ澄まし、全神経を聴覚へと集中させる。 と、かすかだが金属がぶつかり合うような音が聞こえてくる。 間違いなく甲冑のたてる音だが、見回りの神官騎士のものにしては数が多いように思われる。 嫌な予感がする。いや、これは予感などという生易しいものではない。 そう悟ったシエルは、音のする方へと走った。 長い廊下を走るにつれ、殺気はどんどんその濃度を増していく。 何が起きているのかわからぬまま、広間に至る角を曲がる。 途端、目に飛び込んできたものは、信じがたい光景だった。 数名の神官騎士が折り重なるように倒れ、床はその身体から流れる血で赤黒く染まっている。 咄嗟にシエルはひざまずき、倒れ付す神官騎士の様態を確認すると、首筋を斬られ等しくこと切れていた。 出血量を考えると、おそらくは即死だろう。 騎士とはいえ通常ならば実戦を経験することの無い神官騎士は、『本物の賊』を前にしては一溜まりもなかったのだろう。 短く舌打ちをすると、シエルは立ち上がり先を急いだ。 突き当りの扉の前に、神官や神官騎士達が集まっているのが見える。 そのうちの一人の司祭は、シエルの姿を認めるなり厳しい表情でその前に立ちふさがった。 一体何が、とシエルが問う前に司祭は小さな声ながらも鋭い口調で告げた。 「何をしている? す
篭の鳥の立場から脱したメアリではあったが、次第に宮殿とは比べ物にならない質素で不自由な生活に苛立ちを隠さぬようになっていった。 屋敷内を自由に歩けるようになったものの、外出することはかなわない。 用意される食事や衣類はそれなりに上質なものなのだが、やはり今までと比べるとかなり見劣りする。 自分に対して絶対の忠誠を誓ったゲッセン伯は、あれ以来目立った動きをしている様子は見られない。 このままでは、いつになったら皇帝の座へ返り咲けるのかわからない。 焦りにも似た感情は、日々大きくなっていく。 そんなある日、メアリは晩餐の席でゲッセン伯に向かいこう切り出した。 「そなたの私に対する変わらぬ忠義、嬉しく思っています。ですが……」 一度言葉を切って、メアリは伯爵をじっとみつめる。 その視線にやや怒りにも似た感情が含まれているのを見て取って、ゲッセン伯は緊張した面持ちで姿勢を正した。 それを確認して、メアリは意地の悪い微笑を浮かべつつ言葉を継いだ。 「一体、いつ私を然るべき場所へ戻してくれるのです?」 然るべき場所とは言うまでもなく玉座であり、皇宮である。 それを理解して、ゲッセン伯は色を失った額に浮き上がる冷や汗を拭いながらしどろもどろになって答えた。 「……ただ今、志を同じくする者と計画を進めているところでございます。ですが、事は慎重に進めねばなりませんので、同志の選定が……」 確かに見極めは大切であるから、この言には一理ある。 寝返られ計画が頓挫したら、元も子もない。 しかし……。 「それにしても、随分と時間がかかっているのではなくて?」 私はあとどれくらい待てばいいのです? そう問うメアリに、ゲッセン伯はしばし沈黙した後口を開いた。 「……実は、小賢しいことに両者共に身辺の警護を固めております。そればかりか、追手を差し向ける動きもあります。我らに対する警戒が緩むまで、今しばらく……」 あまりにも無策で平凡な返答に、メアリはわずかに形の良い眉根を寄せる。 目を閉じ息をつくと、諦めたような口調でつぶやいた。 「……わかりました。そなたがそう言うのでしたら、しばし待ちましょう。ですが……」 一転してメアリは無垢な少女のような笑みを浮かべてみせる








