数日後、ボクらは孤児院を出た。
子どもたちは口々にまた来てね、と言いながら、いつものごとくボクをもみくちゃにする。
少々乱暴な送別会が終わると、ボクは彼の後を追った。
引っ越し、なんていっても荷物なんてたいしたことはなかった。
僅かな着替えと、古ぼけた剣が一本。
それをまとめて背負った彼は、迷うことなく歩みを進める。
いつも練兵場へ行くのとは正反対の方へ向かっているのは、ボクにも解った。
この方向に、何があるんだろう。
そんなボクの疑問に答えるかのように、周囲の空気はがらりと一変した。
道ばたを走り回る子ども達。
窓から翻る洗濯物。
まるで街みたいだ。
「ここは、『兵舎地区』。近衛兵みたいな、陛下の御身辺を常にお守りする兵と、その家族が住む所」
言いながら、彼は最も奥まった所にある家に歩み寄り、扉に鍵を差し入れた。
かちゃり、という音の後、扉はぎしぎしと開いた。
さっそく駆け込んだボクは、屋内に入るなり、盛大にくしゃみをした。
床には一面、ホコリが積もっていたのだから。
「どうやら、ずいぶん長いこと、使われてなかったみたいだな」
言いながら、彼は荷物を寝台の上に放り投げた。
すると盛大にホコリが舞った。
「今からでも、戻っていいんだぞ。いや、帰った方が良いかもしれない」
大きなお世話だよ。
ボクはぽん、と跳ね上がって寝台の上に着地する。
そして、その上に放置された物を見つめた。
ふとその視界に、鈍く光る剣が入ってきた。
それは、いつも殿下との稽古で使っていたそれじゃない。
「これは、『宝剣』。勇者の称号を持つ人間に与えられる物」
言いながら彼は剣を手に取った。
ボクはそれを良く見ようと、彼の膝の上に無理矢理潜り込む。
「皇帝陛下への絶対の忠誠と、それを示す戦を行う者に与えられる力の象徴、だとさ」
なんだよ、それ?
わけが解らず瞬くボクに、彼は苦笑を浮かべて言った。
「良く解らないだろ? 俺にもまったく意味不明だ。……でも」
剣の柄を撫でながら、彼は低く呟く。
「行く限りは、勝つ。そして、生き延びてみせる」
その彼の手を見て、ボクは息を飲んだ。
彼の手が、僅かに震えている。
あわてて彼の顔をボクは見上げる。
凍りついたような夜空の色をした瞳が、ボクを見下ろしていた。
「今までは、猊下や殿下のご厚意で生かされていた。今度はそれをお返しする番だ。だから……必ず帰ってくる。これから先、ずっと……」
ボクも待っているのを、忘れないで。
一声鳴くボクの頭を、彼は優しく撫でてくれた。
※
そして、ついにその日はやってきた。
彼は、無言で旅装を整えている。
ボクは、淡々と作業を続ける彼をただ見つめることしかできなかった。
「だいたい、一ヶ月くらいかかるかな。何事もなく終われば」
そんなボクの視線に気がついたのか、彼はボクに向かって苦笑を浮かべた。
「……もっとも、俺が戻って来ない事を期待している奴らの方が多いけど、な」
そんなこと、言わないでよ。
ボクだって、殿下だって、猊下だって、君が戻って来るのを待っているんだから。
寝台から飛び降りたボクは、小さく鳴きながら彼の足元にじゃれついた。
そんなボクの頭を、彼はいつものようにくしゃくしゃとかき回す。
「心配するな。……俺は、これで終わりにするつもりはない」
けれど、彼の手はやっぱり震えている。
本当に、戻って来てね。
もう一度、ボクは小さく鳴く。
その夜、いつもより早く寝台に潜り込んだ彼は、何度も寝返りをうっていた。
翌朝、ボクが目を覚ました時、彼は甲冑という物を着込み、マントを羽織っていた。
その姿に驚くボクを彼は抱き上げると、彼は家を出、ボクを下ろしてから扉を閉めた。
追い出すつもりなの?
抗議の声を上げるボクに、彼は言った。
「……俺がいない間、この家の中でどうやって食っていくんだ?」
確かにその通りだ。
ボクでは、この扉を開け閉めすることはできない。
食事を持って来てくれる彼がいなくなれば、ボクは飢え死にしてしまう。
「孤児院に顔を出せば、たぶん大丈夫だろう。何ならそのままそっちに居座ってもかまわない」
……やっぱり、ボクを追い出すつもりなの?
見上げるボクに、彼は困ったように笑う。
「お前は、俺と違って自由なんだ。だから……」
それでも、ボクは君を待っているよ。だから、帰って来てね。
「……じゃ、行ってくる」
そんなボクの視線から逃れるように、彼は足を踏み出した。
だんだんと小さくなっていくその後ろ姿を、ボクはいつまでも見つめていた。
※
それから、ボクの野良生活が始まった。
いや、毎晩彼の家の軒先で夜を過ごすので、完全な野良という訳ではない。
昼間は孤児院に顔を出したり、近所の家のお世話になったりしたので、街にいた頃よりは遥かに幸せだった。
けれど、どこか寂しさと不安があった。
言うまでもない。彼が心配だったから。
そんなこんなで、約束の一ヶ月が過ぎようとしていた。
夕方から広がり出した雲は、低くたれ込め今にも泣き出しそうに見える。
「お前、まだ奴の所にいたのか?」
いつものように軒先で丸まっていたボクの耳に、懐かしい声が飛び込んできた。
間違いようもない、あのお転婆殿下がそこに立っていた。
「……とんでもない状況だったらしい」
ボクを軽く撫でてから扉に寄りかかると、殿下は重い口を開いた。
「戦闘なんて統率の取れた物じゃない。敵味方入り交じっての殺し合いだ。……運良く相手が浮き足立ったのと、こちらの指令部が壊滅しなければ、負けていただろうな」
指令部が壊滅したのに?
首をかしげるボクに、殿下は苦笑を浮かべてみせた。
「指令部なんて言っても、名ばかりの馬鹿共だ。戦いのことなんか、何も知っちゃいない。負けるのを見越して、そんな所に奴を放りこんだんだ」
そして、殿下は悔しそうに唇を噛む。
自分にもっと力があれば、こんなことにはさせなかったのに、と。
でも、どうしてそんな所に?
さらに首をかしげるボクに、殿下はかがみこみ、ボクと目線を合わせた。
これって、『恐れ多いこと』なんだろうな。
そんな事をぼんやりと考えるボクの頭を、殿下は優しくなでた。
どこかの誰かとは大違いだ。
「どうやら、降ってきそうだな」
言いながら、殿下はボクを抱き上げた。
青緑色の瞳は、上空を見つめていた。
「自己顕示欲に取りつかれた指令部は、現状を無視して突撃命令を繰り返したそうだ。自分たちは安全な場所に陣取って……。敵の別動隊が指令部を急襲してくれなければ、今ごろ……」
でも、指令部がなくなったら、終わりじゃないの?
まだ納得がいかないボクの耳に、殿下の声が流れこんでくる。
「戦場を渡り歩いてきた奴らは、自分たちがどうすれば生き延びられるか、本能的に知っている。……つまりあいつは、烏合の衆になりかけた奴らを、実力でまとめあげ、自らを司令官として認めさせたんだ」
これで名実共に『蒼の隊』の奴らは、あいつにたいして絶対の忠誠を誓うだろうな。
そう言いながら、殿下は寂しげに笑った。
でも、最初からそうしていれば、もっと犠牲者は少なくてすんだんでしょ? だから殿下も辛く感じているんじゃないの?
声を上げるボクを、殿下は静かにおろした。
「できれば、そうしてやりたかった。けれど、初陣で司令官待遇なんて過去に前例がない。頭の固い着飾った奴らが首を縦に振る訳がない。何よりあいつは家柄も無い孤児で、しかも……」
不意に、殿下の言葉が途切れた。
ぽつぽつと雨が大地を打つ音が、代わりに聞こえてくる。
けれど、殿下が口を閉ざしたのは、それが理由じゃなかった。
なぜなら、その視線の先には……。
「親は敵国の間者。本人はその取り締まり部隊を一人残らず惨殺した大罪人、だったからさ……」
降りだした雨を気にも止めず、どこか焦点の定まらない目をこちらに向けた彼が、そこに立っていた。
立ち尽くす殿下。 表情を崩さない彼。 その間でうろうろするボク。「どうした? 本当の事を言っただけじゃないか」 言いながら、彼は笑った。 視線同様、おぼつかない足取りで、彼はこちらに歩み寄る。 言葉を失う殿下とボクの前を素通りして、彼は扉に手をかけた。「お前……酔っているのか?」 殿下の言葉に、ボクはあらためて彼を見つめる。 確かにその右手には、中身が半分程になった緑色の瓶が握られていた。 それをテーブルの上に置くと、彼は崩れるように寝台に座り込んだ。 あわててボクも、その隣に飛び乗る。「すまなかったと思っている。けれど……」 言いさした殿下の言葉が途切れたのは、彼が身に着けていたマントを殿下へ向けて放り投げたからだ。「……持って行け。深窓のお姫様がずぶ濡れになる訳にもいかないだろ? ……多少血の匂いが染み付いているかもしれないけど、我慢しろ」「そうじゃなくて、私は……」「いいから、早く行け! ……これしか生きる道が無い事は、俺自身が一番知ってる。だから……」 あなたが気にする事は、何もない。 囁くような小さい声で、彼は言った。 彼の隣にいたボクの耳に辛うじて入る大きさだったので、それが殿下に届いていたかは、定かでは無い。 マントとボクら。 しばらく交互に見つめていた殿下は、また来る、とだけ言い残して家を出て行った。&
冬はあっという間に訪れた。 暖炉には赤々と炎がたかれ、ほの暗い室内を柔らかく照らし出す。 その暖かい光の中で、彼は相変わらず本を写すという作業を続けていた。 その作業に一体どんな意味があるのか、ボクにはまったく解らない。 一心不乱に作業を続ける彼を、丸まりながら見つめる日々が過ぎていった。 そんなある夜、彼はいつもよりかなり早くその作業を切り上げると、頬杖をつきながらボクに言った。「今日は『年越しの祭』だ。孤児院……猊下からお誘いを受けているんだけど、来るか? あまり気は進まないけれど……」 それって、逆にすっぽかす方がまずいんじゃないの? 寝台から飛び下りると、ボクは彼の足元で鳴いた。 諦めた、とでも言うように小さく吐息をつくと、彼は静かに立ち上がると、大きく伸びをした。 防寒用のマントを神官の長衣の上から着込むと、彼はボクを促して外にでた。 はりつめたような冬の外気に身震いするボクを、彼は問答無用で抱き上げた。「降って来たら雪だろうな」 呟く彼の胸元で、ボクは注意深く周囲を見回した。 どこの部屋にも明るい光が灯っている。 みんな、静かにお祝いしているんだろうな。 そんなことを考えるボクの頭上を、彼の声が通過していった。 最後に家族で過ごしたのは、いつだったかな、と。 そのうち、家族で過ごした時間よりも一人の時の方が長くなる。 そう言う彼の表情は、夜目がきくボクにもはっきりとは見えなかった。 やがて、目の前には石造りの建物が現れた。 無言で彼が扉を叩くと、音もなく開かれ
年が明けても、ボクらの生活は変わらなかった。 相変わらず彼は神官の長衣を着こんで、いつ終わるともしれない作業を続けている。 そしてボクは、寝台に丸まってそんな彼の姿を見つめている。 ふと、かりかりというペンが紙を削る音が止まった。 あわてて顔を上げると、彼が立ち上がり扉の方へ向かうのが見えた。 何事だろう。 瞬きするボクをよそに、彼は無言で扉を開く。 と、そこには、何やら包みを抱えた殿下が立っていた。「どいてくれ。とにかく、中に入れろ」「……わざわざのお運び、どういうことだ?」 そう言う彼の口元には、どこか斜に構えた笑みが浮かんでいる。 そう言えば孤児院からの帰り道で……。「宴会、宴会。それがすんだら茶話会。一体あいつらは何を考えているんだ? まったく、ただの無駄遣いとしか思えない!」 殿下は深窓のお姫様らしからぬ大股で入って来るなりそう言い放つ。 扉を閉める彼に向かいテーブルの上にある物を片付けるよう、視線で命令した。 大当たりだろ? とでも言うようにボクを見てから、彼はテーブルの上を占領していた本と紙の束を寝台の上へと移動させる。 そうしてできあがった空間に、殿下は持ってきた荷物を広げ始めた。 銀の食器にティーセット。 もちろんそれは空ではなく、温かい湯気のたつ料理や菓子で満たされていた。「……茶話会と宴会は無駄遣いと言ったのは、どこの誰だ?」「さて、どこの誰だったかな」 そうはぐらかしてから、殿下は皿の一つを手に取り、寝台の上で固まっていたボクに歩み寄る。
下級とは言え、貴族の物としてはあまりにもみすぼらしい墓石に、老婦人は持ってきた花束を手向けた。 そしていつものように合掌し深々と頭を垂れる。 この冷たい石の下には、彼女の一人息子がその妻と共に眠っている。 隊長命令に背くという武官としては致命的な行為を犯し、皇帝から死を賜った息子と、将来を悲観しその後を追った妻が。 その結果老婦人とその孫の家は、代々受け継いできた騎士籍は皇帝預かりとなり、貴族籍より除名という厳しい処分を受けた。 今では周囲からは裏切り者と後ろ指をさされながら、皇都の片隅でひっそりと身を隠すようにして暮らしている。 改めて老婦人は、墓石を見つめる。 除名された貴族籍への復活と預かりとなっている騎士籍とを取り戻すという悲願のため、最後に残された肉親である孫が今戦場へ引き出されようとしていた。 けれど彼女にとって、今更身分などはどうでも良いものになっていた。 とにかくその無事の帰還を祈るため、彼女はここへやって来たのである。 けれど墓石は何も語ろうとはしない。 深く溜息をつき、彼女はその場を離れた。 人気のない、木漏れ日が降り注ぐ共同墓地の中を、老婦人は背を丸めながら家路につく。 近く皇都を離れる孫のために、好物を用意してやろう、と思いながら。 と、その時だった。 墓地の中でも一際じめじめとした所にある、皇国に仇なす逆賊者達が埋められている場所へと向かう苔むした脇道から、前触れもなく一人の青年が姿を現した。 殆ど訪れる者もない、忌まわしい場所へと続くその道から。 年の頃は、老婦人の孫と同じくらいだろうか。 一目見てそれと解る下級神官の質素な長衣を身につけ、首からは何やら古代語が刻まれた護符を下げている。 全く癖のない真っ直ぐなセピア色の髪は背に届くほど長い。 自分を見つめる視線に気が付いたのか、青年は一瞬驚いたように顔を上げる。 そして、僅かに会釈をすると足早に
『蒼の隊』。 それはルウツ皇国の中でも極めて特異な存在だった。 ルウツの主な戦力は、色分けされた名で呼ばれるのが習わしである。 かつてロンダート家が所属し、皇宮警備や皇都の治安維持を主な任務とする皇帝直属の『朱の隊』。 皇帝を支える代表的な五つの伯爵家がもつ『緑』・『白』・『黒』・『黄』・『紫』の各隊。 そしてユノーが今回配された『蒼の隊』である。 『蒼の隊』はいかなる門閥にも属さない、流れの傭兵や、のし上がろうとする平民、そして失地回復をもくろむ没落貴族などから構成される、いわば混成部隊だった。 そのありとあらゆる階層出身の混成部隊を率い、由緒ある五伯家以上の働きをさせているのは、格を重んじる皇国で唯一の平民出身の司令官だった。 記録上の軍歴は約二年半。 だが初陣より一部隊を率いて以来、未だ敗戦を知らない。 その平民出身の彼のことを、庶民は尊敬を込めて、敵国はこれ以上ない畏怖の念を込めて、そしてルウツの高官や名だたる貴族達は蔑みを込めて、こう呼んでいた。 『無紋の勇者』と。 だが、華々しい働きとは裏腹に、その素性はあまり人々には語られていない。 解っているのは、司祭館にある孤児院で育ち、ルウツの大司祭であるカザリン・ナロード・マルケノフの養子となった、という事。 もっともこの養子縁組は、平民である彼が一部隊を率いる『勇者』の位を得るために、子爵家の出身の大司祭が動いた形ばかりのものだとも言われている。 シーリアス・マルケノフ。 それが、その渦中の人物の名前だった。彼を直接知る人は、口をそろえて言う。 あの人は得体の知れない人だ、と。 深い藍色の瞳は常に無表情で、何を考えているのかを決して他者に悟らせることはない。 そして、自分以外の存在はおろか、自分自身にさえも関心が無いように見える。そう評する人もいた。 噂には当然
この一歩一歩が、自分を確実に死へと導いている。 そう思うと、ユノーは情けなくも身体の震えを止めることが出来なかった。 騎馬の群がたてる規則正しい金属音に混じって、ユノーの手綱を握る指先がカチカチと小刻みな音を立てていた。 何事かと彼の脇をすり抜けていく古参の騎兵や騎士達は、くすんだ癖毛の金髪と優しげな水色の瞳のせいで実年齢よりも幼く見えるユノーの顔をのぞき込む。 そして彼らは等しく同情するように溜息をついて、ユノーを追い越していく。 恐らくユノーの置かれた状況を理解してのことだろう。 この『寄せ集め隊』には、しばしば同じような境遇の人間が配置されるのが慣例となっているのだから。「初陣なのか?」 急に背後から声をかけられ、驚きのあまりユノーは馬から落ちそうになる。 何より、こんなに接近されるまで気配を感じ取ることが出来なかった自分自身を、ユノーは恥ずかしく思った。 そんな自己嫌悪に捕らわれながらも、彼はようやく鞍の上に腰を落ち着ける。 すると、声をかけた当の本人はあっさりと馬首を並べる。 こちらを見つめるその鋭い視線を、ユノーは無言で受け止めた。「初陣で騎士待遇か。さすがは血筋がはっきりした貴族様だな。どこの馬の骨とも解らない俺とは大違いだ」 皮肉混じりに投げかけられた言葉を、ユノーは珍しく怒りを含んだ声で否定した。「そう言われても今回は仮待遇です。今は貴族籍から除名処分中なので、この戦いで死んででも軍功をあげなければ、本当に家名が取りつぶしになってしまいます」 身分を盾にして遊びに来たわけではない。 そう生真面目に答えるユノーに、横に並ぶその人は含み笑いで応じる。 更なる怒りを感じながら彼は隣に並ぶその人を注意深く観察した。 年の頃は、さして変わらないように見えた。 せいぜい一つか二つ違い、というところだろう。 けれど、その人が身にまとっている空気は、明らかに幾度も修羅場をくぐり抜けてきた人の……戦場に生きる人のそれだった。 それを裏付けるよ
この年、大陸統一歴一四八年は、戦で幕を開けた。 エドナのマケーネ大公配下ロンドベルト率いる北方方面駐留軍イング隊が、その駐屯地であるアレンタ平原を出、国境を接するルウツ領セナンへ攻撃を仕掛けた。 対するセナンの国境警備隊は、その黒一色の旗印を見て恐怖を覚え、一戦も交えることなく撤退してしまった。 それに呼応するようにエドナのアルタント大公は配下のシグル隊を、古都バドリナードにほど近いルウツ皇国領ルドラへ進軍させたのである。 古の都バドリナードは大帝ロジュア・ルウツが大陸統一の足がかりとした要地にして、現在はその大帝が眠る場所、言わば聖地である。 それを自らの手中に収め、優位に立つべくルウツ皇国とエドナの両大公家はその機会を虎視眈々とうかがい、牽制しあっていた。 このままでは、バドリナードはがいずれ二つの部隊から挟み撃ちされ、エドナの手に堕ちるかもしれない。 その事態を憂慮した宰相マリス侯は皇帝に対し出兵を進言した。 マリス侯を後見人として即位した病弱なルウツ皇帝メアリはその案を採った。 かくしてルドラへの出兵はなし崩しに決まった。 しかし、どの部隊を派兵するかでまた一騒動が起きた。 宰相マリス侯は、由緒ある五伯家のいずれかを、と提案した。 一方で皇帝の妹姫で、近衞と皇都の警備を担う『朱の隊』を預かるミレダ・ルウツが真っ向から反対した。 曰く、今必要なことは、権威や名誉ではなく確実に勝つという裏付けである、と。 皇国の現状を見ればそれは当然のことであるが、マリス侯は渋った。 それが犬猿の仲であるミレダの案であり、何よりマリス侯は『蒼の隊』その物を毛嫌いしていたからである。 だが自らも武人であり、しかも皇帝に連なるミレダの言葉に反論できる者はいなかった。 そこまでの命知らずは、存在しなかったのである。 こうして渋々ながらもマリス侯は蒼の隊を派兵することを了承した。 しかし宮廷でそんな裏事情があったなどと言うことを、最前線の人間は知る由もない。 ただ
本陣の天幕は、陣の中央にある。 一際大きな天幕の前で呼吸を整えてから、恐る恐るユノーは入口の幕を上げた。 広い内部には、ルドラ地方の地図が広げられており、事細かに敵の布陣状況が記入されている。 上座に座るセピアの髪の司令官は、面白くなさそうにそれを見つめていた。 申し訳なさそうに足を踏み入れ、邪魔をしないように細心の注意を払いながら最末席についたユノーには、全く興味がないようだった。 そして、各小隊長級以上の人々が三々五々入ってくる。 その度毎にユノーは一々立ち上がり、黙礼する。 それに気がついたシグマは、にやりと笑いながら親指を立ててそれに応じる。 共に入ってきたカイは、先程の話などまるでなかったかのようにいつもの穏やかな笑みを返してきた。 やがて全ての席が埋まる頃を見計らうかのように参謀長が姿を現し、それを合図に軍議は始まった。 まず発言したのは、最新の状況を実際に目にしてきた斥候隊長である。 押し殺したような声でぼそぼそと戦況が述べられ、その言葉に応じて地図に書かれた矢印は長く伸ばされる。 そして敵軍進路の延長線上には、古都バドリナードがあった。「直接バドリナードをおとそう、という訳か。確かにそれが一番手っ取り早いか」 面白くなさそうに言う司令官に、参謀長は顔を真っ赤にして怒鳴った。「そのように悠長なことを言っている場合ではありません! 一刻も早く物騒なエドナの逆賊共を……」「見る限り、相手の補給線はぎりぎりの所まで伸びている。周囲の村を二つ三つおさえれば、勝手に自滅してくれるだろう」「しかし、それでは時間がかかりすぎます! 陛下よりお預かりした貴重な兵員を、長期間危険にさらすような愚かな策は……」 立ち上がり、さらに激高する参謀長。
窓の外には『平和な日常』がある。 朝目覚め、昼働き、夜眠るという、戦いとは縁もゆかりもない日々が。 果たしてこの大陸て、無数の人々が戦火によってその生涯を終えていることを、どれほどの人間が知っているのだろうか。 何の変哲のない、ありふれた日常を夢見て死んでゆく人々を心に留めている人間がどれだけいるのだろうか。 そんなことを考えながら、ロンドベルト・トーループは笑みを浮かべた。 皮肉に満ちた死神の笑みを。 ザハドの戦が終結してから、十日と少しが経過した。 本来ならば本隊と共に任地アレンタへ戻っているはずの彼は、エドナ宗主であるマケーネ大公直々の命令により、エドナの首都に滞在することを余儀なくされていた。 彼にとって、首都は最も多感な少年時代を唯一の肉親である父親と過ごした場所である。 しかし、その父は既にこの世を去り、残っているのも楽しい思い出ばかりではない。なぜなら武家の家に生まれたにもかかわらず光を持たなかった彼は、力が発現するまで父親との関係はあまり良いとは言えなかったからである。 今回も待っている運命は十中八九、彼にとって喜ばしいものではないだろう。 その根拠は、彼自身が一番良く知っている。 屈辱的な負け戦となったこの度のザハドの戦い、そのきっかけを作ったのは、ロンドベルトに他ならなかったからである。 常勝軍団イング隊を率いザバドの地でシグル隊と合流し、敵蒼の隊を殲滅(せんめつ)する。それが今回彼に下された命令だった。 が、彼は意図的に南下を遅らせシグル隊を単独で敵にぶつけ、ほとぼりが冷めようといったところで行軍を再開したのである。 結果、イング隊の損害は皆無に近かったが、不幸なシグル隊は壊滅的被害を受けた。 自軍を守るために最良の方法を取ったわけではあるが、シグル隊を派兵したアルタント大公が黙っているはずがない。 エドナでは
国境の向こう側にいる人間は、この風景を見たら何と思うだろうか。 自らが犯した罪の重さを目の当たりにし、深く後悔するだろうか。それとも、最早何も感じぬほど既にその神経は麻痺しているのだろうか。 丘陵を埋め尽くす無数の墓碑を見やりながら、エドナ連盟アレンタ方面軍通称イング隊司令官付き副官ヘラ・スンは深々とため息をつく。 物言わぬ墓碑の群れは、戦場から帰還した彼女達を出陣した時とまったく変わらぬ様子で迎えた。 いや正確に言うと、その数は出陣時よりも増えているかもしれなかった。 戦が続く以上死者は増える。わかりきったことなのだが、いざそれを改めて目の前に突きつけられると、言葉も無かった。 ここは大陸の北の果て。 大陸全土で信奉されている『見えざるもの』の聖地にもっとも近い場所、と言えば聞こえはいいのだが、早い話が僻地である。 その最果ての地に駐屯しているのが『不敗の軍神』、もしくは『黒衣の死神』と恐れられているロンドベルト・トーループである。 そのような名声を得ている人物が、なぜ首都から離れたこんな所に配されているのか。 理由は、彼が戦において常に紛うことなく敵の進路を言い当てるからである。それはまるで不思議な力に裏付けられているようであった。 事実ロンドベルトは不可思議な力を持っていたのだが、それを知るのは上層部のごく一握りの人物と副官のヘラに限られていた。 その能力をもってして、権力の転覆を謀られたらたまった物ではない。 エドナの宗主は、数ある大公家から持ち回りで選出されるのだが、普段いがみ合っていた彼らの意見はその点では一致していた。 そして、下された命令にロンドベルトが従ったのは、権力者達の考えが至極真っ当だったからである。 ──下手に命令に背いて、付け入る隙を与える訳にはいかないだろう?── 言いながらロンドベルトが笑ったのは、初めてその力のことを聞い
深淵の闇の中に、漆黒の衣服を身にまとった男がいる。黒い髪に黒い瞳を持つその人は揺らめくランプの炎を見つめていた。 いや、正確に言うと見えてはいないのだが、彼の脳裏には仄かなその光が確かに映し出されている。 彼の黒玻璃の瞳は、生まれつき光を持たない。 けれど、持って生まれた司祭に匹敵するその『力』が、あらゆる物を見ることを可能にしていた。 目の前にあるランプの炎はもちろんのこと、この部屋に置かれた調度品の配置もはっきり見えている。無論その力は戦場でもいかんなく発揮され、幾度となく混戦を勝利へと導いてきた。 その不思議な能力で味方からは神格視され敵からは恐怖の対象となっている彼の名は、ロンドベルト・トーループ。『不敗の軍神』『黒衣の死神』などという二つ名を持つ彼はだが、今は少々というよりかなり不機嫌だった。 なぜなら戦から首都へ無事帰還し軍本部へ戦況の報告に訪れるなり、明確な理由の説明もなく軟禁に近い状況に置かれてしまったからである。 静けさの中、扉を叩く音が響く。 入れ、との声に応じて室内に入ってきたのは、まだ年若い女性だった。 彼と同様、黒衣に身を包んだ女性の名は、ヘラ・スンといい、ロンベルトの右腕と言っても良い存在で数少ない彼の腹心の部下である。その手には、一枚の紙が握られていた。 「騒ぎの原因は、解ったかな?」 彼がここに押し込められる少し前から、首都にはいつになく騒がしい空気が流れていた。彼は帰還するなりそれを感じ取り、副官であるこのヘラに軟禁される直前、密かに調査を命じていたのである。 危機的状況であるにもかかわらずどこか面白がっているようなその声に、女性は呆れたような表情を浮かべつつも一つうなずいた。 「どうやら街に、敵国の密偵が潜り込んでいたようです。……捕縛された一人は残念ながら尋問中に自死したのですが、こんな物を」 差し出されたそれを手に取ると、彼はわずかに目を細める。 同時に、鮮明な画像が彼の脳裏に広
久しぶりに立った戦場は、ひどいものだった。まったく統制のとれていない敵軍は、勝機も見えないのに突撃を繰り返してくる。そのたびに無数の敵の屍(しかばね)が自陣の前に積み上がり、鉄臭い血の匂いが周囲に漂う。 自分が配備された場所は大隊長の守備という最前線から離れた場所であったから、直接敵と切り結ぶことはなかったが、遠目に見ても敵の攻撃はあまりにも無謀に見えた。やがて、臭覚が麻痺した頃、斥候から情報が入ってきた。 曰く敵の司令部は、圧倒的不利な状況に全軍を置いて逃げ出したところを運悪くこちらの伏兵とぶつかり、あっけなく崩壊したらしい。戦場に残された部隊は指揮系統を失い、戦線を維持するのも困難な状況である、と。 義父の心配は、どうやら取り越し苦労だったようだ。そう安堵の胸を撫で下ろした時だった。後背の大隊長の部隊がにわかに動き出した。 指揮系統を失った敵を叩きに、大隊長自ら前線に出るのだろうか? そんなことを思った刹那、単騎がこちらに向かってくるのが見えた。ほかでもない、息子だった。いぶかしげに見やる自分のもとに駆け寄ると、息子は早口にこう告げた。「父……中隊長殿、敵が来ます!」 自分は耳を疑った。自棄になった一部の敵が血迷ったのだろう、そう思った。だが、息子は青ざめた表情で一点を指差しさらに続ける。「あちらの方角です! 大隊長殿はすでに退避を初めておられます。中隊長殿は……」 息子が言い終える前に、息子が指差した方向から無数の矢が飛んできた。盾を構えるのが間に合わなかった者たちが、ばたばたと落馬していく。間近に落ちた矢には、所属する部隊を示す特徴は見られなかった。 一体どういうことなのだろう。 疑問に思ったのもつかの間、無数の馬蹄の音が近づいてくる。そこに現れた部隊の大部分を占めるのは、不揃いの武具を身にまとい、思い思いの武器を構えた一団だった。おそらくあれは……。「傭兵だ! 注意しろ!」 しかし、個々の武勲に固執し徒党を組むことの少ない傭兵達が、なぜ統制されているのだろう。し
初陣以来、息子は着々と軍功を重ね、自分など足元にも及ばないほどの速さで出世していった。それは無論『目』という特異な力もそうだが、それ以上に武芸に励んだ結果でもあり、勇敢さが評価されたためでもあった。 駄馬の家系から駿馬が生まれたようなものだと当初自分は自嘲気味に思っていた。しかし、息子はそんな自分を心底尊敬してくれていると理解したとき、その考えは消えてなくなった。ただただ息子が無事に生きて戻ることを願い、共に生きながらえることができたことを喜ぶのが無二の楽しみになっていた。 そんなことが続いて、何年かの時が流れた。息子は大隊長付の副官的立場となっていた。そして自分のもとにも新たな辞令が届けられた。久しぶりの前線勤務、役職は中隊長だった。 それを知った息子は、父上と共に戦えるのですね、と心底嬉しそうな表情を浮かべていた。だが、目を輝かせている息子とは裏腹に、自分はこの人事に何かきな臭いものを感じていた。 自分が前線を離れて、もうかなりの年月が経つ。鍛錬こそ怠ってはいないが、実戦におけるカンというものはだいぶ鈍っているだろう。そんな自分を、なぜ今更前線に引っ張り出そうというのだろうか。 しかし、自分は国に仕える武人である。どんな裏があろうとも、下された命令には従わなければならないのだ。吐息を漏らしながら、自分は自らの武具を手入れしている息子を見やる。 志願して武人になった息子ではあるが、果たしてそれは息子の本当の意思だったのだろうか。自分は、卑しい利己心から息子の可能性を潰してしまったのではないだろうか。そして、唯一の家族である息子を、何やら恐ろしいものの中に巻き込んでしまったのではないだろうか。自分は、人の親として許されざることをしてしまったのかもしれない。 しかし、なぜこんなことを思うのだろう。自らの思考に疑問を抱きつつ、自分は武具を整えていた。 ※ 出陣を目前に控えたある日の昼下がり、かつての上官……つまりは亡くなった妻の父であり、息子にとっては祖父にあたる人が、珍しく家を訪ねてきた。 妻のことがあってからすっかり疎遠になっていた人が、一体どうして。
息子の決意を聞いた自分は、それまで教育係に丸投げにしていた鍛錬にまめに顔を出すようにした。時には直接剣をあわせたり、組手をした。加えて用兵術の方は知人のつてを頼って、かつて何度も武勲を上げた高名な退役指揮官の元へ通わせることにした。 直に剣をあわせてみると、驚くべきことに息子はかなり筋が良かった。一方で用兵術の方も大変飲みこみが早いようで、このままいけばどこへ出しても恥ずかしくない指揮官になれる、との有り難い言葉を頂いた。 いつしか息子の身長は自分よりも高くなり、成年を迎えた息子は、徴兵を待たずに志願して自ら武人となった。配属されたのは偶然なのか忖度なのかは定かではないが、所属する分隊こそは違うが自分と同じ部隊だった。 複雑な思いにとらわれる自分をよそに、辞令を手にした息子は自分に向かって深々と頭を下げこう言った。「今まで私を育ててくださり、感謝のしようもありません。この上は父上の名を汚さぬよう、立派な武人となってみせます」 そして、以後は一兵卒として厳しくご指導いただければ幸いです、とはにかんだように笑って見せた。 もっともその頃は、息子の剣技の腕は自分よりも遥かに卓越したものとなっていたので、教えられることなど無いも同然だった。しばし悩んたあと、自分は息子の肩を叩きながら、こう告げた。 より長く戦ってこそ国のためになる。決して、死に急ぐな。必ず生きて帰ることを考えろ、と。 ※ 程無くして、我々に出陣の命が下った。自分は後方の補給部隊、息子は前線の攻撃部隊の配属だった。 敵国の内部に張りめぐらせていた情報網が崩壊した今、敵の動きをつかむのは至難の業だった。戦闘は後手後手に周り、攻撃を仕掛けてくる敵を迎え撃つのに充分な準備期間を取ることはなかなか難しかった。 短期間で補給計画を練る自分をよそに、息子は支給された真新しい武具を嬉々として手入れしていた。 果たして、また息子に生きて会うことができるだろうか。 気がつけば自分はそんなことを考えていた。そして内心首をかしげる。やはり自分の内面は変化したのではないだろうか。 それまで自分は、
諜報機関の知人に会い家に戻ってからというもの、息子は部屋に閉じこもってしまった。もともと自分と居間で話すことなどほとんどなかったが、その様子は明らかにおかしかった。なぜなら教育係による訓練にも出ては来なくなってしまったのだから。 辛うじて乳母が運んでいる食事は受け取っているようだが、それもほとんど食べてはいないようだった。深夜には時折泣き声やうめき声が漏れ聞こえてくるので、たぶん満足に眠れていないのだろう。 そういえば自分も思い返してみれば、初陣を生き抜いて戦場から戻ってきたあとには、しばらくの間眠ることも食べることも満足にできなかった。成人を迎えていた自分ですらそうだったのだ。それを考えれば、無理もないことだろう。 やはり異国の凄惨な光景をいきなり眼前に突きつけられるというのは、年端もいかない息子にとっては、受け入れ難いほど衝撃的なものだったのだろう。命令だったとはいえ、配慮が足りなかった。そう自分自身を恥じた。 そしてふと、自分はあることに気がついた。それまで愛情のかけらすら持てずにどうしたらよいかわからなかった息子のことを、自分は今こうして心配している。加えて、申し訳ないことをしたと後悔の念を抱いている。これは一体、どういうことなのだろう。 自らの中に突如として生まれたもやもやとした感情をうまく整理することができず、自分は室内をうろうろと歩き回る。果たして自分は一体どうするべきなのだろうか。熟考した末ある結論に達し、自分は意を決して息子の部屋へ足を向けた。 息子の部屋の扉は、その心の内を示すかのように固く閉ざされていた。大きく息をついてから、扉を三度叩いた。もちろん返答はない。 けれど、ここで戻ってしまっては、自分は二度と息子と向かいあうことはできない。そう自らを奮い立たせ、扉を押し開いた。 薄暗い部屋の中で、息子は寝台に突っ伏して低く泣いていた。一大決心をしてここに来たつもりなのに、自分は息子に対して何と言葉をかけてよいかわからず、ただ戸口に立ち尽くしていた。 と、不意に泣き声がやんだ。おそらくは私の気配に気づいたのだろう。そして、息子は涙にぬれた黒い瞳をこちらに向けてきた。「…
敵国内の情報網を統括する知人は、すぐに息子を連れてくるように自分に告げた。それを聞き、自分はとあることを察した。我が国は今、重大な問題に直面しているという話が水面下で持ち上がっていた。息子の目は、その問題を打破するのに適したものだったからだ。 初めて自分と二人で外出すること、しかも外出先が自分の職場と関係がある場所であると知った息子は、年相応の子どもらしく嬉しそうだった。自分はそんな息子に若干の後ろめたい気持ちを感じていたが、これも息子のためなのだと無理矢理に思い込もうとしていた。 自分と息子を執務室に入れると、知人は座るようにうながした。そして、猫なで声で息子に向かいこんなことを言った。「君か。この国を助けてくれる有望な少年は」 初めての場所に加え、それなりの地位を持つ人物に対峙しているということもあり、息子はかなり萎縮しておびえている。かすかに震えながら、無言で一つうなずくのが精一杯のようだった。 その様子を察したのだろう。知人はいかつい顔に似合わぬ笑顔を浮かべてみせた。「そう固くなることはない。話はお父上から聞いているよ。君は見えないけれど見えているんだろう?」 まったく矛盾するようなその問いかけに、息子は戸惑いながらももう一度うなずいた。その反応に知人は満足そうな表情を浮かべると、卓に片肘を付きながら息子ににじり寄る。「どういうふうに見えているのか、教えてくれないか? 私の顔は、どうかな?」 すると、息子はぽつりぽつりと話し始めた。ふくよかな顔に太い眉に立派なひげ。息子は知人の顔の特徴を紛うことなく答える。その言葉は知人を満足させたようだ。にやりと笑うと、知人はおもむろに本題へ入った。「どうだろう、その不思議な能力を、この国のために貸してはくれないかな?」 思いもよらないことだったのだろう。息子は不安げに隣に座っている自分の顔をのぞき込んできた。 無理もないことだろう。いきなりこんなところへ連れてこられ、力を貸せなどと言われるのだから。 知人は鷹揚に頬杖を付き、睨めるような視線で息子を見やった。「
翌日、自分は息子と乳母を伴って聖堂へと向かった。 見えざるものに仕える神官にとっては禁忌である殺人をなりわいとする武人の自分である。当然のことながら信仰心などは皆無だ。聖堂など、自分にとってはもっとも不似合いな場所であり、めったに足を踏み入れることのない場所なことは、自分が一番良く知っている。 最後にこの場所を訪れたのは、妻の葬儀のときだったかもしれない。定められた日に行われる礼拝に預かることも皆無であるから、当然息子がここに来たのは初めてのことだった。 そんな信仰に薄い家族が血相をかえて飛び込んできたものだから、この地域の聖堂を預かっている主任司祭は驚いたような表情を浮かべながらも我々を迎え入れた。 光指す祭壇を背にして立つ主任司祭は、向かいあう長椅子に腰をかけている我々を、一体何事かとでも言うように見つめている。 自分は、物珍しそうに堂内を見回す息子に視線を送る。その様子はまるで普通の子どものようだった。しかし……。 意を決して自分は立ち上がり、率直に主任司祭に告げた。どうか息子を診てはくれないか、と。 それでもまだ要領を得ないような主任司祭に、自分はそれまでのことをとつとつと語った。 知っての通り、自分の妻は息子をこの世に生み出すのと引き換えにその生命を失ったこと。 妻が護ったとも言える息子は、武人の跡継ぎとも言える立場にあるのに目が見えないこと。 このようなことが重なり、自分は息子をずっと愛せずにること。 そんな息子が昨日、顔に傷を負った自分を前にして、それを心配する言葉を投げかけてきたこと。 今まで胸につかえていたことを一息に話し終えると、自分は力が抜けたかのように長椅子に深々と腰を掛けた。一方の主任司祭は、時折うなずきながら自分の言葉にじっと耳を傾けていてくれていた。 では、少々お待ちください、そう断ってから、主任司祭は乳母と共に聖堂の調度品について語り合う息子をしばらくと見つめる。それから息子と乳母の方に歩み寄った。 息子のかたわらに立った主任司祭は、息子に向かい事細かに聖堂内の彫刻や調度品について説明を始める。息子は黒い目を輝かせてその説明を聞いていた。 その様子を注意深く見ていると、主任司祭は息子の目の前で指を動かしてみたり、遠くにある彫刻を指さして息子の目