登入画面の中で芝居がかった微笑みを浮かべる御子柴の顔を、小夜子は冷ややかに見つめた。
彼のような他者を数字や道具としか見ない人間にホテルを奪われれば、従業員たちはあっという間に使い捨てられるだろう。 テレビで公言した約束など、彼にとっては束縛にならないに違いない。ふと、現在刑務所にいる父親の顔が脳裏をよぎった。
自分が継母から理不尽な労働を強いられ、罵倒されていても、ただ見て見ぬふりをしていた男だ。 父親は保身と自分の利益しか頭になく、家族すら守ろうとしなかった日和見主義を決め込んでいた。御子柴と父はタイプこそ違う。
だが他者の人生や尊厳を全く省みないという意味で、同じ穴のむじなだった。(あんな無責任な人間に、私たちのサンクチュアリを渡すわけにはいきません)
小夜子の胸の奥で、静かだが強い怒りの火が燃え上がる。
今の彼女は、かつて白河家で虐げられていた無力な娘ではない。 愛する夫と共に、この場所を守り抜くという確固たる意志を持った総画面の中で芝居がかった微笑みを浮かべる御子柴の顔を、小夜子は冷ややかに見つめた。 彼のような他者を数字や道具としか見ない人間にホテルを奪われれば、従業員たちはあっという間に使い捨てられるだろう。 テレビで公言した約束など、彼にとっては束縛にならないに違いない。 ふと、現在刑務所にいる父親の顔が脳裏をよぎった。 自分が継母から理不尽な労働を強いられ、罵倒されていても、ただ見て見ぬふりをしていた男だ。 父親は保身と自分の利益しか頭になく、家族すら守ろうとしなかった日和見主義を決め込んでいた。 御子柴と父はタイプこそ違う。 だが他者の人生や尊厳を全く省みないという意味で、同じ穴のむじなだった。(あんな無責任な人間に、私たちのサンクチュアリを渡すわけにはいきません) 小夜子の胸の奥で、静かだが強い怒りの火が燃え上がる。 今の彼女は、かつて白河家で虐げられていた無力な娘ではない。 愛する夫と共に、この場所を守り抜くという確固たる意志を持った総支配人だ。「この動画が、今朝からスタッフたちのスマホに次々と流れてきているようですね。皆が動揺するのも無理はありません」 小夜子は冷静な口調で隼人に告げた。「ああ。巧妙な世論誘導だ。圧倒的な資金力を誇示して、こちらの結束を崩しにかかっている。外から揺さぶりをかけて、内部の不満をあおる気だろう」 隼人も腕を組んだまま、険しい視線をモニターに向けていた。◇ その頃、ホテルの地下にある従業員用のロッカールームは、別の騒ぎに見舞われていた。(何かしら) 小夜子が状況を確認しようと近づくと、開け放たれたドアの隙間から声が漏れてくる。 出勤してきた清掃部門やレストランのスタッフたちが、金属製のロッカーを開けるなり次々と驚きの声を上げていた。「ちょっと、これ何」 女性スタッフの1人が、ロッカーの隙間から滑り落ちた1枚の紙を拾い上げた。 上質なコート紙にフルカラ
初夏の澄んだ青空とは対照的に、ホテル『サンクチュアリ』の従業員専用入り口は、朝から異様な空気に包み込まれていた。 出勤してくるスタッフたちは皆、片手にスマートフォンを握りしめて、数人ずつの輪を作って小声で話し込んでいる。 彼らの視線は画面に釘付けだ。時折、不安と興奮の入り交じったため息が漏れていた。「これ、本当かな。ちょっと信じられないんだけど……」「でも、ニュースで本人が言ってるんだから、嘘じゃないんじゃない?」「だとしたら、すごいことだよ。生活が全然変わってくる」 そんなヒソヒソ声が、あちこちから聞こえてくる。 黒崎小夜子は、仕立てのよいグレーのパンツスーツの裾をさばきながら通路を歩いていた。 歩きやすいローヒールのパンプスが、磨かれた床を規則正しいリズムの靴音を立てている。「おはようございます」 小夜子が声をかけると、スタッフたちはびくっと肩を跳ね上げた。慌ててスマホを背中に隠している。「あ、おはようございます、総支配人……」 彼らはそそくさと視線をそらすと、足早にロッカールームへと消えていく。 いつもなら「今朝は冷えますね」といった他愛のない会話が弾むはずなのに、冷ややかな隙間風が吹いているようだった。(みんな、様子がおかしいわね) 小夜子は足取りを速め、社長室へと向かった。◇ 社長室のドアを開けると、隼人が深刻な顔つきで大型モニターを見つめていた。「隼人さん、おはようございます。表のスタッフたちの様子が、どうも……」「ああ、小夜子。これを見てくれ」 隼人がモニターを示す。そこには、昨晩放送された経済ニュースの録画映像が流れていた。 画面の中央には、高級なダブルのスーツを着こなした御子柴が座っている。 自信に満ちた笑みを浮かべ、インタビュアーの質問に滑らかに答えていた。
2人きりになった社長室で、隼人は小夜子の肩に手を置いた。「小夜子。怖いか?」 彼女は首を横に振る。絹糸のような黒髪がさらさらと揺れた。「いいえ。隼人さんが隣にいてくれれば、怖いことなどありません。それに私には守らなければいけない家族が、たくさんいるから」 小夜子は、夫の手の上に自分の手を重ねた。 その手は家事と仕事で少し荒れている。だが今の彼女にとって、それは誇り高い勲章のようなものだった。「御子柴さんに見せてあげましょう。私たちが築き上げた、この『聖域』の強さを」 小夜子は体の内側から、静かな力が湧き上がってくるのを感じた。 それは厳しい環境で花開いた者だけが持つ、しなやかで折れない強靭さだ。 小夜子の脳裏にふと、懐かしい人々の面影が浮かんだ。 愛人の立場で小夜子を産みながらも、娘に愛情を注いでくれた母。 白河家で唯一、小夜子を慈しんでくれた執事の藤堂。 今の小夜子がいるのは、彼らのおかげでもある。 彼らの思いに応えるためにも、こんなところで負けるわけにはいかない。(お母さん、藤堂さん。見ていて。私が授かった知識と教養、そしてこの場所で得た絆の全てを使って、私たちは勝利してみせるわ) 窓の外では夕闇が迫りつつあった。 けれどホテルのロビーには煌々と明かりが灯り、従業員たちがそれぞれの持ち場で誇りを持って立ち働いている。 その光はどんな巨大資本の影をも跳ね返すほどに、強く明るく輝いていた。 全面戦争の火蓋は、今こそ切られたのだ。「戦いましょう、隼人さん」「ああ。徹底的にな。二度と起き上がれないよう、グラン・ヘリックスと御子柴を叩きのめしてやろうじゃないか」 2人は頷き合う。 黒崎小夜子の総支配人としての、1人の女性としての最大の試練が始まろうとしていた。◇ 小夜子は社長室を出ると、ロビーへと降りる階段の途中で足を止めた。 フロアでは、実加が客
(私たちの聖域が……みんなの居場所が、壊される……) 小夜子は強く手を握りしめた。 隼人の方を向くと、彼はモニターを見つめたまま微動だにしなかった。 その表情は嵐の前の海のように静かで、深い。「黒崎社長、対抗策はどうしますか? ホワイトナイトを探しますか? 自社株買いでしょうか?」 翔吾が言う。 ホワイトナイトとは、買収防衛策の1つだ。 新たに友好的な買収者(ホワイトナイト)を見つけて協力し、買収もしくは合併する手法である。 ホワイトナイトにとっては想定外の買収になるので、資金繰りの問題が発生する。そう簡単には見つからないのが普通だ。 翔吾の言葉に隼人は首を横に振った。「……今のキャッシュフローでは、タイタン・キャピタルの物量作戦には太刀打ちできん。正面から買い増しを挑むのは下策だ」「じゃあ、指をくわえて見ていろと言うのですか!?」「そうは言っていない」 隼人は立ち上がると、窓の外に広がる東京の街並みを見下ろした。「御子柴は1つ大きな間違いを犯している。彼は『人間』を、ただのコストとしか見ていない。だがこのホテルを支えているのは、数字では測れない『信頼』という資産だ」 隼人が小夜子に向き直った。 その瞳には、絶望の影はない。「小夜子。これはビジネスという名の戦争だ。奴らは札束で人の心を買い叩こうとしている。だが、お前が育てたスタッフたちのプライドまで買えると思ったら大間違いだ。そうだろう?」 小夜子は隼人の言葉を聞いて、深く息を吸い込んだ。 肺の奥まで新しい空気が入り込み、混乱していた思考が少しずつ整っていく。(そうね。私は元々、捨てられた娘。何も持たずに白河家を出て、そこから一歩ずつ、自分の手で居場所を作ってきた。今更、お金で脅されたところでどうということもありません) 小夜子は一歩前に踏み出した。「隼人さん。私にできることを教えてください。総支配人として、
「これは……仕掛けられているな」 隼人の声が低く、厳しく響いた。 このような勢いで株価が上がるのは、あまりにも不自然だ。通常の取引ではありえない。 隼人はすぐに買い占めの可能性に気づいた。「ただの買い占めじゃない。浮動株が根こそぎ攫われてる。犯人は――」 その言葉を遮るように、壁の大型モニターが自動的にニュース速報に切り替わった。『速報です。グラン・ヘリックス日本支社が、ホテル大手アーク・リゾーツに対し、敵対的TOB(株式公開買付け)を開始すると発表しました。買付け価格は市場価格の50パーセント増し。グラン・ヘリックスは、背後に控える北米最大の投資ファンド「タイタン・キャピタル」からの全面的な資金援助を受けており――』 画面には、高価なスーツに身を包んだ御子柴玲二の姿が映し出されていた。 御子柴はカメラに向かって、薄ら笑いを浮かべながら宣言した。『アーク・リゾーツの経営陣は、前時代的な「おもてなし」という幻想に執着し、株主の利益を損なっている。我々グラン・ヘリックスは、最新のAI技術と徹底した合理化により、この組織を真の収益モデルへと変革させる。感情という名のバグを排除し、完璧なシステムを構築する。そうして向上した収益は、株主へと還元する。それが株主への誠意だ』 小夜子は思わず身を乗り出した。ローテーブルに添えた手から血の気が引いている。「そんな……。御子柴さん、まだ諦めていなかったのですね」「総支配人、それだけではありません。この買付価格を見てください。市場価格の50パーセント増しなど、普通ではありえません。個人株主や機関投資家がこぞって売りに出し始めています。このままだと一週間もしないうちに、過半数を握られる可能性すらあります!」 翔吾の声には、これまでにない焦りが混じっていた。 彼の論理とデータは、アーク・リゾーツの不利をはっきりと描き出してしまっている。 部屋の中に、重い沈黙が流れた。 御子柴の狙いは明らかだ。 せせらぎ亭での完全敗北と、スキ
バックオフィスでは、黒崎翔吾が複数のモニターを並べ、複雑な数式と格闘している。「翔吾さん、少し休憩してはどうですか? 目が疲れていますよ」「……あ、総支配人。いや、これ、新しいスタッフ配置の最適化システムを組んでるんです。せせらぎ亭での経験を反映させたら、もっと効率が上がるはずだと思って」 19歳の翔吾は、かつての「冷徹なAI少年」の面影を残しつつも、その内面には温かな熱が宿り始めていた。「数字も大事だけど、人間には休息が必要ですよ。はい、目薬」「あ、ありがとうございます。……あ、そうだ。実加さんに伝えておいてください。今日のシフトが終わったら、理玖の離乳食の作り方を教えると」「あら、翔吾さんが教えるのですか?」「彼女、この前『栄養バランスとか面倒くさい』とか抜かしたんですよ。僕の論理的な献立案を無視するなんて万死に値する。だから徹底的に叩き込みます」 そっけない言い方だ。 けれどそこには実加と理玖への深い思いやりが透けて見えた。 小夜子は(ふふ、名コンビね)と思いながら、エレベーターに乗った。目指すは上階の社長室だ。 社長室の扉を開けると、そこには最愛の夫であり、最高のビジネスパートナーである黒崎隼人がいた。 彼は書類の山に囲まれつつも、小夜子の気配に気づくと顔を上げた。「小夜子、ちょうどいいところに。……その香りは、ミントか?」「ええ。少しお疲れのようだったから、リフレッシュできるハーブティーを淹れてきました。お茶請けは昨日焼いたガレット・ブルトンヌです。バターをたっぷり使ったので、脳の栄養補給にぴったりですよ」 小夜子が手際よくカップに茶を注ぐと、澄んだ液体から爽やかな湯気が立ち上る。 隼人はそれを一口飲み、深い息を吐き出した。「助かる。……お前の淹れる茶を飲むと、自分がただの『社長』ではなく、一人の『人間』に戻れる気がするよ」「まあ、大げさですね。私はあなたの妻であり、







