로그인これまで翔吾は常に比較され、評価される対象だった。
毒母にとっては、金を引き出すための道具。
父にとっては、過ちで生まれた不必要な息子。そして兄にとっては、出来の悪い弟。
そこには常に条件があった。優秀であれば愛する。金になれば愛する。
けれどこの赤ん坊は違う。
ただミルクをくれた、抱っこしてくれた、それだけの理由で、全幅の信頼と笑顔を向けてくる。「必要とされる」という感覚が、じんわりと胸の奥に広がっていく。
翔吾の強張っていた肩の力が抜けた。彼は指を握り返すと、少しぎこちない笑みを浮かべた。
「悪くない飲みっぷりですね」
「あうー!」
理玖はご機嫌な様子で、無邪気な笑みを浮かべた。
◇ 翌朝。 カーテンの隙間から差し込む朝日で、実加は飛び起きた。「やっべ、寝てた! チビ!?」
慌ててベビーベッドを確認す
――サンクチュアリの温かな空気とは対極にある、無機質な空間がある。 グラン・ヘリックス日本支社の社長室は、白とグレーだけで統一され、人間の体温を一切感じさせない。 立派な造りのデスクの前に立つ御子柴玲二は、手元のタブレット端末を忌々しげに睨みつけていた。 画面には、台風によって完全に倒壊したリゾート建設現場の損害報告書が表示されている。 報告書の数字はもちろん、添付された無惨な現場の写真が目立つ。 巨額の損失と工期の大幅な遅れは、誰の目にも明らかだった。 このままでは、御子柴の支社長としての手腕と判断を問われる。 最悪、進退問題にもなるだろう。「……チッ」 御子柴は舌打ちを漏らすと、タブレットをデスクに放り投げた。ガタンと乾いた音が室内に響く。 嵐の夜を思い出すと、せせらぎ亭で出された雑炊の味が、ふいに舌の上に蘇った。 冷え切った体を芯から温めた、あの素朴だが優しい出汁の味が。 その記憶が蘇るたび、御子柴のプライドはズタズタに引き裂かれる。 圧倒的な資本と最新鋭のAIを誇る自分が、あんな時代遅れのボロ宿に助けられたのだ。 彼にとってあの夜の出来事は、「恩」ではなく「屈辱」に変わっていた。「人間の熱、だと……。虫酸が走る」 御子柴はスーツのポケットに手を突っ込み、ギリッと拳を握った。爪が手のひらに食い込む。 市場競争での真っ当な勝負など、もはやどうでもよかった。 アーク・リゾーツの、そして黒崎隼人と小夜子の掲げるあの温かな理想を、根底から破壊してやりたい。 彼の掲げるAIこそ最上なのだと、知らしめてやりたい。(いいや、必ず破壊しなければならない。あんなものは認められない。認めてたまるか。私の効率は何よりも至高なのだと、証明する必要がある!) 御子柴は考える。 黒崎隼人や小夜子の脇は甘くない。 そう簡単に追い落とすことはできないだろう。 しかし、最近急激に頭角を現し
「ありがとうございます。ですが、僕1人の力ではありません。実加さんの直感、現地の従業員たちの経験。それらの変数が組み合わさった結果です」 翔吾は落ち着いた口調で言って、中指で眼鏡を押し上げた。 隼人の口元が、わずかに緩む。「その変数とやらを考慮できるのであれば、お前はもう一人前だ」 兄からのまっすぐな称賛を受けて、翔吾の胸の奥にじんわりと温かい重みが広がる。(ああ、僕はやっと居場所を見つけた。ここにいてもいいのだ) 翔吾は満たされた思いで、兄と義姉へ向かって頭を下げた。◇ 数日後、翔吾はフロントのバックオフィスで、見慣れたタブレット端末と向き合っていた。 画面にはサンクチュアリの全客室の稼働状況と、スタッフの配置データが表示されている。「……東館の清掃チーム、連続稼働時間が規定値を超えかけています。西館から2名、サポートに回してください。それから到着予定のVIPのお客様ですが、お連れ様が妊娠中との情報が入りました。アメニティをノンカフェインのものに変更し、クッションを多めに配置するよう手配を」 翔吾の指示は的確で、何より血が通っていた。 以前のように、スタッフをただの「数字」として扱うことはない。 疲労度や感情の機微といったデータ化しにくい要素を、彼独自のアルゴリズムで補完しているのだ。 同僚のホテルマンたちも、翔吾の指示に戸惑うことなく、軽快な足取りで動いていく。 同じ頃、客室フロアでは実加がハウスキーピングの業務に当たっていた。 真新しいシーツを広げ、空気をはらませてベッドにふわりとかける。シワ一つない完璧な仕上がりだ。 実加はベッドの下にしゃがみ込み、視線を這わせた。 ホコリ一つない絨毯の上に、小さなウサギのぬいぐるみが落ちているのを見つける。「おっと、こいつは迷子だな。この客室は連泊だから、今日もお客様は戻ってくる」 実加はぬいぐるみを拾い上げると、丁寧にブラッシングをして形を整
黒崎翔吾がホテル『サンクチュアリ』のロビーへ足を踏み入れた瞬間、肌を撫でる空気の質感が変わったのを感じた。(やっぱりここは別世界だ) 翔吾は無意識に、わずかに緩んでいたネクタイの結び目を正した。 館内を支配しているのは、厳密に制御された温度とサンクチュアリの象徴である百合の芳香である。 吹き抜けの高い天井が音を効率よく吸い込んで、客たちのざわめきは柔らかな残響となって空間に溶けていた。 毛足の長い絨毯がすべての足音を飲み込んでいる。行き交う人々はまるで水面を滑るかのように滑らかに移動していた。 そこには、一点の淀みもない。 フロントに立つスタッフの背筋の角度も、ベルボーイが荷物を運ぶ際の洗練された歩幅に至るまで、完璧だ。 すべての動きが、サンクチュアリという巨大な精密機械の歯車として、機能美に満ちあふれていた。 そしてそれでいて、ここは機能だけの冷たさがあるわけではない。 都会的な洗練された雰囲気と、まるで家に帰ってきたかのような温かさが同居している。 里山の古い木々や土の匂いとは対極にある、磨き上げられた聖域の気配がそこにある。(経験を積んだ今だから分かる。このホテルは並大抵じゃない。隼人兄さんと小夜子義姉さんが作り上げた、素晴らしいホテルだ) 翔吾は背筋を伸ばした。 自分もサンクチュアリ空気の一部となるべく、鋭い視線をフロントへと向けた。◇ 山内実加は、従業員専用の通路を小走りで進む。金髪のメッシュが入った髪が肩の高さで弾んだ。 向かう先は、社内保育所「こぐまの森」だ。 ガラス張りのドアを開けると、色鮮やかなジョイントマットの上で、小さな塊がもぞもぞと動いていた。「理玖……!」 実加の声に、生後7ヶ月になる息子が顔を上げる。「あうー!」 ぱぁっと顔を輝かせた理玖は、小さな手足をごそごそと動かして、実加の方へ向かって突進してきた。 ハイハイだ。先月、せ
小夜子は自分のカップを口に運ぶ前に、翔吾のタブレットの画面に目を落とした。 数ヶ月先まで、予約カレンダーは緑色の「満室」マークで埋め尽くされている。 あの嵐の夜を乗り越え、御子柴の妨害を退けたこの宿は、もはや泥舟などではない。 誰にも負けない人気を誇る、アーク・リゾーツの立派な看板の一つへと成長を遂げていた。「素晴らしい成果ですね。翔吾さんの論理と、実加さんの熱。あなたたちがこの宿にもたらしたものは、計り知れません」 小夜子の言葉に、翔吾は少し照れくさそうに視線を逸らした。 実加は「へへっ」と鼻の下をこする。 小夜子はカップをテーブルに置き、居住まいを正した。 凛とした彼女の瞳が、2人の顔をまっすぐに見据える。「せせらぎ亭の再生ミッションは、これで一区切りがつきました」 その言葉に、スタッフルームの空気が少しだけ引き締まった。「ここに集う従業員の皆様は、もう立派にこの宿を回していけます。私たちが手綱を握り続ける必要はありません」 小夜子はふっと表情を和らげ、明確な次なるステップを告げた。「東京の本社に戻りましょう」 翔吾の目が、わずかに見開かれる。 実加も、ハッとして身を乗り出した。「戻るって……ウチら、また東京のホテルで働けるんスか?」「ええ、もちろん。あなたたちはこの現場で、ホテルマンとして最も大切なものを学び取りました。次は、アーク・リゾーツの中核である『サンクチュアリ』で、その力を存分に発揮していただきます」 小夜子の力強い言葉が、彼らの胸の奥に火を灯した。 実加が勢いよく立ち上がり、拳を突き上げる。パイプ椅子がガタッと鳴った。「っしゃあ! チビも待ってるし、東京でも暴れてやるぜ!」「暴れないでください。……ですが僕も今の自分なら、本社の巨大なシステムの中で、より人間的な価値を生み出すアルゴリズムを構築できる確信があります」 翔吾も立ち上がり、決意に満ちた表情でタブレッ
料理を口に運んだ客たちは、たちまち笑顔になった。「大根、口でとろけたぞ……! こんな甘い野菜、初めてだ」「このカブの葉っぱのご飯も、お代わりしたいくらい美味しいわね。お腹いっぱいなのが悔しい」 高級な和牛も、高級魚の鯛もない。 けれど地元の人々が育てた生命力あふれる野菜と、板前の職人魂が込められた「里山懐石」は、客の胃袋と心を確実に満たしていた。 翔吾はホールの隅に立ち、タブレットで空いたグラスの数や食事のペースを確認しながら、実加や仲居たちへ目配せで次の配膳を指示している。 おかげで客で満杯の食堂も、大きな混乱はなく次々と料理が運ばれていった。 どこを切り取っても、活気と笑顔があふれている。 客はもちろんのこと、スタッフたちもだ。 誰もが、この宿の復活を心から喜んでいた。◇ 夜が更けて、館内が静けさを取り戻した頃。 帳場の裏にあるスタッフルームで、翔吾と実加は本日の最終データを突き合わせていた。「……本日の売上目標、120パーセント達成。クレーム数ゼロ。顧客満足度のアンケートスコアも、先週の平均値を上回っています」 翔吾がタブレットをテーブルに置き、眼鏡を中指で押し上げた。「しゃあっ! 今日も完璧だったな!」 実加はパイプ椅子に深く腰掛けて、両手を頭の後ろで組んで大きく背伸びをする。 翔吾はそんな実加を見て、少しわざとらしく眉をしかめてみせた。「あなたの無駄口の多さは相変わらず非効率ですが……まあ、お客様の滞在時間を伸ばし、追加の飲料オーダーを引き出した点は、評価してあげますよ」「なんだよ、素直に褒めりゃいいじゃんか。お前の裏回しも、今日はまあまあイケてたぜ。インテリ」「まあまあ、ではありません。完璧なシステム、アルゴリズムです」 翔吾がむっとした顔で言い返す。 相変わらず憎まれ口を叩き合っている
翔吾の構築するシステムには、客の感情の動きや従業員の疲労度といった「人間の熱」という変数が、完璧に組み込まれている。 データと人間味の融合が、この宿の運営をかつてないほどスムーズに回していた。「お荷物、お車まで運びますよ! 忘れ物はないッスか?」 玄関口では、実加が大きなキャリーケースを両手に提げて笑っていた。 金髪のメッシュを揺らし、持ち前の体力と根性で次々と客の荷物をさばいていく。「お姉さん、力持ちねえ。昨日もたくさんお話ししてくれて楽しかったわ」「へへっ、ウチ、これくらいしか取り柄がないんで! またウチのチビの話、聞いてくださいね!」 実加がニカッと歯を見せて笑うと、年配の女性客もつられて目を細めた。 彼女の裏表のない明るさと飾らない接客は、古参の仲居たちや板前だけでなく、訪れる客の心をもがっちりと掴んでいる。 ヤンキー気質からくる面倒見の良さが、最高のホスピタリティとして機能していた。(翔吾さんの頭脳と、実加さんの行動力。2人の歯車が見事に噛み合っていますわね) 小夜子は、慌ただしく立ち働く彼らの背中を、一歩引いた場所から頼もしげに見守っていた。◇ 午後になり、新たな客たちが続々と到着した。 せせらぎ亭の連日満室の記録は、今日も更新されていた。 夕暮れ時になって、小夜子が廊下を歩いていると、露天風呂から上がってきたばかりの若い女性客たちの弾むような声が耳に届いた。「もう最高だった! お湯につかりながら見る夕日、やばくない?」「うんうん。あのお風呂の岩の配置、絶妙に景色を切り取っててエモかったー!」「ずっと見ていたいくらいだったもの」「あはは、のぼせちゃうよ!」 彼女たちの頬は上気して、湯上がりの肌が艶めいている。 温泉と絶景を心から楽しんだのが伝わってきて、小夜子の口元に自然と柔らかな笑みが浮かんだ。 あの露天風呂の岩は、実加の直感と翔吾のてこの原理、さらには地元育
麗華は状況が理解できていない。ヴァレンティンが戻ってきたのは自分の魅力、あるいは郷田会長の権力に屈したからだと勘違いしたのだ。「やっぱり私のために弾いてくださるのね? 嬉しいわぁ、先生ったらツンデレなんだから!」 ショッキングピンクのドレスを揺らし、麗華が駆け寄ろうとする。その瞬間、ヴァレンティンが足を止めて麗華を見ることなく手をかざした。 完全なる拒絶のジェスチャー。「……静かにしてくれ」 低く、地を這うような声だった。「耳が汚れる」 その一言は、さ
(ここをあの部屋にするわけにはいかない。俺は『家』を作らないといけないんだ) 家を作るなど、少し前までの彼は考えてもみなかったことだった。 冷徹な成り上がりのホテル王として買収と統合を進め、効率的な経営をする。それこそが彼の本領だった。 しかしいつからだろう。彼の中にとうの昔に失ったはずの、温かさが灯ったのは。 Mに言われるまでもなかった。彼が作りたかったのは箱ではなく家なのだと、気づいてしまった。 けれども隼人は『家』を知らない。追い求めるもののぼんやりとした輪郭だけがあって、実態は未だに掴めないまま。
昨夜の老婦人が、一通の封筒を手に隼人の前に立った。昨日までの「居心地の悪そうな老人」の気配は消えて、一国の主のような堂々とした威厳があった。「黒崎社長。貴方が昨夜用意したマダム・ローズへの接待、あれは60分間までは完璧でした」「……え?」 隼人の動きが止まる。老婦人は冷徹な笑みを浮かべた。「ですが残りの30分、貴方の目は1人の『金を持たないゲスト』をゴミのように扱った。スタッフの背中は嘘をつけないわ。……私が、Mです」 ロビーの空気が凍りついた。隼人は
小夜子の声がダイニングに響いた。 隼人が小夜子の腕を掴み、テーブルの下で制止する。「やめろ、小夜子。給仕長が後で対応する。俺たちは今、席を立てない」「後では遅いのです、旦那様。あの素材は、今すぐ処置しなければ一生のシミになります。お客様の服にシミを残すなど、家政婦の名折れ」(小夜子の謎のこだわりが出た!) 隼人は舌打ちしたい気分になりながらも、説得を続ける。「服一着の代金など、後でいくらでも払えば済む話だ。マダムのメインディッシュが運ばれてくる。お前はここにいろ」「お断りします」







