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29話. マイクは選手の手に

Author: YuIm
last update publish date: 2026-10-13 15:33:14

火曜日、午前九時五十分。東京・千代田区、東京プレスセンター十九階の控室。

厚い防音扉の向こうから、数百人の記者のざわめきが、鈍く伝わってきた。中継カメラの三脚が床を擦る音と、フラッシュの充電音が、落ち着きなく入り混じっていた。

鏡の前に立つ神崎蓮は、きちんと着込んだ黒いスーツの襟を、静かに直した。

濃いサングラスの向こうには、かすかな緊張があった。それでも、握り締めた拳は、もう震えていなかった。

隣にいたガイドランナーの高瀬直人が、蓮の広い肩を軽く叩いた。

「緊張するなよ、蓮。お前がトラックで流した汗は、俺たちが知ってる。隣にいるから、用意した話から、一つずつしていこう」

蓮の代理人を務める上原弁護士も、分厚い書類をまとめながら、うなずいた。

「警視庁のサイバー犯罪捜査担当が、神崎隼人氏の他人名義の携帯電話を使った架空アカウントについて、作成時のIPアドレスと、口座の資金移動を調べるための令状申請を済ませました。アペックス・ジャパンからも、会見に合わせて、法務部名義の正式な支持声明が届いています。準備は万全です」

蓮は深く息を吸った。

「行こう」

午前十時ちょうど。控室の扉が開き、蓮
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    火曜日、午前九時五十分。東京・千代田区、東京プレスセンター十九階の控室。厚い防音扉の向こうから、数百人の記者のざわめきが、鈍く伝わってきた。中継カメラの三脚が床を擦る音と、フラッシュの充電音が、落ち着きなく入り混じっていた。鏡の前に立つ神崎蓮は、きちんと着込んだ黒いスーツの襟を、静かに直した。濃いサングラスの向こうには、かすかな緊張があった。それでも、握り締めた拳は、もう震えていなかった。隣にいたガイドランナーの高瀬直人が、蓮の広い肩を軽く叩いた。「緊張するなよ、蓮。お前がトラックで流した汗は、俺たちが知ってる。隣にいるから、用意した話から、一つずつしていこう」蓮の代理人を務める上原弁護士も、分厚い書類をまとめながら、うなずいた。「警視庁のサイバー犯罪捜査担当が、神崎隼人氏の他人名義の携帯電話を使った架空アカウントについて、作成時のIPアドレスと、口座の資金移動を調べるための令状申請を済ませました。アペックス・ジャパンからも、会見に合わせて、法務部名義の正式な支持声明が届いています。準備は万全です」蓮は深く息を吸った。「行こう」午前十時ちょうど。控室の扉が開き、蓮は会見場の壇上へ、大きな足取りで上がった。数十台のカメラのフラッシュが、一斉に滝のように降り注いだ。白い光の中でも、蓮は背筋を伸ばし、マイクの前に立った。ざわついていた会場が、一瞬にして、水を打ったように静まった。蓮はマイクへ向かい、淡々と口を開いた。「こんにちは。陸上短距離選手の、神崎蓮です」低く落ち着いた声が、スピーカーを通して、会場の隅々まで届いた。「最近報じられた、俺の健康状態と私生活をめぐる問題について、当事者として、自分の口から真実をお伝えするために、ここに立ちました。体の状態も、選手としての今後も、誰かに歪めて代弁されるのではなく、俺自身の声で伝えるべきだと思ったからです」蓮は壇上のスクリーンに、東都大学病院の診断書を映した。「俺は、網膜色素変性症を患っています。周辺の視野だけでなく、中心視力も大きく損なわれ、矯正しても形の判別が難しい状態です。四月二十五日、国内のスポーツクラス分けで、T11の判定を受けました。今はガイドとともに、選考会へ向けて準備しています」記者席から、抑えたため息と驚きの声が、同時に漏れた。かつて一人でトラックを駆けた日本代表が、

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    駒沢陸上競技場、モンド製トラックの四レーン。スタートを告げる電子ブザーが、巨大なスタジアムの静寂を鋭く破った。「女子大学の部、百メートル決勝。各レーン、位置について」審判の厳かな号令とともに、千紗はゆっくりと両足をスターティングブロックに置いた。右の五レーンには、百七十四センチという圧倒的な体格を誇る、東都体育大の怪物ルーキー、陽菜がいた。準決勝の記録は、陽菜が11秒34、千紗が11秒35。わずか0.01秒で隔てられた、二人の女王の、退くことのできない真剣勝負だった。二レーン、三レーン、六レーンにも、各大学を代表する四年生のエリートスプリンターが並んでいた。それでも、競技場のすべての空気は、四レーンと五レーンの間へ、張り詰めて集中していた。観客席の上では、西都体育大と東都体育大の大きな応援横断幕が、触れ合うようにはためいていた。フィニッシュラインの近くでは、実業団のスカウトと代表のコーチ陣が、一斉にストップウォッチとビデオカメラを握り、息を潜めた。フィニッシュラインの周りでは各大学の応援団が太鼓を打ち、声を張り上げていた。決勝の走路の赤いモンド製トラックは、昼間の熱を蓄えていた。審判たちが、電光掲示板の風速表示を最後に確認した。【Wind:+0.8m/s〈公認記録として有効〉】完璧な条件だった。風さえも、二人の真剣勝負を祝福している。千紗はブロックのペダルをかかとで軽くたたき、角度を微調整した。0.01秒で勝敗が決まる、短距離の世界。ブロックを少し動かし、足裏がペダルに触れる位置から、もう一度確かめた。スタジアムに降り注ぐ五月の日差しは、目に染みるほど強かった。遠く、観客席の最前列の手すりに、サングラスをかけた蓮が立っていた。隣にはガイドランナーの直人が立ち、四レーンを黙って見つめていた。蓮は場内アナウンスを聞き逃さないよう、耳を澄ませた。直人が、千紗がブロックを調整していると、短く伝えた。千紗はフィニッシュラインの向こうの青空を見上げ、深く息を吸った。誰かの暗闇を代わりに背負い、自分のスタートラインを奪われた。あの前の人生の悲劇は、もうなかった。今、数えているのは、誰かの出走時刻ではない。千紗は自分の指が震えていないか見下ろし、靴の中で、一度足の指を動かした。誰かの犠牲の上に乗る、偽りの勝利ではない。ただ自分の名を懸け

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