Home / 青春 / 君ともう一度、スタートラインに立つ / 8話. 借り受けた銀のスパイク

Share

8話. 借り受けた銀のスパイク

Author: YuIm
last update publish date: 2026-10-13 14:53:29

沙耶の口元に、卑しい嘲笑が浮かんでいた。

千紗のスパイクが裂かれていることを、最初から知っていたかのような、傲慢で厚かましい態度だった。

後ろの四年生たちも腕を組み、舌打ちをしながら、情けないものを見るような目を向けてくる。

「だから、最初から先輩に譲ってれば、こんな恥かかなくて済んだのに」

「今さら人のせいにしようってわけ?」

狭い研究室に、卑劣な嘲りが飛び交った。

それでも千紗は、瞬き一つしなかった。

壊されたオレンジ色のスパイクを机にそっと置き、沙耶の目をまっすぐに見た。

「桐谷先輩」

声は低く、穏やかだった。

「私、いつ走れないって言いました?」

沙耶の表情が、わずかに固まった。

「何?」

「私の棄権を心配していただかなくても大丈夫です。靴はコーチと相談して何とかしますから、先輩はご自分の準備をしてください。トラックで待ってます」

「あんた……!」

沙耶が声を荒らげかけたところへ、森川の冷たい声が割って入った。

「桐谷。余計なことを言ってないで、トラックでアップしてこい。テストは九時ちょうどに始める」

その気迫に、沙耶は歯を食いしばって背を向けた。

上級生たちが出ていくと、森川はすぐに研究室の奥、用具室の金庫を開けた。

取り出したのは、濃紺の革のスパイクケースだった。

「千紗、こっちへ」

蓋を開けると、アルミのような銀の光沢を帯びた、カーボンプレート入りのスパイクが現れた。

「現役最後のアジア大会、100メートル決勝で履いた靴だ。二十四センチ。お前と、ちょうど同じサイズだよ。ソールの硬さと反発は、私が確かめてある」

胸に、熱いものが込み上げた。

師が最も輝いていた時代、その魂が宿るような靴だった。

森川は工具箱を取り出し、慣れた手つきで底のピンを交換した。

「今日のトラックに合わせて、新しいピンにした。七ミリだ。まず履いて、蹴り出すときに違和感がないか教えてくれ」

千紗は足を入れ、紐を締めた。

甲を包む革の、確かな密着感。土踏まずをぴたりと支えるカーボンの弾力。それが、全身の神経を鮮やかに貫いた。

用具室前のゴムマットで、軽くその場で跳び、三歩のバウンディングを試す。

タンッ、タンッ!

ヒールカップが踵と足首をしっかり支え、足裏から返る反発は、生きたばねのようだった。

「どうだ?」

「完璧です。私の足に、ぴったりです」

「よし。それでも全力で走る前に、もう少し合わせよう。慣れない靴だ。少しでも擦れたら、すぐに言え。あいつらのせいで、お前の体まで失うわけにはいかない」

「はい!」

* * *

同じころ、スポーツ支援事務室。

蓮は廊下の窓際で、タブレットを持った事務助手と向き合っていた。

「森川コーチと監査室への保存申請は、受理されました。今朝五時から八時までの廊下の映像と、ロッカールームの入退室記録は、別途バックアップ済みです。これは監査室に渡すコピーです」

助手が慎重に、USBメモリを差し出した。

蓮は受け取り、ポケットの奥にしまった。

サングラスの向こうの視界はかすんでいても、頭の中は、これまでになく冴えていた。

助手はモニターを蓮のほうへ向け、低く声を落とした。

「先輩。電子錠のログなんですが……今朝六時十四分に、桐谷先輩の学生証で女子ロッカールームが開いた記録が、はっきり残っています」

蓮の眉が、冷ややかに下がった。

「カメラは?」

「廊下のカメラに、桐谷先輩が中へ入って、三分後に、何かをポケットに押し込みながら急いで出ていくところが映っていました」

入室時刻と、行動の流れが確認できた。これだけでロッカーの中で何が起きたかまで断定はできない。それでも、損傷の写真や目撃証言と照合する根拠にはなる。

蓮はポケットを押し、USBメモリの位置を確かめた。資料が消えないか気にかかり、バックアップが完了したと聞くまで、その場を離れなかった。

「監査の責任者と森川コーチも、この資料を確認できるようにしてください。テストのあと、千紗が壊れた靴を持っていくことになっています」

「それから、元のサーバーから消されないよう、監査用のバックアップを求める正式な文書も出してください。俺が署名します」

「はい。ただ、黒田監督の決裁なしで上げても、大丈夫ですか?」

「責任は俺が持ちます。監督が手を出せないように、監査室の担当者にも、同時にメールを送ってください」

揺るがない声に、助手はうなずいた。

蓮は背を向けた。

ポケットに手を添えながら、事務室のドアを探す。千紗へ伝えるべきなのは、有力な容疑者が誰かということ以上に、頼まれた記録が消されないよう、保存されたという事実だった。

(千紗。逃げ道は、俺が塞いでおく。お前は、トラックだけ見ていろ)

蓮は白杖をつき、メイントラックへ向かった。

* * *

午前八時五十五分。

初夏のようにまぶしい四月の日差しの下、フィニッシュラインの近くには、三十人ほどの部員と、黒田監督、指導スタッフが集まっていた。

観客席の手すりでは、蓮が森川と並び、スタートラインのほうへ顔を向けていた。

黒田はメガホンを持ち、咳払いをした。

「本日の100メートル公開テストは、春季大学選手権、女子100メートルのエントリーを決める最終確認とする。規定に従って行う。異議は認めない」

厚かましい宣言とともに、二人の選手がスタートラインへ進んだ。

四レーン、桐谷沙耶。

五レーン、朝倉千紗。

沙耶は顎を上げたまま、千紗の足元を盗み見た。

オレンジではなく銀色のスパイクだとわかり、わずかに眉をひそめる。けれど、すぐに意地の悪い笑みへ変わった。

(借り物の靴なんて、まだ慣れてもいないくせに。それで私に勝てるとでも?)

トラックの周りに集まった部員たちも、ひそひそと話し始めた。

「千紗の靴、見た? いつものオレンジのカーボンじゃないよね」

「あれ、森川コーチが現役のころ履いてた、アジア大会モデルじゃない?」

「急に靴を変えたら、足底の筋膜に負担がかかって、いつものタイムなんて出ないだろ……大丈夫かな」

美咲は落ち着かず足を踏み替え、四年生たちは腕を組んだまま、沙耶の圧勝を予想して笑っていた。

黒田も電子計測器のモニターの後ろに立ち、腕を組んで、卑しい笑みを漏らした。

(靴を替えた直後に100メートルだと? 11秒60も出るものか。朝倉は、今日で終わりだ)

けれど、五レーンに身をかがめた千紗の心臓は、大きな太鼓のように力強く鳴っていた。

土踏まずを支える、銀のスパイクの弾力。

森川が取り替えてくれた七ミリのセラミック製ピラミッドピンが、トラックの細かな凹凸を、隙間なく捉えている。

沙耶の視線など、気にもならなかった。

五レーンのブロックの前に膝をつき、身を伏せる。

つま先で、七ミリのピンをブロックの溝へ正確に噛み合わせた。

前足側のブロックの角度、六十五度。

指先に触れる、赤いウレタンの冷たさ。

千紗は深呼吸し、百メートル先の白いフィニッシュラインを見据えた。

前の人生で奪われたスタートライン。そして今朝、卑劣にも切り裂かれたスパイク。

あらゆる抑圧と侮辱を打ち破り、飛び出す瞬間が、ようやく目の前に来た。

両手の親指と人さし指を広げ、白いスタートラインのすぐ後ろへ、静かに置く。

地面の冷たさとともに、全身の筋肉が、張りつめた弓の弦のように引き絞られた。

隣の四レーンから、沙耶の荒い息と、刺すような視線を感じる。

それでも千紗が見ているのは、百メートル先、フィニッシュの赤い計測テープだけだった。

二十八歳の初冬、冷たいコンクリートの床で心臓が止まりかけていた、あの千紗が、胸の奥でささやいた。

(千紗。今度は、絶対に止まらないで。自分のトラックを走って)

胸の内に、熱い炎が立ち上がる。

観客席から見守る蓮の、確かな存在感。そして森川の、信頼を込めた眼差し。それらが、頼もしい風よけになってくれた。

「位置について――On your marks」

二人はブロックに足を当て、スタートラインの後ろに手をついた。千紗は一度、肩の力を抜き、次の号令を待った。

短い静寂。隣から、沙耶が呼吸を整える音が聞こえた。

スターターが引き金を引く、その直前へ向かって、グラウンドの空気が張りつめていく。

千紗はもう一度、足をブロックに密着させた。

あとは、次の号令を待つだけだった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   30話. 夕焼けの下で言いかけたこと

    数日後、東京、世田谷署の経済犯罪捜査担当の前。黒いマスクを深くつけた神崎隼人が、捜査員に連れられ、護送車へ向かっていた。横領と業務上の背任、さらにネット上で虚偽の事実を流した名誉毀損の容疑で請求されていた身柄拘束の令状が、裁判所から発付されたのだ。カメラのフラッシュが光る中、隼人はうつむき、逃げるように顔を隠した。蓮の網膜疾患を弱みにつけ込み、治療費を奪った。他人名義の携帯電話で偽のメッセージを作り、千紗を破滅させようとした。そんな恥知らずな詐欺師の末路は、惨めだった。大学の匿名掲示板やニュースサイトには、千紗への非難に代わって、詐欺を働いた代理人の身柄拘束を伝える記事と、二人の選手を応援する言葉が、次々と並んだ。同じころ、西都体育大学の学長直属の監査室でも、厳しい処分が下された。黒田雅彦監督は、監査室の会議室へ呼び出され、冷徹な処分通知書を受け取った。「黒田監督。桐谷沙耶選手によるスパイク破損事件をもみ消そうとした職権の濫用、そして、神崎隼人の虚偽の報道工作を知りながら黙認し、手を貸した事実が、特別監査ですべて確認されました。懲戒委員会の決定により、三か月の減給とし、陸上部の選手指導、およびエントリーに関する専決権を、全面的に剥奪します」監査室長の冷静な通告に、黒田は顔面蒼白になった。だが、もう反論する理由はなかった。体育館のロビーの掲示板には、朝倉千紗選手の名誉回復と、神崎蓮選手のT11日本代表への挑戦を、全面的に支持するという、大学本部の正式な告知が掲げられた。選手の指導と出場の決裁は、森川真紀コーチへ一本化された。千紗は、その告知を写真に残した。誰が責任を持って答えるべきなのか。今度は、名前がはっきりと書かれていた。* * *蓮は上原弁護士の法律事務所で、新たな標準選手マネジメント契約書に、自筆で署名した。かつて従兄の隼人へ、白紙委任した契約。その効力と代理権は、整理された。原本は今後、責任を追及する際に必要になるため、法律事務所で保管した。新しい契約書には、決定権と代理業務の範囲が、分けて記されていた。蓮は項目を読み上げる音声を止め、自分への確認なしに変更できる予定があるのかと、問い直した。隼人が着服した、ドイツのクリニックの予約金300万円についても、銀行口座の仮差押えと、強制的な返還の手続きが、順調に進んでいた。「神崎さん

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   29話. マイクは選手の手に

    火曜日、午前九時五十分。東京・千代田区、東京プレスセンター十九階の控室。厚い防音扉の向こうから、数百人の記者のざわめきが、鈍く伝わってきた。中継カメラの三脚が床を擦る音と、フラッシュの充電音が、落ち着きなく入り混じっていた。鏡の前に立つ神崎蓮は、きちんと着込んだ黒いスーツの襟を、静かに直した。濃いサングラスの向こうには、かすかな緊張があった。それでも、握り締めた拳は、もう震えていなかった。隣にいたガイドランナーの高瀬直人が、蓮の広い肩を軽く叩いた。「緊張するなよ、蓮。お前がトラックで流した汗は、俺たちが知ってる。隣にいるから、用意した話から、一つずつしていこう」蓮の代理人を務める上原弁護士も、分厚い書類をまとめながら、うなずいた。「警視庁のサイバー犯罪捜査担当が、神崎隼人氏の他人名義の携帯電話を使った架空アカウントについて、作成時のIPアドレスと、口座の資金移動を調べるための令状申請を済ませました。アペックス・ジャパンからも、会見に合わせて、法務部名義の正式な支持声明が届いています。準備は万全です」蓮は深く息を吸った。「行こう」午前十時ちょうど。控室の扉が開き、蓮は会見場の壇上へ、大きな足取りで上がった。数十台のカメラのフラッシュが、一斉に滝のように降り注いだ。白い光の中でも、蓮は背筋を伸ばし、マイクの前に立った。ざわついていた会場が、一瞬にして、水を打ったように静まった。蓮はマイクへ向かい、淡々と口を開いた。「こんにちは。陸上短距離選手の、神崎蓮です」低く落ち着いた声が、スピーカーを通して、会場の隅々まで届いた。「最近報じられた、俺の健康状態と私生活をめぐる問題について、当事者として、自分の口から真実をお伝えするために、ここに立ちました。体の状態も、選手としての今後も、誰かに歪めて代弁されるのではなく、俺自身の声で伝えるべきだと思ったからです」蓮は壇上のスクリーンに、東都大学病院の診断書を映した。「俺は、網膜色素変性症を患っています。周辺の視野だけでなく、中心視力も大きく損なわれ、矯正しても形の判別が難しい状態です。四月二十五日、国内のスポーツクラス分けで、T11の判定を受けました。今はガイドとともに、選考会へ向けて準備しています」記者席から、抑えたため息と驚きの声が、同時に漏れた。かつて一人でトラックを駆けた日本代表が、

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   28話. 誰の口座なのか

    体育支援課の大会議室。ブラインドの隙間から、正午の鋭い日差しが差し込んでいた。本館の正面玄関には、朝早くから取材陣が詰めかけ、テレビカメラが並び、フラッシュが光っていた。ポータルサイトのトップを埋め尽くした、悪意あるゴシップ記事のせいだった。【独占】神崎蓮の盲目的な愛? 後輩のA選手、数百万円の練習費を要求した疑い……知人とのメッセージを暴露キャンパスは、ひそひそ話と、好奇心に満ちた視線で沸き返っていた。前の人生なら、千紗は頭が真っ白になって、部屋に閉じこもり、泣いていただろう。(私がそばにいるから、先輩をだめにしてしまうのかな)。そんな自責の念に息が詰まり、世間の非難を一人で背負い込んだはずだった。けれど、今の千紗は違った。森川真紀コーチに案内され、会議室へ向かう足取りには、少しのためらいもなかった。練習日誌と通帳の写し、警視庁で受け取った受理票をしっかり持つ指先は、冷静さを保っていた。「その場ですぐに答える必要はない。質問はまとめて受けて、確認できたことだけ話そう。つらくなったら、私が隣で止めるから」「はい、コーチ。準備はできています」千紗は決然とうなずいた。自分のスタートラインを守るためなら、どんな泥仕合からも逃げないつもりだった。木の会議テーブルの向こうには、蓮のメインスポンサーである大手スポーツブランド、アペックス・ジャパンのマーケティング統括部長と、社内法務部の弁護士二人が、硬い顔で座っていた。テーブルには、従兄で代理人の隼人が、スポンサーへ緊急に提出したという、四十ページの精算監査報告書が置かれていた。『選手の心身が弱った状態につけ込んだ、後輩選手による不当な金銭詐取と契約違反の疑いに関する報告』表紙にある刺激的な文言を聞かされ、蓮の顎が、冷たくこわばった。マーケティング部長は咳払いをし、書類の束を指で軽く叩いた。「神崎選手。当ブランドは、この三年間、あなたの誠実さと闘志を信じ、毎年数千万円規模の練習費と専用の用具を、全面的に支援してきました。それなのに、視覚疾患を隠したうえ、後輩の選手へ多額の練習支援金を流用した疑いまで報じられた。今日、明確な説明をいただけなければ、契約解除はもちろん、違約金を請求する訴訟も、やむを得ません」スポンサーからの、鋭い最後通告だった。前の人生の蓮なら、相手を守れなかったという自責と絶望

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   27話. 一枚の写真、二つの嘘

    月曜の朝、西都体育大学のキャンパスは、早くから蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。本館の前を行き交う学生や運動部員が、スマートフォンをのぞき込んではひそひそと話している。その声が風に乗って広がった。体育館の入り口へ向かう千紗の背中に、刺すような視線が突き刺さる。ポータルサイトのスポーツ・芸能欄。その一位に、太い文字で刺激的な見出しが躍っていた。【独占】『陸上日本代表』神崎蓮、失明に至る希少疾患で引退の危機?【衝撃】網膜色素変性症の診断を隠して活動……後輩陸上選手との密会を激写!記事の下には、先週末、大学のある街の路地で、私服姿で手をつないで歩く蓮と千紗の写真が、モザイクもなく載せられていた。『西都体育大陸上部の看板選手、神崎蓮(22)が、中心視力を失っていく遺伝性の網膜疾患を患っており、最近、ひそかに視覚障害者スポーツのクラス分けを申請していたことが明らかになった』『あるスポーツ界の関係者によると、神崎は先日の春季大会で優勝した短距離の有望選手、朝倉千紗(21)と私的に親密な関係にあり、練習の補助や個人秘書という名目で、多額の金銭がやり取りされた形跡があるという』記事を読み進める千紗の目が、冷たく凍りついた。(スポーツ界の関係者……神崎隼人)蓮の従兄で代理人の神崎隼人が、委託契約の解除通知を逆恨みして、悪意を持って情報を流したに違いなかった。蓮の病名を隠し、支援金を横領しようとして失敗した。今度は蓮の視覚障害を刺激的なゴシップとして売り払い、破滅させようとしている。醜い悪あがきだった。「千紗、これ見た?」寮のロビーへ駆け込んできた同級生の藤田美咲が、真っ青な顔でスマートフォンを差し出した。「朝から記事だらけで、学内の匿名掲示板も陸上の掲示板も大騒ぎだよ。黒田監督が、千紗と神崎先輩に、今すぐ監督室へ来いって」「わかってる、美咲」千紗は深く息を吸い、鞄を肩にかけ直した。前の人生の千紗なら、髪の毛が逆立つほどの恐怖に襲われ、泣いていただろう。「先輩を守らなきゃ、私が全部かぶらなきゃ」と、慌てて記者たちへ言い訳を並べたはずだ。千紗はコメントをさらに読もうとして、画面を消した。指が何度も同じ場所で止まってしまう。美咲に鞄を渡されて、ようやく歩き出した。嘘と歪曲だらけの報道工作に、感情で応じてはいけない。それは、相手が用意した泥沼へ、

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   26話. テザーのない土曜日

    春季大会が終わって最初の土曜日。午後二時、桜町の大学通り。初夏のみずみずしい緑が、マロニエ公園の赤い煉瓦道に、濃い木陰を落としていた。週末の人波でにぎわう、公園前の時計塔。そのベンチに、神崎蓮が、端正なリネンシャツとスラックス姿で座っていた。いつも汗に濡れた練習着を着ているときとは、ずいぶん違う。すっきりと整った青年の姿が、まぶしかった。蓮はイヤホンを耳につけ、歩く道順を案内するスマートフォンの音声地図に、黙って耳を澄ませていた。桜町駅の2番出口のエレベーターの場所。点字ブロックに沿った道筋。そして、予約しておいたレストランの入り口にある段差の高さまで。視覚障害の判定を受けてから初めて、蓮は一人で公共交通機関を使い、ここまでやって来た。二日かけて道順を確かめ、駅では係員にエレベーターの方向を尋ねた。着いてからも緊張が抜けず、シャツの袖を二度も折ったり戻したりした。千紗が来るまでに、落ち着きたかった。「神崎先輩!」澄んだ明るい声とともに、軽やかな足音が近づいた。蓮が顔を上げると、ほのかな石鹸の香りが、風に乗って届いた。水色の半袖のシャツワンピースを着た千紗が、明るく笑って立っていた。スパイクと練習着を脱いだ千紗は、トラックの上の鋭い獣ではなかった。どこから見ても、華やかな二十一歳の女子大生だった。蓮の口元に、柔らかな笑みが広がった。「早かったな、千紗」「先輩の私服、初めて見ました。いつも汗だくの練習着だったから。シャツを着ると、陸上選手っていうより、雑誌のモデルみたいですね」千紗がいたずらっぽく笑うと、蓮は照れたように耳を赤くした。「お前の声も、今日は少し違うな。練習のときみたいに急かさない」二人は、静かな路地の奥に予約しておいた、イタリアンの店へ向かった。千紗は蓮の腕を無理につかんだり、必要以上に引っ張ったりはしなかった。蓮が白杖と足先の感覚を使って、落ち着いて段差を越えられるように。ただ半歩脇で、歩調を合わせて歩いた。店内には穏やかなジャズが流れ、窓の向こうには、大学通りの赤煉瓦の塀と、そこを這う蔦が見えた。店に入ると、蓮はタブレットでメニューを撮影した。文字の読み上げ機能で、料理名と値段を順に聞いてから、注文を決めた。たんぱく質を多くとれる、低温調理のヒレステーキとリコッタチーズのサラダ。それに、無糖のグレープフル

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   25話. 11.28――私の名でつかんだ金メダル

    駒沢陸上競技場、モンド製トラックの四レーン。スタートを告げる電子ブザーが、巨大なスタジアムの静寂を鋭く破った。「女子大学の部、百メートル決勝。各レーン、位置について」審判の厳かな号令とともに、千紗はゆっくりと両足をスターティングブロックに置いた。右の五レーンには、百七十四センチという圧倒的な体格を誇る、東都体育大の怪物ルーキー、陽菜がいた。準決勝の記録は、陽菜が11秒34、千紗が11秒35。わずか0.01秒で隔てられた、二人の女王の、退くことのできない真剣勝負だった。二レーン、三レーン、六レーンにも、各大学を代表する四年生のエリートスプリンターが並んでいた。それでも、競技場のすべての空気は、四レーンと五レーンの間へ、張り詰めて集中していた。観客席の上では、西都体育大と東都体育大の大きな応援横断幕が、触れ合うようにはためいていた。フィニッシュラインの近くでは、実業団のスカウトと代表のコーチ陣が、一斉にストップウォッチとビデオカメラを握り、息を潜めた。フィニッシュラインの周りでは各大学の応援団が太鼓を打ち、声を張り上げていた。決勝の走路の赤いモンド製トラックは、昼間の熱を蓄えていた。審判たちが、電光掲示板の風速表示を最後に確認した。【Wind:+0.8m/s〈公認記録として有効〉】完璧な条件だった。風さえも、二人の真剣勝負を祝福している。千紗はブロックのペダルをかかとで軽くたたき、角度を微調整した。0.01秒で勝敗が決まる、短距離の世界。ブロックを少し動かし、足裏がペダルに触れる位置から、もう一度確かめた。スタジアムに降り注ぐ五月の日差しは、目に染みるほど強かった。遠く、観客席の最前列の手すりに、サングラスをかけた蓮が立っていた。隣にはガイドランナーの直人が立ち、四レーンを黙って見つめていた。蓮は場内アナウンスを聞き逃さないよう、耳を澄ませた。直人が、千紗がブロックを調整していると、短く伝えた。千紗はフィニッシュラインの向こうの青空を見上げ、深く息を吸った。誰かの暗闇を代わりに背負い、自分のスタートラインを奪われた。あの前の人生の悲劇は、もうなかった。今、数えているのは、誰かの出走時刻ではない。千紗は自分の指が震えていないか見下ろし、靴の中で、一度足の指を動かした。誰かの犠牲の上に乗る、偽りの勝利ではない。ただ自分の名を懸け

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status