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7話. カーボンプレートの亀裂

Author: YuIm
last update publish date: 2026-10-13 14:53:25

公開テスト当日、午前八時。体育館一階、女子陸上部のロッカールーム。

レースを前に、空気はいつも以上に冷たく、乾いていた。

窓の隙間から差す朝日に、湿布のメントールと、古いウレタンゴムの匂いが混ざり、重く沈んでいる。

ベンチで足首に非伸縮のテーピングを巻いていた美咲が、首をかしげて言った。

「ねえ千紗。今朝、六時ちょっと過ぎに、桐谷先輩がこの辺うろうろしてたんだよね。水筒を探しに来たって、きょろきょろしてたけど……なんか、変な顔してた」

何気ない一言が、千紗の頭に鋭く警鐘を鳴らした。

(桐谷沙耶……やっぱり、おとなしくしてるはずがない)

前の人生の記憶が重なり、不吉な予感が押し寄せた。

急いでテーピングを終え、ロッカーへ向かう。

手慣れた動きで暗証番号を押し、扉を開けた。

棚のいちばん上に整えてあった、黒いシューズバッグを取り出す。

この二日、森川と早朝から蹴り出しの角度を磨いてきた、オレンジ色のカーボンスパイクだ。

ファスナーを開け、右足の靴を取り出した瞬間。指先に、見慣れぬ異物感が引っかかった。

「……っ!」

靴底の、カーボンプレートの側面。

ピンがついた前足部とアーチをつなぐ、最も重要な支えに、工業用カッターナイフの鋭い切り傷が、深く刻まれていた。

それだけではない。

踵をしっかり包むはずのヒールカップも、内側の支持部分の縫い目が、巧妙にほどかれていた。

短距離走の力学を知る人間が仕掛けた、悪意に満ちた破壊行為だった。

ブロックを蹴って飛び出す瞬間、スプリンターの足首には、体重の四倍を超える爆発的な荷重がかかる。

プレートの支えが耐えられなければ、着地で足が大きくぶれる。外側の靱帯を傷める危険がわかるからこそ、千紗は壊れた靴底に体重をかけなかった。

履いてしまえば、傷は隠れる。千紗は舌先で乾いた唇を湿らせた。外側だけ見て足を入れていたら、スタートラインを蹴るまで気づかなかったかもしれない。

前の人生の記憶が、稲妻のように走った。

二十一歳の、春季大会前日の朝。千紗は、まったく同じ損傷に出くわしていた。

(少し、靴が緩くなったのかな。でも今言ったら、監督に叱られる……)

(先輩たちも大会前でぴりぴりしてるし。私が我慢して走れば大丈夫。どうにか、持たせよう)

大会前日の練習で、一人、愚かに耐えて走った。五十メートルの加速区間で靴底が裂け、足首の外側靱帯が完全に切れて、手術台に上がることになった。

手術室で目を開けたとき、待っていたのは励ましでも治療費でもなかった。「自分の体も管理できず、チームの雰囲気を壊した」という、黒田の冷たい非難と、退部の通告だった。

選手としての道は、その場で折られた。リハビリ費用すら支援されず、蓮の無給のマネージャーになっていった。あの悲劇の出発点だ。

千紗の目が、冷たく静まった。

(二度はやられない。絶対に)

前のように、泣いたり取り乱したりはしなかった。

壊れたスパイクに、足を入れてみることすらしない。

すぐにポケットからスマートフォンを取り出した。

フラッシュをつけ、三十度の角度で斜めに刻まれた切り口、ほどけた縫い目、ロッカーの電子錠付近についた細かな傷まで、接写で鮮明に記録した。

金属の削り粉がついた蝶番も、角度を変えながら撮る。二十枚以上の写真を、その場でクラウドへバックアップした。

損傷箇所のがたつきやねじれは動画に収め、日時の記録もしっかり残す。

証拠の保存を終えてから、ようやくバッグを持ってロッカールームを出た。

廊下の階段を下りていくと、大きな人影が前に立った。

蓮だった。

軽いジャージ姿で、窓際の壁にもたれている。

朝の練習を終え、千紗のテストを見るために、早めに下りて待っていたのだ。

速い足音を聞きつけ、すぐに顔を向けた。

「千紗、テストの準備はでき――」

最後まで言えなかった。千紗が横を通りかけて立ち止まり、シューズバッグがかさりと鳴った。

いつもの練習後とは違い、呼吸が短く途切れている。蓮は手を伸ばしかけ、待った。まず、尋ねるべきだと思った。

「何かあったのか?」

千紗は隠さずバッグを開け、蓮の手に渡した。

「スパイクの靴底を切られました。わざとカッターで傷をつけてあります」

蓮の硬い指が、プレートの切れ目を探った。

指先に触れる、深い亀裂。

顎の線が、険しく歪んだ。

「これ……足首を折るつもりでやったんじゃないか」

蓮の目に、凄まじい怒りが走った。

「誰がやった。桐谷か? 黒田監督の指示か?」

拳を握り、階段を駆け上がろうとする。

千紗が、その袖をきっぱりとつかんだ。

「先輩、待って」

「これを見て、黙ってろっていうのか? 今すぐロッカールームをひっくり返して、監督に問いたださないと!」

「疑いだけで騒いだら、証拠がないって言われます。結局私が、試合直前に言い訳する卑怯な選手にされるだけです」

落ち着いた声は、氷のように硬かった。

「先輩が怒って暴れたら、監督に処分の口実を与えます。写真も動画も、もう撮ってあります。私を助けたいなら、スポーツ支援課に行って、廊下の防犯カメラとロッカールームの入退室記録を保存してもらう申請を、一緒にしてください」

蓮は荒い息のまま、立ち止まった。

感情に任せて怒る自分より、現実的な手を冷静に考える千紗のほうが、ずっと先にいた。

歯を食いしばり、うなずく。

「……わかった。用具管理室と事務室のシステム担当者に、俺が直接会って記録を確保する」

蓮は震える手で、切られたカーボンプレートを撫で、唾をのんだ。

「千紗。俺が監督に、出場枠を保証するよう要求することもできる。俺が一人抜ければ、西都体育大陸上部の一年分の計画が潰れる。あの人も、俺の話は断れない」

エースという立場を武器に、千紗を守ろうとする申し出だった。

それでも千紗は、きっぱり首を振った。

「怒ってるのはわかります。私もです。でも今は、お願いしたことからやってください」

静かな声に、鋼のような強さがあった。

「防犯カメラの映像が消える前に、残したいんです。私はコーチに靴を見せます。監督に話をするのは、そのあと、一緒でもいいでしょう?」

蓮はまっすぐな眼差しを受け止め、深く息を吸った。

千紗はシューズバッグの紐を結び直した。握っていた袖を放すと、二人は廊下の別々の方向へ体を向けた。

蓮はまだ何か言いかけて、口を閉じた。千紗が頼んだのは、代わりに出場権を取ってくれということではない。記録を保存してほしいという言葉を、自分はまた別の提案で覆おうとしていた。

「ありがとうございます、先輩」

千紗は、そのまま森川の研究室へ向かった。

壊されたスパイクを見るなり、森川の顔が険しく強張った。

「どこまで卑劣なんだ……選手の靴に、刃物を入れるなんて」

怒りを込めて、机を叩く。

「テストはすぐに中止させる。監査の担当を呼んで、徹底的に調べさせよう」

「いいえ、コーチ」

千紗は毅然と首を振った。

「壊れた靴では走りません。でも、安全に履ける別の靴があれば、テストは受けたいんです。私が棄権した、で終わらせたくありません。調査は、それとは別にお願いします」

森川が、じっと千紗を見つめた。

そのとき、廊下の向こうから沙耶の甲高い声が聞こえた。

上級生たちを連れた沙耶が、研究室のドアを押し開け、せせら笑った。

「朝倉。もうテストの時間なのに、何してるの? まさか、靴が壊れたなんて言って、棄権するつもり? 自分の道具も管理できない子が、日本代表を目指すなんてね。走る自信がないなら、今からでも素直に棄権しなさいよ」

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