تسجيل الدخول私の名前は、藤森紗弥(ふじもり さや)。 婚約者の明智修司(あけち しゅうじ)はまた浮気をした。今度の相手もまた私の身代わり・大橋春菜(おおはし はるな)だった。 私は彼の好みに合わせて、か弱くて清楚な女らしく見えるように着飾り、彼をなんとか引き止めようとした。 けれど修司は、自分の手で私のメイクを落としながら言った。 「いい子だ。でも、こういうのはお前には似合わない」 そのうえ―― 「ほかの女なんて、ただの気まぐれだ。将来、妻になるのはお前だけだ」 そんな約束まで口にした。 修司の許しを得て、春菜は私の代わりに表彰台に立ち、私が受け取るはずだった賞まで手にするようになり、やがて彼の隣で一族の集まりにまで顔を出すようになった。 挙式のリハーサルの最中でさえ、修司のイヤホンから流れていたのは、彼と春菜が二人で作ったプレイリストだった。 眉をひそめたまま動かない私を見て、修司は苛立ったように言った。 「わざわざ取締役会までずらして来てやったのに、まともに集中することもできないのか? そんなに嫌なら、春菜に代わってもらえばいい」 そのときの私は――もう、自分のために言い争うことすらしなかった。 ただ淡々と「……いいよ」と答えた。 その瞬間、スマホが震える。 海外にいる――昔から何かと張り合ってきた七瀬蓮也(ななせ れんや)からだった。 【紗弥。あのときの縁談、どうして俺を選ばなかった?】
عرض المزيد蓮也が拗ねたみたいに甘えてくるのを笑って見ていた――そのときだった。ふと振り向いた先に、ずいぶん長いこと会っていなかった修司が立っていた。もう二度と会うことはないと思っていたのに。あのころ胸を引き裂かれるように苦しかった痛みも、裏切られたあのときの気持ちも――もう何も残っていなかった。修司は掠れた声で呟いた。「紗弥……やっと見つけた」まるで、失くしたものをやっと取り戻したみたいな顔だった。けれど私が何か言うより早く、蓮也が私の肩を抱き寄せた。「明智さん。あいにくですが、妻とこれから出かけるところなんです」修司は動じなかった。ただまっすぐ私を見つめて言う。「紗弥、帰ろう」――帰ろう。その言葉は、昔の私が何度も何度も彼に向かって言っていた言葉だった。あの時、修司から明智家の屋敷に住むよう要求されたけれど、私が出した条件は彼が時間通りに帰宅することだった。でもあとになって知った。彼のその要求はそもそも、春菜に会いやすくするためだったと。私はほとんど毎日のように帰ってきてって言い続けた。返ってくるのは、いつも口先だけだった。どれだけ待っても、何も変わらなかった。たまに時間どおり帰ってきたかと思えば、それは春菜が傷ついたと聞いた日だけだった。だから私にとって修司は、「帰ろう」なんて言う資格のない人だ。「帰って。もう私の前に現れないで」それでも修司は食い下がった。「春菜とは結婚してない。この間ずっと、お前を探してた」私は冷たく言い返した。「だから何?何年も一緒にいた婚約者の顔も分からなくて、しかも死体を何日も抱き続けてたんでしょう?……正直、気持ち悪い」彼がいつまでも私の生死を確かめようとしなかったのは――ただ、岩に打ちつけられ、魚に食い荒らされた顔を見るのが怖かっただけだ。修司の顔に、苦しさと後悔が浮かんだ。「俺が間違ってたのは分かってる。春菜は……俺が警察に突き出した。紗弥、今度こそお前だけを大事にする。だから……一度だけでいい。やり直すチャンスをくれないか」私は迷わず首を振った。「無理」私は静かに言った。「私だって昔は、何度もお願いしたよ。父の会社には手を出さないでって。せめて一度でいいから、私のことを見てって――何度も頼んだ
蓮也は立ち上がると、そのまま私のほうへ歩いてきて、当たり前みたいに私の手を取った。「冷たいな。次からは父さんに言って、冷房もう少し上げてもらおう」それを見た宗吾は、昨日の失礼を何度も詫びてきた。今日は相当飲まされると思っていたから、胃薬まで用意してきていたのに。ところが蓮也が「最近は酒を控えてる」と言い出して、いつの間にかその日はお茶だけになっていた。企画書はまだ半分も説明していないのに、宗吾はもう契約を進めたいと言い出す。すると蓮也がさらっと口を挟んだ。「利益配分は八対二が妥当かと思いますが、いかがでしょうか」宗吾の表情が一瞬だけ固まった。どう見ても、かなり不利な条件だった。それでも断れる立場ではなかったのか、最後には引きつった笑顔で言った。「お二人がご結婚されるときは、ぜひ声をかけてくださいね」私と蓮也の関係を探っているのは明らかだった。蓮也が笑って答える。「もちろんです」帰りの車の中では、蓮也はずっと黙ったままだった。車内には、どこか気まずい空気が流れている。私はその横顔を見ながら、遠慮がちに聞いた。「……怒ってる?」次の瞬間、蓮也は車を路肩に寄せて止め、そのまま真っすぐ私を見た。「俺に、怒る資格なんてある?」拗ねたようなその言い方は、まるで機嫌を損ねた恋人みたいだった。「紗弥、俺と結婚するって言ったのに、毎日仕事と書類ばっかりじゃないか。使用人のほうが、まだ俺より話してるくらいだ」少し拗ねたような声で続ける。「昨日だって、須山は電話であんなこと言ってきたのに、それでも何事もなかったみたいに応じてたじゃないか。俺だったら、絶対許さなかった」私のために本気で悔しがってくれている蓮也の顔を見ていたら、胸の奥がじんわり熱くなって、少しだけ苦しくなった。契約の最後に、宗吾の取り分をさらに削ってまで話を通してくれた理由が――ようやく分かった。あれは全部、私のためだったんだ。胸の奥に残っていた打算も迷いも、少しずつほどけていく。私はシートベルトを外すと、そのまま身を乗り出して、蓮也の頬にそっとキスをした。笑いながら彼を見つめる。「……まだ怒ってる?」蓮也は完全に固まってしまって、耳だけがうっすら赤くなっていた。「べ、別に……怒ってなん
「それに、あいつの机の引き出しには、いつも止血用の薬まで入ってたんだ」ほかの同級生たちも次々に話に乗ってきた。「当時さ、お前ほんとラブレター山ほどもらってただろ。蓮也なんてキレてさ、一人ひとりに近づくなって釘刺して回ってたんだぞ」みんな楽しそうに昔話を掘り返していく。けれど――もうひとりの当事者は、あの時は海の向こうにいた。彼が向けてくれていた想いも、してくれていたことも、こうして今は、誰かの口から聞かされるしかない。薄暗い灯りの下、私の隣の席はずっと空いたままだった。……蓮也が付きっきりで世話をしてくれたおかげで、私の体は少しずつ回復していった。ひとりで動けるようになってからも、彼は相変わらずそばを離れようとしない。気がつけば病室の半分は彼の書類で埋まっていて、夜、私が眠ったあとも、手元の明かりだけをつけて静かに仕事を続けている。眉間を押さえながら無表情で書類を見ている姿が、なんだか妙に新鮮だった。昔みたいに、やんちゃで目立ちたがりだった少年の面影は、もうどこにもない。私はそっとスマホを持ち上げて、彼の写真を一枚撮った。シャッター音が響いた瞬間、病室の空気が妙に静まり返る。蓮也は笑いながらこちらを見た。「ポーズ取ったほうがよかった?優しそうな感じと、仕事モードの俺、どっちがいい?」私は慌てて言い訳する。「だ、誰があなたなんか撮るのよ。私はただクラスのグループLINE見てただけ。同窓会に来るのかって話になってただけなの」蓮也がゆっくり近づいてくる。反射的にスマホを隠した、その瞬間――通知が一斉に鳴り出した。私のスマホも、蓮也のスマホも鳴り止まない。慌てた拍子に、さっき撮ったばかりの写真をそのままクラスのLINEグループに送ってしまった。私は固まった。絶対に怒られると思ったのに、蓮也は逆に写真を拡大して眺めながら言った。「俺、左のほうが映りいいんだよな。もう一回撮る?」私は枕をつかんで彼に投げつけた。「出てって!」グループには、私と蓮也の関係に驚くメッセージで一気に埋まった。【え、なにこれ?見せつけに来たの?】【深夜にこれは熱すぎるんだけど】【同窓会来なかったら本気で許さないからね!】【ずっと二人ってお似合いだと思ってたんだけど!】【
けれど提出した写真は化粧が濃すぎて規定に合わず、結局メイクを落として撮り直すことになった。紗弥はすっかり拗ねて、その写真をその場に放り出した。「もう、何がプロよ。絶対大丈夫って言ったくせに!」使われなかったその一枚を、修司は誰にも言わず拾い上げ、使い込まれた革の財布の中にそっとしまっていた。友人たちは、今どきそんな財布を使っているなんて古くさいと笑った。それでも修司は少しも気にしなかった。そこには――いちばん愛していた人の写真が入っていたからだ。……強く生きたい――その一心で、私は必死に海の中から岩場へ這い上がった。腕はもう感覚がなくて、骨まで響くような痛みに涙が勝手にこぼれる。もし蓮也の到着があと少しでも遅れていたら……魚の餌にならなかったとしても、きっと助からなかったと思う。どれくらい眠っていたのかも分からないまま目を覚ますと、まわりから聞こえてくるのは聞き慣れない、どこかやさしい響きの方言ばかりだった。そのときになってようやく――もう夕凪市にはいないんだと気づいた。無精ひげも剃らないままの蓮也の顔を見ていたら、なぜだか少しからかいたくなった。「蓮也、久しぶりに会ったら……無精ひげなんか生やして、ちょっと老けた?」昔なら、見た目のことを言われた瞬間に言い返してきて、ついでに私まで言い返さないと気が済まない人だったのに。なのに今は――壊れものでも扱うみたいに、私を強く抱きしめてくる。ただ、右手だけは触れないようにしていて。「君がなかなか目を覚まさないから……本気で医者を訴えようかと思った。一週間も眠っていたんだよ」掠れた声を聞いた瞬間、思わず息が止まった。こんなふうに弱さも焦りも隠せない蓮也を見たのは、初めてだった。私はそっと背中を叩いた。泣き虫な子どもをあやすみたいに。「ほら……ちゃんと生きてるでしょ?」肩に温かい涙が落ちてきて――そのときようやく、本当に助かったんだって実感した。思わず笑ってしまう。「蓮也って、泣き虫だったなんて知らなかった。今度同窓会があったら、さっき泣いてたこと、みんなに言いふらしてあげる」それでも蓮也は、さらに強く私を抱き寄せただけだった。「それでもいい」そう言ってから、軽く私の頬をつねって――「生きててくれて、