事務所の外に出て気付く。すぐそばで水の流れる音がしている。湖の波音とは、少しだけリズムが違うその音に耳をすまし、周囲を見渡してみる。――だが、湖以外に水辺らしきものは見当たらない。もしかたら、近くに小川でもあるのかもしれない。
辺りに植えられた植物の色は濃く、日差しに照らされ、
「ここには畑もあるんですね」
「あぁ。ちょっとだけどね。ボロを肥やしに使ってさ、有機農業をやってるんだよ。よく聞くだろ」 「はい」 ボロとは、馬の糞のことだ。乗馬クラブや牧場などで、毎日、大量に出る馬の糞を肥料として使い、花や野菜、果樹などを栽培するというのはよく聞く話だった。僕の母校にも乗馬部があったので、そういった光景には
「うちの野菜、格好がよくないのもあるんだけど、割と人気があるんだよ。収穫時期は、クラブの入り口に小さな売り場を作って、朝に採ったのをそこで売るんだ。昼にはほとんどなくなっちゃうんだよ。時々、わざわざ遠方から、野菜だけ買いに来る人もいるくらいでさ」
「へえ……」しばらく木々の間の細道を歩いていくと、やがて古い石造りの建物が見えてきた。二階建てのアパートメントのようなそれが、おそらく宿舎なのだろう。僕は胸を高鳴らせる。
「あれが、宿舎ですか」
「そう。おんぼろだから幽霊が出るぞ」 「え――……」 「冗談だよ。でも、この辺には本物のケルピーが出るっていう そう言って、ライルさんはくすくす笑う。ケルピーという名は聞いたことぐらいはあるものの、それがどんなものなのかわからず、僕は首を
「ケルピーって……?」
「知らないのか? 水辺に現れる馬の妖精だよ。水辺で人間を待ち構えて『背に乗らないか』って誘うんだ。乗ったら最後、あっという間にあの世行きさ」 「妖精……」 「そう。決まって水辺に出るんだって。このウィンダミアでも会ったことがあるって人がいるよ。まぁ、その人は今もピンピンしているから、ガセだろうけどね」 「はぁ……」ライルさんは狭い階段を上がり、奥から二番目の部屋の前で立ち止まると、「二〇二。ここがオリバーの部屋だ」と言って、ポケットからさっき投げて渡された鍵を取り出した。そうして、それを鍵穴に差し込み、がちゃがちゃと動かしたあと、ドアノブを握り、扉を開ける。
きしむような、ぎい、という音がした。ライルさんに
「わぁ……」
建物の外見はひどく古かったが、部屋の中は綺麗に掃除されていて、清潔感があった。シングルベッドと、窓際に小さなデスクがある。トイレやバスルームもちゃんとついているようだ。
「いい部屋ですね」
「狭いけどね。ベッドの寝心地は悪くないよ。シャワールームもあるし、それにここからの眺めはバツグンにいい」 「本当だ……」 窓から外を眺めると、緑麗しい丘と、湖――ウィンダミア湖が広がっていた。湖面には水鳥たちが悠々と泳ぎ、遠方にはフェリーが見える。観光クルーズ船だ。湖岸にはそれに沿うように細道があり、背に人を乗せて歩く馬の姿が数頭、見えた。そのうちの一頭は首を低くして、道端の草を
「あのグループは、これから
僕はくすくす笑って、
どこまで見渡しても、ゆったりしたのどかな景色。僕は頬を
「あれ、たしか……クライズデール種、でしたっけ」
「うん。ここにはサラブレッドはほとんどいないよ。サラは、この前に来たスノーケルピーだけ」 「スノーケルピー……。さっきトーマスさんが話してた……?」 僕が
「そう。あいつ、
ライルさんは、うんざりといったふうで肩をすくめている。
「へえ……」
「持ち主は散々、落馬させられて、「僕にはお金はありません……。でも、スノーケルピーが言うんです……。僕のことだけは、その――怖くないって……」「へえ?」「それに、彼はリーさんに脅されていたとも言ってました。言うことを聞いたら、迎えに来てやるけど、そうでなけりゃ、肉に……するって……」「おいおい、嘘だろ……」「本当なんです……! だからスノーケルピーは暴れるんです。彼は、リーさんのところに戻るのも、肉にされるのもどっちも嫌で、でも、どうしたらいいのかきっとわからなくて……、きっと怖くて……」「参ったな、こりゃ……」 ライルさんは髪を掻き上げて、呆れかえったように僕を見つめた。まだ新米厩務員の僕が、暴れ馬と名高いスノーケルピーの担当を申し出て、しかもスノーケルピーの声を聞いたなんて言い出したのだから無理もない。ただし、どうやらスノーケルピー、つまりハーヴィーの馬主、デクスター・リー氏が、良質ではなかったということだけは、彼も知っているようだった。「実をいうと、リーさんのところにいた馬は、みんな性格が荒れるって噂があるんだ。これまで彼は、スノーケルピーのほかにも何頭か馬を持っていたらしいけど、みんな折り合いがついていない。それなのに、思うように動かない馬をすぐどこかへ売り飛ばしちゃあ、また買うんだってさ」「そうなんですか……。それでその――売り飛ばされた馬たちはどこへ行ったんです?」「さあ……、そこまでは……。知り合いに安く売ったって話もあるみたいだけど……。まさかな……」 ごくり――と僕は唾を飲み込む。もしかしたら、食用に売られて、食べられてしまったのかもしれない。もちろん馬を食べる文化は、世界的に見てもいくつも存在する。食文化である以上は仕方がないことだ。だが、イギリスでは皆無。羊や鶏を食べても、犬や馬は絶対に食べない。この国で彼らを食すということは、友達を食べることと変わらないのだ。「どれも聞いた話ばかりだから、オレは信ぴょう性はないと思っていたし、なにより彼は金持ちだからね。妬みやっかみで悪い噂を流されがちなんじゃないかと思ってたんだけど……やっぱり、本当なのかな……」「僕も、この目で真実を見たわけじゃありません。でも、スノーケルピーがどんなに暴れ馬でも、嘘を吐くような子じゃないと思うんです」
その翌日――。僕はぼんやりした頭を無理やり覚まそうと、とびきり冷たい水で顔を洗った。まだ頭がうまく働かない。昨晩の記憶が、ハーヴィーとの時間が、現実だとはとても思えなくて、僕はじっと鏡の向こうの、寝ぐせ頭で寝ぼけ眼眼な自分の顔を見つめた。 夜更けの物音。青白く光り輝くスノーケルピーの馬房と、そこに現れたハーヴィー。まるで不思議な夢を見ていたかのようだ。ただし――。 夢……だとしても、すごく鮮明に覚えてる。ハーヴィーの温もりも、声も。 ぼんやりしたままの頭でぐるりと部屋の中を見渡し、頭を掻く。ふと、白いシーツの上にキラリと光る糸のようなものを見つけた。僕はなにげなくそれを指先で摘まんで、日の光にかざしてみる。まるで絹糸のように美しいそれは、長い灰色の馬の毛だった。恐らく、ハーヴィーのしっぽの毛だ。 やっぱり、昨日のことは夢じゃない。あれ――……でも、ちょっと待てよ。僕はあのとき、確か……。 昨夜はあまりの出来事に驚いたり、呆気に取られるばかりだった。そのせいですっかり忘れていたが、確か――馬房でハーヴィーを見つけたとき、彼は僕にキスをしたのではなかったか。 そうだ……。僕、あのとき……、ハーヴィーと、キス――……。 思わず、僕は手で口を覆った。たちまち頬が熱くなっていく。昨晩は気に留めなかったことだが、冷静になって思い返すとひどく恥ずかしい。そもそも、僕は誰かとキスをしたことなど一度もなかったので、あれがファーストキスでもあるのだ。 妖精とファーストキスなんて……。 全く信じられない。昨夜、自分の身に起こったことは、なにからなにまで、あまりに奇想天外だった。しかし指先で、唇をなぞりながら思う。きっとあのキスに特別な意味があったわけではないのだろう――と。ハーヴィーは妖精といえど、一応は男であるようだし、あれは想いを伝えるようなものでもなかった気がする。僕にとっては強烈な思い出として記憶に残っているが、ただ、それだけだ。 妖精にとって、キスは、挨拶みたいなもんなのかもな……。 ハーヴィーの灰色の毛をもう一度、日の光にかざし、笑みを零す。なにもかも、夢のようで夢ではない。おかしな馬の妖精に出会い、懐かれてしまったのは事実。そして、彼を助ける
ライルさんでも――いや、むしろその方がいい。僕が担当になるよりも、現在スノーケルピーを担当しているのはライルさんやオークリーさんなわけで、ベテランである彼らに任せる方がずっと手っ取り早いのだ。 ライルさんやオークリーさんの方が、馬については詳しいし、経験もある。なにより僕には自信がなかった。まだろくに乗馬経験もなく、世話をするのがやっと。調教なんて夢のまた夢。それなのに、その役目を担うとすれば、僕はできるだけ早く、乗馬や調教の技術を学ばなければならない。その上で、ハーヴィーの秘密を守り抜き、彼をうまくこのウィンダミア乗馬クラブに留めておける技量や強さが絶対に必要になるのだ。それは思いだけ強くても、ついてはこない。きっとそんな重い役目も、ライルさんならすぐに、難なくできてしまうだろう。けれど、ハーヴィーは引かなかった。「でも、本当のぼくを知ってるのはオリバー、君だけだ。それに、ぼくは君が好きなんだよ。覚えてる? 初めて出会ったとき、君は優しくぼくに笑いかけてくれた」「うん……」「今まで君みたいな人はいなかったんだ。みんな、ぼくを暴れ馬だとか、悪魔だって言って……鞭を打つ。ぼくは怖くて堪らなくて、人間をどんどん嫌いになった。でも、君は――……君だけは、ぼくに優しくしてくれるって言ってくれた。大丈夫だよって、そう言ってくれたんだ」「そりゃ、まぁ、そうだけど……」「なによりも、ぼくは君ともっと一緒にいたい。こうしてさわったり、一緒におしゃべりをしたい。この世界にひとりぼっちでも、君と一緒ならいいって、初めてそう思えたんだよ。オリバーはぼくが嫌い?」「まさか。好きだよ……」 訊ねられて、すぐにかぶりを振る。僕だって、ハーヴィーが好きだ。スノーケルピーとして出会ったころはもちろんだが、彼が妖精だという真実を知った今は、もっと好きだと思えた。もっとハーヴィーと仲良くなって、彼を深く知りたい。僕は目を閉じて、想像した。 いつか彼の背に乗って、ひとつになって、草原を駆け抜けることができたら。デクスター・リー氏の手から、彼を救えたら――。しかし、そう思えば思うほど、不安もまた消えなかった。もし、ハーヴィーの担当になってもうまくいかなかったら。自分の力不足のせいで、未熟さのせいで、ハーヴィーを助けられずに、彼を失った
「そんな……」 絶句した。リーさんはこの乗馬クラブにハーヴィーを預け、更生を待っている。それ自体に不思議はない。馬を預ける馬主としては、自然なことだろう。 普通、馬を調教するのは、まず人間のためでもあるが、人の暮らしの中で、使役させられるという役割を持つ馬のためでもある。馬は人間がくれるイエス、ノーといった指示や、その約束ごとを理解しようとする生き物であり、意思の疎通を量ろうとするからだ。彼らとその約束ごとを決め、教え、確認し合う。それが調教なのである。 つまり、馬と心を通わせるため、互いのバランスを取るために、調教はある。しかし、ハーヴィーの話を聞く限りでは、リーさんには馬を思いやる気持ちは微塵にもなさそうだった。更生する見込みがないとすれば、飼っているだけでは穀潰しも同然。食用にでもしてどこかへ売り飛ばす。本当にそう考えているなら、彼はあくまでも馬を――いや、スノーケルピーを、そこらで拾った『物』や『道具』としか考えていないのだろう。「でもさ、だったらなおさら、ライルさんたちの言うことを聞かなきゃ。君は肉にされちゃうじゃないか。ライルさんやオークリーさんは優しいだろ?」 肉にされてしまうなら、悪質な馬主であっても生きのびられる方がずっといい。少なくともこの乗馬クラブにいれば、意地悪をされるということはないわけだから、絶対に言うことを聞いた方がいい。僕は疑いなくそう思ったが、ハーヴィーはやはり、かぶりを振った。「あの人たちのことは嫌いじゃないよ。でも、言うことを聞いても聞かなくても、ぼくは妖精の世界に帰ることもできずに、どの道、あの意地悪なおじさんのところへ戻らなくちゃいけないんだ。なにをしたって、地獄行きさ……」「ハーヴィー……」 あぁ、と僕はため息を吐く。ハーヴィーは途方に暮れ、絶望の中でどうしたらいいのかわからずに、暴れるしかなくなっているのだ。リーさんは、ハーヴィーを更生させたくて、この乗馬クラブに預けているが、彼を手放したわけではない。たぶん、そういう気もないだろう。 ハーヴィーが更生したと聞けば、きっと喜んで乗りにやって来て、いずれは連れて帰りたがるはずだ。そうすれば、ハーヴィーは再び彼の管理下に置かれ、苦しい生活を強いられる。ここで大人しくしていても、暴
悲しそうにハーヴィーはため息を吐き、自分の手の平をじっと見つめている。彼の様子には僕も胸を痛めたが、かといって、なんの力にもなれない。それでもどうにか元気になってほしくて、僕はハーヴィーに訊ねた。「どんな場所なの? その――妖精の国って……」 すると、ハーヴィーはキラキラと瞳を輝かせ、笑みを見せた。「とても綺麗な場所だよ。ハーブとお花がいっぱいで、そこら中でいい匂いがしていて、太陽はいつもキラキラしてる。お城じゃ音楽が鳴ってさ、毎日パーティーが開かれるんだ」「毎日?」「そう。妖精たちはみんなお茶会が大好きだからね。父さんはいつもお客さんをお城に呼んじゃあ、パーティーを開いていたよ」「へえ……。君のお父さん、お城に住んでるの……?」「うん、そうだよ」「すごいね。王様みたいだ」「みたい、じゃなくて、ぼくの父さんは王様だよ。ケルピーの王様」「ケルピーの……。それじゃあ、君はつまり……王子様ってこと?」「もちろん」 僕は隣に座るハーヴィーをじっと見つめ、眉を上げる。目の前に妖精の王子様がいるなんて信じられないが、これが夢でなければ認めるしかない。 尖った耳介も、尻の辺りから生えたふさふさしたしっぽも、奇妙な身なりも、左右で色の違う、まるで宝石のような瞳も、すべて彼が妖精だと裏づけるための証拠だと、思わざるを得ない。そしてなによりも、妖精の王子にふさわしいだけの美しさを、彼は持っていた。「じゃあ、君のお父さんも魔法を使えるの?」「うん。父さんは妖精界でも、五本の指に入るくらい、特に強い魔力を持っているんだよ」「だったら、助けを呼んでみたら――」「それは、無理だと思う……」 魔法なんてこれまで信じたこともなければ、どんなものなのかも想像できない。それでも、妖精界で一番強い魔力を持っているのなら、ハーヴィーを迎えに来ることなど、たやすいのではないか――と、僕は当然のごとく考えた。だが、ハーヴィーは力なく項垂れて、かぶりを振っている。「さすがに扉が開かないんじゃ、どうしようもないんだ……」「そっか……」「少し前まではこうじゃなかったのに。いつの間にかこの世界は孤立してしまったんだ。この世界に住む人間はみんな、物質的なものに支配されてさ、誰もがそれ以外を信じようとしない。動物たちや木や水や、風の声を
「いったた……。オリバー、どう? わかってくれた?」 青年はなおも僕に近づき、じっと見つめて訊ねる。僕は、はあ、はあ、と息を切らしながら、目の前に立つ青年を上から下まで確認する。そして、訊き返した。「スノーケルピー……? まさか……君なの?」「うん……!」 青年は返事をして笑みを浮かべると、僕の手を取った。それからあっという間に抱き寄せたのだ。僕は驚いて声も出ない。これがどういうことなのか、現実なのか、夢でも見ているのか、その判別すらもつかなかった。スノーケルピーは葦毛のサラブレッド――だったはずなのに、今、ここにいるのはおかしな青年だ。見たこともない不思議な容姿の、裸足の青年。しかし――。「あぁ、オリバー……。やっと君に触れたよ……!」 僕は思い出していた。彼の声は、いつか聞いたあの声と同じ。スノーケルピーと目が合った瞬間に僕の名前を呼んだ、あの声と全く同じだったのである。 ひとまず、僕は不思議な青年を連れて馬房を出て、自分の部屋へ戻った。大きい音を立てないように、そうっと宿舎の階段を上がり、暗い廊下で彼が転ばないように、しっかり手を握る。そうして部屋に戻り、彼を椅子に座らせてから、ベッドに腰掛ける。ところが、青年はなにを思ったのか、僕の隣に移動して、ぴったりと寄り添ってきた。 ん……? もしかしたら、彼はベッドに座りたいのかもしれない。僕は無言で腰を上げ、椅子に座り直す。だが、青年はとても悲しそうな顔をして、立ち上がった。「オリバー、隣にいて……」「隣?」「うん……」 青年は頷き、自分のすぐ隣を手の平でさすっている。まるで子どものようにねだるその仕草に、呆れて眉を上げるが、この青年が本当にスノーケルピーだとすれば、それも不思議と納得してしまって、僕は仕方なくベッドの上――青年の隣に座り直した。僕が座ると、彼は目をキラキラさせて、たちまち嬉しそうな表情を見せる。「それで、ええっと――……。君は……」「ハーヴィー」「ハーヴィー?」「うん、そう。それが、ぼくの本当の名前」 どうやら、彼を呼ぶときは、ハーヴィーという名が正しいようだ。僕はひとまず頷く。「ハーヴィー。君は、本当にあの、スノーケルピーなの?」「うん」「でも、スノーケルピーは馬だよ? 君は見たと