……またかよ。
見慣れた天井を眺めながら、漏らした溜息は半ば無意識だった。
更衣室の一角には、スタッフの休憩スペースとして大きめのソファが置かれ、その前にはガラス板のローテーブルが設置されている。天板の上には定位置のようにスチール製の灰皿が載っており、その傍らに俺は私物である煙草とライターを転がしていた。
その日の休憩中、俺はその広い座面にだらりと横たわり、何度も同じことを考えていた。
いったい、いつになったら消えてくれるのか。もう一年も前の話だと言うのに、いまだに痛む胸が忌々しい。
こうならないようにと深入りすることなく縁を切ったつもりでいたのに、これではまるで手遅れだったみたいじゃないか。いや、そんなわけ……。
自嘲するように否定してみても、なかなか気持ちは切り替えられない。
俺は再び溜息を吐いて、眠りたいように目を閉じた。
唇で挟んでいるだけの煙草の紫煙が、そんな胸中を反映するかのように、ゆらゆらと揺れていた。「
と、急に扉の開く音がして、続けざまに聞きなれた声が耳に届く。
俺は気怠げに身体を起こすと、くわえていた煙草を灰皿に押し付けた。
ドアの隙間から顔を覗かせていたのは、同僚の「何の用だって?」
「さぁ、それは聞いてないけど……とりあえず、休憩中悪いけど、とは言ってたよ」悪いと思うなら後にしてくれねぇかな……。
喉まで出かかった言葉を飲み込んで、俺は間もなく部屋を後にした。***
「で……ロッカーはここな」
数分後、再び更衣室へと戻ってきた俺の前には、見慣れない一人の青年が立っていた。
俺は名前の書かれていないロッカーの一つを示しながら、「あと、これ」と、ついでのように持っていた制服を差し出した。けれども、それを彼はすぐには受け取ろうとしない。
一拍おいて、ようやく手を出してきたと思ったら、驚くほどぎくしゃくとした動きで制服を掴み、続けてぺこりと――いや、どちらかと言えばがくりといった感じの動きで頭を下げた。……なんだ?
一言で言えば挙動不審。
そんな彼の仕草や表情――は長めの髪と俯きがちなのとでよく見えないけれど――は何て言うか……まるで油の切れたロボットみたいというか、とにかくそれくらい不自然に見えた。緊張しているせいなのだろうことは想像がついた。ついたけれど、そのぎこちなさはうっかり目で追ってしまうほどで、そのたび俺は意識して視線を逸らすのに必死だった。
大学卒業と同時に、俺がレストラン〝アリア〟の正社員となって2年目の春。
その日、新たに社員として入ってきた彼の名前は、店長室に呼ばれた俺は、ろくな前振りもなくいきなり彼を紹介された。そしてそのまま、一方的に押し付けら――任されたのだ。新人である彼の教育係を。
「…………」 やばい。 その熱が飛び火したみたいに、俺まで顔が火照ってくる。 ……おかしいな。 俺の好みってこんな感じだったか? 確かに俺は河原のことが気になっていて、多分これはもうなかったことにはできないところまで来ている。 だけど、面食いなのは元々としても、少なくとも河原みたいに、どちらかと言えば天然? なタイプを好きになったことは……今まで一度もなかったはずだ。「――明日、俺は仕事だけど……」 ややして河原は再び口を開く。前方を見据えたまま、ぽつりと呟くように。 反して俺は視線を落とし、ただ静かにその先を待った。 ……そうだな。 明日は俺は休みだけど、河原は仕事だ。「なんだけどさ。……今日、ちょっとだけ、飲みたいな……って、思って」 「飲み……? 今日?」 不意に強く吹いた風に、長めの髪が煽られる。目の前をちらつく前髪を掻き上げながら、俺は思わず彼を見た。「そう、あの、休みの前の日に……時々やってたみたいに……。……だめかな」 「あー……そりゃまぁ、俺はいいけど……」 「ほんと? じゃあ、酒は俺が出すよ」「……わかった。いいよ」 もしかしたら、断られると思っていたのだろうか。俺が承諾すると、彼は見るからにほっとした顔をして、「やった」と笑顔でこぼしていた。 酒は河原が出す――ということは、要するに河原の部屋で一緒に飲もうということだ。 とにかく早く慣れてもらえたらと、この三ヶ月の間に何度かそういう――主に俺の部屋でだったが――宅飲みの機会を作ったことがあった。 俺と河原は、会社から借り受けている部屋が同じマンション内にあったし、教育係をしている間はシフトがまったく同じに作られていたため、予定が合わせやすかったということもある。 そして実際やってみると、思いの外彼の方もそれを気に入ってくれたらしく……考えてみればその誘いを断られたことは一度もなかった。 俺に思ったより早く慣れてくれたのも
「そっか。じゃあ、大丈夫だな」 いつもよりもずっと気苦労の絶えなかった教育係も、これで終わり。明日からはシフトも休みも合わせずに済むし、やっと全てから解放された――と思うのに、 隣に、俺がいなくても、もう…….。 実感するたび、なぜか切ないように胸が締め付けられる。 何だこれ……。 お世辞にもできが良かったとは言えない後輩が、ようやく独り立ちしてくれるのだ。なのにどうしてこっちがこんな心境になっているのか。本当なら清々するところじゃないのか……。 これはあれか……? 娘を嫁に出すときの何とかっていう……。 自虐めいた揶揄が頭を掠め、そんな自分に顔が引き攣りそうになる。 終業時間からは、既に十五分ほどが過ぎていた。周囲にはもう、俺たち以外誰もいない。「でも……」 階段を上り始めた河原が、不意に足を止めて呟いた。「でも?」 俺はスイッチパネルに手をかけたまま、続きを待った。 数拍後、河原がゆっくり振り返った。今度は身体ごとまっすぐに、俺へと向き直る。「でもやっぱり……ここまで来られたのは暮科のおかげだから、できればこれからも……わからないことがあったら、暮科に聞きたいな」 「――…」 その瞬間、俺はわずかに目を瞠った。 ……なんて台詞を、なんて表情で口にするんだろう。 見ているこっちが恥ずかしくなるくらい、河原は心底嬉しそうに微笑っていた。 彼の言動に他意がないのは明らかだ。付き合いは短くとも、それくらいはもうわかる。 そのくせ、いきなり心臓を掴まれたような心地がして、そんな自分が信じられない。 俺は部屋の電気を消した。 自分がどんな顔をしているかわからなかった。こんな時、どんな顔をすればいいのかわからなくなった。 そんな心の内を悟られたくなくて、俺は視線を落とし、彼の隣を通り過ぎた。 そうして、完全に背中を向けた頃、ようやくぽつりと呟いた。「別に……仕
本来なら、十日で終了のはずだった。 なのに結局、そのままずるずると延長されて、気付けば三ヶ月もの月日が流れていた。 そこでようやく認められたのだ。 もう教育係の目がなくても――俺が手を離しても大丈夫だって。 *** 三ヶ月か……。 過ぎてしまえば、長かったような、短かったような……。 彼が酷い上がり症だと言うのは本人から聞いていたし、義弟のこともあったのである程度は覚悟していたつもりだった。 つもりだったが、実際にはそんな覚悟ではまったく足りなかったというか……。 正直、本当に俺でいいのかと思ったことも一度や二度じゃない。 教えた仕事を覚えるのは、案外早く、エプロンだってあの一度きりで次からはちゃんと巻けるようになっていた。 落ち着いて集中していれば手際もいいし、周りも意外と見えている。初心者にしては盛り付けのできもいいから、慣れればかなりの戦力になるだろうこともすぐにわかった。 ただ、仕事よりも人に慣れるのがとにかく遅く、そこに何より手間取ってしまった。 厨房に常駐しているスタッフや、始終一緒にいた俺にはそこそこ早く慣れてくれたが(それでもそこそこだ)、それ以外のスタッフには本気で心配になるくらい時間がかかった。 河原は正社員なので、月に6日ほどある休みの日以外、同僚に当たるスタッフとはほとんど毎日顔を合わせていた、にもかかわらず、だ。 そうかと言って、特に対人恐怖症だとかそういうわけでもないらしく――。 確かに、彼自身は人が好きなようだし(世の中に本当に悪い人はいないと思っているタイプ)、もちろん相手に迷惑をかけていないかということは気にしていたが、基本的にはそこまで他人からの評価を意識しているようにも見えなかった。 ……まぁ、どのみち決まった相手や決まった状況の反復にすら、慣れるまでにこれだけの時間を要したくらいだから、不特定多数の客を相手にするホールの仕事はやっぱり難しいだろうなとは思ったけれど。
――かわいい。「……!」 次の瞬間、俺はわずかに顔を上げた彼にそのまま口付けていた。掠め取るように、唇を触れ合わせてしまっていたのだ。 ……やば。 しまったと思った。何をやっているんだと思った。だがそれも後の祭りだ。 はっとした俺はすぐに顔を離したが、予想に反して彼の方は嘘みたいに反応がなかった。 いや、この場合、俺がそれほどのショックを与えてしまったということなのかもしれないけれど。 ……ショック……。 「ショ……、ショック療法……とか。試したことは……?」 気がつくと、我ながら苦しすぎる言い訳が口をついていた。 さすがにあり得なさすぎて顔を覆ってしまいたくなったけれど、その方がよけい気まずくなるような気がしてどうにか平静を装う。 らしくない自分の言動に、俺も俺で動揺していたが、幸いというか、それを彼に悟られた様子はなかった。 元々感情を隠すのが苦手ではない――と言うか逆に表に出すのが得意じゃない――性格のおかげかもしれない。まぁ、何より、彼にその余裕がなかったことに助けられた気もするが。「――っ」 少しずつ冷静になっていく俺の前で、突然、彼の身体が崩れ落ちた。 触れていた俺の手を置き去りに、ロッカーを背に床へとへたり込んでしまった彼の顔は、けれどもいまだに表情がない。表情どころか、血の気もないように見えた。……何ていうか、茫然自失? 数秒後、ようやく彼は口を小さく開閉させた。顔を赤くしたり蒼くしたりしながら、忙しなく瞬き、わずかに首を傾げたりもする。 それでもまだしっかりとは頭が追いついていないようで、それならと俺は誤魔化すように言葉を継いだ。 彼の前へと屈み込み、再びその顔を覗き込むようにして、「緊張、とけたか?」「と、とけっ、とっ……」「とけてねぇなぁ」 あくまでも何事もなかったように、口許に煙草を戻して小さく笑う。「と、とけ、る……わけ……っ」 彼は腰を抜かしたような格好のまま、必死にぎくしゃくと首を振った。 そうだよな。まぁあんなんでとけるわけねぇよな。 苦笑混じりに頷きながらも、そのわりには彼の表情にもいくらか生気が戻ってきたような気がしてほっとする。「……へぇ……?」 俺は遅れて込み上げた笑いに小さく肩を揺らした。 大変なばかりかと思っていた彼の教育係だが、案外悪くないかもしれない。
冴子さん――この店のオーナー兼店長――は、彼は厨房のスタッフだと言った。 元々調理専門以外のスタッフは、厨房とホールを兼任することも多いため、その時から多少ひっかかってはいたのだ。それでも冴子さんが、「〝よほどの事態〟がない限り、ホールには出さない」と言いきるから、ひとまずは「はいわかりました」と納得していた。この店はある意味冴子さんのワンマン経営でもあるし……。 だけど、改めてその容姿を意識すると、何でこれでキッチン専門? とも思えてしまう。「河原……さんだっけ。なんで厨房だけになったんだ?」 何気なく訊ねてみたら、彼は再度びくりと肩を震わせた。 ……いや、だから……。……何だよ、もしかして俺が怖いのか? 心の中で呟きながらも、俺は確かめるように彼の姿を目で辿る。 俯きがちのせいか、少々分かりづらくはあるけれど、身長だって180強の俺より少し低いくらいで、どちらかと言うと高い部類に入る。体つきだって細身ではあるものの、華奢と言うほどでもない。 やっぱり総じて悪くない。 いや、悪くないどころか、かなりいい方だと思う。 ……ていうか、そんな自分とそう変わらない男に、初対面でこんなにもびくびくされてしまう俺って――…。「ホールに出た方が、少しだけど給料もいいんだぜ。知ってるとは思うけど……」 微妙にショックを受けながらも、何事もなかったかのように話を続ける。 もちろん、厨房専門でも能力によって相応の評価はしてもらえるけれど、彼のように調理経験もなく、雑用から入る場合はちょっと差が出てしまうだろう。 つーか……聞いてんのか……? けれども、いつまで経っても彼からの反応はない。俺はその正面に立ったまま、そっと顔を覗きこんだ。 ……俺も案外気が短い。 さっきの感じからして、これがこの男の〝間〟かもしれないのに。 だけど何かが妙に気になって、気長に待つということができなかった。「あ、……あ」「あ?」「あ……上がり、症で」「上がり症?」 訊き返すと、彼はぎこちなく頷いた。 元々の緊張によるものなのか、俺がそう言わせてしまったせいかはわからないが、その顔はみるみる真っ赤になっていった。 上がり症か……。 俺は心の中で反芻した。 あれは程度にもよるけれど、結構やっかいなものだというこ
「えっと……とりあえずそれ、着てみて」 「!」 受け取った制服を手にそのまま棒立ちとなっていた彼に声をかけると、びくりと肩を揺らされた。と同時に、ばさりと持っていたそれが足元に落ちる。 え……。 いや……いったいどんな反応だよ。逆にこっちがびっくりするわ……。 思いながらも拾ってやると、「あ、ぁ、すみ、ません……」 途切れ途切れの返事と共に、再びぎこちなく差し出される彼の手。一瞬掠めたその指先は、すっかり血の気が引いたように冷たくなっていた。「っと……着方……は、わかるよな?」 「だ、大丈夫、……だと、思います……」 「……じゃあ、うん」 いちいち想定外の彼の様子に、俺まで微妙に戸惑ってしまう。 けれども、そう言ってからは彼も何とか手を動かして、真新しい制服を一つずつ袋から取り出し始めた。 真っ白いシャツに黒いリボンタイ。黒いパンツにカマーベスト(ホールに出ないスタッフのベストの着用は任意だが)、そして丈が長めのギャルソンエプロン。 その一つ一つを、自信なさげに目の前にかざして確認しながら、脱いだ服をロッカーにしまい、順番に袖を通していく。 河原英理、か。……変わったヤツだな。 第一印象はそれしかなかった。 俺は横目にその様子を窺いながらも、ひとまず自分が休憩時間だったことを思い出し、「もう一本だけ……」と、癖のようにポケットを探った。 けれども、目当てのものはそこにはなくて、「……」 ああ、そうか、さっき出しっぱなし――。 途中で気がついた俺は、さっきまで座っていたソファの方へと目を向けた。 案の定、傍らのテーブルの上には、見慣れた煙草のソフトケースと100円ライターが置いたままになっていた。 俺はそれらを手に取ると、早速浮かせた一本をくわえながら振り返る。その先に、ライターを構えながら、「あ、煙草、吸っていい――」 か、と今更のように確認しようとしたところで、口許の煙草がぽろりと落下した。 見れば彼はまた、まるで金縛りに遭ったかのように動かなくなっていた。俺に背を向けた形で完全に固まっているその様子を、壁際に設置されている姿見を介して窺う。……どうやらエプロンのつけ方がわからなくてそうなってしまったらしい。「……後ろで結ぶんじゃなくて、一周まわして前で結ぶんだよ」 ただ腰にあてて、後ろで