Masuk***
「そう言えば、河原のさぁ、ピアノの発表会の話があるじゃん?」
「発表会?」しばらく黙って歩いていた木崎が、思い出したかのように口を開く。俺は横目に視線を向けて、反芻するように訊き返した。
歩く速度が遅いせいか、到着までには少し時間がかかりそうだ。
途中まで支えるように掴んでいた腕は、今はもう放している。まだ時折ふらつくことはあるものの、本人が「大丈夫」と言い張るし、俺から見ても多少は酔いが覚めてきたようにも見えたからだ。「うん。あの、演奏前にステージ上で倒れたっていうあれね」
「あぁ……」なるほど、木崎も知っているのか。
上がり症の治療の一環として、河原が出されたピアノの発表会。そのステージ上で失神し、挙句の果てには……という、あの話を。まぁ、河原は木崎とも仲がいいから、話していたとしても不思議はない。
……思うのに、どこかもやもやとした気持ちになってしまう。その上――。
「その時にさ、河原の手をずっと優しく握っててくれたっていう、幼なじみがいたじゃん? その人にそうされると、不思議と落ち着いたーっていう」
「……幼なじみ?」「んー、まぁ、暮科が今更幼なじみにはなれないけどさ。なんていうか、それって恋人とは違うけど、言ってみればかなり特別なわけじゃん? だから……だからまずは、そういう存在を暮科も目指してみればどうかなって、思うんだよね」
「…………へえ」
わずかな間ののち、俺は気のない相槌を打った。
木崎はずっと前方を眺めていたが、その声を聞いて俺の方を見る。「――え、嘘。知らなかった? この話……」
俺は返事をしなかった。
それを肯定と察した木崎は、少し慌てる。「え、あ、待って。どこ知らなかった? 発表会? ……って、それは知ってたんだよね? ってことは、幼なじみ? 幼なじみのとこ?!」
「……」 「あー嘘! やっ……でもこの話、河原が酔っ払った時に言ってた「学校の用事だから仕方ない……? 何が透が悪いわけじゃないだ……?」 反芻するように独りごちると、ややして木崎が開き直ったように「えへへ」と笑った。「や、だってさ……ここんとこ透くん、ほんと学校忙しくて……なかなかそう言う時間が……」 「何がそう言う時間だ」 被せるように言えば、気恥ずかしいみたいにあざとく自分の頬に触れ、ぺろりと舌を覗かせてくる。「だからって、ちゃんと時間には間に合うように出るつもりだったんだよ?」 20分あればいけるかなって思ってたし。 と、早口で添えられた言葉も俺は聞き逃さなかった。(何が20分あればだ……) そのあまりの反応に、俺は無意識にこめかみを押さえる。短くなった煙草を灰皿に押し付け、当て付けるようにため息をついた。 お前のその身勝手な遅刻のせいで、こっちがどれだけ面倒な事態になっていたと……。その詳細をぶちまけられない分余計に腹が立つ。「それならそれで最初から家で大人しくしてろよ」 「それとこれとは話が別だよ!」 聞くも半ばに、俺はビールを呷る。張り合うみたいに、木崎も自分のカクテルを飲み干した。 そんな俺と木崎の横で、少々ぽかんとしながらも、河原と透もグラスを傾ける。二人が意外と平然としているのは、もしかしたらまたいつものことだとでも思っているからかもしれない。「こんなふうに四人そろうのって久々だしさ? 俺だってほんと楽しみにしてたんだから――ね、河原?」 空にしたグラスを天板に置いた木崎が、突然河原に水を向ける。ちょうどビールを口に含んだところだったらしい河原は、飲み込むタイミングを逸して一瞬息を詰まらせた。 数回咳き込み、それから「うん、俺も楽しみにしてたよ」と涙目で答えた河原の背中を、俺は「大丈夫かよ」と何度かさすってやる。 木崎が「ごめんね」と若干気まずそうに手を合わせる横で、透が慌てて紙ナプキンを差し出した。河原はそれを受け取り、口元を拭いながら「平気平気」と笑った。ややして俺が背中に添えていた手を下ろすと、各々ほっとしたように息をつく。
「なんだったんだよ。木崎のメッセージもわけわかんねぇし……」 「あっ! あ、そうだ、ほんとすみません! 俺のせいなんです、こんな時間になってしまったの……っ」 するとぱちりと瞬いた木崎の横で、透が弾かれたように背筋を伸ばし、天板に頭突きしそうな勢いで頭を下げた。「別に透くんが悪いわけじゃないでしょ。仕方ないよ、学校の用事が急に入ったんだから」 木崎はそんな透の背中にぽんと触れ、身体を起こさせると、にっこり笑ってそう続けた。「で、でも、やっぱり俺のせいで」 「大丈夫大丈夫。そういう理由で遅れたことを責めるような二人じゃないよ。――ね、河原。暮科?」 透を宥めるように言ったあと、向けられた笑顔にはなんとも言えない圧を感じた。 それに気付かない河原は、ただうんうんと頷き、「お疲れ様」と素直に労う。 マジどんだけお人好しなのか。 違うだろ。どう考えても木崎のこの笑顔は何か隠してるだろ。「別に怒ってるわけじゃねぇよ」 運ばれてきた飲み物がテーブルに並べられ、店員が去った後、俺は引き寄せた灰皿に灰を弾きながらため息をついた。「あーもう、その態度が怖いんじゃん。顔も怖い。透くんだって何も好きで遅れたわけじゃ――」 「悪かったな。顔は生まれつきだよ」 被せるように言うと、隣で河原が笑い出した。「いやお前もそこ笑うとこじゃねぇだろ」 自分のグラスに手を添えながら、なおも肩を揺らしている河原に思わず力が抜ける。 自然と空気が和み、透の表情からも強張りが解けていく。そこで仕切り直しのように軽く乾杯をして、三人が同時にグラスを呷る。それに遅れること数秒、俺も諦めたようにグラスに口をつけた。「ていうか、透くん、結局午後も学校だったんだな。何時までいたんだ?」 おそらくもう、木崎からしてみればその話には触れて欲しくなかったのではないかと思う。 だけど相手は河原だ。河原はまるで気にするふうもなく、不意にできた一瞬の隙を穏やかに突いてくる。 そしてそ
「待ち合わせにまだ誰も来ていないって分かったとき、英理、ちょっとどきどきしたよね……?」 中空に取り残された自分の手をさみしげに見詰めながら、見城がちらりと河原を見る。河原が「う、うん」と小さく頷けば、その視線はまた俺へと戻ってくる。「ほら。俺がいて良かっただろ……?」 かと思うと、次にはにっこり微笑んで、ぱちりとウィンクまで寄越してきた。 その瞬間、俺の手の中から、改めて構え直していたライターが滑り落ちる。カツンと硬質な音を響かせ、天板の上で小さく跳ねたそれを尻目に、見城はおもむろに手を下ろし、「冗談だよ。別に感謝してほしくてやったことじゃない」 言いながら、目の前のワイングラスをゆっくり傾けた。 ――やられたと思った。そうだ。こいつはこんなやつだった。 それにまんまと振り回されてしまった自分に心底辟易する。「暮科、ライター」 そこに横から手が伸びてくる。河原が足下まで落ちたライターを拾って、俺に差し出してきたのだ。 もう一方の手には、残り少なくなっていた自分のグラスが握られている。続けざま、それを目の前で一気に空にして、河原はぷはっと嬉しそうに息を吐いた。「二人が楽しそうで俺も嬉しい」 お前の目はどうなってんだ。 口をつきそうになった言葉を飲み込み、俺は口端をかすかに引き攣らせる。 河原はあくまでもふわふわとした笑みを浮かべて、勝手にうんうんと頷いていた。 ライターを受け取り、咥えていた煙草も一旦手元に戻した俺は、遅ればせながらも自分もグラスを手に取った。 ……マジで仲良くしてほしいんだな、見城と……。 そう思い知らされたところで、苦笑するしかない。 いや、ここはもう飲むしかないのかと思った俺は、無言でそれ――河原と同じ生ビール――に口を付け、そのまま一気に中身を飲み干した。「あー、いい飲みっぷりだね。――次こそはもっとゆっくり飲みたいな」 「……次?」「ああ、残念だけど、そろそろ時間なんだ。沙耶たちにも伝え
……いや、それはもう過ぎたことだけど。 とか思いつつ、結局はそれを河原に言えないのも原因の一つではある気がした。「うん。将人さんがいてくれたし、なんとか」 そんな俺の胸中など知るよしもなく、河原ははにかむように目端を染めながら、先に個室の中へと入る。 そしてすぐには動かなかった俺の服をツンと引っ張り、俺が仕方ないように河原の隣に腰を下ろすと、 「何飲む?」 まるで気の抜けたような笑顔と共に、メニュー表を差し出してきた。 視界の端で、見城が静かに戸を閉める。 マジでこの三人で飲むのかよ、と言う不満が口をつきそうになったけれど、(まぁ、いいか……) それをなんとか飲み込んで、俺はため息混じりにオーダーを決める。 結局はそう折り合いをつけるしかないのだ。 だって俺の隣で河原が、こんなにも幸せそうに笑うから――。 *** 今回木崎が選んだこの居酒屋は、よくある大衆居酒屋というよりは、どちらかと言えばバーのような雰囲気の店だった。 店内の明度は暗めに保たれ、控えめに流れているBGMはジャズピアノ。酒の種類も豊富で、料理も美味しい。 その割に価格は抑えられており、近所の大学に通う学生なんかにも評判だ。 実際俺も、初めてここに来たのは大学生の頃だった。 現職場でバイトを始めたのも同じ頃で、終業後に同じバイトの友人と一緒にふらりと立ち寄ることもあった。そしてバイトのない日には――、 あ――……。 それこそ、ほんの数回とは言え、見城と一緒に来たことも……。 俺が見城と関係を持っていたのは同じ大学に通っていた頃の話で、その大学はここから自転車でも通える距離にある。 そんなことをふと思い出し、俺は振り払うように頭を振った。 正直、俺はもうその頃のことについては
何がちょっと遅れるだ。もう既に一時間以上遅れてんじゃねぇか。 俺は呆れ混じりに息をつき、既読にもしないまま、無言でそれをポケットに戻す。 待ってくれていた店員の後に続くと、やがて案内されたのは普段からよく使っている半個室のテーブル席だった。 一旦下がってもらった店員の背が見えなくなってから、俺は急くように引き戸に手をかけた。なのに、「やぁ、静」 次いで部屋を覗いてみると、「……は?」 そこにいたのはまるで想定外の人物で――。 ……なんで、こいつがここに? 俺は思わず閉口した。 長身、長髪、白い服。モデルであることが一目で分かるような佇まいに、雑誌の一部を切り取ったような熟れた微笑み。珍しく一つに束ねられた髪の毛は、明度の高い金色なのにどこか上品で、彼の持つ日本人以外の血を色濃く反映しているようにも見えた。 ――見城将人。 その男は、俺が今でもできるだけ関わり合いになりたくないと思っている相手だった。「静?」 そんな俺の胸中などどこ吹く風で、見城は馴れ馴れしく俺を呼ぶ。「なんでアンタがいるんだよ」 あからさまに厭わしげな息をつく。声に滲む苛立ちも隠さない。「挨拶だね。そんな表情しなくてもいいだろう?」 「そんな表情ってどんな表情だよ」 向ける眼差しも自然と冷ややかなものになり、それを受けて見城が苦笑する。 それでも俺はただ目を細めるだけで、「ここにいたやつは?」 とにかく話を本題に移す。 個室内を見渡してみても、そこには見城の姿しかない。けれども、テーブルの上には飲みかけのグラスがもう一つあった。しかも、見城の傍にあるのがグラスワインなのに対し、そちらはどう見ても生ビール――。 店員はちゃんと来ている者もいるように言っていた。 でもそれは木崎じゃない。 そして多分、木崎がまだなら透もまだなのだろう。 と
「明日飲みだからね。17時に予約してあるから。場所はいつものとこ。河原にももう声かけてあるし、できるだけ早く来てよね!」 先に終業時間を迎えた木崎は、そう告げるなり踵を返し、たちまち俺の目の前から姿を消した。 いやお前ちょっと待てと。なんの話だと。言い返す暇さえ一切無かった。……と言うか、俺がそうできない状況だと分かった上でのことだったに違いない。 だって木崎が早番で上がったばかりの時間と言えば、遅番はバリバリ仕事中で、しかもその時俺が客のオーダーを受けて厨房に戻ってきたばかりということは、店のスタッフなら誰もが見れば分かることだったんだから。 だから俺は、当然その背を追いかけることもできなかった。 まぁ、例えできていたとして、したかどうかはまた別の話だが。 何故って、その時には既に選択の余地などなかったからだ。「河原にはもう声をかけてある」――そう言われてしまったら、俺にはもう誘いに乗る以外の答えなんて選べないんだから。 *** それにしても、まったくいつから計画していたのか、その日は木崎と河原が公休日、透は午前中のみ学校、そして俺は早番だった。 確かにそう言う日なら、四人揃ってゆっくり飲むこともできる。 いつもは基本河原が遅番だし、俺もどちらかと言えば遅番が多いため、例え飲んだとしても誰かが欠けていることがほとんどだ。 そう考えると、俺もまぁ、たまにはこう言う機会があってもいいのではないかとは思う。思うのだが――。 そのわりになんで開始時刻が17時なんだよ。 早番の上がりは17時なのだ。要するに俺はどうやっても間に合わない。 そういう場合、いつもなら18時開始としていたはずなのに。 現に前回、木崎が早番だった日の飲み会は18時で予約が取ってあった。それより前の、河原が早番だったときだってそうだった。 なのに俺の日に限って間に合わせない。 別にいちいち俺に合わせろと言っているわけじゃない。ただ







