Share

君のために、雲海を越えて
君のために、雲海を越えて
Author: ポンコツ書虫

第1話

Author: ポンコツ書虫
篠宮悠璃(しのみや ゆうり)は、夜中に熱冷ましの薬を探しに階下へ降りると、別荘の玄関が開け放たれていることに気づいた。

ぼんやりして戸を閉めようとしたその瞬間、ふいに、唇と舌が絡み合う艶めいた音が響いた。

自動照明がパッと灯り、目の前にはあらわな体が、何の隠しもなく晒されていた。

三日前に一度見かけたあの女が、夫の篠宮楓(しのみや かえで)に玄関のドア板に押し付けられ、激しくキスされていた。

彼女の頬はほんのりと紅潮し、眩しいほどに艶やかで、身体を震わせながら、楓に問いかける。

「社長、こんな堂々と私を家に連れ込んで、奥さんに怒られないの?」

「怒る?」楓は冷笑を隠そうともせず、「夫婦交換ごっこするって約束したんだぞ。あいつがお前の旦那のところに行く勇気もないくせに、俺に文句があるとでも?」

月村莉奈(つきむら りな)は首を傾け、楓に白い耳たぶを甘噛みされながら、ふと目を開いた。そこで、悠璃と目が合った。

だが莉奈は怯えることもなく、むしろゾクゾクと興奮しているようだった。瞳の奥には、刺激を楽しむ光がちらついていた。

「へぇ?本当に平気なの?奥さんが他の男と寝ても?」

楓は肩をすくめ、冷たく笑った。「ゲームなんだし、気にするわけないだろ。もし嘘だったら、バチが当たるさ」

そう吐き捨て、皮肉な笑みを浮かべる。「それに、あいつは俺のことが狂おしいほど好きなんだ。他の男なんて眼中にない。交換ゲームなんて、できるわけがない」

「桜井家のお嬢様の純愛さを知らないのか?」楓は誇らしげに眉を上げる。「十年以上も俺一筋。俺が事故で腎臓を壊したとき、自分の腎臓をくれるって言い出したんだぜ。

俺が意識不明で寝てる間、正安寺まで登って祈りに行った。足を血まみれにしてまでなあ。

それだけじゃない。俺のために将来を捨て、家族とも絶縁し、プライドも人格もかなぐり捨てた。俺が一番嫌ってた時期、ブスだとボケだと罵っても、なお俺の後にすがってきたんだぞ」楓は、悠璃の愛をまるで戦利品のように並べ立てる。

「そんな女が、本当に相澤社長とくっつくと思うか?

ていうかさ、交換ゲームなんて、ただの口実だ。女を家に連れ込むために適当に作った嘘だぞ。あいつが真に受けたけど、お前も信じてたの?」

そして、二人は快楽の絶頂に達する。

だがその同じ瞬間、悠璃は、底知れぬ絶望の闇へと堕ちていった。

かつて、いつか楓が変わってくれると、本気で信じていた。

だから結婚して七年、楓の周りにどれだけ女がいようと、耐えてきた。

彼の「約束」を信じ続けてきた。

悠璃は子供の頃から、楓のことが好きだった。

生まれつき体が弱く、よくいじめられていた彼女に、唯一優しく声をかけてくれたのが彼だった。他の子に「悠璃をいじめるな」と守ってくれた。

十歳の頃から、ずっと彼の後ろをついて回っていた。彼は遊び好きだが、彼女は一途で、どんなに辱められても、決して離れなかった。

七年前、楓は突然プロポーズしてきた。

「篠宮家には女主人が必要だ。お前が最適だ」

「遊び人もいつかは飽きる時が来る。約束しよう、いつか落ち着く日が来る。その時は、お前と仲良く、老いるまで一緒に生きていく」

彼女は本気で信じた。

嬉々として、彼と結婚した。

だが新婚の夜、楓は別の女――あるモデルさんと過ごしていた。

帰宅した彼を平手打ちしたら、彼は怒らず、逆に宥めてこう言った。

「外の女なんて一時の遊びだ。お前が本妻だ。家には絶対に女を連れ込まないと約束するから」

その言葉、また信じてしまった。

愛しているから、何度でも彼を信じてしまう。

数日前、「夫婦交換ゲーム」を提案されたときさえ、ただ無感動に首を振って拒んだだけだった。

楓は意味深に笑う。「なあ、俺は公平主義だ。俺が一途じゃないなら、お前も一途じゃなくていい。心が定まるまで、お互い好きにすれば?」

「楓はどうでもいい。けど、私は参加しない」と悠璃はため息をついた。

だが今――

その女を抱きかかえ、二階へと急ぎ足でやってきた楓を見て。

悠璃は、屋根裏部屋に逃げ込んだ。

狭い、埃だらけの闇の中で、熱気に灼かれながら、心も体も、限界を感じていた。

もう、これ以上待ち続けるのは無理だと。

また響いてきた艶めいた声に、熱い涙が止めどなくあふれ出した。

まだ、泣けるんだ。まだ、こんなにも悲しいんだ。

目を赤く腫らしながら、悠璃はスマホの通話履歴を開き、三日前にかかってきた見知らぬ番号に電話をかけた。

相手はすぐに出た。「何かご用?」

「前に言ってた交換ゲーム、私、やる」

相手はしばらく黙り込み、やがて意外そうに応えた。

「なんだって?」

悠璃は苛立ちを隠そうともせず続ける。「あなたの奥さん、今うちの旦那と盛り上がってるから。だから私もあなたと組むって言ってるの、分からない?」

「分かったよ」相澤啓司(あいざわ けいじ)は笑う。「今どこ?迎えに行く」

悠璃は伏し目がちに、静かに言った。

「どうせなら、思いっきりやろうか?」

「思いっきりって?」

「本物の交換よ。婚姻届の名前まで、全部交換するくらいの。覚悟ある?」
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 君のために、雲海を越えて   第26話

    悠璃は息を切らしながら病院へ駆け込んだ。そこで目に飛び込んできたのは、足を吊ったままベッドに座る啓司の姿だった。その瞬間、張り詰めていた心が一気に緩んだ。「どうして戻ってきたんだ?」啓司は驚いた顔でそう訊ねた。安堵と同時に、抑えていた感情が一気に溢れ出し、悠璃の目からは、堰を切ったように涙が流れた。「泣くなって」啓司は慌てふためく。「ちょっとした事故さ。足を骨折しただけで、大したことないよ。僕のこと心配しなくていいよ」彼の焦った顔を見ていると、胸の奥が熱く満たされていく。この間に積もった想いは、もうどこにも隠しきれず、溢れ出して止まらなくなっていた。啓司の優しげな瞳を見つめながら、悠璃はついに言葉を口にした。「啓司、結婚しよう」その瞬間、彼女ははっきりと気づいた。もし相手が啓司なら、もう一度、同じ川に足を踏み込んでもいい。彼になら、絶対に裏切られないという自信があった。啓司は呆然と立ち尽くし、しばらくの沈黙のあと、ようやく口を開いた。「今、なんて言った?」「結婚しよう」悠璃はもう一度、はっきりと伝える。「前に言ってたでしょ?盛大な結婚式を挙げようって……」啓司は彼女を力いっぱい抱きしめた。まるで自分の体の一部にしてしまいそうなほど、強く、強く。心配も不安も、すべてその瞬間に霧散して消えた。気が抜けてようやく、悠璃は自分の体中が痛むことに気付く。あの時、思いっきり転んだからだろう。ふと、楓のぎこちない腕を思い出す。そして、自分を庇って楓も転んだことを。無意識に後ろを振り返る。楓の姿を探したかった。けれど、その思いは啓司のはしゃいだ声にかき消される。「ねえ、どんな式がいい?」もう、楓のことなんて考えていられなかった。いや、もしかしたら、これからの人生において、楓はもう二度と重要な存在にはならないのかもしれない。ほんの一瞬たりとも、彼に心を割く余裕はもうなかった。完全に、心の中から切り離したのだ。今はただ、啓司と一緒に、これからの結婚式について話し合うことに夢中だった。けれど、彼女は知らなかった。楓が、ずっと扉の向こうで、静かに彼女のことを見つめていたことを。別の男の腕の中で幸せそうに寄り添う彼女。あのプロポーズの時に一度だけ見せた、幸せに満ちた笑顔。信頼しきった表情で、「結婚

  • 君のために、雲海を越えて   第25話

    楓は、悠璃の言葉などまるで耳に入っていないかのように、彼女の後を追い続けた。ロマンティックなF国から、奔放なX国、そして自由なC国へ。この一ヶ月、悠璃は世界を駆け回り、思うままに旅を続けた。そして、楓は、一瞬たりとも彼女の後ろを離れず、ひたすら追い続けた。言葉を交わすことさえなかったのに、それでも楓は、異常なまでの執着心を見せ続けた。最初のうち、悠璃は彼の存在が煩わしかった。だが、次第に気にも留めなくなった。付いてきたければ勝手にすればいい。ただのボディガードみたいなものだと思えばいい。毎朝、ホテルのドアノブには、楓が用意した朝食と一輪の薔薇がそっと置かれていた。だが、悠璃はその朝食も花も、すべて通りすがりの人にあげてしまった。彼に、これっぽっちの希望すら残してやることはなかった。そして、新しい国に着くたび、啓司からの大きな花束が必ず届いた。彼女はその花束を丁寧に花瓶に生け、長く長く楽しんだ。だが、今回L国に来てみると、啓司からの花束は届かなかった。それでも楓の朝食は、変わらず毎朝やってきた。数日が経ち、突然L国で大雪が降り、交通は全て崩れた。不安が、悠璃の胸を締めつける。啓司からの連絡が途絶え、焦りに駆られた悠璃は、居ても立ってもいられなくなり、空港へ向かうことにした。しかし、外に出た途端、凍った地面に足を取られ、あわや転倒しかけた。楓がすぐさま駆け寄り、彼女を抱きとめた。「こんな大雪の中、どこ行くの?」「空港。啓司、何かあったかも……」「たかが一度、花束が届かなかっただけだろう?」楓は鼻で笑った。「ほかのことで忙しかったのかもな。もしかしたら、別の女に花を贈ってるんじゃないか?」だが、悠璃は静かに首を振り、きっぱりと首を振った。「彼は、そんな人じゃない」自分でも、どうしてこんなに信じているのか分からない。あの人なら、理由もなく約束を破ることなんて、絶対にしない。悠璃はコートをきつく抱きしめ、吹雪の中へと歩み出した。真っ白な雪が視界を覆い、彼女は、突如現れた大型車に気づくことができなかった。凍りついた道路で、ブレーキが効かない。気づいた時には、車がすでに目の前。体がすくんで動けない。もうダメだ、そう思った、そのとき――楓が飛び出し、全身の力で彼女を抱きか

  • 君のために、雲海を越えて   第24話

    悠璃の旅は、出だしから最悪だった。F国の空港を出てすぐ、持っていた現金をすべて盗まれてしまったのだ。すぐに警察に駆け込んだけれど、短期間でお金が戻ってくる見込みはないらしい。夜も更け、ATMも見つからず、彼女はどうしようもなく街をさまよう羽目になった。ここは国内ほど治安が良くない。しばらく歩いただけで、目つきの怪しい通行人に目をつけられた。慌てて道を逸れようとしたその瞬間、彼女の後を追う影、しかも手には刃物まで握られていた。もう、ここで人生が終わるのかもしれない。絶望しかけた、そのとき。誰かが突然前に飛び出して彼女を庇った。その人影を見て、悠璃は自分の目を疑った。しばらく呆然としたのち、彼がこちらに歩み寄るのを見て、ようやく楓だと確信した。「なんでここに?」悠璃は眉をひそめた。「お前のことが心配だったからだ」楓はそう答えた。「あいつは、こんなふうにお前を守ってんのか?旅行に出たのに、付き添いもしないとは」その口ぶりは、あからさまな皮肉が滲んでいた。「悠璃、そんな男と一生添い遂げるつもりか?」悠璃の胸に、うっすらと嫌悪感が広がり、無言で背を向けた。「ホテルに戻ろう。金、盗まれたんだろ?」楓はすぐに追いつき、強引に彼女の手を掴む。そんな細かいことまで知っているなんて――まさか、ずっと自分をつけていたの?ぞわりと寒気がした。悠璃はぎこちなく首を振った。「そんなの、いらないから」彼女は楓の手を見下ろし、一言一言かみしめるように言う。「また、私の手、傷つけるつもり?」楓は慌てて手を引っ込め、しどろもどろになる。「違う……ただ、心配だっただけだ」悠璃はもう振り返ることもなく、黙々と歩き出す。楓はひたすら付き従い、いくつもの路地を抜けた末、とうとう疲れ切った声で言った。「悠璃、少し落ち着いて、ちゃんと話そう。な?」まさか、自分が楓とまた同じテーブルにつき、向かい合って話す日が来るとは思わなかった。楓は、彼女の好物だったフラットホワイトを注文した。「好み、変わってないよな?」と、まるで機嫌を取るように。だが、悠璃の表情は変わらない。「何が言いたいの?早く言って」楓は温かいカップを撫で、深い瞳で彼女を見つめる。「あいつのプロポーズ、断ったんだろう?」低く、重い声で問いかける。「悠璃は昔から優し

  • 君のために、雲海を越えて   第23話

    あの夜、すべては悠璃の心を揺さぶる衝撃で幕を閉じた。彼女はようやく気づいたのだった。なぜあの日、自分が「取引」と軽く口にしただけで、浜市の相澤家の唯一の後継者――相澤啓司が、あれほどまでに無茶に付き合ってくれたのか。理由は簡単だった。二人の出会いは、決して初めてではなかったのだ。実は、ずっと昔から、彼らの物語には小さな伏線が張り巡らされていた。ただ、啓司が、自分をいつ、どこで知ったのか――どれだけ問い詰めても、彼は笑ってはぐらかすだけだった。「もし、僕たちが本当に一緒になる日が来たら、そのとき全部話すよ。でも、もしそうならなかったら、このことを悠璃の足かせにはしたくないんだ」こうして、ふたりの結婚の話は保留となった。そして、悠璃は、浜市を離れることを決めた。世界を旅するために。出発の日、空は見事な青空だった。長く一緒に過ごした別荘の使用人たちも、みんな彼女との別れを惜しみ、代表を立てて空港まで見送りに来てくれた。だが、最後まで啓司の姿は見えなかった。――しばらくは、もう二人会うこともない。それが分かっていたからこそ、彼女の胸にはどうしようもない寂しさと後悔が残った。「奥様、このところ会社が忙しいみたいで、ご主人様はおそらく来られないと思います……」付き添いの使用人が、そっと言った。空港のアナウンスが搭乗時刻を告げる。これ以上は待てないとわかった悠璃は、キャリーケースを引きながら、セキュリティゲートへと向かった。そのとき、耳に馴染んだあの声が聞こえ、胸の高鳴りを抑えきれなくなる。振り返れば、息を切らせて走ってくる啓司の姿があった。「渋滞で遅くなったんだ、ごめんな」「もう来ないかと思った」悠璃は唇をかすかに上げて微笑む。よかった。やっぱり、最後に会えた。けれど次の瞬間、啓司は深呼吸して、険しい顔で言った。「悠璃、篠宮がトラブルに巻き込まれたみたいだ」「……え?」思わず立ち止まる。「婚姻記録の異常に気づいたあと、彼はすぐ大燕市に戻って離婚手続きをしようとしたが、記録に使われた相手の女性は、何年も前から行方不明で、どうにもできなかった」啓司はため息をついて続けた。「それで、役所の人と揉めて、拘留されてしまったんだ」少しの沈黙の後、悠璃は尋ねる。「これ、莉奈が教えたの?」啓司は、わずかに口ごも

  • 君のために、雲海を越えて   第22話

    婚約パーティーが終わって家へ帰る頃には、すでに夜も深くなっていた。車に乗り込んだ悠璃は、ふとバックミラー越しに、少し離れた場所に立っている楓の姿を見つけた。その一瞬、胸の奥にいろんな思いが駆け巡る。自分がどれだけ迷いなく、彼を好きでい続けたか……沈黙を破るように、啓司が口を開いた。「降りて、話してくるか?」一瞬だけ迷ったけれど、悠璃は小さく首を振った。啓司はそっと彼女の手を握り、「あまり考えすぎないで」と優しく囁く。二人きりの車内で、悠璃はこくんと頷き、無意識のうちに自分の手を少し引っ込めてしまう。啓司は眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。啓司のお母さんは、二人よりも先に別荘へ帰っていた。家に入るなり、悠璃は手を取られ、興奮気味に質問攻めにされる。「悠璃ちゃん、結婚式の日取り、いつにしたい?来月の3日はどう?占いの先生に見てもらったら、その日が一番いいって!結婚後は夫婦円満、末永く幸せになれるって言ってたわよ!」啓司は、困ったように悠璃を見て、「お母さん、そんなに急がなくても……3日って、いくらなんでも急すぎる」と苦笑した。「そうなの?まだ半月以上あるんじゃない!私、明日にでも決めてしまいたいくらいよ。早い者勝ちって言うでしょ?こんな素敵な子、絶対離しちゃダメよ!」悠璃は、どこかぎこちなく笑うしかなかった。啓司のお母さんはさらに手を握りしめ、「悠璃ちゃん、安心しなさい。うちは絶対に悠璃ちゃんのことを大事にするから。何だって一番いいものを用意するわ!結婚式はどんなスタイルがいい?何でも言ってね、おばさんが全部準備するから……」ふいに、悠璃はどっと疲れが押し寄せてきた。口を開きかけて、何を言えばいいのかわからない。その様子に気づいた啓司が、慌てて場を取りなした。「もう遅いし、今日は休もう。続きは明日にしよう」部屋に押し込まれるまで、啓司のお母さんの声は途切れなかった。ようやく静かな寝室で、啓司はほっと息をつく。「うちの母さんはちょっと世話焼きすぎるんだ。気にしないで」「ううん……」悠璃はおとなしく笑ったものの、カップを持つ手に落ち着きがなかった。啓司は、彼女が何か言いたげなのに気づいたが、無理に問いただすことはしなかった。自分のことを黙々と始める。それでも結局、悠璃の

  • 君のために、雲海を越えて   第21話

    楓はまるで捨てられた野良犬のように、無造作に街の片隅へと放り出された。通りすがる人々が、好奇と軽蔑の入り混じった視線を向けてくる。彼は道端にうずくまり、思考はぐちゃぐちゃに絡まり、頭の中は真っ白だった。脳裏には、悠璃が見せたあの冷たい眼差しが、何度も繰り返し浮かぶ。今まで、一度だって、あんな目で見られたことはなかった。これまでの彼女は、いつも自分を見上げて、憧れや期待、そして純粋な喜びで目を輝かせていた。だが、さっきの彼女は違った。あの無表情、軽蔑、嫌悪、そして厭わしさ。まるで、この世のすべての悪い感情を、彼女が自分にぶつけてきたみたいだった。どうしてこんなことになった?楓には理解できなかった。あれほど自分を愛してくれた女性が、ある日突然、自分を愛さなくなるなんて。そんなはずがない、と信じたかった。「ママ、このおじさんかわいそうだから、パンを買ってあげようか……」ぼんやりとした意識の中、子どもの声が耳に届く。しばらくして、小さな手が彼の手に、ふわりとパンを押し込んできた。顔を上げると、無垢な瞳が彼を見つめていた。「おじさん、なんでおうちに帰らないの?僕、パンあげるね!」その一言で、楓のプライドはズタズタに引き裂かれた。彼は、怒り狂い、パンを地面に叩きつけた。そして、子供を怒鳴りつけた。「消えろ!」子どもは泣き出し、親は険しい目で彼を睨みつける。「なにこの人……子供の親切もわからないなんて、恩知らずのやつ」その視線は、まるでさっきの悠璃と同じ、ただただ、嫌悪と軽蔑しかなかった。「恩知らず」その言葉が、鋭い刃となって胸に突き刺さる。その瞬間、楓は、初めて悟った。自分こそが、ずっと恩知らずだったのだ。彼女がどれだけ自分を想い、どれだけ自分に尽くしてきたか、どんなに自分勝手に振る舞っても、振り返るたび、彼女は必ずそこにいてくれた。まるで、根を張った大木のように。自分だけのために絡みつく蔦のように、絶対に離れないと思い込んでいた。だが今、その蔦はしおれて、根を離れ、自由に、風に乗ってどこかへ行ってしまった。そして今さら、彼は気づいた。あの蔦は、すでに自分の身も心も覆い尽くして、もう切り離すことなどできない存在になっていたのだ。楓は震える手で、秘書に電話をかける。「今の、

  • 君のために、雲海を越えて   第20話

    楓の叫びが会場に響き渡った瞬間、ざわめきが一気に広がる。無数の視線が、悠璃に突き刺さった。「えっ、どういうこと?あの人、バツイチなの?」「違う違う、バツイチどころか、まだ離婚してないってことでしょ!」「まさかこれって結婚詐欺じゃないの?ねぇ、相澤社長はこのこと知ってたの?」悠璃は必死にドレスの裾を握りしめ、恥ずかしさと不安で、もうここに立っていられそうになかった。その時、佳奈がわざとらしく声を上げる。「お兄ちゃん、恋愛する前に相手の素性くらい調べなかったの?まだ離婚してない女と婚約パーティー?さすがに笑えるんだけど!プライド高いくせに、なんでバツイチ女なんか選んだの?」悠璃は唇を噛みしめ、啓司の腕を振りほどいて逃げ出そうとする。だが、その腕を突然、啓司のお母さんがしっかりと押さえた。「おばさん……」驚いて顔を上げると、啓司のお母さんは優しく彼女の手をポンポンと叩き、そのまま鋭い視線を佳奈に向けた。「佳奈!わがままにも程がある」「兄夫婦のことに、いちいち口を挟むんじゃない!」「お、おばさん」まさか啓司のお母さんが怒らないなんて!佳奈は顔を青ざめさせる。「だって、聞いたでしょ?この女、まだ離婚してないのよ!」「ふん」啓司のお母さんはひとつひとつ、はっきりとした口調で言い放つ。「彼女が離婚したかどうか、私が一番よく知ってるわ。離婚手続き、この私が手配したから」その瞬間、広い会場はシンと静まり返った。息を呑むほどの沈黙――針が落ちる音さえ聞こえそうだった。悠璃も驚きで、目を見開き啓司のお母さんを見つめる。啓司がそっと悠璃の手を握り、耳元で静かに囁いた。「安心して。あいつとは、法律的にはもう何の関係もない」悠璃はまた、驚きのまなざしで彼を見つめる。「そんなに驚くこと?」啓司は片眉を上げて微笑む。「この取引、最初に持ちかけたのは悠璃さんじゃなかった?婚姻届の名前も交換するって」悠璃は頭が真っ白になる。あの時、助けを求められるのは彼しかいなかった。啓司が浜市でどれほどの力を持つか知ってはいたけれど、まさか大燕市までやってくれるなんて。自分でも知らないうちに、すべてを片付けてくれていた。悠璃は思わず、彼の手を握り返す。心臓が高鳴り、鼓動が速くなる。一方、楓は呆然と目を見開き、今にも壊れそ

  • 君のために、雲海を越えて   第19話

    悠璃は、思わずグラスを落としそうになった。けれど、啓司がそっと手を添え、グラスを支えてくれた。「大丈夫だ」彼は低い声で囁く。「何度でも言うけど、僕がいるから、大丈夫」その言葉で、悠璃は本当に肩の力を抜いた。彼女は楓の方を真っ直ぐ見据え、視線を逸らさなかった。楓は、ひどく痩せこけていた。頬はこけ、目には無数の血走った筋が走り、口元には無精髭がうっすらと。まるで、長い間まともに眠ることも、身なりを整えることも忘れてしまった男のようだった。ささやき声があちこちから聞こえる。「誰よ、浮浪者?警備はどうなってるの?」「なんであんな奴が入ってこれるわけ?」「はやく追い出せよ、クサすぎる!」楓は、これまでの人生でこんな屈辱を受けたことなど一度もなかった。顔はみるみる暗くなり、怒りを噛み殺しながら悠璃の元へと詰め寄ると、彼女の手首を乱暴に掴んだ。「帰るぞ、俺と一緒に」会場が一瞬で静まり返る。誰もが気づいた――この男は、悠璃の過去に関わっているらしい。手首が痛む。悠璃は眉をひそめ、振りほどこうとしたが、力では敵わない。ただ冷たく告げる。「放して」楓は深く息を吸い、怒りを抑え込むように言葉を絞り出した。「悠璃、いい加減にしろ!わけも分からず他の男と浜市まで来て、婚約パーティーなんて――俺を嫉妬させたいだけだろ?……わかったよ。認めてやる。俺は嫉妬してる、マジで怒ってる!お前は俺の女だ。これからもずっと、俺だけのものだ。もういいだろ?」そう言って、彼女を自分の胸の中へ無理やり引き寄せようとする。その様子に、悠璃はかつてないほど冷静だった。かつては、彼が優しい声をかけてくれるだけで、天にも昇る気持ちになった。けれど今――なぜだろう、ただ滑稽としか思えない。「私たちはもう終わったの」彼女の声は、まるで氷のように冷たかった。「調子に乗るなよ」楓は目を閉じ、怒りを必死に押し殺す。「もし、まだ莉奈のことを気にしてるなら――」彼はゆっくりと目を開き、はっきりと口にした。「俺が悪かった。あの日のこと、監視カメラで確認した。全部俺の誤解だった。莉奈はすでに代償を払った。お前のために、もう全部済ませた。これで満足だろ?」上から目線で、何もかも自分で決めつける態度――それが、悠璃の中の最後の未練すらも

  • 君のために、雲海を越えて   第18話

    浜市の相澤家の若様は、三十年以上、女色に一切近づかなかったが、ついに婚約パーティーを開くという。そのニュースが流れた瞬間、上流社会はまるで嵐に飲まれたかのように大騒ぎになった。みんな、興味津々だった。選ばれた女性とは、一体どんな人なのか?なにしろ――これまで、どんなに美しく、どれほど素晴らしい女性でも、彼の前に立ったら、返ってくるのは決まっていた。「お引き取りください」それでも食い下がると、今度は、冷笑と共にこう言われる。「失せろ」だからこそ、悠璃がどんな女性なのか、パーティーの前から、浜市中の名家令嬢たちの好奇心は沸騰していた。そして迎えた婚約パーティー当日。まだ控室でメイクをしている最中の悠璃のもとへ、待ちきれない者たちが押し寄せた。「お嬢様、奥様はまだお支度中ですので……」使用人が止める間もなく、啓司の従妹の佳奈(かな)が香水を振りまいた令嬢たちを引き連れて、堂々と部屋に踏み込んできた。まるで珍獣でも見るかのように、悠璃を上から下までジロジロと眺め回し、あからさまな嘲笑を浮かべる。「なんだ、そんなに隠してるからどんな絶世の美女かと思ったのに、普通じゃない?」「そうそう、普通じゃん!佳奈の指一本にも及ばないわ!」控えめに使用人の林さんが耳打ちする。「奥様、この方はご主人様の従妹で、一番仲のいい子です。ちょっとわがままですが、どうか気にしないで」名前は聞いたことがある。相澤佳奈(あいざわ かな)。一時は女優としても活躍し、デビュー早々「日本十大美女」のトップ3と評されただけはある。それはもう、ひと目見れば納得する華やかさだ。悠璃は、地味な箱入り娘。比べてしまえば、どうしたって見劣りする。彼女は静かに目を閉じ、何も言わなかった。だが、佳奈はなおも攻め立てる。「お兄ちゃん何年も待った結果がこれ?マジでありえない。もういいわ、これ以上見てたら目が汚れるわ!」そう吐き捨てて出て行こうとした瞬間、扉の前に長身の影が立ち塞がった。「お兄ちゃん、なんでここに来たの?」「僕が来なかったら、好き勝手に悠璃をいじめるつもりだったのか?」その呼び捨てに、悠璃の全身がびくりと震えた。思わず彼のほうを見る。白いタキシードが似合う彼は、静かに怒りを帯びていた。「お前、またわがままになったな。僕の婚約パーテ

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status