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世界のほとんどすべては、薄暗い地下室だった。
むき出しの石組の床に、絨毯は敷かれておらず、容赦なく足元を冷やす。自分の背よりもはるかに高い場所に、鉄格子がはめられただけの小さな窓があり、そこから入るわずかな光が、唯一頼りにできる灯りだった。地下室の扉は、外からかたく封じられ、自由にその扉をひらくことは許されていない。
石造りの壁から、湿った冷気が染み出し、セラの肌を容赦なく刺した。
セラは、両の手をこすりあわせ、小さな古いテーブルの上にのせられた、今日の食事を見つめた。与えられるのは、わずかばかりの痛んだ食事を日に一度だけだ。
「まだ、食べちゃだめよ。夜まで待ちましょう。そうしないと、空腹と寒さで眠れなくなるから」
セラは、粗末なぼろ布のような衣服を、身体に引き寄せるようにして、震えながら、ひとりで話した。ここには、話し相手はいない。ずいぶん昔から、そうだから、ひとりで話すことが、セラにとって少しのなぐさめだった。
セラは、ローゼンタール伯爵家の次女として生まれた。
もう、何年、ここにいるのだろう。
長くは生かされないかもしれないと思っていた。だが、セラの手足は、しなやかに伸び、身体はひどく痩せてはいても、しっかりと女らしい形に育った。
地下室に入るきっかけとなった五歳のころの記憶を、はっきりと覚えている。
何度も、何度も、思い出したから。
あたたかな日常が失われたあの日が、またセラの心によみがえる。
「化け物!」
あの日、姉のオディールは、恐怖に顔をひきつらせ、まっすぐセラを見つめて、はっきりとそう叫んだ。
オディールの指先から放たれる薔薇色の魔力は、幼いセラの目が眩むほどに美しかった。五歳のセラは、ほんの少し、その輝きに触れてみたかった。
ほんの少し、姉の指先にふれた。
瞬間。
部屋を満たしていた薔薇色に輝く光の粒子が、霧が消えるようにセラの掌へと吸い込まれていった。
オディールの顔から、一瞬で血の気が引いたのを見た瞬間、セラは、これはいけないことなんだと自覚した。
姉の体から魔力の気配が完全に消失したと、なぜか分かった
悲鳴すら上がらない静寂の中で、駆けつけた母親がセラを激しく突き飛ばした。
それが、地獄の始まりだった。
王族や貴族の権力は魔力の強さに直結している。強大な魔力を持つ者には、恵まれた官職や肥沃な領地が優先して割り当てられるほど。
セラの生家である伯爵家は、その歴史において強力な魔力を保有し続けてきた名門だ。現在の権力と地位を守るためにも、一族の血統は常に純粋で、かつ強大でなければならない。
その高貴な系譜の中で生まれたセラの特異性は、伯爵家にとって致命的なものだった。
他者の力を無に帰す、化け物。
セラの肉体は、触れた対象が発現している魔力をすべて吸い尽くし、無に帰してしまう。ただ、それは、人が持つ魔力を、根こそぎ奪うというものではなかった。幸いにも、姉のオディールがセラに奪われたのは、当時、練習していた魔法を発現させるための、一時的な力のみ。能力に影響は見られず、オディールはその後も、見事に高い魔力を成長させていった。
そうであっても、セラがもつ特異な能力は「他者の力を奪う不吉な呪い」として扱われることになった。
魔法という、王国を守るための特別な力を、奪い去り無に帰す、忌むべき呪い。
呪われた子。
それが、セラに与えられた、伯爵家のお荷物としての立場だった。呪われた子の居場所は光の届かない屋敷の地下室になった。
地下室での監禁は、長い時間をかけて、セラから家族への愛情や希望をすべて取り去ってしまった。
母親は「王国を脅かす呪いを調教する」という大義名分を掲げ、セラに鞭を振るう。教育という言葉で飾られた暴力は、幼いセラの肌を無慈悲に裂いた。
姉のオディールもまた、存在してはいけない呪いの子に、立場を教えるためにと地下室を訪れる。言葉の刃で尊厳を切り裂き、時に魔力を用いた体罰をセラに与えた。
母親と姉の行いは、年月を重ねるごとに、ただの罰から、彼女たちの楽しみへと変化したようにも、セラには見えた。
いまや、セラの体には無数の傷痕が深く刻まれている。
セラは絶望の中で沈黙を貫いた。反論すれば、さらなる暴力が降りかかると、身をもって知ったからだ。感情を殺し、言葉を捨て、ただ運命を受け入れる人形となること。それが、この小さな地下室で己の心を保つための唯一の術だった。
何度目か分からない。
自分を慰めるためか、あきらめか、それとも悲しみをまぎらわせるためか、セラの飢えた口先から、しずかにため息が吐き出される。
「あら、だめね。吐き出す息も、暖かいのだから。ただ、吐くだけじゃもったいないわ」
セラは、気を紛らわせるためにひとり話し、ふるえた息を指先に吹きかけた。
呪いの暴走を引き起こしていたガラス質の塊は、焦げ付くような不快な匂いをまき散らしながらドロドロに溶け落ち、ジェイドを苛んでいた恐ろしい苦痛は去ったかのように見えた。 溶け残った黒い残骸は、レオンが慎重に部屋の外へと運び出していった。 万が一にも再び魔力が暴走した際の危険を考慮し、今はジェイドとセラの周囲には誰一人として近づけないよう、厳重に遠ざけられている。 レオンに渡された小さな笛があるから、何事かあれば、呼ぶことが出来るが、いまは、セラとジェイドふたりきりだった。 完全に日が暮れ、夜の深い闇が部屋を包み込んでいた。 いつもなら、すでに魔獣の姿へと変貌している時間。 しかし、どういった影響でか、いまのジェイドは人間の姿を保っていた。 本来ならば喜ばしいことだ。 けれど、セラはその様子をとても喜ぶ気にはなれなかった。 ジェイドの様子が、明らかにおかしい。「……セラ、部屋へ戻れ」 低い声で吐き捨てるように言ったジェイドは、どこかイライラと落ち着かない様子だった。眉間には深い皺が刻まれ、その瞳には依然として怪しい赤の輝きがある。 見るからに、呪いの魔力が、ジェイドの精神に何らかの悪影響を及ぼしている。「いいえ。今夜は側にいます」「駄目だ」「ここにいます」「いいから、出ていくんだ!」 ジェイドが珍しく強い調子で声を荒げた。 だが、その直後、彼はハッと息を呑み、己の粗暴な言動を酷く後悔したように硬直した。苦痛を押し殺すように強く唇を噛み締め、拳
舞踏会の会場を離れ、馬車を飛ばし、セラとジェイドは白亜宮へと戻った。 不穏な瘴気の影響がある会場から離れさえすれば、呪いの魔力の嵐も去り、ジェイドの苦しみも少しは落ち着くだろうとセラは考えていた。 しかし、馬車が白亜宮の門をくぐった瞬間に、ジェイドが再び苦しみはじめる。「っ……、く……っ!」「ジェイド……⁉ しっかり、ジェイド!」 ジェイドの喉から苦しげな声が漏れ出た。 セラが必死で両腕を回し、呪いの魔力を引き受けても、ジェイドの身体は苦しみに苛まれ続けている。ほんのわずかでも、セラが集中力を途切れさせると、彼の身体の一部が、魔獣の肉体へと歪に膨れ上がろうとするようだった。 痛みがあるのか、ジェイドの顔はひどく青ざめ、額には汗が滲み出ていた。 セラに触れるジェイドの手が、小刻みに震えている。 どうして……。 舞踏会の会場を離れたのに……。 セラはジェイドの首筋に顔を埋め、彼の身体から溢れ出す瘴気を必死に吸い上げながら、神経を研ぎ澄ませた。 そして、ハッと息を呑む。 ここにも——白亜宮にも、舞踏会の会場で感じたものと同じ、外側からの妙な気配が満ちていた。 セラは、ジェイドを支えながら、ジェイドの部屋へともどった。 レオンもジェイドをささえて一緒に移動しながら、瘴気にあてられないよう、使用人たちを遠ざけさせる。 そうしながらも、セラは外側の魔力の気配をたどった。 瘴気を自分の中に引き寄せるとき、ふれたかす
カイル王子とのダンスの最中、セラはふとステップを踏みながら不穏な気配を感じ取った。 なにかしら……。 ステップを踏むたび、かすかな違和感が腕や足の皮膚を掠める。 魔力の感触だ。 しかも、これまでに何度も触れてきたものと似た気配。 セラはダンスを続けながら、第一王子専用の観覧席へと視線を向けた。 ……えっ? カイル王子と踊り始める前には、会場を見下ろすように広く開かれていたはずの豪華なベルベットの幕が、今は重々しく降ろされていた。ジェイドの姿は見えない。 胸騒ぎ。 お股がかゆくなってから黙り込んでしまったカイル王子から意識を切り替えて、セラは己の皮膚を掠めていく微小な魔力に集中した。 広い大広間には、無数の貴族たちが持つ複雑な魔力の流れが渦巻いている。魔力の高い人間であれば、その気配のようなものを自然と周囲に撒き散らしてしまうこともあるのかもしれない。 集中しようとするほど、会場に満ちる過剰な情報を集めてしまう。 目的の気配が霞む。 不意に、右腕の表面にツンと不快な気配が当たった。 セラはその瞬間を逃さず、魔力を吸い寄せるように己の内側へと引き込んだ。 身体に取り込んで、確信する。 これは、あのローゼンタール家の暗く冷たい地下室で触れたものと、完全に同質のものだ。つまり、ジェイドの身体の内側からあふれ出し、彼を苦しめ続けているあの呪い——瘴気そのものだった。 どうして……ここに、あの瘴気が……?
「これは失礼。あなたの気を悪くするつもりはありませんでした」 真っ直ぐな瞳に射抜かれた衝撃を誤魔化すように、カイルはそう言い、取り繕った。 社交界の駆け引きであれば、ここから互いの腹を探り合い、皮肉や笑みで装飾された言葉の応酬が始まるはずだった。 だが、目の前の女——セラは、ふっと肩を落とし、分かりやすくしゅんとした顔を浮かべた。「いいえ、気を悪くしたりなどしていません……」 まるで小動物が身を縮めるかのような態度。 カイルは、己の表情や感情を隠すという淑女としての基本すらできていないこの不器用な女に、言い知れぬいらつきを覚え始めた。 あまりにも無防備で、あまりにも素直すぎる。「ローゼンタール家のご令嬢という肩書だけで言えば、あなたは兄上の婚約者にふさわしいでしょうね」 カイルは意図的に冷ややかな声で、容赦のない言葉を投げつけた。「ですが……あなたを見ていると、どうも、兄上の婚約者としてふさわしい女性には見えない」 どれほど純粋を装っていようと、誇りを傷つけられれば感情を露わにするか、せめて反論くらいはしてくるだろう。カイルはそう踏んでいた。「……わたしも、そう……思います……」 最後は消え入るような声でそう零したセラの反応に、カイルはほとほといらだった。 言い返しもしないのか……。 嫌そうな顔も、憤る顔も、憎々しげな視線すら寄せてこない。ただ己の無力さや未熟さに耐えるように、俯いているだけ。
観覧席からフロアへと続く階段を降りながら、カイルは隣を歩く華奢な女の姿を、冷ややかな視線で観察していた。 結い上げられた髪は丁寧に整えられ、細く白い首筋を美しく際立たせている。確かに、整った顔立ちをした美人ではある。だが、立ち振る舞いや全体の雰囲気にはどこか幼さが残っていて、社交界の練達者の中では、どうも見劣りする。 兄上はずいぶんとこの女を気に入っているようだったが、一体どこにそこまでの価値を見出しているのか……。 カイルには皆目見当がつかなかった。 美人など、この会場を見渡せばいくらでも転がっている。 しかも、隣を静かに歩いている女——セラは、カイルに対して愛想笑いの一つすら見せない。お世辞を口にするわけでもなく、ただ差し出された腕に手を添え、連れられるままに無言で歩いているだけだった。 高飛車な女か? 一体、どういった手練手管を使って、あの抜け目のない兄上に取り入ったのだろうか。 ドレスに視線を滑らせてみても、その疑問は深まるばかりだった。 セラの纏っている衣装は、かなり保守的で、慎み深い仕立てだ。 いまどき、社交界で咲き誇る花々のごとき令嬢たちは、誰もが競い合うように胸元や肩を露出し、煌びやかな装飾で己を魅惑的に飾り立てている。それなのに、隣でだんまりと歩いている女は、お堅い教育係ですら今どきこれほど肌を隠さないのではないかと思えるほど、地味な形状のドレスを選んでいた。高級な布地が使われ、意匠が洗練されているから、見苦しくはないものの、この華やぎを競う会場においては異質なほど質素に見える。 婚約者であるオディールの姿が脳裏をよぎる。 オディールは自分の容姿にも、淑女としての立ち振る舞いにも過剰なほどの自信を持っている女だ。社交界では手慣
夢のような一曲を踊り終え、鳴り止まない拍手に包まれながら、セラはジェイドの手をしっかりと握ったまま、大広間の一角にある階段へと導かれていった。 案内されたのは、貴族たちが集うフロアからは一段高く作られた、王族専用の観覧席だった。 重厚なベルベットの垂れ幕でいくつかに仕切られたその空間は、会場全体を一望できる特別な場所だった。中央に位置し、金糸の刺繍が施された豪華な垂れ幕がかけられているのが国王夫妻のための席で、その両脇に、第一王子と第二王子のための席がそれぞれ設けられていた。 ふかふかのソファに腰を下ろすと、先ほどまでの熱気が嘘のようで、セラはそっと息を吐き出した。手首に結ばれたダンスカードを見つめると、びっしりと名前が並んでいる。 休む間もなく、このまま次の曲もずっと踊り続けなくちゃいけないのかしら……。 先ほどの興奮が冷めるにつれ、あまりの運動量と緊張に身体がもつかどうかの不安が、じわじわと押し寄せる。ダンスカードを見つめたまま身構えていると、隣に座ったジェイドがセラの緊張を察したように優しく微笑んだ。「大丈夫だよ、セラ。そんなに緊張しなくても。それにしばらくは休憩だ。それぞれの曲の間には、しっかりと時間が設けられているからね」「そうなんですか……?」「ああ。そうしないと、広い会場の中で次に踊る相手を見つけ出すことも、挨拶を交わすこともできない」「そっか……そうですよね。それを聞いて、安心しました」 ほっと胸を撫で下ろしたものの、それでもやはり、手首で揺れるカードに刻まれた名前の多さを思うと、これから始まる長丁場への不安はぬぐえない。 ジェイドがセラの手首にそっと触れる。結びつけられた小さなダンス