LOGINセラが過ごす、冷えた暗い地下室の日常において、救いは、いくつかあった。
ローゼンタール伯爵家は、セラに、伯爵家令嬢が受けるべき教育を、すべてではないにしろ、与えてくれた。セラにとって、学ぶこと、書物を読むことは、大切な癒しとなった。
教養として学ぶ書物のなかに、いくつも、古い物語があった。その中に見える景色だけが、セラにとっての世界だった。
「いつか見たいわ。抜けるような青い空に、花々の香りをのせた風は、どんなふうにして走るのかしら。騎士が乙女のために走らせる立派な馬は、どんな様子かしら。きらびやかな舞踏会の音楽は、どうやって乙女の耳をよろこばせるのかしら」
地下室で、セラに与えられるものの大半は、体罰や、暴言や、冷えただけではなく痛んだ食事で、笑顔で迎えられそうなものはほとんどなかった。
でも、セラは、そんな中でも、心の中に、ひとつの灯りを持っている。
真面目に勉強し、物語に出て来る美しい人のように、穢れなき心を持っていれば、いつか、すこしの光を与えられるかもしれない。
その光のひとつが、年老いた教育係の夫人だった。
にこりともしない厳しい人だが、けっしてセラを軽んじて扱ったり、体罰を与えたりはしなかった。
セラは、地下室ですごす日々の中、夫人から様々なことを学んだ。
一般的な教養や、王国をとりまく情勢や、社交界における人間関係まで。
そして、もうひとつ。
小さな灯りとりの窓辺にやってくる小鳥たち。
セラは、わずかばかりの食事に出てくるパンを残しておいて、小鳥たちに投げて与えた。たとえ、自分が飢えたとしても、その愛らしさ、翼がもつ気まぐれな自由さは、セラにとって代えがたい癒しだった。
そうやって、セラは、長い年月を、ひとり、地下室で生きた。
十九になった年、セラは数年ぶりに地上へと引きずり出された。眩しさに目を細めながら連れて行かれたのは、父親の執務室だった。重厚な机の前で、父親がまるで他人を見るような目で、セラを見つめていた。
父親の傍らには、華やかに成長した姉のオディールと、仕立ての良いドレスを纏った母親がいる。
セラを見る彼らの瞳には、明らかな嫌悪と、汚れたものを見るような侮蔑が満ちていた。
「セラ、お前に役目を与える」
父親の声は、事務的な響きを帯びていた。
「第一王子、ジェイド殿下との婚約だ」
ジェイド王子。
王国の第一継承者でありながら、数年前の戦場での呪いにより、理性を失った魔獣オークへと姿を変えたという男。その凶悪な魔力は、近づく者の精神を狂わせるほどだという。
「本来ならば、第一王子との婚約という栄誉はオディールのもの。けれど、オディールのような優れた魔力を持つ娘を、獣の生贄にするなど……」
母親が優雅に扇を広げ、冷酷な微笑を浮かべながらつづける。
「うれしいでしょう、セラ? 呪われたお前が、ようやく役に立てるのですよ? 姉の身代わりとして」
オディールは細い指で口元を覆い、妹の不運を心から愉しんでいるというように笑った。
「その醜い傷だらけの体を見られる心配もなくて良かったわね、セラ。どうせあの方に会えば、服を剥ぎ取られる間もなく、一瞬で噛み殺されるのだから。せいぜい上手に死んでちょうだい」
どうやら、彼らは、セラがジェイド王子の手によって惨殺されることを確信しているようだった。利用価値のない化け物を処分するための、合理的な手段としてこの婚姻を選んだのだろうか。
呪われた王子にさえ娘を差し出す伯爵家の忠誠。
世間からすれば、そう見えるのだろうか。
セラの指先が震えた。
恐ろしい。
愛情のない家族のために利用される。
悔しい。
けれど……。
セラの心は恐怖や悔しさを感じると同時に、歓喜に震えていた。
ようやくこの地獄から、離れることができる。
オークに変じるという王子。
会えば、ひと噛みに殺されるのだろうか。
それでも、一時、青空が見えるかもしれない。小さなあかり取りの窓から見える、欠片のような空ではなく、大きく広がる空を。
一瞬でもいい。
本当の世界に触れたい。
「お役に立てて、うれしく思います」
セラのその言葉に、家族は、満足そうな顔をした。
いいや、家族だろうか。
セラは、父親と母親と姉の顔を見ても、もう、家族とは感じられなかった。
父親が、何の感慨もなさそうに言う。
「三日後に出発せよ」
「承知いたしました」
セラは、まだ見ぬ景色に思いをはせた。
戻された地下室で、小さな窓の向こうに、鳥が飛んでいるのが見える。
「わたしも、少しの間なら、自由に飛べるかしら」
いいえ、多くは望まないでおこう。
鳥はあっという間に飛び去り、今はただ、小さな青空だけが見えている。
専門家たちの許可を得て、リタに甲斐甲斐しく世話をされながら済ませた湯あみは、セラにとってまさに夢のような心地だった。 身体にまとわりつく砂塵や汗を温かな湯で流すと、固くなっていた身体の緊張が解けていく。すっかりさっぱりとしたセラは、あてがわれた部屋の、ふかふかのベッドの上で、力を抜いて横になった。 セラのためにと用意された部屋は、白亜宮にある寝室と変わらないほど、豪華なしつらえがあった。格式高い調度品が並び、肌触りの良いシーツがセラを優しく包み込む。 地下に隠された場所だということを、忘れてしまいそうだった。 ただ、ひとつだけ地上と異なるのは、窓の位置だった。天井に近い高所にひとつだけ穿たれた小窓は、すっかり暗くなった外の闇を映していたが、セラが横になって間もなく、リタが閉じてしまった。どうやら夜になると、安全のためにすべての小窓は厳重に閉じられる決まりらしい。 ジェイドとレオンは、ずっと忙しく立ち回っているようだった。時折、セラの様子を見に来てくれたものの、そのたびに「殿下、失礼いたします」「レオン様、こちらへ」と誰かが呼びに来て、すぐに慌ただしく出ていってしまう。 セラは湯から上がってしばらくしてから、リタにも「今日はもう休んでくださいね」と伝えて自室へ戻らせていた。自分にとっても過酷で恐ろしい道行きだった。セラを庇い、常に気遣いながら世話をし続けてくれたリタにとっては、どれほど大変で神経をすり減らす旅だったことだろう。 リタにも、ゆっくりと体を休めてほしかった。 静まり返った部屋で、セラはひとりベッドに寝転がって、ぼんやりと石造りの天井を眺めていた。 ところで、ジェイドの部屋はどこだろうか? ここで一緒に眠れるかしら? そんなことを考えていると、やわらかで清潔なシーツに包まれて、うとうとと、眠気がやってく
案内役である騎士にみちびかれ、セラたちが通されたのは、地下深くに入り組んだ場所にある、いくつもの部屋のうちのひとつだった。 王宮の地下空間は想像以上に広大で、まるで迷宮のようにどこまでも続いていた。古びた木箱が積み上げられた倉庫のような場所があるかと思えば、一転して地上にある本物の宮殿と何ら変わりない、豪華な装飾が施された部屋も存在する。 セラの部屋として案内された先も、豪華で広い部屋だった。調度品は格式高く、絨毯は毛足が長く美しい模様をしている。 ここは、どうやら半地下らしい。 見上げると、天井近くの壁に、小さな明かり取りの窓が穿たれており、そこからやわらかな外の光が斜めに差し込んでいる。 セラはその光を見つめながら、不思議な気持ちになった。 似ているわ……。 思い出したのは、人生のほとんどの時間を閉じ込められて過ごした、冷たく暗い、ローゼンタール家の地下室だった。あそこにも、外界の気配をわずかに伝えてくれる小さな窓があった。 窓の外には、美しいものがたくさんあるだろうと、夢想していた。 実際には、そればかりではなかったけれど……。 セラは、ふかふかの絨毯を足先で堪能しながら、心地良い柔らかさも美しさに分類しようと決めた。 どうせなら、できるだけいろんなものを、美しいものとしよう。 しばらくすると、国王が手配したという専門家たちが部屋へと入ってきた。 現れたのは、意外にも全員が女性だった。 魔術師、治癒師、そして技師だという三人の女性は、互いに無駄のない動きでセラをベッドへ促すと、それぞれのやり方でセラの右肩の傷とそこにある魔道具をあらため始めた。
貧民街を奥へ奥へと進んでいくと、重なり合うようにぎっしりと詰め込まれた隣り合う家々の間の道が、どんどん細くなり、下りの階段が多くなる。家々のすきまからのぞいていた空が、どんどん狭くなり、あたりはどんどん影が濃くなる。 境目は、わからなかった。 セラは、ジェイドに横抱きに抱えられたまま、気づくと、地下通路を進んでいた。 暗がりに目がなれたころには、すっかりまわりは、石積の頑丈そうな地下通路になっている。薄暗く、長い地下通路。 ところどころ、光をとりこむために、地上に向けて穴が開けられているらしい。 小さな穴から、一瞬、外の気配が見えた。 しばらく進んだ先に広がっていたのは、まるで古代の地下神殿を思わせる、大な空間だった。天井は高く、太い石造りの柱がいくつも整然と並び立っている。 壁や柱にある松明がパチパチと音を立てて赤々と燃え、周囲の光景を照らし出していた。 広間の中央に、ひとり。 威厳に満ちた佇まい。 国王が、そこにいた。「よお、ジェイド。おつかれだな」 軽い調子で、国王が声をかけてくる。「父上……ただいま戻りました」 ジェイドはセラを腕に抱いたまま、短く返答した。「ほとんどの戦力を現場に置いて帰還するとはな。相変わらず思い切ったことをする」 国王の、笑い混じりの声に、ジェイドが真面目に返す。「指揮官を失った程度で機能しなくなるような部隊ではありません。戦況に影響が出ないよう、現地での配置は極力そのまま維持させてあります」「やることが大
王都までの数日の移動の間、恐れていたような敵の邪魔が入ることは一度もなかった。 セラたち一行はひたすらに気配を殺し、小さな街道を幾つかの荷馬車に分かれて移動し続けた。のどかな田舎風景から少しずつ建物が増え、空気の質が変わり、いよいよ目指す王都が目前に迫った、その時だった。 荷馬車が、不意に勢いよく停まった。 馬のいななく声。 次の瞬間、外から重々しい鎧の擦れる音と、多数の馬の蹄の音が取り囲むように響き渡る。静寂を破るその緊迫した音に、馬車の車内が一瞬にして凍りついた。「な、なんですか……!?」 リタが顔を蒼白にしながら、セラの身体にぴったりとひっつき、かばうようにした。セラも思わず息を呑み、痛む肩をかばいながら緊張に身を硬くする。 だが、隣に座っていたジェイドは、焦る様子もなく静かに荷車の風よけのすきまから外を覗き込んだ。そして、ふっと肩の力を抜くと、落ち着いた動作で外へと出て行った。 馬車の外へ出たジェイドのもとへ、馬を降りた一人の身体の大きな騎士が歩み寄ってくるのが見えた。男はジェイドの前で立ち止まると、甲冑の音を響かせて深く礼を捧げる。「殿下、お待ちしておりました。陛下の命により、お迎えにあがりました」「このまま宮殿に戻れと?」「はい。迂回して、地下からお戻りください。すでに、陛下がセラ様の治療のために魔術師と治癒師、それに技師も用意されております」「ありがたいことだ」「では、先導いたします」「たのむ」 短く言葉を交わすと、ジェイドは再び荷馬車へと戻ってきた。 すぐに外にいる騎士たちの手に
荷馬車の車輪が静かに土を踏みこむ感覚は、これまでセラが経験してきた過酷な移動とは大きく異なっていた。 大隊が進軍するような幅広の主要街道ではなく、一行が進んでいたのは、地図にも細かくは描かれていない、目立たない小道だった。石畳は敷かれておらず、下草のなかに馬車の轍が続いている。 意外にも手入れされた道なのか、大きな石にのりあげて、がくん、と馬車がゆれることもほとんどない。土の上をゆく馬車は、のらりくらりと、のんびり揺れた。 ほとんどはひと気のない場所だが、それでも、時折がやがやとした人通りのある場所を通り抜ける。道行く人々はみな素朴な農衣を纏い、すれ違うたびに「こんにちは」「良いお天気が続きますね」と、怪しむ様子もなく気軽に、こちらにまで声をかけていた。 セラは、その様子を、興味津々で荷馬車の風よけのすき間からのぞき見た。 通り過ぎていく街とも言えないちいさな村は、少し離れればその全景がひと目で確認できるほどの、こぢんまりとした小さな集落ばかりだ。 ジェイドは馬車がそうした小さな集落に寄るたび、治癒師を探しているようだった。 けれど、セラの右肩に施されたような異質で高度な魔道具を扱える者は見つからない。 馬車の揺れの中で、レオンがセラの右肩に視線を向けて言う。「まあ、その魔道具に関しては、こんな田舎町で取り扱える奴はいないだろうな。知識もないのに下手に触って無理やり外そうとするのも、かえって危険な気がするし……」 セラは、今は強い痛みはない右肩にふれて言った。「内側にまで糸が入り込んで、わたしの肩の肉も骨も支えていると……キャンディが言っていました。今は、とくに痛みがひどいわけでもありませんから、このままつけておいてもいいのでは
セラは、ジェイドとともに、商人のふりをして王都に戻ることになった。 その決定が下されてからのジェイドたちの行動は、驚くほど素早かった。 どこから調達してきたのか、集められた衣服は、どれも騎士の威風とはかけはなれた質素なものばかりだ。着古された布地は、くったりと色褪せている。旅慣れた行商人が着るような服と外套に身を包むと、ジェイドが率いる精鋭部隊は、あっという間によくある商人の一団へと姿を変えていった。 セラとリタもまた、目立たない地味な色合いの旅着に着替える。 セラが忍び旅の支度を整えている間に、馬群が砦の門をくぐり抜けて駆け出していくのが、窓から見えた。彼らは、商人に扮した者たちとは異なり、あえて堂々と騎士の鎧を纏っている。ジェイドの命令を受け、二つの場所へ向かって走る使者たちだった。 一つの隊は第二王子の陣地へ、そしてもう一つの隊は王宮へ。 第一王子であるジェイドが、敵地に連れ去られた婚約者のセラを救出するために自ら部隊を率いて敵国へと潜入し、そのまま消息を絶ち、予定を過ぎても帰還しない——という偽りの報せを届けるための者たちだ。 ジェイドより遅れて戻った、補佐官の男が、ジェイドが去ったのちの指揮を任される。 補佐官の動きも迅速だった。「では、一部の隊員は隠し砦に向かわせます」「それがいいだろう。あとのことは、まかせる。もし、カイルの陣営から、指揮下に入るようにとの通達が来た場合は、それに従ってくれ」「かしこまりました」 補佐官の男は、戻ってきて早々に、また慌ただしく出ていった。 彼の報告によると、どうやら、セラを救出するための任務で、大きな傷を負ったものはいないらしい。 セラは、それを聞いて、ほっと力を抜い







