LOGIN窓を木板で打ち付けられた馬車の中は、終始、地下室のようだった。
車輪が石を噛む不快な振動に耐えながら、セラは三日間の旅路を過ごした。
結局、セラは屋敷を出されてから、まだ大きな青空を見ていない。
第一王子の宮へと向かう旅路は、地下室での暮らしよりも、暗くて窮屈だった。三日の間に与えられたのは、僅かな水と干し肉だけ。
セラは、大きすぎる衣装の、ずり落ちて来る肩の布を何度も持ち上げた。着せられたのは、姉のオディールのお下がりの衣装だった。
「地下室で着ていたものより随分あたたかいけれど、大きすぎるわね。お姉さまのほうが、背も高いもの。歩くときにひっかけないように気をつけないと」
それに……。
肩にもたくさんの傷がある。
こんなに醜い傷を、誰かに見られたくない。
気をつけないと……。
目的地である王国の最果て、黒曜宮と呼ばれる辺境の城に近づくにつれ、大気が変質していくのを、セラは肌で感じた。
肌を刺すような、重苦しい圧迫感。
魔力の気配だ。
人間のものとは思えない、狂暴で猛々しい獣のような気配だった。
「これも、第一王子の受けた呪いの影響かしら……」
セラは、深く息をして、その魔力のかけらのようなものを、己の内側に取り込んだ。
満たされるような感覚。
その感覚が通り過ぎると、セラのまわりから、重苦しい圧迫感がかき消える。
馬車がとまり、乱暴に扉が開け放たれる。
「降りてください」
御者の冷淡な声に、セラの身体が強張った。冷たい声を聴くと、どうしても母親や姉に与えられた苦痛を思い出してしまう。
セラは俯き、ドレスの裾を強く握り締めながら、車外へと降り立った。
あたりは、どんよりと暗い。
頭上には、分厚い雲がかかっている。
青空はなかった。
目の前にそびえ立つのは、黒い岩肌で作られた巨大な城郭だった。
出迎える使用人たちの姿は数えるほどしかなく、皆一様に顔色を失い、何かに怯えるようにしている。彼らが恐れているのは、この城の主であるジェイド王子だろうか、それとも、あたりに満ちるおそろしい魔力の気配だろうか。
年老いた使用人の男が、城の門の内側へと、セラを誘導し、城の内部へと進んでいく。人はいない。奥に進むにつれて、どんどん、おそろしい魔力の気配が強まる。
ひろい廊下の中ほどで、年老いた使用人は足を止めた。
「殿下は奥の部屋にいらっしゃいます。誰も近づけようとはなさいません。この先は、使用人も近づけません。この瘴気のような魔力の気配に、耐えられるものがいないからです」
使用人の言葉に、セラは静かに頷き、一人で歩みを進めた。廊下を進むたび、瘴気が濃くなっていく。魔力の弱い人間であれば精神を蝕んでしまうかもしれない。
だが、セラは一歩進むごとに、その瘴気とまで呼ばれる魔力を、息をしながら身体の内側に取り込んだ。
取り込むごとに、魔力は消え失せていく。
「呪われた体質のおかげで、ここで息をできそうね……」
やがて行き着いた、一際巨大な鉄黒色の扉。
セラが細い手で扉に触れようとした瞬間、内側から地鳴りのような低い声が響いた。
「だれだ。ここに近づいてはならない」
「セラと申します。婚約者として、ここにまいりました」
「今すぐ、来た道を戻るがいい。わたしは、婚約者などのぞまない」
「来た道を戻ることはできません」
「強情な。死に向かって来たのか。それとも、噂のひとつも知らない愚か者か」
「わたしは、あなたの婚約者です」
セラには帰る場所などない。
もう、伯爵家には戻りたくはない。
「死にたくなければ、今すぐこの城を去れ」
激しい口調の警告だった。
その威圧感に、セラの身体は恐怖で竦んだ。
今ここで、婚約者として受け入れてもらえなければ、あの地下室に戻される。
戻されるくらいなら、ここで、引き裂かれて死ぬ道を選ぶわ。
セラはその恐怖を押しのけるようにして、鉄黒色の扉を、力をこめて押し開いた。
「失礼いたします」
なぜか、セラは、そこにいる者の姿を見て、恐怖を抱かなかった。
ジェイド王子の体躯は、人間の倍近くに肥大化していた。鈍く光る灰緑色の皮膚、口元から突き出た不気味な二本の牙、人の娘など簡単に引き裂きそうなほど大きな筋肉が腕にも足にもついている。
セラの目の前にあらわれたのは、紛れもなく魔獣オークの姿だった。
しかし、その赤い瞳には、明らかな苦悩の色が浮かんでいる。
彼は、苦しげに言った。
「愚かな女だ。警告を無視するとは」
ジェイド王子の背後から、目に見えるほどの禍々しく黒い魔力が溢れ出た。
これが、彼が受けた呪いの力だろうか。
ジェイド王子は、セラに向かって「逃げろ」と言った。
そう言った後、あふれでた黒い魔力にまとわりつかれ、苦しんでいる。
制御できないのね。
セラは、その瞬間、なぜか、五歳のころの、あの記憶を思い出した。
薔薇色に輝く、姉の美しい魔力。
うっとりと、触れたくて、指先を向ける小さな自分。
セラは、その時と同じような、うっとりとした気持ちで、ジェイド王子から放たれた、禍々しい漆黒の魔力に向かって、手を差し出した。
瞬間。
ジェイド王子から放たれていた魔力が、セラの身体に向かって、凄まじい勢いで流れ込み始めた。精神を崩壊させるはずの呪いの魔力は、セラの指先に触れた瞬間に、ただの純粋なエネルギーへと還元されていく。
温かいわ……。
セラは、今まで感じたことのない感覚に目を見開いた。
強い魔力を吸い上げることで、セラの身体は急速に熱を帯びていく。それは、かつて一度も味わったことのない、圧倒的な充足感だった。
セラの無色の器が、あっという間に呪いを飲み干していく。
カイル王子とのダンスの最中、セラはふとステップを踏みながら不穏な気配を感じ取った。 なにかしら……。 ステップを踏むたび、かすかな違和感が腕や足の皮膚を掠める。 魔力の感触だ。 しかも、これまでに何度も触れてきたものと似た気配。 セラはダンスを続けながら、第一王子専用の観覧席へと視線を向けた。 ……えっ? カイル王子と踊り始める前には、会場を見下ろすように広く開かれていたはずの豪華なベルベットの幕が、今は重々しく降ろされていた。ジェイドの姿は見えない。 胸騒ぎ。 お股がかゆくなってから黙り込んでしまったカイル王子から意識を切り替えて、セラは己の皮膚を掠めていく微小な魔力に集中した。 広い大広間には、無数の貴族たちが持つ複雑な魔力の流れが渦巻いている。魔力の高い人間であれば、その気配のようなものを自然と周囲に撒き散らしてしまうこともあるのかもしれない。 集中しようとするほど、会場に満ちる過剰な情報を集めてしまう。 目的の気配が霞む。 不意に、右腕の表面にツンと不快な気配が当たった。 セラはその瞬間を逃さず、魔力を吸い寄せるように己の内側へと引き込んだ。 身体に取り込んで、確信する。 これは、あのローゼンタール家の暗く冷たい地下室で触れたものと、完全に同質のものだ。つまり、ジェイドの身体の内側からあふれ出し、彼を苦しめ続けているあの呪い——瘴気そのものだった。 どうして……ここに、あの瘴気が……?
「これは失礼。あなたの気を悪くするつもりはありませんでした」 真っ直ぐな瞳に射抜かれた衝撃を誤魔化すように、カイルはそう言い、取り繕った。 社交界の駆け引きであれば、ここから互いの腹を探り合い、皮肉や笑みで装飾された言葉の応酬が始まるはずだった。 だが、目の前の女——セラは、ふっと肩を落とし、分かりやすくしゅんとした顔を浮かべた。「いいえ、気を悪くしたりなどしていません……」 まるで小動物が身を縮めるかのような態度。 カイルは、己の表情や感情を隠すという淑女としての基本すらできていないこの不器用な女に、言い知れぬいらつきを覚え始めた。 あまりにも無防備で、あまりにも素直すぎる。「ローゼンタール家のご令嬢という肩書だけで言えば、あなたは兄上の婚約者にふさわしいでしょうね」 カイルは意図的に冷ややかな声で、容赦のない言葉を投げつけた。「ですが……あなたを見ていると、どうも、兄上の婚約者としてふさわしい女性には見えない」 どれほど純粋を装っていようと、誇りを傷つけられれば感情を露わにするか、せめて反論くらいはしてくるだろう。カイルはそう踏んでいた。「……わたしも、そう……思います……」 最後は消え入るような声でそう零したセラの反応に、カイルはほとほといらだった。 言い返しもしないのか……。 嫌そうな顔も、憤る顔も、憎々しげな視線すら寄せてこない。ただ己の無力さや未熟さに耐えるように、俯いているだけ。
観覧席からフロアへと続く階段を降りながら、カイルは隣を歩く華奢な女の姿を、冷ややかな視線で観察していた。 結い上げられた髪は丁寧に整えられ、細く白い首筋を美しく際立たせている。確かに、整った顔立ちをした美人ではある。だが、立ち振る舞いや全体の雰囲気にはどこか幼さが残っていて、社交界の練達者の中では、どうも見劣りする。 兄上はずいぶんとこの女を気に入っているようだったが、一体どこにそこまでの価値を見出しているのか……。 カイルには皆目見当がつかなかった。 美人など、この会場を見渡せばいくらでも転がっている。 しかも、隣を静かに歩いている女——セラは、カイルに対して愛想笑いの一つすら見せない。お世辞を口にするわけでもなく、ただ差し出された腕に手を添え、連れられるままに無言で歩いているだけだった。 高飛車な女か? 一体、どういった手練手管を使って、あの抜け目のない兄上に取り入ったのだろうか。 ドレスに視線を滑らせてみても、その疑問は深まるばかりだった。 セラの纏っている衣装は、かなり保守的で、慎み深い仕立てだ。 いまどき、社交界で咲き誇る花々のごとき令嬢たちは、誰もが競い合うように胸元や肩を露出し、煌びやかな装飾で己を魅惑的に飾り立てている。それなのに、隣でだんまりと歩いている女は、お堅い教育係ですら今どきこれほど肌を隠さないのではないかと思えるほど、地味な形状のドレスを選んでいた。高級な布地が使われ、意匠が洗練されているから、見苦しくはないものの、この華やぎを競う会場においては異質なほど質素に見える。 婚約者であるオディールの姿が脳裏をよぎる。 オディールは自分の容姿にも、淑女としての立ち振る舞いにも過剰なほどの自信を持っている女だ。社交界では手慣
夢のような一曲を踊り終え、鳴り止まない拍手に包まれながら、セラはジェイドの手をしっかりと握ったまま、大広間の一角にある階段へと導かれていった。 案内されたのは、貴族たちが集うフロアからは一段高く作られた、王族専用の観覧席だった。 重厚なベルベットの垂れ幕でいくつかに仕切られたその空間は、会場全体を一望できる特別な場所だった。中央に位置し、金糸の刺繍が施された豪華な垂れ幕がかけられているのが国王夫妻のための席で、その両脇に、第一王子と第二王子のための席がそれぞれ設けられていた。 ふかふかのソファに腰を下ろすと、先ほどまでの熱気が嘘のようで、セラはそっと息を吐き出した。手首に結ばれたダンスカードを見つめると、びっしりと名前が並んでいる。 休む間もなく、このまま次の曲もずっと踊り続けなくちゃいけないのかしら……。 先ほどの興奮が冷めるにつれ、あまりの運動量と緊張に身体がもつかどうかの不安が、じわじわと押し寄せる。ダンスカードを見つめたまま身構えていると、隣に座ったジェイドがセラの緊張を察したように優しく微笑んだ。「大丈夫だよ、セラ。そんなに緊張しなくても。それにしばらくは休憩だ。それぞれの曲の間には、しっかりと時間が設けられているからね」「そうなんですか……?」「ああ。そうしないと、広い会場の中で次に踊る相手を見つけ出すことも、挨拶を交わすこともできない」「そっか……そうですよね。それを聞いて、安心しました」 ほっと胸を撫で下ろしたものの、それでもやはり、手首で揺れるカードに刻まれた名前の多さを思うと、これから始まる長丁場への不安はぬぐえない。 ジェイドがセラの手首にそっと触れる。結びつけられた小さなダンス
オディールとカイル王子が去ったあとは、セラのもとに次々と、第一王子派に属する貴族たちが近づいてきては、挨拶を交わす。 会場の雰囲気や、お菓子と飲み物を堪能する暇もなく過ごしていると、やがて、会場の雰囲気が一変した。 鳴り響く音楽がぐっと大きくなり、天井でかがやくシャンデリア以外のいくつかの灯りがすっと落とされていく。窓の向こうの昼光は分厚い幕で覆い隠され、大広間の中央だけに、息をのむほど強い光が集められた。 シャンデリアのクリスタルが光を複雑に乱反射させ、まるで星屑を散りばめたような眩い空間が立ち現れる。「セラ様、あちらへ」 リタにそっと手を引かれ、セラは中央の開けた場所へと導かれた。 大勢の淑女や紳士たちが輪を描くように周囲を囲み、中央に視線を注いでいる。その輪の中心には、第一王子ジェイドと、第二王子カイルが立っていた。 カイルの隣に寄り添うオディールが、セラに向けて、刺すような冷たい視線を一瞬投げかけてきた。 セラはリタの手を離し、ゆっくりとジェイドのもとへ進み出た。 互いに歩み寄り、至近距離で対峙する。ジェイドの青い瞳が、セラを柔らかく包み込んだ。「セラ、今日のきみは、本当にきれいだ」 さっきまでの不安も、そのひとことで吹き飛ぶ。 セラはまっすぐにジェイドを見上げ、思ったことをそのまま言った。「ジェイド、とっても、かっこいいです。わたしが物語のなかで想像した素敵な王子様が、そのままここにいるみたいです」 ジェイドの唇が、綻んだ。 彼はうやうやしくセラに向かって礼をつくし、セラの手をそっと救い上げた。そして、セラの指背へ、唇を静かに寄せる。 音楽が変わった。
せっかく緊張がすこしほぐれかけていたセラの身体が、一瞬で氷のように硬直する。 声をかけられて、振り返った先には、豪華なドレス。女らしさを際立たせるような、胸元のあいたドレスには、たっぷりと宝石がぬいつけてある。華美な意匠だが、華やかな顔立ちを持つ、セラの姉、オディール・ローゼンタールの堂々とした態度には、そのドレスがよく似合っていた。優雅に扇を揺らして、親しみは感じられない微笑みをセラに向けている。その隣では、感情の見えない無表情で、黒曜石のような瞳をセラに向けて、第二王子カイルが立っていた。「ごきげんよう、セラ。あら、そんな表情をされるなんて。わたしが、何か気に障ることをしてしまったかしら。……ああ、お気に入りの護衛騎士とお菓子を堪能しているところを邪魔してしまったから? それでそうやっていじわるな顔をしてわたしを見るのね」 オディールが、眉をさげ、悲しげにため息をついてつづける。「あなたは、いつもわたしにいじわるだけれど、わたしはあなたが心配だわ、セラ。ジェイド殿下は、あなたのことを、大切にしてはおられないのね。はじめて参加する舞踏会だというのに、こんなふうにひとりで置いておかれるなんて……。わたし、とっても心配になって、声をかけにきたのよ」「……っ」 セラの喉がぎゅっとなった。 まわりにいる人々が、ひそひそと、こちらを見ながら話している。 何か言い返さないと。 そう思うのに、オディールの顔を近くで見ると、喉が引きつり、声が出てこない。意見を言えば、痛みを与えられる。泣いても、痛みを与えられる。やめてほしいと懇願するほど、痛みを与えられる。ただ、黙って、オディールの関心が自分から離れるまで、待つしかない。今までの恐怖。 セラは、その場から逃げ出してしまわないよう、ぐっ







