ログインセラが差し出した指先に触れて、部屋を満たしていた漆黒の魔力が、完全に消失した。
静寂。
セラは、ようやく部屋の中の様子を、認識することが出来た。
第一王子の居室として相応しく、豪華な調度品に囲まれているが、どれも、無残に破壊されていた。壁もあちこちに傷があり、所々は崩れてしまっている。
大きな暖炉はあるが、火は入れられていない。
荒れた、寒い部屋だった。
そして、目の前には、オークのような姿の男がいる。
ジェイド王子は、黒い魔力のうねりが消えると、つきものが落ちたように、呆然としながら、自身の大きな掌を見つめていた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、眼前に佇むセラを見据えた。
ジェイド王子の赤い瞳には、先ほどまでの荒々しさは消え、深い理知の光が宿っているように見える。彼は、落ち着いた声で言った。
「きみが、ローゼンタール伯爵家から送られた婚約者か。報告は受けていた」
「はい。セラ・ローゼンタールでございます」
「寒いのか?」
「えっ」
急に、そんなことを聞かれるとは思わず、セラが戸惑っていると、ジェイド王子は、自嘲したようにうすく笑って言った。
「いや、すまない。震えているようだったから、寒いのかと思ったが……、目の前に化け物がいれば、震えもするな」
化け物……。
セラは、自らがそう呼ばれてきた、苦しみを、ジェイド王子の中に見た。
セラは、まっすぐに、ジェイド王子の瞳を見つめた。
思いが届くように。
「殿下の姿を恐れて震えているわけではございません。ここは、とても寒いので、震えが止まらないのです。あなたのことを、化け物だなどとは、感じてはおりません」
「……待っていろ」
ジェイド王子は、部屋の奥にある、壊れかけた豪華な衣装棚から、何かをひっぱりだした。それは、美しい羽飾りのついた、暖かそうなマントだった。
彼は、そのマントを、セラの前に差し出そうとして、立ち止まり、近くにあったテーブルの上に置いた。
もしや、怖がらせないよう、距離をとってくれているのだろうか。
「それを、使うといい」
ジェイド王子は、そう言って、セラから離れた場所に立った。
セラは、立派なマントを手に取って、羽織ってみた。
なんて、なめらかな手触りで、あたたかなのかしら。
殿下は、優しい方だわ。
セラは、ジェイド王子の近くまで行き、親しみをこめて言った。
「殿下、お気遣いくださって、ありがとうございます。とても、嬉しいです」
「……そうか」
すこしの間があって、ジェイド王子は、つぶやくように言う。
「なぜ、伯爵家が私に対して婚約者を送ってきたのか、甚だ不可解ではある。いまだ第一王子としての権威を、この私に認めているとも思えないが……」
ジェイド王子の、赤い瞳が、セラを射抜くように見つめる。
「きみの、特殊な能力が、関係しているのか……」
セラが、ジェイド王子からあふれでた黒い魔力を、すべて消してしまったことを、言っているのだろう。
セラは、己の婚約者となった、ジェイド王子には、何も偽らずに、すべてを言うことにした。
「わたしは、ローゼンタール家の意図に関しては、何も知らされてはおりません。わたしの能力に関しては……」
言ってしまうのは、ためらわれた。
言えば、伯爵家に戻されることもあるだろうか。
「わたしを、この城においてくださいませんか? 婚約者として、望まれないのであれば、使用人としてでも……。なんでもいたします」
ジェイド王子は、答えず、ただじっと、セラの言葉を待っているようだった。
セラは、おそろしい気持ちでつづけた。
「私には、魔力が存在いたしません」
震える手を、おさえながら話す。
「いいえ、正確には、触れた対象の魔力を無に帰す、呪われた力です。王国を脅かす、呪われた力……、わたしこそ、化け物です……」
ジェイド王子の赤い瞳に、深い思索の影が差す。
彼は、しばらく考えてから、言った。
「きみの力で、わたしの魔力をすべて奪い、弱ったところを殺そうとでもいうところか。ローゼンタール家は第二王子派のはずだ」
「わたしの姉は、わたしが殿下に引き裂かれて殺されるのを楽しみにしているようでした」
セラがそう言うと、ジェイド王子が、笑った。
「やっかいな呪われた者同士をぶつけて、相打ちにでもなってくれないかと、思っていそうだな」
「そう、かもしれませんね」
また、ジェイド王子が笑う。
おそろしげなオークの姿でも、笑うと、なんだか親しみを持てそうな感じがある。それに、彼の態度は一貫して紳士的で、セラは、なんだか物語に出てくる騎士のようにも感じた。
「事情は、理解した。きみの能力のおかげで、ひさしぶりに落ち着いて、こうして話せた。人らしい感覚は……、いつぶりかな……」
ジェイド王子は、そこらに散らばったものの中から、紙とペンを見つけて、テーブルの上で何かを書きはじめた。
そうして、何かを書きながら、セラに向かって話す。
「きみの能力のおかげで、こうして話せているが、これは運が良かっただけかもしれない。正気を失っている時のわたしは、まさに、魔獣オークそのものだ。きみのことを、本当に引き裂いていてもおかしくなかった」
ジェイド王子は、なにかを書いた紙を、セラに向かって差し出した。
「これを、侍従長に見せるといい。この城で、不自由なく暮らせるよう、できるかぎりのことを配慮するよう書いておいた。きみの、好きに暮らしてかまわない」
セラは、思ってもみない、嬉しい言葉に、感動してジェイド王子を見た。
「だが、二度とわたしに近づくな」
セラの胸が冷えた。
ジェイド王子の言葉は、強い調子で、セラに釘を刺すようだった。
拒絶。
呪われた子、化け物。
親しんで受け入れてもらえるなんて、なぜ、一瞬でもそう思ってしまったのだろう。
「……かしこまりました」
セラの口から出たのは、おびえたように小さな声だった。
「これは失礼。あなたの気を悪くするつもりはありませんでした」 真っ直ぐな瞳に射抜かれた衝撃を誤魔化すように、カイルはそう言い、取り繕った。 社交界の駆け引きであれば、ここから互いの腹を探り合い、皮肉や笑みで装飾された言葉の応酬が始まるはずだった。 だが、目の前の女——セラは、ふっと肩を落とし、分かりやすくしゅんとした顔を浮かべた。「いいえ、気を悪くしたりなどしていません……」 まるで小動物が身を縮めるかのような態度。 カイルは、己の表情や感情を隠すという淑女としての基本すらできていないこの不器用な女に、言い知れぬいらつきを覚え始めた。 あまりにも無防備で、あまりにも素直すぎる。「ローゼンタール家のご令嬢という肩書だけで言えば、あなたは兄上の婚約者にふさわしいでしょうね」 カイルは意図的に冷ややかな声で、容赦のない言葉を投げつけた。「ですが……あなたを見ていると、どうも、兄上の婚約者としてふさわしい女性には見えない」 どれほど純粋を装っていようと、誇りを傷つけられれば感情を露わにするか、せめて反論くらいはしてくるだろう。カイルはそう踏んでいた。「……わたしも、そう……思います……」 最後は消え入るような声でそう零したセラの反応に、カイルはほとほといらだった。 言い返しもしないのか……。 嫌そうな顔も、憤る顔も、憎々しげな視線すら寄せてこない。ただ己の無力さや未熟さに耐えるように、俯いているだけ。
観覧席からフロアへと続く階段を降りながら、カイルは隣を歩く華奢な女の姿を、冷ややかな視線で観察していた。 結い上げられた髪は丁寧に整えられ、細く白い首筋を美しく際立たせている。確かに、整った顔立ちをした美人ではある。だが、立ち振る舞いや全体の雰囲気にはどこか幼さが残っていて、社交界の練達者の中では、どうも見劣りする。 兄上はずいぶんとこの女を気に入っているようだったが、一体どこにそこまでの価値を見出しているのか……。 カイルには皆目見当がつかなかった。 美人など、この会場を見渡せばいくらでも転がっている。 しかも、隣を静かに歩いている女——セラは、カイルに対して愛想笑いの一つすら見せない。お世辞を口にするわけでもなく、ただ差し出された腕に手を添え、連れられるままに無言で歩いているだけだった。 高飛車な女か? 一体、どういった手練手管を使って、あの抜け目のない兄上に取り入ったのだろうか。 ドレスに視線を滑らせてみても、その疑問は深まるばかりだった。 セラの纏っている衣装は、かなり保守的で、慎み深い仕立てだ。 いまどき、社交界で咲き誇る花々のごとき令嬢たちは、誰もが競い合うように胸元や肩を露出し、煌びやかな装飾で己を魅惑的に飾り立てている。それなのに、隣でだんまりと歩いている女は、お堅い教育係ですら今どきこれほど肌を隠さないのではないかと思えるほど、地味な形状のドレスを選んでいた。高級な布地が使われ、意匠が洗練されているから、見苦しくはないものの、この華やぎを競う会場においては異質なほど質素に見える。 婚約者であるオディールの姿が脳裏をよぎる。 オディールは自分の容姿にも、淑女としての立ち振る舞いにも過剰なほどの自信を持っている女だ。社交界では手慣
夢のような一曲を踊り終え、鳴り止まない拍手に包まれながら、セラはジェイドの手をしっかりと握ったまま、大広間の一角にある階段へと導かれていった。 案内されたのは、貴族たちが集うフロアからは一段高く作られた、王族専用の観覧席だった。 重厚なベルベットの垂れ幕でいくつかに仕切られたその空間は、会場全体を一望できる特別な場所だった。中央に位置し、金糸の刺繍が施された豪華な垂れ幕がかけられているのが国王夫妻のための席で、その両脇に、第一王子と第二王子のための席がそれぞれ設けられていた。 ふかふかのソファに腰を下ろすと、先ほどまでの熱気が嘘のようで、セラはそっと息を吐き出した。手首に結ばれたダンスカードを見つめると、びっしりと名前が並んでいる。 休む間もなく、このまま次の曲もずっと踊り続けなくちゃいけないのかしら……。 先ほどの興奮が冷めるにつれ、あまりの運動量と緊張に身体がもつかどうかの不安が、じわじわと押し寄せる。ダンスカードを見つめたまま身構えていると、隣に座ったジェイドがセラの緊張を察したように優しく微笑んだ。「大丈夫だよ、セラ。そんなに緊張しなくても。それにしばらくは休憩だ。それぞれの曲の間には、しっかりと時間が設けられているからね」「そうなんですか……?」「ああ。そうしないと、広い会場の中で次に踊る相手を見つけ出すことも、挨拶を交わすこともできない」「そっか……そうですよね。それを聞いて、安心しました」 ほっと胸を撫で下ろしたものの、それでもやはり、手首で揺れるカードに刻まれた名前の多さを思うと、これから始まる長丁場への不安はぬぐえない。 ジェイドがセラの手首にそっと触れる。結びつけられた小さなダンス
オディールとカイル王子が去ったあとは、セラのもとに次々と、第一王子派に属する貴族たちが近づいてきては、挨拶を交わす。 会場の雰囲気や、お菓子と飲み物を堪能する暇もなく過ごしていると、やがて、会場の雰囲気が一変した。 鳴り響く音楽がぐっと大きくなり、天井でかがやくシャンデリア以外のいくつかの灯りがすっと落とされていく。窓の向こうの昼光は分厚い幕で覆い隠され、大広間の中央だけに、息をのむほど強い光が集められた。 シャンデリアのクリスタルが光を複雑に乱反射させ、まるで星屑を散りばめたような眩い空間が立ち現れる。「セラ様、あちらへ」 リタにそっと手を引かれ、セラは中央の開けた場所へと導かれた。 大勢の淑女や紳士たちが輪を描くように周囲を囲み、中央に視線を注いでいる。その輪の中心には、第一王子ジェイドと、第二王子カイルが立っていた。 カイルの隣に寄り添うオディールが、セラに向けて、刺すような冷たい視線を一瞬投げかけてきた。 セラはリタの手を離し、ゆっくりとジェイドのもとへ進み出た。 互いに歩み寄り、至近距離で対峙する。ジェイドの青い瞳が、セラを柔らかく包み込んだ。「セラ、今日のきみは、本当にきれいだ」 さっきまでの不安も、そのひとことで吹き飛ぶ。 セラはまっすぐにジェイドを見上げ、思ったことをそのまま言った。「ジェイド、とっても、かっこいいです。わたしが物語のなかで想像した素敵な王子様が、そのままここにいるみたいです」 ジェイドの唇が、綻んだ。 彼はうやうやしくセラに向かって礼をつくし、セラの手をそっと救い上げた。そして、セラの指背へ、唇を静かに寄せる。 音楽が変わった。
せっかく緊張がすこしほぐれかけていたセラの身体が、一瞬で氷のように硬直する。 声をかけられて、振り返った先には、豪華なドレス。女らしさを際立たせるような、胸元のあいたドレスには、たっぷりと宝石がぬいつけてある。華美な意匠だが、華やかな顔立ちを持つ、セラの姉、オディール・ローゼンタールの堂々とした態度には、そのドレスがよく似合っていた。優雅に扇を揺らして、親しみは感じられない微笑みをセラに向けている。その隣では、感情の見えない無表情で、黒曜石のような瞳をセラに向けて、第二王子カイルが立っていた。「ごきげんよう、セラ。あら、そんな表情をされるなんて。わたしが、何か気に障ることをしてしまったかしら。……ああ、お気に入りの護衛騎士とお菓子を堪能しているところを邪魔してしまったから? それでそうやっていじわるな顔をしてわたしを見るのね」 オディールが、眉をさげ、悲しげにため息をついてつづける。「あなたは、いつもわたしにいじわるだけれど、わたしはあなたが心配だわ、セラ。ジェイド殿下は、あなたのことを、大切にしてはおられないのね。はじめて参加する舞踏会だというのに、こんなふうにひとりで置いておかれるなんて……。わたし、とっても心配になって、声をかけにきたのよ」「……っ」 セラの喉がぎゅっとなった。 まわりにいる人々が、ひそひそと、こちらを見ながら話している。 何か言い返さないと。 そう思うのに、オディールの顔を近くで見ると、喉が引きつり、声が出てこない。意見を言えば、痛みを与えられる。泣いても、痛みを与えられる。やめてほしいと懇願するほど、痛みを与えられる。ただ、黙って、オディールの関心が自分から離れるまで、待つしかない。今までの恐怖。 セラは、その場から逃げ出してしまわないよう、ぐっ
大広間に一歩足を踏み入れた瞬間、セラは目も眩むような光と熱気に包まれた。 天井で煌めく無数のシャンデリアが複雑に光を反射している、色鮮やかなドレスを纏った淑女たち、胸元に勲章を誇らしげに輝かせた紳士たち。立ち込める甘い香水の香りと、楽しげな歓談の輪、そして奏でられる美しい音楽。 まだ昼すぎのはずだが、窓には分厚い布が美しい曲線を描いていくつもかけられていて、室内はいくつもの灯りがまるで競い合うように、そこかしこを照らしている。 セラは、明暗の強さに、くらっとした。 これが、王宮の舞踏会——。 セラは、国王夫妻と同じ壇上に導かれ、大勢の紳士淑女が見つめる中で、第一王子の婚約者として紹介された。次々に訪れる、立派な服装の人々。見たこともない人々が、次々と祝福の言葉を口にする。 笑顔のもの。 笑顔のように見えるもの。 セラは、極度の緊張で、ほとんど記憶を保てなかった。こんなに大勢の人を見るのも、声を聞くのも、生まれて初めてのことだ。震えないよう、ぐっと手足に力をこめるので、精一杯だった。 そうして、挨拶の波が引き、壇上から降りると、すぐに大勢の貴族たちがジェイドのもとへと押し寄せてきた。立派な姿の男性たちが次々とジェイドを囲み、何やら眉をひそめて難しそうな政治の話もしたりしている。「セラ様、こちらへ」 リタがそっとセラの手を引いた。 ジェイドがセラに一度微笑みかけてから、またすぐに男性たちとの話にもどる。 リタが移動しながらセラの耳元に顔を寄せ、こっそり教えてくれる。「ああやって、殿方は舞踏会だろうとどこだろうと仕事や政治の話をしたがるものなんです。まあ、あれも勢力固めの一環です。その間、淑