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【第5話】秘め事の始まり

作者: 櫻恭史郎
last update 公開日: 2026-07-11 18:10:44

 セラは、第一王子の宮である黒曜宮で、はじめて、何不自由ない生活を味わった。

 第一王子の居室からは離れた場所に用意されたセラの部屋は、立派に貴族らしく豪華な調度品が揃えられ、大きなテラスもある。

 食事はあたたかで新鮮だった。

 侍従長から、侍女を用意すると提案されたが、セラはそれを断った。

 持ってきた衣装は、どれも一人で着られるものばかりだったし、なにより、身体にある傷を見られるのがおそろしかった。

 部屋にある立派な鏡にうつった、セラの背には、母親から受けた、鞭の跡が、赤黒く、いくつも交差している。腕や肩にも、姉のオディールが退屈しのぎに魔力をぶつけて生じさせた、火傷のような歪な痕跡が斑点のように残っていた。

「忌まわしい力を持つ上に、こんな姿のわたしが、近づいて嬉しいものなど、いないわね……」

 ジェイド王子の言葉が、何度も胸の内で、つめたく刺さる。

『二度とわたしに近づくな』

 もしや、セラを傷つけることがないよう配慮しての言葉かもしれない。けれど、セラにとっては、つらい拒絶だった。

 優しい婚約者と仲良くなれるかもしれないと、一瞬でも思った。

 彼の姿は魔獣のようでも、その態度は紳士的で美しかったから。

 自分との会話で、誰かが笑ってくれたのは、セラにとって、物心ついてから、はじめての出来事だった。それは、とても素敵なことだったのに……。

 セラの心と同じように、テラスから見える空は、いつまでたっても晴れなかった。

 そうして、数日が過ぎた黒曜宮の夜。

 平穏は、唐突に破られた。

 浅い眠りに就いていたセラは、激しい悪寒とともに跳ね起きた。肌を刺すような、おそろしい魔力のうねり。あたりに、黒く禍々しい魔力の影がただよっていた。

「殿下の魔力だわ……、こんなところにまで……」

 外から悲鳴や、逃げ惑う足音が聞こえる。

 セラは肌着の上に、殿下の部屋で与えられたマントをはおり、裸足のまま廊下へと飛び出した。

 すぐ先に、侍従長がいる。

 どうやら、こちらに向かっているようだった。

 侍従長のゆく手をはばむように現れた、黒い魔力の影を、セラは指先ではらった。あたりの影が霧散する。

「セラ様、殿下の魔力が暴走しています。お逃げ下さい」

「わたしは、殿下のもとに。あなたは逃げてください」

「セラ様!」

 セラは暗い廊下を、狂風のようにうねる黒い魔力に抗いながら突き進んだ。

 ジェイド王子の部屋に近づくにつれ、黒が濃くなる。王子の部屋の鉄黒色の扉は、閉じていたが、隙間から漆黒の霧がうねり噴き出していた。

 セラは躊躇うことなく、扉を押し開いた。

「殿下! おられますか!」

 部屋の奥から、獣の絶叫が響いた。

 おそろしい魔獣の咆哮。

 魔獣オークが、何かに耐えるように、部屋の隅で、苦しんでいた。

 肥大化した身体からは血が滲み、灰緑色の皮膚が過剰な魔力によってひび割れている。濃い黒が、そのまわりで踊るようにしていた。

 部屋から、走り出て、暴れることもできたはずだ。

 でも、彼は、ここでひとり、部屋の隅にうずくまり、耐えようとしている。

 ジェイド王子は、化け物なんかじゃない。

 誰よりも気高く、優しい人だわ。

 あの魔力をすべて受け止めたら、どうなるだろうか。

 呪いとして禍々しい魔力を受け入れて、正気でいられるだろうか。

 生きて、いられるだろうか。

 また、咆哮。

 悲鳴のような、悲痛な叫びだった。

 セラは思わず、走った。

 床に膝をつき、苦悶するジェイド王子の魔獣と化した巨大な腕に、両手で固くしがみついた。

 その瞬間、まるで呪いが、行先を定めたように、勢いよくセラの身体へと流れ込んできた。黒い魔力のうねりは、突き刺すように、セラの身体へと集まってくる。

 あまりの衝撃に、視界が真っ白に染まった。

 前回、ジェイド王子から魔力を吸った時とは、比べものにならない。身体が内側から作り替えられるような、圧倒的な魔力の流れだった。

 身体が熱い。

 気を抜けば、魔力の流れに意識ごと奪われて、このまま気絶してしまいそうだった。

 セラは、必死に、ジェイド王子の腕をつかみ、ひたすら耐えた。

 ジェイド王子の身体から、漆黒の霧が急速に剥ぎ取られていく。

「え……?」

 セラの目の前で、信じられないことが起きた。

 ジェイド王子の灰緑色の頑強なオークの皮膚が、瞬く間に滑らかな、抜けるように白い肌へと変貌していく。口元から突き出ていた不気味な牙は消え失せ、引き締まった薄い唇が現れた。衣服を引き裂いていた巨躯は、均整の取れた、高貴で強靭な男の体格へと変化してゆく。

 乱れた髪は、月光を浴びて妖しく輝く、美しい白銀の糸へと変わっていた。

 セラの目の前にいたのは、魔獣オークなどではなかった。

 整った輪郭。切れ長の、知性を湛えた深い青の瞳。

 神話の神々さえも嫉妬すると称された、絶世の美貌を持った第一王子ジェイドの本来の姿が、そこにあった。

 息を呑むセラと、呆然とセラを見つめる彼の視線が、至近距離で交錯する。

 ほんの数秒の出来事だった。

 彼の身体の奥から、再び頑強な呪いの気配が鎌首をもたげ、その美しい容貌をじわじわと灰緑色の皮膚で覆い隠していく。

 あっという間に、ジェイド王子の姿は、元の魔獣の姿へと戻っていった。

 だが、赤くなった彼の瞳からは狂気が完全に消え去っていた。

 黒い魔力の霧も、消えている。

「セラ嬢……?」

「殿下」

 セラは、今見た、奇跡のような出来事を、決して自分の家に知られてはいけないと感じた。これは、おそらく、ローゼンタール家の思惑とは異なる結果だ。

 ローゼンタール家は、第二王子派。

 第一王子が呪いから解放される兆しを、喜ぶはずがない。

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