ログインセラは、第一王子の宮である黒曜宮で、はじめて、何不自由ない生活を味わった。
第一王子の居室からは離れた場所に用意されたセラの部屋は、立派に貴族らしく豪華な調度品が揃えられ、大きなテラスもある。
食事はあたたかで新鮮だった。
侍従長から、侍女を用意すると提案されたが、セラはそれを断った。
持ってきた衣装は、どれも一人で着られるものばかりだったし、なにより、身体にある傷を見られるのがおそろしかった。
部屋にある立派な鏡にうつった、セラの背には、母親から受けた、鞭の跡が、赤黒く、いくつも交差している。腕や肩にも、姉のオディールが退屈しのぎに魔力をぶつけて生じさせた、火傷のような歪な痕跡が斑点のように残っていた。
「忌まわしい力を持つ上に、こんな姿のわたしが、近づいて嬉しいものなど、いないわね……」
ジェイド王子の言葉が、何度も胸の内で、つめたく刺さる。
『二度とわたしに近づくな』
もしや、セラを傷つけることがないよう配慮しての言葉かもしれない。けれど、セラにとっては、つらい拒絶だった。
優しい婚約者と仲良くなれるかもしれないと、一瞬でも思った。
彼の姿は魔獣のようでも、その態度は紳士的で美しかったから。
自分との会話で、誰かが笑ってくれたのは、セラにとって、物心ついてから、はじめての出来事だった。それは、とても素敵なことだったのに……。
セラの心と同じように、テラスから見える空は、いつまでたっても晴れなかった。
そうして、数日が過ぎた黒曜宮の夜。
平穏は、唐突に破られた。
浅い眠りに就いていたセラは、激しい悪寒とともに跳ね起きた。肌を刺すような、おそろしい魔力のうねり。あたりに、黒く禍々しい魔力の影がただよっていた。
「殿下の魔力だわ……、こんなところにまで……」
外から悲鳴や、逃げ惑う足音が聞こえる。
セラは肌着の上に、殿下の部屋で与えられたマントをはおり、裸足のまま廊下へと飛び出した。
すぐ先に、侍従長がいる。
どうやら、こちらに向かっているようだった。
侍従長のゆく手をはばむように現れた、黒い魔力の影を、セラは指先ではらった。あたりの影が霧散する。
「セラ様、殿下の魔力が暴走しています。お逃げ下さい」
「わたしは、殿下のもとに。あなたは逃げてください」
「セラ様!」
セラは暗い廊下を、狂風のようにうねる黒い魔力に抗いながら突き進んだ。
ジェイド王子の部屋に近づくにつれ、黒が濃くなる。王子の部屋の鉄黒色の扉は、閉じていたが、隙間から漆黒の霧がうねり噴き出していた。
セラは躊躇うことなく、扉を押し開いた。
「殿下! おられますか!」
部屋の奥から、獣の絶叫が響いた。
おそろしい魔獣の咆哮。
魔獣オークが、何かに耐えるように、部屋の隅で、苦しんでいた。
肥大化した身体からは血が滲み、灰緑色の皮膚が過剰な魔力によってひび割れている。濃い黒が、そのまわりで踊るようにしていた。
部屋から、走り出て、暴れることもできたはずだ。
でも、彼は、ここでひとり、部屋の隅にうずくまり、耐えようとしている。
ジェイド王子は、化け物なんかじゃない。
誰よりも気高く、優しい人だわ。
あの魔力をすべて受け止めたら、どうなるだろうか。
呪いとして禍々しい魔力を受け入れて、正気でいられるだろうか。
生きて、いられるだろうか。
また、咆哮。
悲鳴のような、悲痛な叫びだった。
セラは思わず、走った。
床に膝をつき、苦悶するジェイド王子の魔獣と化した巨大な腕に、両手で固くしがみついた。
その瞬間、まるで呪いが、行先を定めたように、勢いよくセラの身体へと流れ込んできた。黒い魔力のうねりは、突き刺すように、セラの身体へと集まってくる。
あまりの衝撃に、視界が真っ白に染まった。
前回、ジェイド王子から魔力を吸った時とは、比べものにならない。身体が内側から作り替えられるような、圧倒的な魔力の流れだった。
身体が熱い。
気を抜けば、魔力の流れに意識ごと奪われて、このまま気絶してしまいそうだった。
セラは、必死に、ジェイド王子の腕をつかみ、ひたすら耐えた。
ジェイド王子の身体から、漆黒の霧が急速に剥ぎ取られていく。
「え……?」
セラの目の前で、信じられないことが起きた。
ジェイド王子の灰緑色の頑強なオークの皮膚が、瞬く間に滑らかな、抜けるように白い肌へと変貌していく。口元から突き出ていた不気味な牙は消え失せ、引き締まった薄い唇が現れた。衣服を引き裂いていた巨躯は、均整の取れた、高貴で強靭な男の体格へと変化してゆく。
乱れた髪は、月光を浴びて妖しく輝く、美しい白銀の糸へと変わっていた。
セラの目の前にいたのは、魔獣オークなどではなかった。
整った輪郭。切れ長の、知性を湛えた深い青の瞳。
神話の神々さえも嫉妬すると称された、絶世の美貌を持った第一王子ジェイドの本来の姿が、そこにあった。
息を呑むセラと、呆然とセラを見つめる彼の視線が、至近距離で交錯する。
ほんの数秒の出来事だった。
彼の身体の奥から、再び頑強な呪いの気配が鎌首をもたげ、その美しい容貌をじわじわと灰緑色の皮膚で覆い隠していく。
あっという間に、ジェイド王子の姿は、元の魔獣の姿へと戻っていった。
だが、赤くなった彼の瞳からは狂気が完全に消え去っていた。
黒い魔力の霧も、消えている。
「セラ嬢……?」
「殿下」
セラは、今見た、奇跡のような出来事を、決して自分の家に知られてはいけないと感じた。これは、おそらく、ローゼンタール家の思惑とは異なる結果だ。
ローゼンタール家は、第二王子派。
第一王子が呪いから解放される兆しを、喜ぶはずがない。
舞踏会の会場を離れ、馬車を飛ばし、セラとジェイドは白亜宮へと戻った。 不穏な瘴気の影響がある会場から離れさえすれば、呪いの魔力の嵐も去り、ジェイドの苦しみも少しは落ち着くだろうとセラは考えていた。 しかし、馬車が白亜宮の門をくぐった瞬間に、ジェイドが再び苦しみはじめる。「っ……、く……っ!」「ジェイド……⁉ しっかり、ジェイド!」 ジェイドの喉から苦しげな声が漏れ出た。 セラが必死で両腕を回し、呪いの魔力を引き受けても、ジェイドの身体は苦しみに苛まれ続けている。ほんのわずかでも、セラが集中力を途切れさせると、彼の身体の一部が、魔獣の肉体へと歪に膨れ上がろうとするようだった。 痛みがあるのか、ジェイドの顔はひどく青ざめ、額には汗が滲み出ていた。 セラに触れるジェイドの手が、小刻みに震えている。 どうして……。 舞踏会の会場を離れたのに……。 セラはジェイドの首筋に顔を埋め、彼の身体から溢れ出す瘴気を必死に吸い上げながら、神経を研ぎ澄ませた。 そして、ハッと息を呑む。 ここにも——白亜宮にも、舞踏会の会場で感じたものと同じ、外側からの妙な気配が満ちていた。 セラは、ジェイドを支えながら、ジェイドの部屋へともどった。 レオンもジェイドをささえて一緒に移動しながら、瘴気にあてられないよう、使用人たちを遠ざけさせる。 そうしながらも、セラは外側の魔力の気配をたどった。 瘴気を自分の中に引き寄せるとき、ふれたかす
カイル王子とのダンスの最中、セラはふとステップを踏みながら不穏な気配を感じ取った。 なにかしら……。 ステップを踏むたび、かすかな違和感が腕や足の皮膚を掠める。 魔力の感触だ。 しかも、これまでに何度も触れてきたものと似た気配。 セラはダンスを続けながら、第一王子専用の観覧席へと視線を向けた。 ……えっ? カイル王子と踊り始める前には、会場を見下ろすように広く開かれていたはずの豪華なベルベットの幕が、今は重々しく降ろされていた。ジェイドの姿は見えない。 胸騒ぎ。 お股がかゆくなってから黙り込んでしまったカイル王子から意識を切り替えて、セラは己の皮膚を掠めていく微小な魔力に集中した。 広い大広間には、無数の貴族たちが持つ複雑な魔力の流れが渦巻いている。魔力の高い人間であれば、その気配のようなものを自然と周囲に撒き散らしてしまうこともあるのかもしれない。 集中しようとするほど、会場に満ちる過剰な情報を集めてしまう。 目的の気配が霞む。 不意に、右腕の表面にツンと不快な気配が当たった。 セラはその瞬間を逃さず、魔力を吸い寄せるように己の内側へと引き込んだ。 身体に取り込んで、確信する。 これは、あのローゼンタール家の暗く冷たい地下室で触れたものと、完全に同質のものだ。つまり、ジェイドの身体の内側からあふれ出し、彼を苦しめ続けているあの呪い——瘴気そのものだった。 どうして……ここに、あの瘴気が……?
「これは失礼。あなたの気を悪くするつもりはありませんでした」 真っ直ぐな瞳に射抜かれた衝撃を誤魔化すように、カイルはそう言い、取り繕った。 社交界の駆け引きであれば、ここから互いの腹を探り合い、皮肉や笑みで装飾された言葉の応酬が始まるはずだった。 だが、目の前の女——セラは、ふっと肩を落とし、分かりやすくしゅんとした顔を浮かべた。「いいえ、気を悪くしたりなどしていません……」 まるで小動物が身を縮めるかのような態度。 カイルは、己の表情や感情を隠すという淑女としての基本すらできていないこの不器用な女に、言い知れぬいらつきを覚え始めた。 あまりにも無防備で、あまりにも素直すぎる。「ローゼンタール家のご令嬢という肩書だけで言えば、あなたは兄上の婚約者にふさわしいでしょうね」 カイルは意図的に冷ややかな声で、容赦のない言葉を投げつけた。「ですが……あなたを見ていると、どうも、兄上の婚約者としてふさわしい女性には見えない」 どれほど純粋を装っていようと、誇りを傷つけられれば感情を露わにするか、せめて反論くらいはしてくるだろう。カイルはそう踏んでいた。「……わたしも、そう……思います……」 最後は消え入るような声でそう零したセラの反応に、カイルはほとほといらだった。 言い返しもしないのか……。 嫌そうな顔も、憤る顔も、憎々しげな視線すら寄せてこない。ただ己の無力さや未熟さに耐えるように、俯いているだけ。
観覧席からフロアへと続く階段を降りながら、カイルは隣を歩く華奢な女の姿を、冷ややかな視線で観察していた。 結い上げられた髪は丁寧に整えられ、細く白い首筋を美しく際立たせている。確かに、整った顔立ちをした美人ではある。だが、立ち振る舞いや全体の雰囲気にはどこか幼さが残っていて、社交界の練達者の中では、どうも見劣りする。 兄上はずいぶんとこの女を気に入っているようだったが、一体どこにそこまでの価値を見出しているのか……。 カイルには皆目見当がつかなかった。 美人など、この会場を見渡せばいくらでも転がっている。 しかも、隣を静かに歩いている女——セラは、カイルに対して愛想笑いの一つすら見せない。お世辞を口にするわけでもなく、ただ差し出された腕に手を添え、連れられるままに無言で歩いているだけだった。 高飛車な女か? 一体、どういった手練手管を使って、あの抜け目のない兄上に取り入ったのだろうか。 ドレスに視線を滑らせてみても、その疑問は深まるばかりだった。 セラの纏っている衣装は、かなり保守的で、慎み深い仕立てだ。 いまどき、社交界で咲き誇る花々のごとき令嬢たちは、誰もが競い合うように胸元や肩を露出し、煌びやかな装飾で己を魅惑的に飾り立てている。それなのに、隣でだんまりと歩いている女は、お堅い教育係ですら今どきこれほど肌を隠さないのではないかと思えるほど、地味な形状のドレスを選んでいた。高級な布地が使われ、意匠が洗練されているから、見苦しくはないものの、この華やぎを競う会場においては異質なほど質素に見える。 婚約者であるオディールの姿が脳裏をよぎる。 オディールは自分の容姿にも、淑女としての立ち振る舞いにも過剰なほどの自信を持っている女だ。社交界では手慣
夢のような一曲を踊り終え、鳴り止まない拍手に包まれながら、セラはジェイドの手をしっかりと握ったまま、大広間の一角にある階段へと導かれていった。 案内されたのは、貴族たちが集うフロアからは一段高く作られた、王族専用の観覧席だった。 重厚なベルベットの垂れ幕でいくつかに仕切られたその空間は、会場全体を一望できる特別な場所だった。中央に位置し、金糸の刺繍が施された豪華な垂れ幕がかけられているのが国王夫妻のための席で、その両脇に、第一王子と第二王子のための席がそれぞれ設けられていた。 ふかふかのソファに腰を下ろすと、先ほどまでの熱気が嘘のようで、セラはそっと息を吐き出した。手首に結ばれたダンスカードを見つめると、びっしりと名前が並んでいる。 休む間もなく、このまま次の曲もずっと踊り続けなくちゃいけないのかしら……。 先ほどの興奮が冷めるにつれ、あまりの運動量と緊張に身体がもつかどうかの不安が、じわじわと押し寄せる。ダンスカードを見つめたまま身構えていると、隣に座ったジェイドがセラの緊張を察したように優しく微笑んだ。「大丈夫だよ、セラ。そんなに緊張しなくても。それにしばらくは休憩だ。それぞれの曲の間には、しっかりと時間が設けられているからね」「そうなんですか……?」「ああ。そうしないと、広い会場の中で次に踊る相手を見つけ出すことも、挨拶を交わすこともできない」「そっか……そうですよね。それを聞いて、安心しました」 ほっと胸を撫で下ろしたものの、それでもやはり、手首で揺れるカードに刻まれた名前の多さを思うと、これから始まる長丁場への不安はぬぐえない。 ジェイドがセラの手首にそっと触れる。結びつけられた小さなダンス
オディールとカイル王子が去ったあとは、セラのもとに次々と、第一王子派に属する貴族たちが近づいてきては、挨拶を交わす。 会場の雰囲気や、お菓子と飲み物を堪能する暇もなく過ごしていると、やがて、会場の雰囲気が一変した。 鳴り響く音楽がぐっと大きくなり、天井でかがやくシャンデリア以外のいくつかの灯りがすっと落とされていく。窓の向こうの昼光は分厚い幕で覆い隠され、大広間の中央だけに、息をのむほど強い光が集められた。 シャンデリアのクリスタルが光を複雑に乱反射させ、まるで星屑を散りばめたような眩い空間が立ち現れる。「セラ様、あちらへ」 リタにそっと手を引かれ、セラは中央の開けた場所へと導かれた。 大勢の淑女や紳士たちが輪を描くように周囲を囲み、中央に視線を注いでいる。その輪の中心には、第一王子ジェイドと、第二王子カイルが立っていた。 カイルの隣に寄り添うオディールが、セラに向けて、刺すような冷たい視線を一瞬投げかけてきた。 セラはリタの手を離し、ゆっくりとジェイドのもとへ進み出た。 互いに歩み寄り、至近距離で対峙する。ジェイドの青い瞳が、セラを柔らかく包み込んだ。「セラ、今日のきみは、本当にきれいだ」 さっきまでの不安も、そのひとことで吹き飛ぶ。 セラはまっすぐにジェイドを見上げ、思ったことをそのまま言った。「ジェイド、とっても、かっこいいです。わたしが物語のなかで想像した素敵な王子様が、そのままここにいるみたいです」 ジェイドの唇が、綻んだ。 彼はうやうやしくセラに向かって礼をつくし、セラの手をそっと救い上げた。そして、セラの指背へ、唇を静かに寄せる。 音楽が変わった。