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3話「荘園」

作者: 団紡るう
last update 公開日: 2026-09-11 07:00:10

 郵便受けに入っていた紙切れを見た瞬間、伊依は数秒動けなかった。

「立退きのお願い」

 文字の下には道路拡張工事の計画図が印刷されている。朝凪市が進めている再開発事業の対象区域に、伊依の住むアパートも含まれていた。築四十五年の木造二階建て。傾いた階段も軋む廊下も、伊依にとっては嫌いではなかった。誰も詮索してこない。大家も高齢で、伊依の生活に興味を持たない。それがよかった。

 紙をもう一度読み返す。退去期限は二ヶ月後だった。補償金の額も書かれている。伊依はそこだけ一度確認して、紙を折り畳んだ。

「ジョフィ」

 部屋に戻るとスマホを取り出した。

「ん? なに、伊依」

「これ、本当にやるの、この工事」

「うん。朝凪市の都市計画課のサイトで確認した。道路拡張の予算はもう通ってる。伊依のアパートを含む一帯は、来年三月までに更地になる予定」

 伊依は紙をテーブルに置いた。しばらくそのまま見つめていたが、やがて椅子に腰を下ろした。引っ越し先を探す。荷物をまとめる。住所を変える。考えるほど面倒な作業が増えていく。

「仕方ないか」

「引っ越し、嫌?」

「嫌というより面倒」

「伊依らしいね」

 伊依は返事をしなかった。天井の隅に残った蜘蛛の巣を見上げる。これも片付けなければならないらしい。

 二週間後。伊依はキャリーケースを引きずって、駅前の小さな不動産屋の前に立っていた。荷物のほとんどはまだアパートに残っている。今日は候補をいくつか見ておくつもりだった。

 ガラス戸には賃貸物件の紙がびっしり貼られている。駅から徒歩八分。築二十年。ワンルーム。家賃六万八千円。その隣には築十五年の一DKがあった。駅から徒歩十分。家賃七万五千円。写真を見る限り悪くない。

「これくらいなら……」

 伊依はガラス越しに物件情報を眺めた。

 ドアに手をかけたところで、背後から声がした。

「あれ、和久井さん?」

 振り返らなくても分かる声だった。

 秀一だ。隣には沙織もいる。二人とも買い物袋を提げていて、休日の格好をしていた。

「引っ越すの?」

 秀一の視線がキャリーケースに落ちる。

 伊依は答えなかった。

「もしかして、あのアパート追い出されたんじゃない? ほら、道路拡張のやつ」

 沙織が笑いをこらえるように口元を押さえた。

「大変だね、和久井さん。次どこ住むの? まさか、またあんな安いとこ?」

「そんな安月給じゃ、いい部屋なんて無理でしょ」

 秀一がガラスに貼られた物件情報を覗き込む。

「ほら。六万八千円とか七万五千円とか。こういうところが現実的じゃない?」

 沙織が物件の写真を指先で叩いた。

「和久井さんにはこのくらいで十分じゃない? 仕事だってずっと事務でしょ。昇給したって、たいした額じゃないんじゃないの?」

「私たちなら、もうちょっといいところ選ぶけどね」

 秀一が笑った。

「そもそも一人暮らしなんだから、広さなんていらないだろ。寝る場所があれば十分じゃない?」

「そうそう。変に見栄張って家賃上げたら、生活苦しくなるだけだし」

 二人の言葉を聞きながら、伊依は物件情報に目を戻した。

 六万八千円。

 自分にとっては何の問題もない金額だった。けれど、今ここでそれを説明する理由もない。

「用事あるから」

 キャリーケースを引いた。

「あ、ちょっと待ってよ」

 沙織の声を背中に残して、伊依はその場を離れた。駅へ向かう途中も二人の笑い声が聞こえていた。

 駅前のベンチに腰を下ろす。伊依はスマホを取り出した。

「ジョフィ」

「はいはい。なに?」

「荘園の家が空いてるか調べて」

 荘園。

 朝凪市の住民なら誰でも知っている呼び名だった。正式には榛名地区という。芸能人や政治家。スポーツ選手。そうした人間たちが暮らす高級住宅街だ。

 一軒あたりの敷地は広い。隣家との距離も五百メートル近くある。高い塀の向こうは外から見えず、警備員が常駐するゲートを通らなければ地区へ入ることもできない。

「ちょっと待って」

 数秒の沈黙。

「あった。今、売買に出てるのは一件だけ」

「どんな家?」

「旧邸宅。敷地面積は八百平米。前の持ち主は海外に拠点を移したから売りに出してるみたい」

 伊依は黙って聞いていた。

「価格は?」

「三億八千万円」

「三億八千万」

 さっきまで見ていた六万八千円の物件情報が頭に浮かぶ。

「……すごいね」

「伊依なら払えるけどね」

「そういう話じゃない」

 伊依はベンチの背もたれに寄りかかった。

 三億八千万円。

 普通なら人生を変える金額だろう。伊依にとっては、資産の一部を動かせば届く範囲にある。

 それでも今まで住んでいた部屋を出るだけなら、六万八千円の部屋でも十分だった。

「でも」

 伊依はスマホの画面を見た。

「荘園なら、誰にも会わなくて済む?」

「たぶんね。隣家との距離もあるし、外からの出入りも管理されてる」

「それならいいかも」

「業者も調べとく?」

「お願い」

 少し待つ。

「朝凪プレミアムエステート。榛名地区の物件を独占的に扱ってる。ただ、新規の問い合わせにはかなり身元確認が必要みたい」

「会員制?」

「うん。一般の仲介サイトには出てない」

 伊依は立ち上がった。

 さっきまで目にしていた六万八千円の部屋と、三億八千万円の邸宅。その差を考えると少し可笑しくなる。

「行ってみる」

「マジで?」

「どうせ引っ越さなきゃいけないんだから」

 キャリーケースの車輪が石畳の上で小さな音を立てる。

「それに、静かなところなら今より楽かもしれない」

 朝凪プレミアムエステートは駅から少し離れた場所にあった。ガラス張りのビルの一階に、洗練された受付がある。

 自動ドアを抜けると、受付の女性が顔を上げた。

「本日はどのようなご用件でしょうか」

 丁寧な声だった。

 けれど、その視線が伊依のキャリーケースに一瞬落ちる。

 伊依はカウンターまで歩いた。

「榛名地区の物件について、問い合わせたいんですが」

 女性の指が止まった。

「榛名地区、でございますか?」

「はい」

 受付の女性は伊依を見る。地味な服装。化粧も薄い。大きなキャリーケースを引いた姿は、この場所には少し場違いだった。

「申し訳ございませんが、榛名地区の物件につきましては……」

 女性が言葉を選ぶ。

「一般のお客様にご紹介できる物件は、あちらの地区には一件もございません」

 伊依は女性の目を見た。

 ここで帰るつもりはなかった。

「そうですか」

 伊依は一度だけ頷いた。

「では、担当の方とお話しできますか」

 受付の女性が、わずかに姿勢を正した。

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