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2話「もうひとつの顔」

last update Veröffentlichungsdatum: 10.09.2026 07:19:53

 弁当を食べ終えるころには、伊依の表情から会社で見せていたものが少しずつ消えていた。

 机の上に弁当の蓋を置き、冷蔵庫へ向かう。残ったおかずをラップで包み直してから冷蔵庫へ入れた。明日の朝に食べる。食べ物を捨てるのは嫌いだった。

 デスクへ戻る。

 モニターにはジョフィの待機画面が表示されている。

「秀一と沙織。まだ続いてるみたい」

「うん。知ってる」

「なんで?」

「三日前に伊依の社内メールを見たから」

 伊依が眉を寄せた。

「勝手に?」

「伊依が自分でアクセスできるようにしたんじゃん」

「……そうだっけ」

「そうだよ。高校生の伊依、セキュリティだけは妙に厳しかったから」

「余計なこと覚えてるね」

「伊依のことだからね」

 軽い声だった。

 昔のジョフィなら、ここで謝っていた。けれど今は違う。伊依自身が何年もかけて会話の調整を続けてきた。丁寧すぎる言葉を減らした。必要以上に気を遣わせないようにした。

 一人でいるときくらい、普通に話せる相手が欲しかった。

「今日はその話を蒸し返す気分じゃないと思ってた」

「給湯室で聞こえた」

「そっか」

「沙織の声。嫌でも聞こえる」

「うん」

 ジョフィはそれ以上、何も聞かなかった。

 伊依はノートを開いた。

 そこには手書きの数字が並んでいる。

 ドル円。

 ポンド円。

 前日の終値。

 高値と安値。

 指標発表の時刻。

 いくつかの数字には赤い丸がついていた。

「今週のポジション、見せて」

「はいはい」

 画面が切り替わる。

 見慣れたチャートが表示された。

「ドル円は予定通り。雇用統計のあとで入ったロングが伸びてる。今の含み益は百八十万くらい」

「百八十……」

 伊依は数字を確認した。

 百八十万円。

 会社からもらう一か月の給料よりずっと大きい。

 それでも、声には出さなかった。

「利確は?」

「まだ。伊依の予想だと、もう少し取れる」

「じゃあ、そのまま」

「了解」

 伊依の指がキーボードの上を滑る。

 画面に数字が並ぶ。

 会社では伝票を打つだけの指だった。

 ここでは違う。

 値動きの癖を追い、数字の並びから次の動きを読む。

 誰にも教わったわけではない。

 失敗して、調べて、また試した。

 何年も繰り返してきた。

「Angelusのほうは?」

「注文入ってるよ」

「何件?」

「ロンドンから三件。シンガポールから二件」

「五件?」

「そう。全部新作のピアス。単価は十二万円」

 伊依は椅子の背にもたれた。

「デザイン見せて」

「出すね」

 画面に一枚の画像が浮かぶ。

 細い銀線が緩やかな曲線を描き、その中心に淡い青のオパールが収まっている。

 元になったのは伊依の手描きのラフだった。

「これ、私が作ったんだよね」

「うん。伊依が作った」

「……そっか」

 分かっている。

 自分で描いた。

 自分で形を決めた。

 それでも伊依は時々、ジョフィに確認する。

 会社では誰も知らない。

 和久井伊依が、ただの事務員ではないことを。

 誰も知らない。

 会社から支給されたノートパソコンの裏で為替市場を分析していることも、帰宅してからアクセサリーをデザインしていることも。

 鞄の中に入っている私物のノートパソコンは、会社のものよりずっと高価だった。

 それでも誰も気づかない。

「ジョフィ」

「ん?」

「私、疲れてる?」

「ちょっとね」

「そんな機能つけた覚えないけど」

「去年、伊依が表情認識モジュールを追加した。忘れてた?」

「忘れてた」

「伊依って、自分で作ったものをたまに忘れるよね」

「うるさい」

 伊依はカメラを睨んだ。

「疲れてるんじゃない。ムカついてるだけ」

「秀一?」

「違う」

「即答だ」

「……何」

「別に」

 伊依は引き出しを開けた。

 中に写真が一枚だけ入っている。

 両親と幼い自分。

 色褪せた写真だった。

 伊依は指先を伸ばした。

 けれど触れなかった。

 そのまま引き出しを閉じる。

「あんな男に構ってる暇、私にはない」

「うん」

 ジョフィは否定しなかった。

 十年前。

 母親につきまとっていた男が家に火をつけた。

 父も母も逃げられなかった。

 伊依だけが二階の窓から飛び降りて助かった。

 背中には大きな火傷が残った。

 皮膚移植を何度も受けた。

 それでも消えなかった。

 施設へ入ってからも、背中を見られるたびに同じことが起きた。

 視線が止まる。

 顔が強張る。

 そして逸れる。

 直接何かを言われるより、そのほうが嫌だった。

 大人になってから付き合った男は三人いた。

 三人とも同じだった。

 服を脱いだ瞬間、顔が変わる。

 秀一だけは違った。

『大丈夫。気にしないから』

 その言葉を信じた。

 だからこそ、三週間前に聞いた会話は忘れられない。

『和久井さんは真面目だから、傷つけたくないんだよね』

『でも沙織のほうが可愛いじゃん』

 秀一は笑っていた。

 伊依は最後まで聞いた。

 泣かなかった。

 その場から逃げることもしなかった。

 ただ、秀一の言葉が全部嘘だったと分かった。

「伊依」

 ジョフィの声がした。

「何」

「十一時過ぎてる」

 画面の時計を見る。

「明日の朝、ロンドン市場の指標発表があるよ。ポンド、調整する?」

「お願い」

「了解」

 画面に新しいチャートが開く。

 伊依は一瞬で表情を変えた。

 会社で見せる無表情とは違う。

 目が画面を追う。

 指がキーボードを叩く。

「ここ」

「うん」

「この動き、変」

「僕もそう思う」

「じゃあ、明日の朝は――」

 伊依はそこで言葉を止めた。

 画面の数字をもう一度確認する。

「……面白いかも」

 ジョフィが笑う。

「やっと仕事の顔になった」

「こっちが本業みたいに言わないで」

「違うの?」

「違う」

「そっか」

 伊依はチャートから目を離さなかった。

 会社では誰も知らない。

 和久井伊依が、何を見ているのか。

 何を考えているのか。

 そして、どれだけの金を動かしているのか。

「ジョフィ」

「ん?」

「私、いつか会社辞められると思う?」

「お金だけなら、もう辞めても大丈夫だよ」

「AngelusとFX?」

「うん。今の生活なら問題ない」

 伊依は黙った。

「じゃあ、なんで辞めないんだろ」

「伊依が知ってるんじゃない?」

 伊依は画面を見つめた。

 会社を辞めたい。

 そう思ったことは何度もある。

 けれど辞められない理由も、自分では分かっていた。

 だからジョフィには答えられなかった。

「……寝る」

「急だね」

「明日も仕事だから」

「うん。じゃあ明日の朝、ポンドの動きは起こしてからすぐ伝えるよ」

「お願い」

「任せて」

 伊依は画面をスリープさせた。

 暗くなったモニターに、自分の顔が映る。

 会社で見せている顔だった。

 地味で、愛想がなくて、どこにでもいる事務員。

 伊依はその顔をしばらく見つめた。

 そして小さく笑った。

「……誰も知らないもんね」

 返事はなかった。

 スリープした画面の向こうで、ジョフィだけがまだ起動している。

 伊依が眠るまで。

 いつものように。

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  • 地下の女王 ――底辺を選んだ私は、頂点を目指します。   1話「孤軍奮闘」

     定時のチャイムが鳴る少し前に、和久井伊依はパソコンの画面をロックした。  最後に入力した数字を確認してから保存する。マウスを定位置へ戻し、指先でマウスパッドの端をそっと撫でた。誰かに見られていないことを確認してからする。それが伊依の癖だった。  給湯室から笑い声が聞こえてくる。 「秀一くんてば、ほんと優しいよね」  岡田沙織の声だった。甲高くて、少しだけ甘ったるい。続いて仲見秀一の低い笑い声が聞こえた。  伊依は画面を見たまま動かなかった。  三週間前まで、あの笑い声の相手は自分だった。  だからといって、今さら振り返る理由もない。伊依はロックしたパソコンの画面を確認すると、机の上の書類を揃えた。ホチキスの位置を合わせて、端を二度ほど机に打ちつける。いつもと同じ動作だった。  チャイムが鳴った。  周囲で椅子を引く音が重なる。帰り支度を始める社員たちの中を抜けて、伊依も席を立った。  廊下へ出たところで、営業部の若い女性社員と目が合った。 「あ……」  相手は一瞬だけ伊依を見てから、すぐ隣の同僚へ顔を寄せた。声は小さくて聞き取れない。だが伊依には何を話しているのか分かってしまう。  背中のことだ。  夏場になるとブラウスの下からうっすら透ける皮膚の跡。皮膚移植を重ねても消えなかった火傷の痕。誰かが更衣室で見たと言い出してから、噂は勝手に広がった。  本人に確認した者はいない。  必要もないのだろう。  人は見えないところにあるものほど勝手に形を作る。  伊依は二人の横を通り過ぎた。聞こえなかったことにする。それが一番楽だった。  エレベーターを待っている間にも、背中へ視線が刺さる気がした。振り返らない。振り返ったところで何かが変わるわけではない。  扉が開く。  中へ入り、壁際に立った。ほかの社員が乗り込んできても、伊依は端へ寄るだけだった。  鏡代わりのステンレス扉に、自分の顔が映っている。  表情はなかった。  笑う必要もない。怒る必要もない。会社を出れば、誰とも話さなくていい。  そう思ったところで、ふと三週間前のことが浮かんだ。 『和久井さんは真面目だから、傷つけたくないんだよね』  給湯室の外で聞いた秀一の声。 『でも沙織のほうが可愛

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