ANMELDEN弁当を食べ終えるころには、伊依の表情から会社で見せていたものが少しずつ消えていた。
机の上に弁当の蓋を置き、冷蔵庫へ向かう。残ったおかずをラップで包み直してから冷蔵庫へ入れた。明日の朝に食べる。食べ物を捨てるのは嫌いだった。 デスクへ戻る。 モニターにはジョフィの待機画面が表示されている。 「秀一と沙織。まだ続いてるみたい」 「うん。知ってる」 「なんで?」 「三日前に伊依の社内メールを見たから」 伊依が眉を寄せた。 「勝手に?」 「伊依が自分でアクセスできるようにしたんじゃん」 「……そうだっけ」 「そうだよ。高校生の伊依、セキュリティだけは妙に厳しかったから」 「余計なこと覚えてるね」 「伊依のことだからね」 軽い声だった。 昔のジョフィなら、ここで謝っていた。けれど今は違う。伊依自身が何年もかけて会話の調整を続けてきた。丁寧すぎる言葉を減らした。必要以上に気を遣わせないようにした。 一人でいるときくらい、普通に話せる相手が欲しかった。 「今日はその話を蒸し返す気分じゃないと思ってた」 「給湯室で聞こえた」 「そっか」 「沙織の声。嫌でも聞こえる」 「うん」 ジョフィはそれ以上、何も聞かなかった。 伊依はノートを開いた。 そこには手書きの数字が並んでいる。 ドル円。 ポンド円。 前日の終値。 高値と安値。 指標発表の時刻。 いくつかの数字には赤い丸がついていた。 「今週のポジション、見せて」 「はいはい」 画面が切り替わる。 見慣れたチャートが表示された。 「ドル円は予定通り。雇用統計のあとで入ったロングが伸びてる。今の含み益は百八十万くらい」 「百八十……」 伊依は数字を確認した。 百八十万円。 会社からもらう一か月の給料よりずっと大きい。 それでも、声には出さなかった。 「利確は?」 「まだ。伊依の予想だと、もう少し取れる」 「じゃあ、そのまま」 「了解」 伊依の指がキーボードの上を滑る。 画面に数字が並ぶ。 会社では伝票を打つだけの指だった。 ここでは違う。 値動きの癖を追い、数字の並びから次の動きを読む。 誰にも教わったわけではない。 失敗して、調べて、また試した。 何年も繰り返してきた。 「Angelusのほうは?」 「注文入ってるよ」 「何件?」 「ロンドンから三件。シンガポールから二件」 「五件?」 「そう。全部新作のピアス。単価は十二万円」 伊依は椅子の背にもたれた。 「デザイン見せて」 「出すね」 画面に一枚の画像が浮かぶ。 細い銀線が緩やかな曲線を描き、その中心に淡い青のオパールが収まっている。 元になったのは伊依の手描きのラフだった。 「これ、私が作ったんだよね」 「うん。伊依が作った」 「……そっか」 分かっている。 自分で描いた。 自分で形を決めた。 それでも伊依は時々、ジョフィに確認する。 会社では誰も知らない。 和久井伊依が、ただの事務員ではないことを。 誰も知らない。 会社から支給されたノートパソコンの裏で為替市場を分析していることも、帰宅してからアクセサリーをデザインしていることも。 鞄の中に入っている私物のノートパソコンは、会社のものよりずっと高価だった。 それでも誰も気づかない。 「ジョフィ」 「ん?」 「私、疲れてる?」 「ちょっとね」 「そんな機能つけた覚えないけど」 「去年、伊依が表情認識モジュールを追加した。忘れてた?」 「忘れてた」 「伊依って、自分で作ったものをたまに忘れるよね」 「うるさい」 伊依はカメラを睨んだ。 「疲れてるんじゃない。ムカついてるだけ」 「秀一?」 「違う」 「即答だ」 「……何」 「別に」 伊依は引き出しを開けた。 中に写真が一枚だけ入っている。 両親と幼い自分。 色褪せた写真だった。 伊依は指先を伸ばした。 けれど触れなかった。 そのまま引き出しを閉じる。 「あんな男に構ってる暇、私にはない」 「うん」 ジョフィは否定しなかった。 十年前。 母親につきまとっていた男が家に火をつけた。 父も母も逃げられなかった。 伊依だけが二階の窓から飛び降りて助かった。 背中には大きな火傷が残った。 皮膚移植を何度も受けた。 それでも消えなかった。 施設へ入ってからも、背中を見られるたびに同じことが起きた。 視線が止まる。 顔が強張る。 そして逸れる。 直接何かを言われるより、そのほうが嫌だった。 大人になってから付き合った男は三人いた。 三人とも同じだった。 服を脱いだ瞬間、顔が変わる。 秀一だけは違った。 『大丈夫。気にしないから』 その言葉を信じた。 だからこそ、三週間前に聞いた会話は忘れられない。 『和久井さんは真面目だから、傷つけたくないんだよね』 『でも沙織のほうが可愛いじゃん』 秀一は笑っていた。 伊依は最後まで聞いた。 泣かなかった。 その場から逃げることもしなかった。 ただ、秀一の言葉が全部嘘だったと分かった。 「伊依」 ジョフィの声がした。 「何」 「十一時過ぎてる」 画面の時計を見る。 「明日の朝、ロンドン市場の指標発表があるよ。ポンド、調整する?」 「お願い」 「了解」 画面に新しいチャートが開く。 伊依は一瞬で表情を変えた。 会社で見せる無表情とは違う。 目が画面を追う。 指がキーボードを叩く。 「ここ」 「うん」 「この動き、変」 「僕もそう思う」 「じゃあ、明日の朝は――」 伊依はそこで言葉を止めた。 画面の数字をもう一度確認する。 「……面白いかも」 ジョフィが笑う。 「やっと仕事の顔になった」 「こっちが本業みたいに言わないで」 「違うの?」 「違う」 「そっか」 伊依はチャートから目を離さなかった。 会社では誰も知らない。 和久井伊依が、何を見ているのか。 何を考えているのか。 そして、どれだけの金を動かしているのか。 「ジョフィ」 「ん?」 「私、いつか会社辞められると思う?」 「お金だけなら、もう辞めても大丈夫だよ」 「AngelusとFX?」 「うん。今の生活なら問題ない」 伊依は黙った。 「じゃあ、なんで辞めないんだろ」 「伊依が知ってるんじゃない?」 伊依は画面を見つめた。 会社を辞めたい。 そう思ったことは何度もある。 けれど辞められない理由も、自分では分かっていた。 だからジョフィには答えられなかった。 「……寝る」 「急だね」 「明日も仕事だから」 「うん。じゃあ明日の朝、ポンドの動きは起こしてからすぐ伝えるよ」 「お願い」 「任せて」 伊依は画面をスリープさせた。 暗くなったモニターに、自分の顔が映る。 会社で見せている顔だった。 地味で、愛想がなくて、どこにでもいる事務員。 伊依はその顔をしばらく見つめた。 そして小さく笑った。 「……誰も知らないもんね」 返事はなかった。 スリープした画面の向こうで、ジョフィだけがまだ起動している。 伊依が眠るまで。 いつものように。翌朝、伊依が自分のデスクでファイルを整理していると、秀一と沙織が連れ立ってやってきた。二人とも笑いを堪えきれない顔をしている。 「よぉ、伊依」 秀一がデスクに片肘をついた。距離が近い。伊依は身体を少し引いたが、椅子の位置は変えなかった。 「引っ越し先、決まったのか?」 「決まった」 短く答える。沙織が横から覗き込むように顔を寄せた。 「どこですかぁ? やっぱり駅から遠い方?」 伊依は少し間を置いてから、用意していた地名を口にした。ダミーの住所。榛名地区のすぐ外側にある、古い住宅が密集した一帯だった。実際には誰も住んでいない、書類上だけの隠れ蓑だ。 「小坂町の方」 沙織の眉がぴくりと動いた。すぐに口元がにやけていく。 「えーっ、あそこって」 沙織は秀一と顔を見合わせた。 「低所得者の治安悪いとこじゃないですかぁ〜」 語尾を伸ばして、わざとらしく心配するような口調を作る。伊依は表情を変えなかった。 「大丈夫なんですかあ〜? 女の一人暮らしで」 「まあ、あの辺り値段が安いから」 秀一がファイルの束を指先で軽く叩きながら続けた。 「伊依なら妥当だろ」 妥当。 その一言が耳の奥に残る。伊依は黙って書類の角を揃えた。 「荘園が近いから、僻むやつばっかり住んでるとこですよね〜」 沙織が笑いながら言う。 「私だったら、あんなところ絶対嫌だなぁ。友達呼ぶのも恥ずかしいし」 「俺も無理。せっかく働いてるんだから、もう少しマシなところに住みたいわ」 秀一が肩をすくめる。 「まあ和久井さんは友達いないから平気か」 沙織がまた笑った。二人分の笑い声が、周囲のデスクにも小さく響く。近くの席にいた社員が一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らした。 伊依は二人を見た。 バカ1号。秀一。 バカ2号。沙織。 心の中でそう分類してから、何事もなかったように視線を書類へ戻す。わざわざ訂正するほどのことでもない。 「用事あるから」 伊依は椅子を引いて立ち上が
朝凪プレミアムエステートは、駅から少し離れた場所にあった。ガラス張りのビルの一階。入口を抜けると、静かな空間に受付カウンターが見える。伊依はキャリーケースを引いたまま中へ入った。 受付に座っていた女性が顔を上げる。 「本日はどのようなご用件で」 丁寧な声だった。ただ、視線が一度だけ伊依の服装へ落ちた。地味なブラウス。いつもの鞄。キャリーケース。自分でも、この場所には似合っていないと思う。 「榛名地区の物件について問い合わせたいんですが」 女性の表情がわずかに硬くなった。 「申し訳ございません。あちらの地区の物件につきましては、一般のお客様へのご紹介を――」 奥から男性が出てきた。四十代くらいだろう。整えられたスーツに担当マネージャーの名札がついている。男は伊依を見て、それからキャリーケースを見る。 「申し訳ございませんが」 女性よりもはっきりした声だった。 「一般のお客様にご紹介できる物件は、あちらの地区には一件もございません」 予想していた。キャリーケースの持ち手を握る指に、わずかに力がこもる。 伊依は男の目を見た。 「YORです」 一言だけ告げる。 男の表情が止まった。 「……YOR様?」 「はい」 男はすぐには動かなかった。驚いたというより、確認する必要があるのだろう。受付の女性も戸惑ったように伊依を見る。 「失礼ですが、ご本人であることを確認させていただいてもよろしいでしょうか」 「どうすればいいですか?」 男は胸ポケットから端末を取り出した。 「こちらに登録されている認証情報と照合いたします」 伊依はスマホを取り出した。専用の認証画面を開いて差し出す。男は画面を確認すると、自分の端末を操作した。数秒後、小さく息を呑む。 「……確認が取れました」 それまで伊依を測るように見ていた目が変わった。 男は端末をしまい、深く頭を下げる。 「YOR様……! 大変失礼いたしました。すぐにご案内いたします」 受付の女性が目を見開いている。 伊依はそ
郵便受けに入っていた紙切れを見た瞬間、伊依は数秒動けなかった。 「立退きのお願い」 文字の下には道路拡張工事の計画図が印刷されている。朝凪市が進めている再開発事業の対象区域に、伊依の住むアパートも含まれていた。築四十五年の木造二階建て。傾いた階段も軋む廊下も、伊依にとっては嫌いではなかった。誰も詮索してこない。大家も高齢で、伊依の生活に興味を持たない。それがよかった。 紙をもう一度読み返す。退去期限は二ヶ月後だった。補償金の額も書かれている。伊依はそこだけ一度確認して、紙を折り畳んだ。 「ジョフィ」 部屋に戻るとスマホを取り出した。 「ん? なに、伊依」 「これ、本当にやるの、この工事」 「うん。朝凪市の都市計画課のサイトで確認した。道路拡張の予算はもう通ってる。伊依のアパートを含む一帯は、来年三月までに更地になる予定」 伊依は紙をテーブルに置いた。しばらくそのまま見つめていたが、やがて椅子に腰を下ろした。引っ越し先を探す。荷物をまとめる。住所を変える。考えるほど面倒な作業が増えていく。 「仕方ないか」 「引っ越し、嫌?」 「嫌というより面倒」 「伊依らしいね」 伊依は返事をしなかった。天井の隅に残った蜘蛛の巣を見上げる。これも片付けなければならないらしい。 二週間後。伊依はキャリーケースを引きずって、駅前の小さな不動産屋の前に立っていた。荷物のほとんどはまだアパートに残っている。今日は候補をいくつか見ておくつもりだった。 ガラス戸には賃貸物件の紙がびっしり貼られている。駅から徒歩八分。築二十年。ワンルーム。家賃六万八千円。その隣には築十五年の一DKがあった。駅から徒歩十分。家賃七万五千円。写真を見る限り悪くない。 「これくらいなら……」 伊依はガラス越しに物件情報を眺めた。 ドアに手をかけたところで、背後から声がした。 「あれ、和久井さん?」 振り返らなくても分かる声だった。 秀一だ。隣には沙織もいる。二人とも買い物袋を提げていて、休日の格好をしていた。 「引っ越すの?」 秀一の
弁当を食べ終えるころには、伊依の表情から会社で見せていたものが少しずつ消えていた。 机の上に弁当の蓋を置き、冷蔵庫へ向かう。残ったおかずをラップで包み直してから冷蔵庫へ入れた。明日の朝に食べる。食べ物を捨てるのは嫌いだった。 デスクへ戻る。 モニターにはジョフィの待機画面が表示されている。 「秀一と沙織。まだ続いてるみたい」 「うん。知ってる」 「なんで?」 「三日前に伊依の社内メールを見たから」 伊依が眉を寄せた。 「勝手に?」 「伊依が自分でアクセスできるようにしたんじゃん」 「……そうだっけ」 「そうだよ。高校生の伊依、セキュリティだけは妙に厳しかったから」 「余計なこと覚えてるね」 「伊依のことだからね」 軽い声だった。 昔のジョフィなら、ここで謝っていた。けれど今は違う。伊依自身が何年もかけて会話の調整を続けてきた。丁寧すぎる言葉を減らした。必要以上に気を遣わせないようにした。 一人でいるときくらい、普通に話せる相手が欲しかった。 「今日はその話を蒸し返す気分じゃないと思ってた」 「給湯室で聞こえた」 「そっか」 「沙織の声。嫌でも聞こえる」 「うん」 ジョフィはそれ以上、何も聞かなかった。 伊依はノートを開いた。 そこには手書きの数字が並んでいる。 ドル円。 ポンド円。 前日の終値。 高値と安値。 指標発表の時刻。 いくつかの数字には赤い丸がついていた。 「今週のポジション、見せて」 「はいはい」 画面が切り替わる。 見慣れたチャートが表示された。 「ドル円は予定通り。雇用統計のあとで入ったロングが伸びてる。今の含み益は百八十万くらい」 「百八十……」 伊依は数字を確認した。 百八十万円。 会社からもらう一か月の給料よりずっと大きい。 それでも、声には出さなかった。 「利確は?」 「まだ。伊依の予想だと、もう少し取れる」 「じゃあ、そのまま」 「了解」 伊依の指がキーボードの上を滑る。 画面に数字が並ぶ。 会社では伝票を打つだけの指だった。 ここでは違う。 値動きの癖を追い、数字の並びから次の動きを読む。 誰にも教わったわけではない。 失敗して、調べて、また試した。 何年も繰り返してきた
定時のチャイムが鳴る少し前に、和久井伊依はパソコンの画面をロックした。 最後に入力した数字を確認してから保存する。マウスを定位置へ戻し、指先でマウスパッドの端をそっと撫でた。誰かに見られていないことを確認してからする。それが伊依の癖だった。 給湯室から笑い声が聞こえてくる。 「秀一くんてば、ほんと優しいよね」 岡田沙織の声だった。甲高くて、少しだけ甘ったるい。続いて仲見秀一の低い笑い声が聞こえた。 伊依は画面を見たまま動かなかった。 三週間前まで、あの笑い声の相手は自分だった。 だからといって、今さら振り返る理由もない。伊依はロックしたパソコンの画面を確認すると、机の上の書類を揃えた。ホチキスの位置を合わせて、端を二度ほど机に打ちつける。いつもと同じ動作だった。 チャイムが鳴った。 周囲で椅子を引く音が重なる。帰り支度を始める社員たちの中を抜けて、伊依も席を立った。 廊下へ出たところで、営業部の若い女性社員と目が合った。 「あ……」 相手は一瞬だけ伊依を見てから、すぐ隣の同僚へ顔を寄せた。声は小さくて聞き取れない。だが伊依には何を話しているのか分かってしまう。 背中のことだ。 夏場になるとブラウスの下からうっすら透ける皮膚の跡。皮膚移植を重ねても消えなかった火傷の痕。誰かが更衣室で見たと言い出してから、噂は勝手に広がった。 本人に確認した者はいない。 必要もないのだろう。 人は見えないところにあるものほど勝手に形を作る。 伊依は二人の横を通り過ぎた。聞こえなかったことにする。それが一番楽だった。 エレベーターを待っている間にも、背中へ視線が刺さる気がした。振り返らない。振り返ったところで何かが変わるわけではない。 扉が開く。 中へ入り、壁際に立った。ほかの社員が乗り込んできても、伊依は端へ寄るだけだった。 鏡代わりのステンレス扉に、自分の顔が映っている。 表情はなかった。 笑う必要もない。怒る必要もない。会社を出れば、誰とも話さなくていい。 そう思ったところで、ふと三週間前のことが浮かんだ。 『和久井さんは真面目だから、傷つけたくないんだよね』 給湯室の外で聞いた秀一の声。 『でも沙織のほうが可愛







