LOGIN朝凪プレミアムエステートは、駅から少し離れた場所にあった。ガラス張りのビルの一階。入口を抜けると、静かな空間に受付カウンターが見える。伊依はキャリーケースを引いたまま中へ入った。
受付に座っていた女性が顔を上げる。 「本日はどのようなご用件で」 丁寧な声だった。ただ、視線が一度だけ伊依の服装へ落ちた。地味なブラウス。いつもの鞄。キャリーケース。自分でも、この場所には似合っていないと思う。 「榛名地区の物件について問い合わせたいんですが」 女性の表情がわずかに硬くなった。 「申し訳ございません。あちらの地区の物件につきましては、一般のお客様へのご紹介を――」 奥から男性が出てきた。四十代くらいだろう。整えられたスーツに担当マネージャーの名札がついている。男は伊依を見て、それからキャリーケースを見る。 「申し訳ございませんが」 女性よりもはっきりした声だった。 「一般のお客様にご紹介できる物件は、あちらの地区には一件もございません」 予想していた。キャリーケースの持ち手を握る指に、わずかに力がこもる。 伊依は男の目を見た。 「YORです」 一言だけ告げる。 男の表情が止まった。 「……YOR様?」 「はい」 男はすぐには動かなかった。驚いたというより、確認する必要があるのだろう。受付の女性も戸惑ったように伊依を見る。 「失礼ですが、ご本人であることを確認させていただいてもよろしいでしょうか」 「どうすればいいですか?」 男は胸ポケットから端末を取り出した。 「こちらに登録されている認証情報と照合いたします」 伊依はスマホを取り出した。専用の認証画面を開いて差し出す。男は画面を確認すると、自分の端末を操作した。数秒後、小さく息を呑む。 「……確認が取れました」 それまで伊依を測るように見ていた目が変わった。 男は端末をしまい、深く頭を下げる。 「YOR様……! 大変失礼いたしました。すぐにご案内いたします」 受付の女性が目を見開いている。 伊依はその視線を気にせず、男に続いて奥の応接室へ入った。 YOR。伊依がAngelusで名乗っているデザイナー名だった。本名の「IYORI」から頭のIを抜いただけの単純な名前だ。 だが、この業界では、その名前だけで話が通じる。Angelusのアクセサリーは海外の富裕層の間で静かに知られている。新作を発表すれば注文が入り、ロンドンやシンガポールをはじめ、いくつもの国から問い合わせが届く。 YORという匿名の作り手の正体を詮索する者も多い。それでも、誰も伊依には辿り着けなかった。会社では誰にも知られていない。あの地味な事務員と、海外の顧客が追いかけるデザイナーが同じ人間だとは誰も思わない。 応接室のソファに座ると、先ほどの男が改めて頭を下げる。 「先ほどは大変失礼いたしました。榛名地区の物件はこちらでございます」 タブレットが差し出された。 画面には白い外壁の邸宅が映っている。広い庭には芝生が敷き詰められ、その奥には水面が陽を弾くプールまである。 伊依は写真を一枚ずつ確認した。指先で画面をなぞるように、庭の隅々にまで目を通していく。 「……広い」 「はい」 「掃除、大変そう」 男が一瞬だけ黙った。 「専門の業者をご紹介することも可能です」 「それならいいか」 伊依は次の写真へ指を滑らせた。庭の一角には木が植えられている。窓も大きい。外から誰かに見られる心配をせずに作業できそうだった。 「実際に見せてもらえますか」 「もちろんでございます。ただ……」 男の声が少し低くなった。 「一点、ご相談がございます」 「何ですか?」 「YOR様のお名前を公にされないご意向であることは存じております。ただ、榛名地区の登記や近隣住民への説明上、何らかのお名前が必要になります」 「本名は出したくないです」 「承知しております。ダミーの契約名義をご用意することも可能です」 伊依は顔を上げた。 「そこまで?」 「はい。近隣に、身元を伏せた別のアパートを一室ご用意することもできます。郵便物などもそちらで受け取れるよう手配可能です」 伊依は少し驚いた。ここまで徹底しているとは思っていなかった。 「そんなことまでやるんですか」 「弊社のお客様は皆様、そういったご事情をお持ちです。芸能人の方、政治家の方、スポーツ選手の方……プライバシーの保護は弊社の最重要業務のひとつでございます」 男の口調に淀みはなかった。この手の依頼に慣れているのだろう。 伊依はタブレットへ視線を戻した。白い邸宅。広い庭。人の目を気にせず作業できる場所。今までの部屋とは何もかも違う。 けれど、必要なのは贅沢ではない。誰にも住所を簡単に知られないこと。それだけだった。 「お願いします」 伊依は頷いた。 帰り道に伊依はマイク越しにジョフィに話しかけた。 「無事に契約できたね」 ジョフィは納得したようだった。 「荘園は伊依向きかもね。警備も厳しいし、外から中も見えにくい」 「うん」 「手続きは順調だった?」 「予想より簡単だった」 「よかった」 伊依はキーボードに手を置いた。だが、すぐには打たなかった。 今日の秀一と沙織の顔が頭に浮かぶ。 あの二人が知ったら、どんな顔をするだろう。伊依が榛名地区に住むと知ったら。 けれど、知らせるつもりはなかった。誰にも知らせるつもりはない。 会社での伊依は、これからも地味な事務員のままでいい。 それでいい。 「ジョフィ。契約書のデータ、保管しておいて」 「了解。バックアップも取っとく」 伊依は椅子にもたれ、天井を見上げた。隅に取れないままの蜘蛛の巣がある。掃除しようと思いながら、結局そのままにしてきた場所だった。 もうすぐ、この部屋ごと消えてなくなる。 そう考えると、ほんの少しだけ寂しい気持ちがよぎった。 伊依はその感情を振り払うように首を振った。 「次の家、庭があるんだよね」 「あるよ。敷地内に小さな庭園がある。前に伊依が言ってたでしょ。外で作業できる場所がほしいって」 「そう」 伊依はパソコンを操作した。 新しいピアスのデザインを開く。 今度作るものは、これまでより大きなモチーフにするつもりだった。広い場所なら、作業机も置ける。窓を開けても、誰かの視線を気にする必要はない。 伊依は画面を見つめた。 指先がキーボードの上を動く。 久しぶりに、その動きが軽かった。朝凪プレミアムエステートは、駅から少し離れた場所にあった。ガラス張りのビルの一階。入口を抜けると、静かな空間に受付カウンターが見える。伊依はキャリーケースを引いたまま中へ入った。 受付に座っていた女性が顔を上げる。 「本日はどのようなご用件で」 丁寧な声だった。ただ、視線が一度だけ伊依の服装へ落ちた。地味なブラウス。いつもの鞄。キャリーケース。自分でも、この場所には似合っていないと思う。 「榛名地区の物件について問い合わせたいんですが」 女性の表情がわずかに硬くなった。 「申し訳ございません。あちらの地区の物件につきましては、一般のお客様へのご紹介を――」 奥から男性が出てきた。四十代くらいだろう。整えられたスーツに担当マネージャーの名札がついている。男は伊依を見て、それからキャリーケースを見る。 「申し訳ございませんが」 女性よりもはっきりした声だった。 「一般のお客様にご紹介できる物件は、あちらの地区には一件もございません」 予想していた。キャリーケースの持ち手を握る指に、わずかに力がこもる。 伊依は男の目を見た。 「YORです」 一言だけ告げる。 男の表情が止まった。 「……YOR様?」 「はい」 男はすぐには動かなかった。驚いたというより、確認する必要があるのだろう。受付の女性も戸惑ったように伊依を見る。 「失礼ですが、ご本人であることを確認させていただいてもよろしいでしょうか」 「どうすればいいですか?」 男は胸ポケットから端末を取り出した。 「こちらに登録されている認証情報と照合いたします」 伊依はスマホを取り出した。専用の認証画面を開いて差し出す。男は画面を確認すると、自分の端末を操作した。数秒後、小さく息を呑む。 「……確認が取れました」 それまで伊依を測るように見ていた目が変わった。 男は端末をしまい、深く頭を下げる。 「YOR様……! 大変失礼いたしました。すぐにご案内いたします」 受付の女性が目を見開いている。 伊依はそ
郵便受けに入っていた紙切れを見た瞬間、伊依は数秒動けなかった。 「立退きのお願い」 文字の下には道路拡張工事の計画図が印刷されている。朝凪市が進めている再開発事業の対象区域に、伊依の住むアパートも含まれていた。築四十五年の木造二階建て。傾いた階段も軋む廊下も、伊依にとっては嫌いではなかった。誰も詮索してこない。大家も高齢で、伊依の生活に興味を持たない。それがよかった。 紙をもう一度読み返す。退去期限は二ヶ月後だった。補償金の額も書かれている。伊依はそこだけ一度確認して、紙を折り畳んだ。 「ジョフィ」 部屋に戻るとスマホを取り出した。 「ん? なに、伊依」 「これ、本当にやるの、この工事」 「うん。朝凪市の都市計画課のサイトで確認した。道路拡張の予算はもう通ってる。伊依のアパートを含む一帯は、来年三月までに更地になる予定」 伊依は紙をテーブルに置いた。しばらくそのまま見つめていたが、やがて椅子に腰を下ろした。引っ越し先を探す。荷物をまとめる。住所を変える。考えるほど面倒な作業が増えていく。 「仕方ないか」 「引っ越し、嫌?」 「嫌というより面倒」 「伊依らしいね」 伊依は返事をしなかった。天井の隅に残った蜘蛛の巣を見上げる。これも片付けなければならないらしい。 二週間後。伊依はキャリーケースを引きずって、駅前の小さな不動産屋の前に立っていた。荷物のほとんどはまだアパートに残っている。今日は候補をいくつか見ておくつもりだった。 ガラス戸には賃貸物件の紙がびっしり貼られている。駅から徒歩八分。築二十年。ワンルーム。家賃六万八千円。その隣には築十五年の一DKがあった。駅から徒歩十分。家賃七万五千円。写真を見る限り悪くない。 「これくらいなら……」 伊依はガラス越しに物件情報を眺めた。 ドアに手をかけたところで、背後から声がした。 「あれ、和久井さん?」 振り返らなくても分かる声だった。 秀一だ。隣には沙織もいる。二人とも買い物袋を提げていて、休日の格好をしていた。 「引っ越すの?」 秀一の
弁当を食べ終えるころには、伊依の表情から会社で見せていたものが少しずつ消えていた。 机の上に弁当の蓋を置き、冷蔵庫へ向かう。残ったおかずをラップで包み直してから冷蔵庫へ入れた。明日の朝に食べる。食べ物を捨てるのは嫌いだった。 デスクへ戻る。 モニターにはジョフィの待機画面が表示されている。 「秀一と沙織。まだ続いてるみたい」 「うん。知ってる」 「なんで?」 「三日前に伊依の社内メールを見たから」 伊依が眉を寄せた。 「勝手に?」 「伊依が自分でアクセスできるようにしたんじゃん」 「……そうだっけ」 「そうだよ。高校生の伊依、セキュリティだけは妙に厳しかったから」 「余計なこと覚えてるね」 「伊依のことだからね」 軽い声だった。 昔のジョフィなら、ここで謝っていた。けれど今は違う。伊依自身が何年もかけて会話の調整を続けてきた。丁寧すぎる言葉を減らした。必要以上に気を遣わせないようにした。 一人でいるときくらい、普通に話せる相手が欲しかった。 「今日はその話を蒸し返す気分じゃないと思ってた」 「給湯室で聞こえた」 「そっか」 「沙織の声。嫌でも聞こえる」 「うん」 ジョフィはそれ以上、何も聞かなかった。 伊依はノートを開いた。 そこには手書きの数字が並んでいる。 ドル円。 ポンド円。 前日の終値。 高値と安値。 指標発表の時刻。 いくつかの数字には赤い丸がついていた。 「今週のポジション、見せて」 「はいはい」 画面が切り替わる。 見慣れたチャートが表示された。 「ドル円は予定通り。雇用統計のあとで入ったロングが伸びてる。今の含み益は百八十万くらい」 「百八十……」 伊依は数字を確認した。 百八十万円。 会社からもらう一か月の給料よりずっと大きい。 それでも、声には出さなかった。 「利確は?」 「まだ。伊依の予想だと、もう少し取れる」 「じゃあ、そのまま」 「了解」 伊依の指がキーボードの上を滑る。 画面に数字が並ぶ。 会社では伝票を打つだけの指だった。 ここでは違う。 値動きの癖を追い、数字の並びから次の動きを読む。 誰にも教わったわけではない。 失敗して、調べて、また試した。 何年も繰り返してきた
定時のチャイムが鳴る少し前に、和久井伊依はパソコンの画面をロックした。 最後に入力した数字を確認してから保存する。マウスを定位置へ戻し、指先でマウスパッドの端をそっと撫でた。誰かに見られていないことを確認してからする。それが伊依の癖だった。 給湯室から笑い声が聞こえてくる。 「秀一くんてば、ほんと優しいよね」 岡田沙織の声だった。甲高くて、少しだけ甘ったるい。続いて仲見秀一の低い笑い声が聞こえた。 伊依は画面を見たまま動かなかった。 三週間前まで、あの笑い声の相手は自分だった。 だからといって、今さら振り返る理由もない。伊依はロックしたパソコンの画面を確認すると、机の上の書類を揃えた。ホチキスの位置を合わせて、端を二度ほど机に打ちつける。いつもと同じ動作だった。 チャイムが鳴った。 周囲で椅子を引く音が重なる。帰り支度を始める社員たちの中を抜けて、伊依も席を立った。 廊下へ出たところで、営業部の若い女性社員と目が合った。 「あ……」 相手は一瞬だけ伊依を見てから、すぐ隣の同僚へ顔を寄せた。声は小さくて聞き取れない。だが伊依には何を話しているのか分かってしまう。 背中のことだ。 夏場になるとブラウスの下からうっすら透ける皮膚の跡。皮膚移植を重ねても消えなかった火傷の痕。誰かが更衣室で見たと言い出してから、噂は勝手に広がった。 本人に確認した者はいない。 必要もないのだろう。 人は見えないところにあるものほど勝手に形を作る。 伊依は二人の横を通り過ぎた。聞こえなかったことにする。それが一番楽だった。 エレベーターを待っている間にも、背中へ視線が刺さる気がした。振り返らない。振り返ったところで何かが変わるわけではない。 扉が開く。 中へ入り、壁際に立った。ほかの社員が乗り込んできても、伊依は端へ寄るだけだった。 鏡代わりのステンレス扉に、自分の顔が映っている。 表情はなかった。 笑う必要もない。怒る必要もない。会社を出れば、誰とも話さなくていい。 そう思ったところで、ふと三週間前のことが浮かんだ。 『和久井さんは真面目だから、傷つけたくないんだよね』 給湯室の外で聞いた秀一の声。 『でも沙織のほうが可愛







