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30.雪の朝の平静

Author: 中岡 始
last update publish date: 2026-05-19 16:40:55

朝の道路には、もう雪が「特別なもの」ではなく残っていた。

路肩に寄せられた灰色の雪の山。除雪車が削った筋の残る脇道。車が踏み固めて、泥と水が混ざったシャーベットみたいになった交差点。空は相変わらず低く、白く、どこまで見ても明るいというより冷たい色をしている。

数日前の、あの夜みたいな激しさはもうない。ただ、冬が来たのだと誰にでも分かる朝だった。

陸斗はマフラーを首元へ寄せ直し、濡れた歩道を選ぶようにして支社へ向かった。

雪の夜のことは、まだ自分の中で片づいていない。

眠れなかったことも、暗い部屋で落ちた短い声も、別々のベッドのあいだにあったあの妙な熱も、思い出そうとすればいくらでも輪郭を持ってしまう。だから、なるべく考えないようにしてきた。朝になれば仕事へ戻るしかないのだから、戻ったふりでもしてしまえば何とかなると思った。

けれど、何とかなるという言い方自体が、もう少しずつ怪しくなっている。

支社の自動ドアが開くと、外とは違う乾いた暖かさが頬へ触れた。

電話の保留音。コ

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  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   37.崩れる前提

    午前の終わりに近い時間だった。外の白さが窓ガラスに貼りついたまま、支社の中だけが乾いた暖房で少し息苦しくなっている。コピー機が紙を吐く音と、電話の保留音と、誰かが紙コップへお湯を注ぐ小さな音が、途切れず重なっていた。そういういつもの仕事の音の中へ、水沢が早足で入ってきたのは、十一時を少し回ったころだった。「三沢さん、倉庫から追加で写真来ました」机の脇へ置かれたタブレットの画面を見た瞬間、陸斗は背中の奥がじわりと冷えるのを感じた。昨日見たものと、よく似ていた。段ボールの角が、わずかに柔らかい。潰れているとまでは言えない。破れてもいない。ただ、紙の層に冬の湿りが入り込んで、表面の張りだけが少し負けている。しかも一枚ではない。別の便、別の積み替え、別の時間帯で撮られた写真が並んでいて、どれも同じように、基準外へ落ちる一歩手前の顔をしていた。「今朝の分ですか」「一部は今朝ですけど、昨日の夕方の戻しも混じってます。倉庫の人が、気になったところだけ先に拾ってくれて」水沢の声は落ち着いていた。けれど、必要以上に落ち着けている時の水沢の声だと、陸斗には分かった。騒ぐほどではない。でも軽く見ていいものでもない。その境目にいる時の温度だった。陸斗は写真を指で拡大した。箱の表面には、細かい水気の粒までは見えない。だが、継ぎ目の近くにだけ不自然な鈍さがある。冷えた段ボールが一度外気へ触れ、また倉庫へ戻った時にだけ出る種類の、嫌な弱り方だ。「再現してる」口に出したあとで、その言葉の重さが自分に返ってきた。一度きりの偶然なら、まだよかった。どこかの扱いが少し悪かった、便がたまたま重なった、その程度で片づけられる。だが別の条件でも似た顔が出るなら、それはもう“何かがおかしい”ではなく、“前提のどこかが噛み合っていない”に近づく。「部長は」「斎賀さんと今、朝の共有終わらせてます。呼びますか」「先に倉庫へ返します。どの便で、どの積み替え条件だったか、全部紐づけたいです」水沢がすぐ

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   36.年明けの綻び

    年が明けても、何もきれいには片づいていなかった。路肩の雪は、年末の初めのころよりずっと低く、ずっと汚れていた。除雪車が押し寄せた灰色の山が交差点の隅に残り、昼のあいだに少し緩んだ表面が、夜の冷え込みでまた固く締まる。その上へ新しい雪が薄くかぶさり、朝になると、白というより濁った冬の色になる。一月の新潟はもう、雪が特別ではない。吐く息の白さも、足元で圧雪がきしむ音も、駅前のタクシーの屋根にうっすら積もった雪も、ただの生活の景色としてそこにある。正月飾りはとっくに外れ、コンビニの棚も年始の甘い空気を引きずっていない。街の顔はもう仕事のそれに戻っていて、陸斗もまた、その中へ自分の身体を押し戻すしかなかった。年末は再見積もりと条件整理で終わった。本社の介入を受けたあとの資料の差し替え、朝比奈フーズ側との再確認、包装会社との細かい詰め。年が明けてからも、休みのあいだに短いメールと必要最低限の連絡は続いていた。仕事は止まっていなかったし、感情だけを丁寧に扱っている暇もなかった。征司とのあいだに残ったものも、そのままだった。あの雪の夜のことも、本社が来た会議のことも、何ひとつ言葉にならないまま、時間だけが先へ進んだ。薄まったわけではない。ただ、仕事の音の下へ押し込まれたまま年を越しただけだ。支社の自動ドアが開くと、乾いた暖気が頬に触れた。コピー機の稼働音。給湯スペースでポットの蓋が触れ合う小さな音。水沢が書類を抱えたまま総務の島から営業の席へ抜けていく気配。久住の少し大きい声が、物流側の奥から一度だけ響き、斎賀が電話を切る音が短く続く。外の白さとは別の時間が、もう中では始まっている。その普通さに、陸斗は少しだけ救われた。本社の残した嫌な感触も、雪の夜の熱も、この場所では同じ速度で薄められていく気がした。けれど完全に消えるわけではない。むしろ、仕事の音に紛れているからこそ、ときどき不意に輪郭を持つ。「三沢」低い声がして、陸斗は顔を上げた。征司は自席の前に立ったまま、机の上のメモを一枚こちらへ滑らせた。短い文字で、今日の確認先と時間だけが並ん

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   35.本社のあとで残るもの

    本社組の靴音が遠ざかってから、支社の空気は少しずつ元へ戻っていった。会議室の扉が開いたままになり、水沢が配布した資料を回収しに入り、斎賀が壁際で止まっていた電話を再開する。久住の少し大きい声も、物流側の奥からまた聞こえてきた。コピー機が紙を吐き、誰かが給湯スペースでポットの湯を足す音がする。たったそれだけのことなのに、さっきまで白い蛍光灯の下で張りつめていたものが、少しずつ剥がれていくのが分かった。支社は本社が来ても、結局は支社の速度へ戻る。誰かが偉そうに宣言するわけでもない。ただ、ここで動いている仕事の音が、自然にあの整いすぎた空気を押し返していく。それなのに、陸斗の内側だけがまだ会議室の椅子に座ったままだった。自席へ戻り、パソコンを開き、資料を揃える。手はもう習慣で動く。朝比奈フーズ向けに修正すべき箇所、本社側の論点をどこまで拾うか、逆に切り落としていい部分はどこか。そうした整理は、頭の表面だけならいつも通りできる。けれど喉の奥に残る乾きと、肩の筋肉の硬さだけが、まだあの部屋から戻っていない。会議が終わったのに、体だけが遅れている。それが情けなくて、陸斗は配布資料の角を余計にきっちり揃えた。「さっきの修正版、どこから直しますか」水沢が、自分の席へ戻る途中でそう声をかけた。ごく普通の仕事の声だった。労わりも、気遣いも、探るような色もない。ただ今やるべきことを確認するだけの温度で、だからこそ陸斗には少しだけ呼吸が戻った。「朝比奈さん側に出す版を先に整理します。本社の数字は残して、前提の置き方だけ変えます」「了解です。包装会社まわりの注記、こっちで追記しておきますね」水沢はそれだけ言って去っていく。普通だ、と陸斗は思った。本社が来ても、会議であれだけ空気が変わっても、支社は結局こういう仕事の声で戻ってくる。篠宮の笑顔も神谷の資料も、ここではそのままずっとは続かない。そのことがありがたくて、同時に少しだけ悔しい。自分だけがまだあの会議の続きを引きずっているみたいだからだ。斎賀が電話を切り、こちらを見ずに言った。

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   34.痛いほど、今だった

    会議が終わって椅子が引かれた瞬間、陸斗はようやく自分が呼吸を浅くしていたことに気づいた。資料を閉じる音が続く。ノートパソコンの蓋が下りる音。誰かがペットボトルを持ち上げ、会議室の外へ出ていく革靴の足音が、乾いた床を細く打つ。そうした現実の音が戻ってくるほど、逆に身体のほうが遅れて強張り始める。指先が冷えていた。喉がひどく乾いている。肩の奥に入っていた力が、抜けきらないまま中途半端に残っている。助かった、とは思えなかった。その前に来たのは、もっと鋭くて、もっと言い訳のしづらい痛みだった。自分は言えることを持っていた。朝比奈フーズの工場ラインの都合も、包材を切り替える順番も、冬の物流がどれだけ机上の想定を簡単に裏切るかも、ちゃんと知っていた。何も知らないまま会議室に座っていた頃とは違う。言うべきことは、確かにあった。それなのに、立てなかった。綺麗に並んだ数字と、整った言葉と、篠宮の穏やかな笑顔と、神谷の隙のない資料の前で、また順番を失った。口を開きかけて、閉じた。そのたった一瞬の遅れが、どれほどみじめだったかは、自分が一番よく分かっている。そして、その場所に征司が立った。「三沢」名前を呼ばれて、陸斗ははっと顔を上げた。会議室の空気はすでに解け始めていて、篠宮は神谷と次の確認事項を話している。水沢は配布した資料の回収に動き、斎賀は壁際で物流側への連絡を入れていた。その雑音の中で、征司だけが普段と変わらない声でこちらを見ている。「朝比奈側に共有を入れる。さっきの資料、修正点だけ拾って一回まとめろ」短い。慰めも、労いもない。ただ次の仕事を渡すだけの声だ。「……はい」返事はどうにか普通に出た。征司はそれで十分だというように視線を外し、すぐ篠宮のほうへ向き直った。特別扱いをしない。そのことが、今の陸斗には逆にきつかった。腫れ物に触るみたいに気を遣われないことは救いでもある。だが同時に、この場で傷ついているのが自分だけみたいに思えて、余計に息苦しい。会議室を出ると、廊下の空気は少し

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   33.征司が制する

    窓の外の雪は、会議室の中から見るとただの白い明るさにしか見えなかった。朝比奈フーズの工場で鼻に残った原料の匂いも、包装会社の乾いた紙粉も、冷凍倉庫の床から上がる冷えも、この部屋へ入った瞬間に全部どこかへ置いてこられてしまう。白い蛍光灯、乾いた暖房、きれいに並んだ資料、無駄のない数字。そういうものだけで組み上げられた空間の中では、外の冬の現実は、ガラス一枚向こうにあるくせにやけに薄い。神谷が画面を切り替えた。「現状の試験導入は十分評価できます。ただ、ここから先を案件として広げるなら、属人的な運用に寄りかかったままでは難しいですね」スライドの上では、販路別の回転率と粗利予測が色分けされていた。横展開候補、SKU整理後の想定、標準化によるコスト圧縮。数字の並びはきれいで、言葉も過不足がない。どこを取っても間違っているようには見えない。だからこそ、落とされているものが見える。冬の物流の乱れ。原料の出来の揺れ。包材を切り替えるときに止まるライン。朝比奈フーズが地場の取引先を切らさないために守っている順番。支社が、それを踏み外さないように何度も組み直してきた段取り。そういうものが全部、資料の隅へ追いやられた注記になっている。「冬季の変動要因については、もちろん運用上の留意点として管理します」神谷の声は平坦だった。「ただ、現時点ではリスクとして過大評価しすぎる必要はないかと。管理可能な範囲ですし、そのための体制整備をどう置くかの話なので」管理可能。その言い方の冷たさに、陸斗は胸の奥を小さく刺された気がした。管理できるかどうかの話ではない。現実に、今そこで人がどう動いているかの話だ。雪が一度強くなれば、予定していた便は簡単に遅れる。包材の納まりが半日ずれるだけで、工場の流れは細いところから詰まり始める。現場はいつだって、それを“管理可能なリスク”としてではなく、今日どう回すかの問題として見ている。それを知っている。知っているのに、この整いすぎた会議室の中では、その知識がうまく言葉にならない。「支社で丁寧に育ててもらっ

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   32.数字だけの会議

    会議室へ入った瞬間、空気の重心がもう支社のものではないと分かった。白い蛍光灯の下、長机の上には資料がきれいに揃えられている。ペットボトルの水、配布用のクリアファイル、予備の筆記具。どれもいつもと同じようでいて、今日だけは置かれ方が違って見えた。支社で用意したはずの会議室なのに、席順も、視線の流れも、誰が先に話し始めるかも、もう本社側に合わせて並び替えられている。窓の外には雪が残っていた。路肩に押しやられた白い塊と、そこへ溶けかけの水が黒く筋を作っている。新潟の冬の現実は、ガラス一枚向こうで確かに続いているのに、暖房の効いたこの部屋の中では、その気配だけが薄く削られていた。陸斗は席に着いた時点で、喉の奥が少し乾くのを感じた。紙の端を揃えたくなる。ペンの向きを直したくなる。だが今それをすれば、また整えることで自分を保とうとしているのが見透かされる気がして、膝の上で指先だけを握った。篠宮が口火を切るまでに、長い前置きはなかった。「では、せっかくなので、今の段階で一度きれいに見せてもらえればと思います」声は穏やかだ。表情も柔らかい。雪の中わざわざ来た本社の人間としての高圧さは欠片も見せない。だからこそ、最初の一言からこの場の支配が静かに始まっているのが分かる。神谷がノートパソコンを開き、資料を画面へ映した。整っていた。試験導入後の反応推移。販路別の回転率。粗利予測。SKU整理後の横展開案。朝比奈フーズ案件を「次の標準化モデル」として扱うための整理表。色分けも見出しも無駄がなく、数字の並び方もきれいで、どこから見ても理路整然としている。一見して、何も間違っていないように見えた。むしろ、本社の資料はいつだってそうだ。言葉の置き方が正しく、論点の順番が合理的で、反論しづらい。どこにも感情の乱れがない。だからこそ、その整い方の中に何が落とされているのかに気づいたときの息苦しさが、陸斗にはよく分かった。「まず試験導入としては十分な数字が取れていると思います」神谷が資料の一点を示す。「ただ、ここから先は個別対応を広げるより、再現性をどう持たせる

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