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7.預かり物の席

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2026-04-27 15:27:21

自動ドアが開いた瞬間、外の冷たさとは別の空気が頬に触れた。

暖かい、というほどではない。春先の朝を相手に、暖房を完全に切るにはまだ少し早い、そんな中途半端な温度だ。外から入ってきたばかりの冷気と、室内に溜まった乾いたぬくもりが混ざり合い、境目の曖昧な空気になっている。東京本社のロビーみたいな、管理された清潔さはない。その代わり、人が実際に働いている場所の匂いがした。紙とインク、湯を沸かしたあとの金属の気配、届いたばかりの荷物の段ボール、朝いちばんのコーヒーの薄い香り。そういうものが、わずかに入り混じっている。

正面に受付らしいカウンターはあるが、本社ほど厳格ではない。人を止めるための場所というより、誰が来たかをすぐに把握するための位置にあるだけのように見えた。その向こうには事務スペースが続いている。電話の音が短く鳴り、コピー機が用紙を吐き出し、誰かが低い声で納期の確認をしている。別の場所では、荷物を受け取ったらしい社員が軽く礼を言っていた。どの音も大きくない。だが静かすぎることもなく、仕事と人の気配が近いまま混ざっている。

陸斗は一歩中へ入り、その空気に包まれた。

広さの問題ではないと思う。東京本社はもっと人が多く、もっと音もあった。それでもあちらは、人と人との間に透明な仕切りが何枚も立っているような感じがした。視線も声も整えられていて、誰もが必要以上には踏み込まない。その整い方が、かえって冷たかった。

ここは逆だ。物理的な距離より先に、人の視線と仕事の流れが近い。誰が入ってきたか、どんな顔をしているか、何を持っているか。そういうものが、会話の端や視線の流れの中で自然に拾われていく場所なのだと、立った瞬間に分かった。

見られている、と陸斗は思う。

露骨ではない。誰もあからさまにじろじろ見るわけではないし、足を止めてこちらを窺うような真似もしない。ただ、それぞれが手元の仕事を続けながら、一度は陸斗の存在を目に入れている。その自然さが余計に居心地悪かった。

陸斗は鞄を持ち直し、軽く息を吸ってからカウンターへ近づいた。

その動作ひとつにも、自分で分かるくらい気を使っている。歩幅、姿勢、口元の形。慌てて見えないように、けれど気取って見えないように。そういう加減は本社で身についた。人に不快を与えない整え方としては正しいはずだ。だが、この場所ではその正しさがどこまで通じるのか、まだ分からない。

近くにいた女性社員が、先に気づいて顔を上げた。三十代前半くらいだろうか。派手さのないオフィスカジュアルに、まとめすぎていない髪。笑えば柔らかそうな顔立ちだが、目元には仕事を手早く片づける人の集中が残っている。

陸斗は軽く頭を下げた。

「本日付で東京本社から異動してまいりました、三沢陸斗です。お世話になります」

自分の声が、思っていたより少しだけよそよそしく響いた。

落ち着いて聞こえるように調整した声音。必要な語尾まできちんと整えた言い方。東京本社の会議室でも廊下でも、失礼のない若手として通用していた話し方だ。だが、その整い方自体が、この場所では少しだけ浮いている気がした。

女性はすぐに立ち上がった。

「水沢です。おはようございます」

笑顔はある。だが柔らかすぎない。その笑顔の奥で、陸斗の顔や、コート、鞄、名乗り方まで、一瞬で見ているのが分かった。

「今日からなんですね。朝、少し冷えましたよね」

「そうですね。思ったよりずっと」

「新潟は四月でも、まだこんな感じなんです。慣れるまで変に薄着しないほうがいいですよ」

何気ない会話だ。世間話に近い。だが、そこでようやく陸斗は少しだけ呼吸ができた。異動初日の人間に向ける最初の言葉として、それは十分に普通だった。本社のように洗練されてはいないが、必要な距離を保ったまま、こちらを完全に突き放しもしない。

水沢は手元のファイルを閉じると、

「席のほう、ご案内しますね」

と言った。

陸斗は礼を言い、あとについて歩く。

オフィスの中を進むあいだにも、視線はやんわりとついてきた。電話中の男性が、受話器を肩に挟んだまま一瞬だけこちらを見る。資料をめくっていた誰かの手が止まり、すぐに動き出す。荷物を抱えたまま通りすぎる社員が、ごく短く会釈する。そのどれにも敵意はない。だが歓迎でもない。ただ、新しく来た人間を把握しているだけだ。その冷静さが、むしろ逃げ場をなくしていく。

本社より机の並びが近い。通路も広すぎない。けれど窮屈という感じではなく、人が互いの仕事の気配を感じながら動くための距離に見えた。窓の外は相変わらず曇っていて、白っぽい光が室内へ鈍く差し込んでいる。その光の下で、電話のメモ、紙の付箋、急ぎの書類の山、誰かが持ってきたらしい缶コーヒー、そういう生活の残りが、机ごとに小さく積み重なっていた。

東京本社のデスクにも、もちろん私物はあった。だが、あちらはどこかまでが仕事用で、どこからが個人の領域か、線引きがはっきりしていた気がする。ここはもっと混ざっている。仕事の延長で人がいて、人の延長で仕事がある。良く言えば地に足がついている。悪く言えば、取り繕いが利きにくい。

「勝手が違うと思いますけど」

前を歩く水沢が、ふとそう言った。

振り返るでもなく、歩幅を変えずに言う。

「最初は、電話の多さにびっくりするかもしれません。本社より、みんな距離近いので」

言い方は柔らかい。だが、その中に「本社とは違いますよ」という事実がまっすぐ入っている。悪意ではなく確認だ。そのことが水沢らしいのだろうと陸斗は思った。

「そうですね。もう少し静かなものを想像していました」

「たぶん、本社の“静か”とは種類が違うんだと思います」

少しだけ笑うような響きがあった。

その一言に、陸斗は返事を選ぶのに一拍かかった。本社の静けさを、ただの上品さとして受け取っていない。そんな含みが薄くある。やわらかいが、見ている。水沢がそういう人間であることが、その短いやり取りだけで分かった。

「こちらです」

案内された席は、フロアの中央から少し外れた位置にあった。

誰かの完全な隣でもなく、孤立しているわけでもない。だが、最初からここが自分の席として用意されていた、という感じは薄い。新しいノートパソコンと最低限の備品は揃っている。引き出しの中も空ではない。けれど、そこに生活の積み重なりがまだ一切ない。周囲の机には使い込まれたペン立てや、頻繁に開かれた形のファイル、持ち主の癖が滲む配置があるのに、この机だけが妙に薄い。

仮置きの席だ、と陸斗は思った。

もちろん、物理的には正式な配属席なのだろう。だが、そこに漂う気配は一時的だった。とりあえずここに置かれた、という印象が拭えない。自分の匂いも、誰かの記憶も、まだ一度もこの机に馴染んでいない。

「必要なもの、足りなければ言ってください」

水沢がそう言いながら、机の上にいくつかの書類を置く。

「パソコンの初期設定は済んでます。内線表と簡単なフロア図、それから今日の流れです。午前中は総務から諸手続きが少し入って、そのあと部内で顔合わせになると思います」

「ありがとうございます」

「名刺も、追加が必要なら発注かけますので。しばらくはこれで足りますか」

きちんと束になった名刺を受け取り、陸斗は反射的にその角を揃えた。

その動作をした途端、自分でも少し嫌になる。整えたところで何が変わるわけでもない。けれど、物の角や位置を揃えていないと落ち着かない。居場所の輪郭が曖昧なときほど、手元だけでも整えたくなる癖があった。本社のデスクでもそうしていた。資料の角度、筆記具の並び、パソコンの位置。仕事が立て込むほど、逆に机の上だけは揃えた。

今も同じことをしている。それが、自分だけ場違いな場所で落ち着こうとしているみたいで、みじめだった。

「本社の人って、名刺まできっちりしてるんですね」

水沢が言った。

咎める口調ではない。ほんの少し面白がる響きがあるだけだ。

陸斗は顔を上げる。

「そう見えますか」

「悪い意味じゃなくて。あ、でもこっちはすぐ持ち歩いて、すぐ減るので、たぶんすぐ箱がぐちゃぐちゃになります」

その言葉に、陸斗はようやく少しだけ口元を緩めた。

「それは、気をつけます」

「気をつけても、たぶん無理です」

水沢も今度ははっきり笑った。

その笑いに救われるほど単純ではなかったが、少なくとも完全にひとりきりではないと思えた。孤立の予感が、ほんの少しだけ和らぐ。けれど安心まではいかない。水沢は味方として手を差し出しているのではなく、支社の空気の中で普通に接してくれているだけだ。その普通がありがたい一方で、こちらの様子をちゃんと見ていることも分かる。

席の周囲を軽く見回したとき、奥のほうで誰かと目が合った。

四十前後だろうか。黒髪を短く整えた、がっしりした体つきの男だった。派手な顔立ちではないが、目つきが鋭い。ネクタイはきちんと締めているのに、どこか本社の社員とは違う着慣れ方をしている。営業と現場のあいだを行き来している人間の体だと、ひと目で分かった。

男は軽く顎を引く程度の挨拶をした。

陸斗も会釈を返す。

それだけで終わる。笑わない。話しかけてもこない。けれど無視でもない。試しに一度見た、という感じの視線だった。

ああいう人間が、この支社の温度なのだろうと陸斗は思う。綺麗に笑わない代わりに、本音が早い。合う合わないも、使える使えないも、たぶん表情や言葉より先に、働き方で決まるのだ。

さらに少し離れた場所では、物流関係だろうか、年上の男性が電話をしながら資料へ赤ペンを入れていた。こちらへ向けられた視線は一瞬だけだったが、その短さの中に「あとで見れば分かる」というような実務の冷静さがあった。誰も今ここで陸斗を裁こうとはしない。その代わり、働きぶりを見れば判断できると知っている顔をしている。

嫌われているわけではない。

そのことは分かる。

だが、信用もされていない。

その中間がいちばん落ち着かない。東京本社では、少なくとも“ちゃんとしている若手”という見え方が防具になった。感じがよく、受け答えが整っていて、仕事の覚えが早い。そう見えていれば、最初の数枚は評価のカードを稼げた。

ここでは、その防具が妙に薄い。

整った話し方も、皺の少ないスーツも、丁寧な会釈も、失礼ではない。けれどそれだけでは何にもならないと、このフロアの空気が無言で言っている。むしろ「本社から来た人間らしさ」として、距離の根拠にさえなりうる。

陸斗はパソコンを開き、支給された書類を右手側へ、名刺を左へ揃えた。ペンを二本並べる。内線表の角度を机の端に平行にする。その細かい動きに、自分の焦りが滲んでいるのが分かった。居場所が薄いから、まず手元だけでも自分のものにしたい。そういう焦りだ。

「三沢さん」

水沢が、少しだけ声を落として呼んだ。

「はい」

「たぶんすぐ顔合わせ入ると思うんですけど、その前にひとつだけ」

彼女は言葉を選ぶみたいに短く間を置いた。

「緊張すると思いますけど、最初はみんな、そんなに喋らないと思います。別に悪気があるとかじゃなくて、こっち、まず見てからって感じなので」

陸斗はその言い方に、ほんの少し救われ、同時に少しだけ刺された。

まず見てから。

つまり今はまだ、その前の段階なのだ。歓迎するかどうかでもなく、距離を縮めるかどうかでもなく、仕事ぶりや人となりを見る前提の場所。排斥ではないが、簡単にも受け入れない。実務の場としては正しいのかもしれない。その正しさが、今の陸斗にはこたえる。

「分かりました」

とだけ返す。

それ以上の言葉は思いつかなかった。

水沢は小さく頷くと、また自分の席へ戻っていった。完全に気遣ってくれるわけではない。その距離感が、かえってありがたかった。だが、ひとりになった瞬間、オフィスの音がまた少し近くなる。電話の保留音、紙をめくる音、誰かが短く発した納期の数字。そこへ自分だけがまだうまく溶け込めていない。

ノートパソコンの起動画面を見つめながら、陸斗は指先で机の端をなぞった。

冷たいわけではない。使い込まれた木目の感触がある。なのに自分の席としては、まだあまりにも薄い。周囲の机には、それぞれの持ち主が積み重ねた癖や時間があるのに、自分の場所だけが平らすぎる。ここに置かれている。そうとしか思えなかった。

預かり物なのだろう、と陸斗は思う。

本社で持て余された人間。現場へやっておけばいいと判断された若手。しかも、ただの一般的な異動ではなく、どこか不自然な形で誰かの直下に入れられた預け先。そういう立場が、説明されなくてもこの空気の中に滲んでいる気がした。

そのとき、水沢の席のほうから別の社員の声がした。

「三沢さんって、成田部長の直下なんですね」

何気ない調子だった。

悪意はない。ただ、事実を確かめるついでに少しだけ含みを持たせたような、そんな言い方だった。

陸斗は顔を上げる。

「そうなんですか」

と返した自分の声は、思ったより平らだった。内側では少しざわついたのに、それを表へ出さないくらいの余裕はまだ残っている。

「ええ。そう聞いてます。うちだと、あんまりない配置なので」

言ったのは水沢ではなく、その近くにいた年上の男性社員だった。すぐに別の電話へ意識を戻している。その短さが、むしろ本気の観察に見えた。

あまりない配置。

その一言だけで、自分の立ち位置の不自然さが形になる。

ただ異動してきた若手ではない。誰かの判断で、少し特別な置かれ方をしている人間。そのことを、もうこのフロアの何人かは知っているらしい。胸の奥で何かが細く軋んだ。

成田部長。

名前だけが耳に残る。

まだその名前に具体的な顔はない。ただ、この支社で特別な位置にいる誰かの名なのだろうということだけが、その響きから分かった。部長。しかも、直下に置かれること自体が少し不自然だと言われる人物。預けられた先としては、あまりに意味ありげだった。

陸斗は表情を動かさないまま、机の上の資料の角を揃えた。

「そうなんですね」

無難にそう返して、パソコンの画面へ視線を落とす。

それで会話は終わった。だが、内側では終わっていない。

預けられた。試される。見られている。

その感覚が、さっきまでよりはっきりした形を取り始める。歓迎されていないわけではない。だが、自分の席はまだどこにも根を張っていない。ここで働きぶりを見られ、その上で信頼に値するかどうかが決まる。その入り口に、陸斗はたった今座ったばかりなのだ。

指先でペンの位置をもう一度だけ直す。

揃えすぎている、と自分でも思う。落ち着かないからこそ、そうしてしまう。机の端、書類の角、名刺入れの向き。小さく整えるたびに、自分の内側のざわつきがかえって浮き彫りになる。

成田部長。

その名前だけが、曇った朝の光の中で妙に耳に残っていた。

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