Partager

5.名前のない朝

Auteur: 中岡 始
last update Date de publication: 2026-04-26 15:26:41

薄い光で目が覚めた。

夜のあいだは曖昧に沈んでいた室内が、朝になると急に輪郭を持つ。カーテンの隙間から入り込む白んだ光が、ベッドの端も、散らした衣類も、枕の皺も、何ひとつ見逃さない顔で照らしていた。昨夜は柔らかく見えた白いシーツが、朝の光の下ではひどく無機質だ。体温の残りかたまで冷静に示してくるようで、陸斗はしばらく目を開けたまま動けなかった。

喉が乾いている。

頭はぼんやりしているのに、体の感覚だけが妙に近い。触れられた場所や、息の近さや、あの静かな視線の温度が、思い出そうとしなくても肌の内側から勝手に浮いてくる。熱の名残というより、昨夜の自分を思い出してしまう恥ずかしさのほうが強かった。

隣は空いていた。

けれど、完全に冷えてはいない。ついさっきまで誰かの重みがあったことを、シーツの皺と、少し残った温度が無言で教えてくる。その気配に、陸斗は胸の奥をきゅっと掴まれたような気がした。

浴室のほうから、水音がかすかに聞こえていた。

規則的な音だ。蛇口をひねる音、グラスか何かの触れ合う小さな音、そしてまた短い水音。生活の延長みたいなその音が、昨夜の出来事を急に現実へ引き戻す。ここは夢の中ではなく、ホテルの一室で、外ではもう朝が始まりかけている。金曜の夜の勢いも、路地の湿った空気も、暗い店の匿名性も、全部ここで一度終わってしまったのだと、その水音だけで分かる。

陸斗は枕へ顔を少し埋めた。

こういう朝を迎えるつもりではなかった。

いや、そもそも朝までの輪郭をきちんと考えていなかったのかもしれない。昨夜はただ、明日に持ち越さないために踏み込んだのだ。誰にも知られず、明日にはなかったことにできる夜。その条件にしがみついてここまで来た。なのに朝になった今、何ひとつなかったことにできる気がしない。

起き上がると、白いシーツがさらりと擦れた。自分の動きだけがやけに大きく聞こえる。床へ落ちたシャツを拾い上げようとして、指先が一瞬止まった。昨夜のままの衣類が、やけに生々しい。ネクタイは椅子の背に掛かっていた。きれいに掛けられていることが、少しだけ腹立たしい。雑に脱ぎ捨てたままのほうが、まだ軽く済んだかもしれないのに。

浴室の扉が開く。

男はもうほとんど身支度を整えていた。シャツの襟元まできちんと戻っていて、髪も乱れていない。夜の気配を引きずっているのはこちらだけみたいで、陸斗は一瞬、視線の置き場に困った。

男はそんな陸斗を見ても、特に驚いた顔をしなかった。

ただ、ごく普通の朝にそうするみたいに、テーブルの上に置いてあった水のボトルへ視線をやる。

「飲むか」

低い声が、昨夜と変わらない落ち着きで響く。

陸斗は咄嗟に、首を横に振りかけた。だが喉の乾きがあまりに分かりやすくて、意地を張るのも馬鹿らしくなる。

「……少し」

それだけ言うと、男はボトルを取り上げ、グラスに水を注いだ。氷も入っていない、ただの水だ。その単純な音さえ静かだった。渡されたグラスを受け取るとき、指先が触れそうで触れない。昨夜あれほど近かった距離が、朝には逆に扱いづらい。

陸斗は水を飲んだ。

冷たすぎないのに、乾いた喉を通る感覚だけがはっきりしていた。何か言わなければならない気がする。けれど、何を言えばいいのか分からない。ありがとう、と言うのも違う。昨夜のことに触れるのはもっと違う。冗談めかして流せるほど、自分の中では軽くなっていない。

沈黙が落ちる。

その沈黙の中で、男は急かさない。見守るとも違う。ただそこにいて、必要以上に言葉を足さない。その在り方が、朝になっても変わらないことが、陸斗には妙にこたえた。昨夜の熱のあとであっても、この男は変わらず落ち着いている。自分だけが少し居場所を失っているみたいで、それが腹立たしい。

「……慣れてるんだな」

グラスを持ったまま、陸斗は低く言った。

本当はそんなことを聞きたいわけではなかった。だが、何か棘のあることを言わなければ、こちらばかりが取り残される気がした。

男はネクタイを手に取りかけたところで、ほんの少し動きを止めた。

「何に」

「こういう朝」

言ってから、我ながら嫌な言い方だと思った。拗ねたみたいな響きがある。けれど引っ込めるには遅い。

男は陸斗を見た。昨夜と同じ、感情を大きく見せない目だった。だが、冷たいわけではない。その目に見られるたび、陸斗は自分の薄い強がりまで輪郭を与えられる気がして、落ち着かない。

「お前は慣れてない」

返ってきたのは、それだけだった。

否定も肯定もなく、ただ事実として置かれる。その一言に、陸斗は少しだけ口元を引き結ぶ。反論しようと思えばできる。けれど、慣れていないのは事実だった。こういう朝に、どういう顔をすればいいのかも、どういう距離を取ればいいのかも知らない。それを正面から言われると、子ども扱いされたみたいで悔しい。

「分かってるよ」

やや素っ気なく返すと、男はそれ以上そこを掘らなかった。

この男は、必要以上に勝たない。そこが余計に厄介だと陸斗は思う。こちらが意地を張れば、普通はどこかで面白がるか、優位を見せるかするものなのに、この男はそうしない。静かに見抜いて、静かに置く。それだけだから、逃げ場がなくなる。

身支度をしなければ、と陸斗は思った。

シャツに腕を通し、しわを手のひらで軽く伸ばす。ネクタイを結ぼうとしたところで、少しだけ手元が狂った。眠気のせいではない。指先にまだ落ち着きが戻っていないだけだ。結び目を作り直していると、不意に視線を感じた。

見ると、男は壁にもたれずに立ったままこちらを見ていた。

じっと見ているわけではない。だが、何気なく視線が留まる位置が、陸斗の目元や、口元や、ネクタイを結ぶ手元に落ちているのが分かる。その短い視線の動きだけで、昨夜この男が何を見ていたかまで思い出してしまいそうになる。

陸斗はわざと軽く笑った。

「見なくても、別に結べる」

少し生意気な響きになったのは、自分でも分かった。

男はすぐには答えず、ほんのわずかに口元を動かした。笑ったのかどうかも曖昧なくらいの、かすかな動きだった。

「そうか」

その短い返事だけで、また腹が立つ。

強がっていることを分かった上で流されている。その感じが、昨夜からずっと癪だった。けれど同時に、そうやって流されることに妙な安心もある。真正面から受け止められるより、少しだけ肩の力を抜いていられる気がしてしまう自分が嫌だった。

結び目を整え終えて顔を上げると、窓の外はもう明るかった。

高層ビルの隙間から差し込む朝の光は薄く、どこか冷たい。金曜の夜が持っていた匿名の優しさは、朝になると全部剥がれて、現実の硬さだけが残る。部屋の白さも、整った家具も、昨夜の熱を受け止めた場所とは思えないくらい事務的だ。

ここを出たら終わる。

そのはずなのに、終わる気がしない。

むしろ今から、この夜の輪郭だけが妙に鮮明になって、自分の中に残りそうで嫌だった。低い声。清潔な香り。感情を見せないのに距離だけを支配する、あの静かな視線。思い出したくなくても、もういくつも記憶のフックができてしまっている。

この男のほうはどうなのだろう、とふと思う。

自分のことを、翌日には顔も曖昧になる程度の相手として処理するのだろうか。少し生意気な若い男だった、くらいの印象で終わるのかもしれない。強がるときだけ片側の口角が少し上がることも、無理に平気な顔をしていたことも、すぐに忘れてしまうのかもしれない。

そう考えると、胸の奥にうまく名前のつかない棘が刺さる。

忘れてほしいのか、覚えていてほしいのか、自分でも分からない。ただ、こちらの中にこれだけ残るのに、相手にとっては数ある一夜のひとつでしかないのだとしたら、それは妙に悔しかった。

部屋を出る前まで、結局どちらも名前を聞かなかった。

聞けなかったのではない。聞こうと思えば聞けた。連絡先だって、その気になれば交換できたはずだ。けれど、どちらもそうしないまま、朝の時間は進んでいく。その聞かなさが、この夜の線引きそのものだった。

今夜だけ。

明日に持ち越さない。

その約束を言葉にしなくても、二人とも分かっている。だからこそ、余計に苦しいのだと陸斗は思った。

エレベーターを降り、簡素なロビーを抜ける。外へ出る扉の手前で、男が一度だけ足を止めた。別れの挨拶があるならここだと分かる。けれど甘い言葉や、意味深な約束なんて、この男はたぶん口にしない。

そして実際、そのとおりだった。

男は陸斗のほうを見て、短く言った。

「気をつけて帰れ」

それだけだった。

本当に、それだけ。

昨夜のことに触れもしない。名前を聞きもしない。次も、とも言わない。ただ、朝の街へ放り出される直前に、その一言だけを置く。

なのに、その短さのわりに妙に優しい。

優しいから余計に腹が立つ、と陸斗は思った。

こんなに何かを残しておいて、それだけなのか。自分の中にはもう、低い声も、近づく前の沈黙も、あの清潔な香りも、強がりを見透かす静かな視線も、いくつも残ってしまっている。それなのに男は、まるで本当に一夜の終わりとして十分だと言うみたいに、その一言だけを置いて終わらせる。

「……そっちも」

陸斗は反射的にそう返した。

言った瞬間、少しだけ子どもっぽい返し方だったと思う。だが言い直す気にはなれなかった。男はわずかに目を細めたように見えたが、やはり何も足さない。

扉が開く。

朝の空気は想像していたより冷えていた。夜明け直後の街には、昨夜の湿り気がもうない。ビルの谷間を抜ける風が、緩めたはずの喉元へ細く入り込み、陸斗は思わず肩をすくめた。明るくなった道路をタクシーが流れ、人々はまだ少ない。世界は何事もなかったみたいな顔で始まりかけている。

その明るさの中へ一歩出たところで、陸斗は振り返らなかった。

振り返れば、何かが変わる気がしたからではない。たぶん、振り返っても男はもう変わらない顔でそこに立っているだけだと分かったからだ。その落ち着きをもう一度見たら、余計に自分だけが置いていかれる気がした。

歩き出す。

革靴が朝の舗道を打つ音は、昨夜より乾いて聞こえた。

もう会わないはずだ、と陸斗は思う。

名前も知らない。仕事も知らない。連絡先もない。今夜だけで、明日には持ち越さない。その条件を守るなら、再び交わる理由は何ひとつない。そう考えるほど、胸のどこかが逆にざわついた。

恥ずかしいのに、思い出しそうだった。

腹が立つのに、忘れられない気がした。

もう会わないはずなのに、会えたらどうするのかと、ありもしないことまで考えそうになる。

そんな自分がひどく嫌で、陸斗は少しだけ歩く速度を上げた。

冷えた朝の空気の中でも、喉元にはまだ昨夜ほどかれたネクタイの感触が残っている気がする。鼻先には、清潔な石鹸みたいな香りが薄く残像のようにまとわりつく。耳の奥では、抑揚の少ない低い声が、たった一言だけ何度も反響する。

気をつけて帰れ。

たったそれだけで終わるなら、どうしてこんなに残るのだろうと思う。

街はもう完全に朝へ傾いていく。ガラス張りのビルの窓は白く光り、夜の匿名性はどこにもない。それでも陸斗の中では、金曜の夜はまだ終わりきっていなかった。終わったはずなのに、終わらない感覚だけが、冷えた朝の中に妙に熱く残っていた。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   51.名前のある夜

    笑いの余韻は、意外なくらい長く部屋に残った。さっきまでクッションを抱えてソファの端へ逃げていた陸斗は、ようやく少しだけ身体の力を抜いたものの、頬の熱だけはまだ引かないままだった。征司の前では隠しようがないと分かっていても、今さら平然とした顔に戻ることはできない。食後のテーブルの上には空いたグラスと、つまみの袋と、途中で食べるのをやめたナッツの小皿が置きっぱなしになっている。テレビの音はいつの間にか小さくなり、窓の隙間から入る四月の夜気が、火照った肌にだけやさしく触れていた。征司はソファにもたれたまま、まだ少し笑みの名残を口元に残している。その顔を見るだけで、陸斗はまた恨めしくなる。「……そんなに面白いですか」「面白いというより」「より、何ですか」「可愛い」あまりにも迷いなく言われて、陸斗は反射でクッションを抱き直した。「部長」「ん」「そういうの、急に言わないでください」「急じゃないだろ」「急です。十分急です」征司はそこでまた小さく笑ったが、さっきみたいにからかう色はもう薄い。その笑いが静かに落ちたあと、部屋の空気も少しずつ深くなっていくのが分かった。春の夜は、冬みたいに鋭くない。けれどやわらかいだけでもなくて、何かを隠すには少し冷たい。笑ったあとの沈黙は重くないのに、ふとした拍子に相手の視線だけがくっきり見える。陸斗はクッションを膝に置いたまま、テーブルの端に視線を落とした。気まずいわけではない。ただ、さっきの「忘れるわけないだろ」が、思った以上に深く残っている。あの夜は、忘れられるような夜ではなかった。その言葉の意味を、胸の奥がまだゆっくり受け取り続けていた。何か言ったほうがいいのかもしれない。そう思うのに、下手なことを言えば今のやわらかい静けさを壊しそうで、陸斗は口を開けずにいた。沈黙は続く。けれど以前の自分なら耐えられなかったはずのその時間が、今はただ少し熱を持って流れていくだけだった。征司がグラスをテーブルに置く。氷が小さく音

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   50.忘れてなかったんですか

    食べ終えたあとの部屋は、少しだけ油断した空気をしていた。ローテーブルの上には空になった惣菜の容器と、食べかけのナッツ、小皿に残った数枚のクラッカー。陸斗の前には半分ほど減った缶チューハイ、征司の手元には氷の溶けかけたグラスがある。暖房の熱はやわらかく、窓を少しだけ開けているせいで、春の夜気が薄く混じっていた。四月の風は冬みたいに刺さらない。けれど、完全にぬるんだわけでもなくて、火照った頬にちょうどいい冷たさだった。テレビはついているが、音は低い。画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を壊さない。会話は途切れ途切れで、それでも気まずさはない。食後の緩んだ沈黙が、もう二人のあいだでは沈黙として落ちないところまで来ていた。陸斗はソファの背にもたれ、足を少し崩した。征司の部屋着の袖が、グラスを持ち上げるたびに手首の骨を浮かせる。そういう何でもないものが視界に入るのも、今では珍しくない。珍しくないはずなのに、たまにふいに意識してしまうのは、まだ完全に慣れきってはいないからだろう。「部長」何となく呼ぶと、征司はテレビから目を離さずに「ん」と返した。「冷蔵庫にプリンありますよ」「さっき見た」「食べないんですか」「お前が買ってきたんだろ。お前が食え」「俺、もう一個食べたら太ります」「そんなこと気にするのか」「しますよ、一応」征司がそこで初めて視線を向けてきた。その目が、わずかに面白がっているように見えて、陸斗はマグカップの縁を指でなぞった。「部長こそ、そういうの気にしなさそうですよね」「必要なら気にする」「必要ないってことですか」「今はな」淡々と返される。そういうところがずるい。言葉は少ないのに、言われたほうだけが少し落ち着かなくなる。陸斗は小さく口を尖らせてから、わざとらしくではない程度に身体を寄せた。テーブルの上のプリンのスプーンを取るふりをして、征司の膝に触れそうなくらいの位置まで近づく。最近の自分は、ときどきこういうことをする。征司相手にだけ出る、少しだけ

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   49.部長と呼ぶ夜

    食べ終えたあとの部屋は、さっきまでより少しだけ静かだった。テーブルの上には、使い終えた小皿と、半分ほど残った缶ビール、デザートのプリンの空き容器。温め直した総菜の匂いはもう薄れて、代わりに洗剤と、少しぬるくなった室内の空気が混ざっている。テレビはついていたが音量は低く、画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を乱すほどではなかった。陸斗は皿を重ね、キッチンへ持って行く。征司はグラスを一つ持って後ろに続き、流しの脇へ置いた。「部長、これ洗います」「いい。あとでまとめる」「今やったほうが楽じゃないですか」「お前、毎回それ言うな」「毎回、結局あとで面倒くさそうにしてるからです」征司は短く息だけで笑って、「うるさい」と言った。その言い方が少しだけ柔らかかったから、陸斗もつられて笑う。こういう何でもないやり取りが、もう珍しいものではなくなっている。初めてこの部屋で夜を過ごした頃なら、洗い物をするかどうかでこんなふうに口を交わす余裕はなかった。今は違う。どちらがどこまで手を出すかも、どこで引くかも、わざわざ相談しなくても何となく分かる。結局、皿は流しに浸けるだけにして、二人はリビングへ戻った。征司が冷蔵庫から新しいビールを出し、陸斗は自分用のマグカップに湯を注ぐ。夜も更けてきたので、陸斗は途中から温かいものが飲みたくなることが多い。征司はそれを知っていて、何も言わず棚の上の青いマグカップを取った。最初の頃は、その自然さだけでいちいち胸がざわついていたのに、今ではそのざわつきの上に、少しだけ落ち着きが乗っている。ソファの片側へ陸斗が座る。征司は肘掛けに片肘を預けるようにして、少し距離を空けて座った。その距離も、最近はもう説明がいらなかった。近すぎればそれで落ち着かないし、離れすぎれば何となく物足りない。その真ん中が、二人の中にできている。「部長、今日、朝比奈さんからまた追加のメール来てました」陸斗がマグカップを両手で持ちながら言うと、征司はビールをひと口飲んでから視線だけを向けた。「見た。来週の試食会、向こうの製造主任も入るらしいな」

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   48.春の週末、部長の部屋

    四月の夜は、冬の名残をまだ少しだけ持っていた。駅前の灯りはやわらかく、人の流れにももう年末や異動前の尖った気配はない。けれど風が吹くと、ジャケットの裾から入る空気がひやりとして、完全に春へ切り替わったわけではないと分かる。その中途半端さが、どこか今の自分たちに似ているようで、陸斗は歩きながらひとりで少しだけ苦笑した。手にはコンビニと駅前のスーパーで買った袋が下がっている。缶ビールが二本、惣菜がいくつかと、征司が好きだと言っていた少し固めのプリン。高級な手土産でも何でもない。ただ、仕事帰りではない週末の夜に、部屋で食べるものを買っていく。それだけのことなのに、こうして目的地があることが、まだ少しだけくすぐったい。一度きりなら、こんなふうにはならなかっただろう。何を持って行くかなんて考えもしない。行った先に何があるかも、朝になったらどうなるかも、気にしないで済む夜だった。けれど今は違う。今夜の先に明日があることを知っている。次の週末も、その次も、会おうと思えば会えることを、もう知っている。だから足取りは以前より落ち着いているのに、部屋へ向かう最後の曲がり角に差しかかるたび、胸の奥だけが少しだけ落ち着かなくなる。自分でも呆れる。もう何度も来ているはずなのに。オートロックを抜け、エレベーターを降りる。廊下は静かで、どの部屋の前も変わりない夜の気配しかないのに、この先だけが自分に関わる場所なのだと思うと、無意味に背筋が伸びた。インターホンを押して、ほどなくして開いたドアの向こうに征司がいる。部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っただけの姿だった。ネクタイも革靴もないぶん、会社で見るよりいくらか柔らかく見えるのに、本人はその自覚がまるでなさそうな顔をしている。「遅かったな」第一声はそれだった。特別に甘くもなく、咎めるほどでもない、いつもの低い声。「スーパー寄ったので」陸斗が袋を少し持ち上げて見せると、征司はそれを一瞥してからドアを大きく開けた。「寒かったか」「外、まだちょっと冷えます」「入れ」その自然さに、陸斗はまた少しだ

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   47.残る、選ぶ

    朝の空気はまだ冷たかった。三月の終わりだというのに、吐く息は薄く白く、路肩に寄せられた雪はまだ完全には消えていない。けれど真冬の白さとは違っていた。雪解けの水が縁石に沿って細く流れ、夜のあいだに凍りかけたそれが、朝の弱い光の中で少しずつほどけていく。空も、冬の底で見上げていた重い灰色ではなく、どこか奥のほうで色を戻しかけている。春はまだ遠い。けれど、冬だけに閉じていた時間は終わりに向かっている。陸斗はコートの襟を指で整え、しばらく立ち止まって空を見た。胸の奥にあった迷いは、ここ数日で何度も形を変えた。欲しかったはずのものを前にして足が止まったことも、自分でも信じがたかった。以前の自分なら、考えるまでもなかったはずだ。本社へ戻る。東京へ戻る。名誉を取り返す。失敗を上書きする。そういう言葉だけで、十分に救われたと思えただろう。それでも今の自分は、そこへ手を伸ばせない。伸ばせない理由を、最初は征司ひとりに押しつけかけた。あの人がいるから迷うのだと、そう言ってしまえれば楽だった。けれど違うと、ここまでの時間が何度も思い知らせてきた。支社の机。冬の朝のコピー機の音。水沢の足音。斎賀の短い確認。久住の大きな声。朝比奈フーズの工場の匂い。冷凍倉庫の白い息。雪の中を走る便の遅れ。電話越しの、現場が静かに嫌がる温度。そういうものをひとつひとつ知ってしまったあとでは、戻ることはもう、ただ「上」へ戻ることではなくなっていた。今の自分が、どこで立ちたいのか。問うべきはそれだけだと、ようやく腹の底で分かり始めている。陸斗は歩き出した。靴底が薄く濡れた舗道を踏む。まだ刺すような冷たさの残る朝だったが、今日はそれが不思議と嫌ではなかった。決めなければならないことがある朝の空気は、妙に澄んでいる。支社へ入ると、いつもの音が迎えた。コピー機が一度低く唸り、誰かの引いた椅子の脚が床を擦る。水沢がファイルを抱えてカウンターの向こうを横切り、久住の「その便、先に押さえといてくれ」という少し大きめの声が奥から飛ぶ。斎賀が電話口で短く要件だけを切っている。暖房の名残の乾いた空気の中で、もう四月を前にした慌ただしさが

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   46.いてほしい

    夜の支社は、昼間よりずっと広く見えた。日中は誰かの声や電話やコピー機の音で埋まっていた空間が、定時を過ぎると急に余白ばかりになる。暖房の残り香と、長く使われた紙の乾いた匂いだけが、机と机のあいだに薄く残っていた。窓の外はもう暗い。駐車場の端に寄せられた雪の山は黒く沈み、その足元で雪解けの水だけが街灯を拾って鈍く光っている。春は近いはずだった。天気予報はそう言い、日中の光も少し前よりやわらかくなっていた。けれど夜になると、空気はまだ容赦なく冷たい。吐く息が白く見えるほどではないが、指先に触れる風は、冬の終わりを簡単には信じさせてくれなかった。陸斗は自席の画面を落として、ゆっくりと息を吐いた。この数日、頭の中のどこかにずっと、あの夜の会話が引っかかっている。選ぶのはお前だ。そう言われた瞬間の痛みは、まだきれいに抜けていない。少しでも引き止めてくれたら楽だった。残れと言ってくれたら、その言葉を言い訳にできた。けれど征司はそうしなかった。今の自分なら、自分で選べるはずだと、逃げ道ごと差し出さずに返してきた。それが信頼だと、頭では分かっている。分かっているからこそ、痛い。誰かのせいにできなくなった選択は、思っていたより重かった。仕事中はそれを忘れていられる。資料を見ていればいい。電話を取ればいい。朝比奈フーズの確認事項を詰めていれば、余計なことを考えずに済む。だが、人が減り、音が減り、夜が深くなると、どうしてもそこへ戻される。自分は、どこで立ちたいのか。戻れる場所がある。それは本気で魅力的だ。昔の自分なら、考えるまでもなかった。なのに今は、その魅力と同じだけ、この支社の机や、現場の声や、雪の中で組み直してきた仕事の手触りが胸に残っている。そして、その中心に征司がいることも、もう見ないふりができない。鞄へ手を伸ばしかけたとき、部長席のほうで椅子が動く音がした。顔を上げると、征司が立っていた。ジャケットを椅子の背へ掛け、袖口を一度だけ直す。その何でもない所作に、陸斗の胸がまた少しだけ狭くなる。最近はこういう些細な動きほど、目に入ってしまう

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   11.逃げ場のない直属関係

    会議が終わっても、陸斗の中では何ひとつ終わっていなかった。資料の束が閉じられ、椅子が引かれ、会議室の空気がゆるむ。斎賀は何事もなかったように次の書類を抱えて立ち上がり、水沢はメモをまとめながら、午後の電話の段取りを口にしている。誰も再会の衝撃に取り残されていない。取り残されているのは、陸斗だけだった。窓の外は相変わらず白い曇り空で、春の明るさだけが空へ薄く貼りついている。暖房の残りが少し乾いた空気を作っていて、喉の奥がやけに渇く。会議室の中は特別に暑くも寒くもないのに、陸斗の内側だけが妙に熱を持っていた。成田征司は、もう次の仕事へ視線を向け

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   9.一瞬で分かる

    「部長、戻られました」その一言が落ちた瞬間、会議室の空気がほんの少しだけ締まった。誰かが手元の資料を揃える。椅子の脚が床を擦る音が短く鳴って止む。さっきまで執務室のほうから聞こえていた電話の声も、ここまで来ると遠い。曇り空の白い光が窓に薄く貼りつき、会議室の空気を平板に照らしている。春の午前の明るさのはずなのに、色温度は低いままだった。暖房の名残が少しだけ室内に残っていて、それがかえって喉の奥を乾かせる。陸斗は資料の束を手にしたまま、自分でも分からないうちに背筋を伸ばしていた。理由のある緊張ではなかった。まだ顔を見てもいない

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   8.成田部長

    席に着いてしばらくしても、陸斗はまだこの職場の流れの中へ自分が入れていないことを、嫌というほど思い知らされていた。パソコンは立ち上がっている。支給された内線表も、フロア図も、今日の簡単な流れを書いた書類も机の上に並んでいる。名刺は左手側、筆記具は右、資料は手前から読む順に揃えた。整えすぎだと自分でも思う。思うのに、そうしていないと落ち着かない。手元の角度だけでも正しておかなければ、自分だけがこの場で浮いている感覚に耐えられなかった。曇り空の光が窓から白く差し込んでいる。春の明るさではあるのに、空気の色はどこか冷たい。フロアの照明と混じったそ

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   7.預かり物の席

    自動ドアが開いた瞬間、外の冷たさとは別の空気が頬に触れた。暖かい、というほどではない。春先の朝を相手に、暖房を完全に切るにはまだ少し早い、そんな中途半端な温度だ。外から入ってきたばかりの冷気と、室内に溜まった乾いたぬくもりが混ざり合い、境目の曖昧な空気になっている。東京本社のロビーみたいな、管理された清潔さはない。その代わり、人が実際に働いている場所の匂いがした。紙とインク、湯を沸かしたあとの金属の気配、届いたばかりの荷物の段ボール、朝いちばんのコーヒーの薄い香り。そういうものが、わずかに入り混じっている。正面に受付らしいカウンターはあるが、本社ほど厳格で

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status