LOGIN新幹線が減速しはじめると、窓の外の景色が、ゆっくりと輪郭を持ちはじめた。
東京を出たときから、空の色は少しずつ変わっていた。晴れているわけではないのに明るさだけはある、あの乾いた白さではない。もっと低く、鈍く、湿り気を含んだ白だ。遠くに見える建物の色も、駅へ近づくにつれて少しずつ沈んでいく。四月に入ったばかりのはずなのに、春の軽さより、冬の名残のほうがまだ街に近い気がした。
車窓に自分の顔がうっすら映る。
眠れていない目だった。昨夜は早めにベッドへ入ったはずなのに、実際にはほとんど眠れなかった。寝返りを打つたび、天井の白さが妙に近く感じられて、頭の中では同じ言葉ばかりが何度も巡っていた。異動。配置転換。現場理解。経験になる。そんなふうに整えられた言葉を、思い出すたびに胃の奥が重くなる。
ネクタイの結び目を指先で軽く押さえる。降りる前に結び直したそれは、鏡で見たとおり崩れていない。シャツの襟も、コートの肩も、見た目だけなら問題ない。ひどく疲れているようには見えないだろう。少なくとも、そう見えないように整えてきた。
発着を知らせるアナウンスが車内に流れる。平板な声なのに、東京で聞くそれより少し低く響く気がした。陸斗は膝の上に置いた鞄の持ち手を握り直し、ひとつ息を吐いた。
本当に来てしまったのだと思う。
その感覚は、東京のマンションを出たときより、車内で駅名を見たときより、こうして減速する車体の揺れの中でいちばんはっきりした。もう後戻りはできない。日帰り出張でもなければ、研修でもない。東星マテリアル新潟支社。そこが今日から自分の職場になる。
窓の向こうを流れるホームは、東京駅や品川駅のそれとは少し違って見えた。人の数が少ないわけではない。ただ、動きがいくらか緩やかで、音が空へ逃げていく。密集した熱気で押されるような感じがない。その代わり、外の空気の冷たさだけが、ガラス越しにも伝わってくる気がした。
ドアが開き、陸斗は立ち上がった。荷物を肩に掛ける。スーツの上からコートを整え、周囲とぶつからないように気をつけながら通路へ出る。そういう動作はもう染みついていた。どんなときでも、まず自分を整えて、人に不快を与えない顔をする。東京本社に配属されてからの数年で、必要以上に覚えてしまった癖だった。
ホームへ降りた瞬間、首元に風が入った。
思わず肩が強張る。冷たい。予想していたより一段、はっきり冷たかった。春物のコートでは足りないほどではない。だが、東京ならもう少し空気が軽くなっている時期だ。四月の朝、と聞いて思い浮かべる柔らかさがここにはない。湿り気を含んだ風が、ネクタイの結び目の下へ細く入り込み、喉元を撫でて抜けていく。
ホームの向こうに見える空は白かった。青さを隠した曇天が低く広がっている。駅の柱の陰に、まだ冬の色が少しだけ残っているみたいだった。桜らしい色の見える場所もあるのに、それが空気全体を明るくはしていない。春なのに、季節だけが先に進んで、温度はまだ追いついていないような朝だった。
その冷たさの中で、陸斗はようやく、自分が本当に本社から切り離されたのだと実感した。
現場理解のための異動。そういう言い方だった。書類の文面も、上司の口ぶりも、表向きは穏やかだった。新潟支社は重要拠点だ、地域開発チームで現場を知ることは今後のキャリアにとっても意味がある、視野を広げる機会だ。言葉だけ拾えば、むしろ期待されている異動みたいに聞こえた。
けれど実際には、そうではないことくらい分かっていた。
営業戦略本部の会議室は、いつも明るすぎるほど明るかった。ガラス張りの壁と白いテーブル。隣の会議室まで透けて見えるような空間で、誰も声を荒げない。怒鳴り合いなんて起きない。穏やかな声で、理性的な顔のまま、責任だけが少しずつ位置を変えていく。資料の上で数字が整えられ、条件の曖昧さや現場の負荷は、都合のいい言い換えで滑らかに処理される。
陸斗はそこに、うまく馴染めなかった。
本社配属は、ずっと目標だったはずだ。地方支社の案件を、都市部の販路や大口取引へつなぐ部署。地方案件の価値を広げられる場所だと、本気で思っていた。実際、仕事は性に合っていた。案件の構造を整理し、条件の綻びを見つけ、リスクを言語化することは得意だった。だからこそ、不透明な点も見えてしまった。
大型案件の契約条件に、明らかに無理があった。利益率の見せ方も、責任の所在も、現場に押しつけられる負荷も、そのまま進めればどこかで破綻すると思った。黙って通せば、自分の評価には傷がつかなかったかもしれない。それでも陸斗は、会議の席で異議を出した。しかも口頭で濁すのではなく、記録に残る形で指摘してしまった。
正しかったはずだった。
少なくとも、間違ってはいなかった。
けれど、会社が必要としていたのは正しさそのものではなく、扱いやすさだったのだと、そのあとで思い知らされた。案件が一度でも揺れれば、若手が空気を乱したことのほうが先に問題になる。現場を知らないくせに理想を言った、という形にすり替えることは容易だった。そして陸斗は、きれいな文言と穏やかな顔で、本社から外された。
ホームを歩きながら、奥歯に力が入る。
悔しさはもう何日も前から胸の底に沈んでいたのに、冷たい風に当たったせいで、その輪郭だけが急に鋭くなった。本当に来てしまった。新潟。左遷先。そう言い切るのはまだ負けたみたいで嫌だったが、やり直しの機会だと前向きに受け止めるには、屈辱が生々しすぎる。
やり直しではない、と陸斗は思う。
やり直しという言葉には、こちらにも何かを誤った責任があるみたいな響きがある。間違えたから、整え直す。失敗したから、経験を積み直す。そういう物語へ引き受けるのは、今の自分には無理だった。自分はたしかに、本社の流儀に逆らった。だが、あれを間違いだとはまだ思えない。思えないまま切られたから、余計に苦しいのだ。
駅の構内へ入ると、ガラスに映った自分の姿が視界の端をかすめた。
陸斗は反射的に歩みを緩める。
目元に疲れが出ている。寝不足の色が薄く滲んでいる。それでも、崩れてはいない。輪郭の細い顔立ちと、きちんとしたスーツの線のおかげで、他人から見ればいつもどおり整って見えるだろう。そういう見え方をしてしまうことに、助けられるときもあれば、腹が立つときもある。
今朝は後者だった。
疲れている。悔しい。うまく笑える気がしない。それでも鏡やガラスに映る自分は、そこまで惨めには見えない。だから余計に、平気な顔を作れてしまう。
襟元を指先で直す。コートの前を整える。髪を軽く指で撫でつける。その動作は無意識に近かった。折れたくないから整える。整えているあいだだけは、まだ自分の形を保っていられる気がする。
スマートフォンを取り出すと、昨夜のうちに母へ送った短いメッセージが画面の上に残っていた。異動先へ無事向かうこと、新しい環境だから少し忙しくなるかもしれないこと。書いたのは、それだけだ。左遷に近い異動であることも、本社で何があったかも、詳しくは何も伝えていない。心配をかけたくないというのは本当だ。だが、それ以上に、自分の口からその現実をきちんと説明してしまうと、本当にそうなってしまう気がした。
誰にも本音を渡していないのだと、その画面を見て改めて思う。
同期にも、家族にも、元の部署の先輩にも、うまく誤魔化した説明しかしていない。新潟で現場経験を積むことになった。少し環境が変わるだけだ。そんなふうに言えば、会話はだいたいそこで終わる。相手も深入りしない。そうやって自分で残した逃げ道のはずなのに、今はむしろ、その逃げ道のなさだけが際立つ。
駅を出ると、外の風はいっそう冷たかった。
タクシー乗り場へ向かうあいだにも、東京との違いが少しずつ目に入る。駅前はきれいに整っている。だが、再開発エリアのような均質な明るさではない。新しいビルと、少し古い建物が並び、道幅は広いのに、人の流れは必要以上にせかせかしていない。空が東京より近い。遠くまで視界が抜けるぶん、曇った白さが余計に広く見える。
タクシーに乗り込み、行き先を告げる。
運転手は感じよく返事をして車を出した。会話が続くことはない。その静けさがありがたかった。窓の外を流れる街並みを見る余裕が、ようやく少しだけ出てくる。
東京本社の周辺は、整いすぎている。ガラス張りの高層ビル、磨かれた床、同じような色のスーツを着た人間たち。明るく、綺麗で、洗練されていて、そのくせ空気は冷たい。誰もがきちんとして見える場所では、崩れた人間だけがひどく目立つ。
それに比べると、新潟の駅前は少し鈍い。だが、その鈍さのなかに、生活の温度が混じっている。通り沿いの店先に置かれた看板、朝の搬入らしい台車の音、道路脇に停まる配送車。都市機能はきちんとあるのに、すべてが評価や速度のためだけに整えられているわけではない気配がある。
それが救いになるのかどうかは、まだ分からなかった。
むしろ今の陸斗には、その地に足のついた空気のほうが居心地悪く感じられる。東京ではまだ、本社の若手としての役割があった。期待されていた、という形だけでも、自分の立つ位置を説明できた。だがここでは、その肩書は最初から胡散臭いものとして見られるかもしれない。本社から来た人間。預かり物。現場も知らずに口を出してきた側。そういう目で見られる可能性のほうが、ずっと現実的だった。
窓の外を流れる街路樹の枝先は、まだ色が薄い。桜の咲いている場所もあるが、曇り空の下では華やかに浮かない。春がきているはずなのに、景色全体の温度は低いままだ。その感じが、不思議と自分の内側に似ている気がした。季節だけが先に進んで、気持ちはまだ追いついていない。
タクシーが大きな通りを離れ、少し落ち着いた一角へ入る。
運転手の声で顔を上げると、目的の建物が見えた。
東京本社ほど新しくはない。高層でもない。だが古びているわけでもなかった。むしろ、ちゃんと使われている建物の顔をしている。正面には営業車らしい車が何台か停まり、出入り口の近くでは荷物を運んでいる人影がある。自動ドアの向こうに見えるロビーも、本社のような無機質な白さではなく、実務の匂いが残る明るさだった。
綺麗すぎない代わりに、ごまかしの利かなさそうな場所だと陸斗は思う。
ここでは、見栄や言い回しだけでは通用しないかもしれない。役に立つか、信頼できるか、そのどちらかでしか見てもらえないかもしれない。そう考えると、胸の奥にまた別の緊張が生まれる。屈辱とは違う、もっと地に足のついた不安だ。
タクシーを降りる。朝の風が、コートの裾を小さく揺らした。
鞄を持ち直し、建物を見上げる。ここから先は、もう本社の人間ではいられない。少なくとも、そういう顔だけで立っていることはできない。新潟支社の一員として扱われるか、それとも本社から流れてきた厄介者として距離を置かれるか。どちらにせよ、今日からはこの場所でやるしかない。
そう思っても、前向きな気分にはなれなかった。
やってやる、と簡単に奮い立てるほど、陸斗は器用ではない。むしろ、腹の底にあるのはまだ悔しさのほうだ。どうして自分がここへ来なければならなかったのか、その問いは少しも消えていない。ただ、その問いを抱えたままでも、入らなければ始まらないことだけは分かる。
陸斗は一度だけ深く息を吸った。
冷たい空気が肺に入る。喉元を指先で整える。コートの前を正し、ネクタイの結び目をもう一度だけ確かめる。表情を作る。意気込みではない。決意でもない。ただ、傷ついた場所をそのまま晒さないための、防具のような笑顔だった。
それから陸斗は、支社の自動ドアの前へ歩いていった。
笑いの余韻は、意外なくらい長く部屋に残った。さっきまでクッションを抱えてソファの端へ逃げていた陸斗は、ようやく少しだけ身体の力を抜いたものの、頬の熱だけはまだ引かないままだった。征司の前では隠しようがないと分かっていても、今さら平然とした顔に戻ることはできない。食後のテーブルの上には空いたグラスと、つまみの袋と、途中で食べるのをやめたナッツの小皿が置きっぱなしになっている。テレビの音はいつの間にか小さくなり、窓の隙間から入る四月の夜気が、火照った肌にだけやさしく触れていた。征司はソファにもたれたまま、まだ少し笑みの名残を口元に残している。その顔を見るだけで、陸斗はまた恨めしくなる。「……そんなに面白いですか」「面白いというより」「より、何ですか」「可愛い」あまりにも迷いなく言われて、陸斗は反射でクッションを抱き直した。「部長」「ん」「そういうの、急に言わないでください」「急じゃないだろ」「急です。十分急です」征司はそこでまた小さく笑ったが、さっきみたいにからかう色はもう薄い。その笑いが静かに落ちたあと、部屋の空気も少しずつ深くなっていくのが分かった。春の夜は、冬みたいに鋭くない。けれどやわらかいだけでもなくて、何かを隠すには少し冷たい。笑ったあとの沈黙は重くないのに、ふとした拍子に相手の視線だけがくっきり見える。陸斗はクッションを膝に置いたまま、テーブルの端に視線を落とした。気まずいわけではない。ただ、さっきの「忘れるわけないだろ」が、思った以上に深く残っている。あの夜は、忘れられるような夜ではなかった。その言葉の意味を、胸の奥がまだゆっくり受け取り続けていた。何か言ったほうがいいのかもしれない。そう思うのに、下手なことを言えば今のやわらかい静けさを壊しそうで、陸斗は口を開けずにいた。沈黙は続く。けれど以前の自分なら耐えられなかったはずのその時間が、今はただ少し熱を持って流れていくだけだった。征司がグラスをテーブルに置く。氷が小さく音
食べ終えたあとの部屋は、少しだけ油断した空気をしていた。ローテーブルの上には空になった惣菜の容器と、食べかけのナッツ、小皿に残った数枚のクラッカー。陸斗の前には半分ほど減った缶チューハイ、征司の手元には氷の溶けかけたグラスがある。暖房の熱はやわらかく、窓を少しだけ開けているせいで、春の夜気が薄く混じっていた。四月の風は冬みたいに刺さらない。けれど、完全にぬるんだわけでもなくて、火照った頬にちょうどいい冷たさだった。テレビはついているが、音は低い。画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を壊さない。会話は途切れ途切れで、それでも気まずさはない。食後の緩んだ沈黙が、もう二人のあいだでは沈黙として落ちないところまで来ていた。陸斗はソファの背にもたれ、足を少し崩した。征司の部屋着の袖が、グラスを持ち上げるたびに手首の骨を浮かせる。そういう何でもないものが視界に入るのも、今では珍しくない。珍しくないはずなのに、たまにふいに意識してしまうのは、まだ完全に慣れきってはいないからだろう。「部長」何となく呼ぶと、征司はテレビから目を離さずに「ん」と返した。「冷蔵庫にプリンありますよ」「さっき見た」「食べないんですか」「お前が買ってきたんだろ。お前が食え」「俺、もう一個食べたら太ります」「そんなこと気にするのか」「しますよ、一応」征司がそこで初めて視線を向けてきた。その目が、わずかに面白がっているように見えて、陸斗はマグカップの縁を指でなぞった。「部長こそ、そういうの気にしなさそうですよね」「必要なら気にする」「必要ないってことですか」「今はな」淡々と返される。そういうところがずるい。言葉は少ないのに、言われたほうだけが少し落ち着かなくなる。陸斗は小さく口を尖らせてから、わざとらしくではない程度に身体を寄せた。テーブルの上のプリンのスプーンを取るふりをして、征司の膝に触れそうなくらいの位置まで近づく。最近の自分は、ときどきこういうことをする。征司相手にだけ出る、少しだけ
食べ終えたあとの部屋は、さっきまでより少しだけ静かだった。テーブルの上には、使い終えた小皿と、半分ほど残った缶ビール、デザートのプリンの空き容器。温め直した総菜の匂いはもう薄れて、代わりに洗剤と、少しぬるくなった室内の空気が混ざっている。テレビはついていたが音量は低く、画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を乱すほどではなかった。陸斗は皿を重ね、キッチンへ持って行く。征司はグラスを一つ持って後ろに続き、流しの脇へ置いた。「部長、これ洗います」「いい。あとでまとめる」「今やったほうが楽じゃないですか」「お前、毎回それ言うな」「毎回、結局あとで面倒くさそうにしてるからです」征司は短く息だけで笑って、「うるさい」と言った。その言い方が少しだけ柔らかかったから、陸斗もつられて笑う。こういう何でもないやり取りが、もう珍しいものではなくなっている。初めてこの部屋で夜を過ごした頃なら、洗い物をするかどうかでこんなふうに口を交わす余裕はなかった。今は違う。どちらがどこまで手を出すかも、どこで引くかも、わざわざ相談しなくても何となく分かる。結局、皿は流しに浸けるだけにして、二人はリビングへ戻った。征司が冷蔵庫から新しいビールを出し、陸斗は自分用のマグカップに湯を注ぐ。夜も更けてきたので、陸斗は途中から温かいものが飲みたくなることが多い。征司はそれを知っていて、何も言わず棚の上の青いマグカップを取った。最初の頃は、その自然さだけでいちいち胸がざわついていたのに、今ではそのざわつきの上に、少しだけ落ち着きが乗っている。ソファの片側へ陸斗が座る。征司は肘掛けに片肘を預けるようにして、少し距離を空けて座った。その距離も、最近はもう説明がいらなかった。近すぎればそれで落ち着かないし、離れすぎれば何となく物足りない。その真ん中が、二人の中にできている。「部長、今日、朝比奈さんからまた追加のメール来てました」陸斗がマグカップを両手で持ちながら言うと、征司はビールをひと口飲んでから視線だけを向けた。「見た。来週の試食会、向こうの製造主任も入るらしいな」
四月の夜は、冬の名残をまだ少しだけ持っていた。駅前の灯りはやわらかく、人の流れにももう年末や異動前の尖った気配はない。けれど風が吹くと、ジャケットの裾から入る空気がひやりとして、完全に春へ切り替わったわけではないと分かる。その中途半端さが、どこか今の自分たちに似ているようで、陸斗は歩きながらひとりで少しだけ苦笑した。手にはコンビニと駅前のスーパーで買った袋が下がっている。缶ビールが二本、惣菜がいくつかと、征司が好きだと言っていた少し固めのプリン。高級な手土産でも何でもない。ただ、仕事帰りではない週末の夜に、部屋で食べるものを買っていく。それだけのことなのに、こうして目的地があることが、まだ少しだけくすぐったい。一度きりなら、こんなふうにはならなかっただろう。何を持って行くかなんて考えもしない。行った先に何があるかも、朝になったらどうなるかも、気にしないで済む夜だった。けれど今は違う。今夜の先に明日があることを知っている。次の週末も、その次も、会おうと思えば会えることを、もう知っている。だから足取りは以前より落ち着いているのに、部屋へ向かう最後の曲がり角に差しかかるたび、胸の奥だけが少しだけ落ち着かなくなる。自分でも呆れる。もう何度も来ているはずなのに。オートロックを抜け、エレベーターを降りる。廊下は静かで、どの部屋の前も変わりない夜の気配しかないのに、この先だけが自分に関わる場所なのだと思うと、無意味に背筋が伸びた。インターホンを押して、ほどなくして開いたドアの向こうに征司がいる。部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っただけの姿だった。ネクタイも革靴もないぶん、会社で見るよりいくらか柔らかく見えるのに、本人はその自覚がまるでなさそうな顔をしている。「遅かったな」第一声はそれだった。特別に甘くもなく、咎めるほどでもない、いつもの低い声。「スーパー寄ったので」陸斗が袋を少し持ち上げて見せると、征司はそれを一瞥してからドアを大きく開けた。「寒かったか」「外、まだちょっと冷えます」「入れ」その自然さに、陸斗はまた少しだ
朝の空気はまだ冷たかった。三月の終わりだというのに、吐く息は薄く白く、路肩に寄せられた雪はまだ完全には消えていない。けれど真冬の白さとは違っていた。雪解けの水が縁石に沿って細く流れ、夜のあいだに凍りかけたそれが、朝の弱い光の中で少しずつほどけていく。空も、冬の底で見上げていた重い灰色ではなく、どこか奥のほうで色を戻しかけている。春はまだ遠い。けれど、冬だけに閉じていた時間は終わりに向かっている。陸斗はコートの襟を指で整え、しばらく立ち止まって空を見た。胸の奥にあった迷いは、ここ数日で何度も形を変えた。欲しかったはずのものを前にして足が止まったことも、自分でも信じがたかった。以前の自分なら、考えるまでもなかったはずだ。本社へ戻る。東京へ戻る。名誉を取り返す。失敗を上書きする。そういう言葉だけで、十分に救われたと思えただろう。それでも今の自分は、そこへ手を伸ばせない。伸ばせない理由を、最初は征司ひとりに押しつけかけた。あの人がいるから迷うのだと、そう言ってしまえれば楽だった。けれど違うと、ここまでの時間が何度も思い知らせてきた。支社の机。冬の朝のコピー機の音。水沢の足音。斎賀の短い確認。久住の大きな声。朝比奈フーズの工場の匂い。冷凍倉庫の白い息。雪の中を走る便の遅れ。電話越しの、現場が静かに嫌がる温度。そういうものをひとつひとつ知ってしまったあとでは、戻ることはもう、ただ「上」へ戻ることではなくなっていた。今の自分が、どこで立ちたいのか。問うべきはそれだけだと、ようやく腹の底で分かり始めている。陸斗は歩き出した。靴底が薄く濡れた舗道を踏む。まだ刺すような冷たさの残る朝だったが、今日はそれが不思議と嫌ではなかった。決めなければならないことがある朝の空気は、妙に澄んでいる。支社へ入ると、いつもの音が迎えた。コピー機が一度低く唸り、誰かの引いた椅子の脚が床を擦る。水沢がファイルを抱えてカウンターの向こうを横切り、久住の「その便、先に押さえといてくれ」という少し大きめの声が奥から飛ぶ。斎賀が電話口で短く要件だけを切っている。暖房の名残の乾いた空気の中で、もう四月を前にした慌ただしさが
夜の支社は、昼間よりずっと広く見えた。日中は誰かの声や電話やコピー機の音で埋まっていた空間が、定時を過ぎると急に余白ばかりになる。暖房の残り香と、長く使われた紙の乾いた匂いだけが、机と机のあいだに薄く残っていた。窓の外はもう暗い。駐車場の端に寄せられた雪の山は黒く沈み、その足元で雪解けの水だけが街灯を拾って鈍く光っている。春は近いはずだった。天気予報はそう言い、日中の光も少し前よりやわらかくなっていた。けれど夜になると、空気はまだ容赦なく冷たい。吐く息が白く見えるほどではないが、指先に触れる風は、冬の終わりを簡単には信じさせてくれなかった。陸斗は自席の画面を落として、ゆっくりと息を吐いた。この数日、頭の中のどこかにずっと、あの夜の会話が引っかかっている。選ぶのはお前だ。そう言われた瞬間の痛みは、まだきれいに抜けていない。少しでも引き止めてくれたら楽だった。残れと言ってくれたら、その言葉を言い訳にできた。けれど征司はそうしなかった。今の自分なら、自分で選べるはずだと、逃げ道ごと差し出さずに返してきた。それが信頼だと、頭では分かっている。分かっているからこそ、痛い。誰かのせいにできなくなった選択は、思っていたより重かった。仕事中はそれを忘れていられる。資料を見ていればいい。電話を取ればいい。朝比奈フーズの確認事項を詰めていれば、余計なことを考えずに済む。だが、人が減り、音が減り、夜が深くなると、どうしてもそこへ戻される。自分は、どこで立ちたいのか。戻れる場所がある。それは本気で魅力的だ。昔の自分なら、考えるまでもなかった。なのに今は、その魅力と同じだけ、この支社の机や、現場の声や、雪の中で組み直してきた仕事の手触りが胸に残っている。そして、その中心に征司がいることも、もう見ないふりができない。鞄へ手を伸ばしかけたとき、部長席のほうで椅子が動く音がした。顔を上げると、征司が立っていた。ジャケットを椅子の背へ掛け、袖口を一度だけ直す。その何でもない所作に、陸斗の胸がまた少しだけ狭くなる。最近はこういう些細な動きほど、目に入ってしまう
部屋の扉が閉まってから、しばらくどちらも動かなかった。外の路地では湿った夜気がまとわりついていたのに、室内の空気は整いすぎるほど整っている。空調の効いた静けさの中に、真っ白なシーツの匂いと、洗いたてのタオルの乾いた匂いが薄く混じっていた。遠くで車が走る音がして、それがかえってこの部屋の密閉された静けさを際立たせる。陸斗は入口の内側で立ったまま、肩から力を抜かないようにしていた。ここまで来たのだから、今さら怯んだ顔はしたくない。そう思うほど、喉の奥は乾いていく。緩めたネクタイの結び目を、また無意識に指先でいじってしまう。自分で決めたのだ。帰ら
男はそれ以上、何も急かさなかった。それがかえって厄介だった。店の奥まったほうへ視線を流し、戻してくる。その一連の動作に無駄がなく、陸斗へ何かを強いる気配もないのに、次にどちらへ動くかはもう決まっているように見える。先に歩き出したのは男のほうだったが、それは陸斗を引っぱるためではなく、こちらがついてくるかどうかを待てる速度だった。陸斗は一瞬だけ、その背中を見た。広すぎないが、薄くも見えない肩。コートの背に無理な皺がなく、歩幅は一定で、急がない。人を待たせることにも、追わせることにも慣れている歩き方だった。焦りがない。ここで誰か
店内の暗さに目が慣れるまで、陸斗は入口のすぐ内側で一度だけ立ち止まった。外の路地にあった色つきの灯りよりも、ここはさらに明るさが低い。完全に暗いわけではないのに、光が物の輪郭をはっきりとは結ばず、人の顔も体も、どこか曖昧なまま浮いている。低く流れている音楽は、曲として耳に入るというより、空気の粘度を少しだけ上げるために流れているようだった。酒と香水と、布越しの体温が混じった匂いが、外よりも近い距離で肌に触れてくる。来てしまった、という自覚は、扉を閉めた瞬間よりも、その暗がりの中で自分が見られていると気づいた瞬間に強くなった。何人かの男がいた
金曜の夜の東京は、どこまでも明るかった。再開発されたばかりの街区を囲うガラスの壁面は、夜になっても昼の名残を手放さない。高層ビルの低層階にはまだ人の気配が満ち、エントランスの白い床には、行き交うスーツ姿の影が硬質な光の中に薄く映っていた。遅い時間だというのに、ロビーの空気は整いすぎていて、温度まで管理されているようだった。少し甘いルームフレグランスの匂いと、磨かれた床の乾いた清潔さが、ここが“ちゃんとしている人間”のための場所だと無言で告げている。その自動扉を抜けたとき、三沢陸斗はようやく背中に入っていた力を少しだけ抜いた。もっとも、抜いたつもりになっただけで、実際には肩のあたりに張り