เข้าสู่ระบบ部屋の扉が閉まってから、しばらくどちらも動かなかった。
外の路地では湿った夜気がまとわりついていたのに、室内の空気は整いすぎるほど整っている。空調の効いた静けさの中に、真っ白なシーツの匂いと、洗いたてのタオルの乾いた匂いが薄く混じっていた。遠くで車が走る音がして、それがかえってこの部屋の密閉された静けさを際立たせる。
陸斗は入口の内側で立ったまま、肩から力を抜かないようにしていた。
ここまで来たのだから、今さら怯んだ顔はしたくない。そう思うほど、喉の奥は乾いていく。緩めたネクタイの結び目を、また無意識に指先でいじってしまう。自分で決めたのだ。帰らないと答えたのも、自分だ。そう言い聞かせるたびに、むしろそれが必要なほど落ち着いていないのだと知らされる。
男は扉の前に立ったまま、すぐには近づいてこなかった。
コートを脱ぎ、椅子の背へ静かに掛ける。時計を外す。そのひとつひとつの動作に急ぐ気配がない。ここまで来れば、たいていはもっと分かりやすく距離を詰めるものだと陸斗は思っていた。だがこの男は違う。触れる前の一拍を、必要以上に長く取る。その待ち方が、妙に圧になる。
陸斗は耐えきれず、先に口を開いた。
「……ずいぶん慎重なんだな」
少し笑ってみせたつもりだった。軽く、余裕があるふうに。けれど自分の声がわずかに硬いことは、言い終えた瞬間に分かった。
男はそれを指摘しない。
ただ、短くこちらを見た。
その視線に、陸斗はまた腹の奥がざわつく。欲望が剥き出しの目ではない。値踏みする目でもない。静かに見ているだけなのに、自分のどこへ力が入っているかまで正確に掴まれている気がする。
「怖いか」
低い声が、無造作に落ちてくる。
問い詰める言い方ではない。ただ事実を確かめるような声だった。だからこそ、陸斗は反射的に否定したくなる。
「別に」
即答した声は、思ったより少しだけ鋭かった。
男はそれに小さく目を細めたように見えた。笑ったわけではない。けれど、軽く受け流された気がして、陸斗は余計に意地になる。
「そういうの、いちいち聞くんだ」
「聞いたほうがいいことは、聞く」
それだけ言って、男がようやく一歩だけ近づいた。
たった一歩なのに、呼吸が変わる。
距離が縮まったせいだけではない。この男は、触れる前からもうこちらの呼吸を奪いにくる。陸斗は視線を逸らしたくなかった。逸らしたら終わる気がした。だから真っ直ぐ見返す。見返しているつもりなのに、近づくほど、相手のほうが一枚上だと分かる。
男の手が、緩めたネクタイに触れた。
その瞬間、陸斗の肩がかすかに強張る。
自分でも分かるほど、反応が早かった。たったそれだけの接触なのに、指先の温度が布越しに伝わってきた途端、喉元の皮膚が急に敏感になる。ネクタイをほどく動作は丁寧で、急がず、乱暴さがない。そのことが余計に逃げにくい。
「力、入りすぎてる」
囁くでもなく、ただ近い位置でそう言われる。
陸斗は言い返そうとして、できなかった。喉が思うように動かない。ネクタイが解かれ、襟元がわずかに開く。そこへ室内の少し冷えた空気が触れて、自分の皮膚が熱を持っていることに気づく。
見抜かれている。
その感覚が、遅れて胸に刺さる。
可愛いからでも、若いからでもない。この男は、陸斗が無理に平気な顔をしていること、その奥でひどく張りつめていること、そのどちらも最初から見抜いていた。見抜いた上で、からかいもせず、雑に扱いもせず、逃げ道だけ残してここまで来た。
それがひどく屈辱だった。
遊びのつもりだった。少なくとも、そういう形にして済ませるつもりだった。誰にも知られず、明日にはなかったことにできる夜。そういう場所に自分を置けば、少し壊れても軽く済むはずだった。
なのにこの男は、軽く済ませることを許してくれない。
頬に指先が触れる。
陸斗は思わず目を細めた。触れ方があまりに静かで、一瞬遅れてから反応が追いつく。相手は面白がって壊そうとしているのではない。ただ、反応を確かめながら距離を詰めてくる。その慎重さが、むしろ逃げ場をなくしていく。
「まだやめられる」
男が言う。
近い距離で、落ち着いたまま。
陸斗はその一言に、かえって腹が立った。
今さらだ。ここまできて、まだ選ばせるのかと思う。優しさのふりをしているわけではないのも分かる。本気でそう言っているから、なおさら苛立つ。自分だけが落ち着かなくて、自分だけが揺れていて、そのうえ決めるのまでこちらの役目にされるのが、悔しかった。
「……やめない」
言うと、男は一拍だけ黙った。
その沈黙が、了承よりも深く感じられる。
次に触れてきたとき、陸斗はもうさっきほど平気な顔ができなかった。肩へ置かれた手の重み、首筋にかかる息の気配、近づくたびに濃くなる清潔な香り。ひとつひとつは静かなのに、その全部が神経に近すぎる。唇が触れたとき、陸斗の呼吸ははっきり乱れた。
それで初めて、自分の虚勢が少し剥がれたと分かった。
大丈夫なふりをする余裕が、一瞬遅れて落ちていく。
陸斗はそれを誤魔化したくて、わざと挑むように相手の肩へ手を掛けた。受け身にはならないつもりだった。最後まで、簡単には飲み込まれたくなかった。けれど男は、その手を振り払わない。ただ受け止める。受け止めたまま、こちらの意地まで含めて包むように近づいてくる。
それが一番、きつかった。
意地を張っていることごと見透かされている。強がっていること、怖がっていること、逃げたくないこと、その全部を見た上で、壊さずに詰めてくる。乱暴ではないのに、主導権は最初から最後まで渡されない。
陸斗は何度か言葉を返しかけて、結局できなかった。
息が浅い。視線が合うたび、相手は何も言わないのに、今どれだけ余裕がないか知らされる。触れられるたびに、身体のほうが先に反応するのが悔しい。悔しいのに、それでも離れようとは思わない。離れたら、自分の意地のほうが先に折れる気がした。
ベッドの白さが視界の端で揺れる。
真っ白なシーツは不思議なくらい整っていて、そこへ自分たちの体温だけが持ち込まれていく。浴室のどこかで配管の音が小さく鳴り、外の道路を走る車の音が遠くへ流れる。その現実感の中で、男の気配だけがやけに近い。
陸斗は途中で、自分が雑に扱われていないことに気づいてしまった。
それは本来、安心につながるはずだった。強引ではない。急がない。反応を確かめる。嫌なら戻れる位置をぎりぎりまで残してくる。そういう相手なら、むしろ気持ちは軽く済むはずなのに、陸斗には逆だった。
雑に消費されなかったことが、傷になる。
適当に扱われて、軽く忘れられる一夜なら、こちらも明日には切り離せたかもしれない。けれどこの男は違う。ちゃんと見て、ちゃんと触れて、こちらの脆さごと受け止める。そのせいで、この夜だけがきれいに切り離せなくなる気がした。
唇が離れたあとも、距離は近いままだった。
額が触れそうな位置で、男が短く息を吐く。その落ち着いた気配が、かえって陸斗の内側を乱す。自分ばかりが呼吸を荒くしているみたいで、ひどく恥ずかしい。けれど相手は、その乱れを笑わない。可愛がるような言葉もない。ただ静かに受け止める。
それが救いではなく、屈辱になる。
自分だけが遊びのつもりで、相手は最初からこちらの奥まで見ていたみたいではないか。そう思った瞬間、胸の奥に熱と一緒に痛みに似たものが走る。奪われた、というほど乱暴ではない。けれど、守っていたつもりの何かを、静かにほどかれてしまった感覚は確かにあった。
どれくらい時間が過ぎたのか分からない。
張りつめていたものが一度大きくほどけたあと、陸斗はしばらく目を開けられなかった。呼吸だけがやけに近い。耳の奥で自分の鼓動が遅れて鳴っている。シーツに落ちた自分の手が少し震えているのが分かる。隣には、まだ男の気配がある。
その落ち着いた存在感が、余計に腹立たしい。
どれだけ乱れたか、自分だけが知っている。相手は何も大げさに言わないし、勝ち誇ることもしない。だからこそ、自分のほうがどれだけ見抜かれていたかだけが残る。
しばらくして、男がごく低い声で言った。
「水、飲むか」
それだけだった。
甘い言葉でもなく、余韻を語る声でもない。あまりに普通の一言で、陸斗はうまく返事ができなかった。喉が乾いているのは事実だった。だが、欲しいのは水ではなく、もっと別の何かだったのかもしれないと、そんなふうに思ってしまう自分が鬱陶しい。
「……いらない」
ようやくそれだけ返す。
男は無理に勧めず、少しだけ体を離した。その距離ができたことに安堵するくせに、同時に、その温度が遠のくことに奇妙な空白を覚える。陸斗は苛立って、顔を背けた。
遊びのつもりだったものが、遊びでは終わらなくなっている。
そのことだけが、はっきり分かる。
部屋は静かだった。空調の音が一定に流れ、遠くでまた車の気配がした。真っ白なシーツの上で、自分の呼吸だけがやけにうるさい。乱れたそれを整えようとするほど、さっきまでの沈黙や視線や、触れられたときの感覚が鮮明になる。
その傍らに、男の落ち着いた気配がある。
何も言わず、必要以上に寄りかからず、けれど完全には離れない位置にいる。その静けさのせいで、陸斗の胸の奥に残った屈辱は、熱が引いたあとも少しも薄くならなかった。
笑いの余韻は、意外なくらい長く部屋に残った。さっきまでクッションを抱えてソファの端へ逃げていた陸斗は、ようやく少しだけ身体の力を抜いたものの、頬の熱だけはまだ引かないままだった。征司の前では隠しようがないと分かっていても、今さら平然とした顔に戻ることはできない。食後のテーブルの上には空いたグラスと、つまみの袋と、途中で食べるのをやめたナッツの小皿が置きっぱなしになっている。テレビの音はいつの間にか小さくなり、窓の隙間から入る四月の夜気が、火照った肌にだけやさしく触れていた。征司はソファにもたれたまま、まだ少し笑みの名残を口元に残している。その顔を見るだけで、陸斗はまた恨めしくなる。「……そんなに面白いですか」「面白いというより」「より、何ですか」「可愛い」あまりにも迷いなく言われて、陸斗は反射でクッションを抱き直した。「部長」「ん」「そういうの、急に言わないでください」「急じゃないだろ」「急です。十分急です」征司はそこでまた小さく笑ったが、さっきみたいにからかう色はもう薄い。その笑いが静かに落ちたあと、部屋の空気も少しずつ深くなっていくのが分かった。春の夜は、冬みたいに鋭くない。けれどやわらかいだけでもなくて、何かを隠すには少し冷たい。笑ったあとの沈黙は重くないのに、ふとした拍子に相手の視線だけがくっきり見える。陸斗はクッションを膝に置いたまま、テーブルの端に視線を落とした。気まずいわけではない。ただ、さっきの「忘れるわけないだろ」が、思った以上に深く残っている。あの夜は、忘れられるような夜ではなかった。その言葉の意味を、胸の奥がまだゆっくり受け取り続けていた。何か言ったほうがいいのかもしれない。そう思うのに、下手なことを言えば今のやわらかい静けさを壊しそうで、陸斗は口を開けずにいた。沈黙は続く。けれど以前の自分なら耐えられなかったはずのその時間が、今はただ少し熱を持って流れていくだけだった。征司がグラスをテーブルに置く。氷が小さく音
食べ終えたあとの部屋は、少しだけ油断した空気をしていた。ローテーブルの上には空になった惣菜の容器と、食べかけのナッツ、小皿に残った数枚のクラッカー。陸斗の前には半分ほど減った缶チューハイ、征司の手元には氷の溶けかけたグラスがある。暖房の熱はやわらかく、窓を少しだけ開けているせいで、春の夜気が薄く混じっていた。四月の風は冬みたいに刺さらない。けれど、完全にぬるんだわけでもなくて、火照った頬にちょうどいい冷たさだった。テレビはついているが、音は低い。画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を壊さない。会話は途切れ途切れで、それでも気まずさはない。食後の緩んだ沈黙が、もう二人のあいだでは沈黙として落ちないところまで来ていた。陸斗はソファの背にもたれ、足を少し崩した。征司の部屋着の袖が、グラスを持ち上げるたびに手首の骨を浮かせる。そういう何でもないものが視界に入るのも、今では珍しくない。珍しくないはずなのに、たまにふいに意識してしまうのは、まだ完全に慣れきってはいないからだろう。「部長」何となく呼ぶと、征司はテレビから目を離さずに「ん」と返した。「冷蔵庫にプリンありますよ」「さっき見た」「食べないんですか」「お前が買ってきたんだろ。お前が食え」「俺、もう一個食べたら太ります」「そんなこと気にするのか」「しますよ、一応」征司がそこで初めて視線を向けてきた。その目が、わずかに面白がっているように見えて、陸斗はマグカップの縁を指でなぞった。「部長こそ、そういうの気にしなさそうですよね」「必要なら気にする」「必要ないってことですか」「今はな」淡々と返される。そういうところがずるい。言葉は少ないのに、言われたほうだけが少し落ち着かなくなる。陸斗は小さく口を尖らせてから、わざとらしくではない程度に身体を寄せた。テーブルの上のプリンのスプーンを取るふりをして、征司の膝に触れそうなくらいの位置まで近づく。最近の自分は、ときどきこういうことをする。征司相手にだけ出る、少しだけ
食べ終えたあとの部屋は、さっきまでより少しだけ静かだった。テーブルの上には、使い終えた小皿と、半分ほど残った缶ビール、デザートのプリンの空き容器。温め直した総菜の匂いはもう薄れて、代わりに洗剤と、少しぬるくなった室内の空気が混ざっている。テレビはついていたが音量は低く、画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を乱すほどではなかった。陸斗は皿を重ね、キッチンへ持って行く。征司はグラスを一つ持って後ろに続き、流しの脇へ置いた。「部長、これ洗います」「いい。あとでまとめる」「今やったほうが楽じゃないですか」「お前、毎回それ言うな」「毎回、結局あとで面倒くさそうにしてるからです」征司は短く息だけで笑って、「うるさい」と言った。その言い方が少しだけ柔らかかったから、陸斗もつられて笑う。こういう何でもないやり取りが、もう珍しいものではなくなっている。初めてこの部屋で夜を過ごした頃なら、洗い物をするかどうかでこんなふうに口を交わす余裕はなかった。今は違う。どちらがどこまで手を出すかも、どこで引くかも、わざわざ相談しなくても何となく分かる。結局、皿は流しに浸けるだけにして、二人はリビングへ戻った。征司が冷蔵庫から新しいビールを出し、陸斗は自分用のマグカップに湯を注ぐ。夜も更けてきたので、陸斗は途中から温かいものが飲みたくなることが多い。征司はそれを知っていて、何も言わず棚の上の青いマグカップを取った。最初の頃は、その自然さだけでいちいち胸がざわついていたのに、今ではそのざわつきの上に、少しだけ落ち着きが乗っている。ソファの片側へ陸斗が座る。征司は肘掛けに片肘を預けるようにして、少し距離を空けて座った。その距離も、最近はもう説明がいらなかった。近すぎればそれで落ち着かないし、離れすぎれば何となく物足りない。その真ん中が、二人の中にできている。「部長、今日、朝比奈さんからまた追加のメール来てました」陸斗がマグカップを両手で持ちながら言うと、征司はビールをひと口飲んでから視線だけを向けた。「見た。来週の試食会、向こうの製造主任も入るらしいな」
四月の夜は、冬の名残をまだ少しだけ持っていた。駅前の灯りはやわらかく、人の流れにももう年末や異動前の尖った気配はない。けれど風が吹くと、ジャケットの裾から入る空気がひやりとして、完全に春へ切り替わったわけではないと分かる。その中途半端さが、どこか今の自分たちに似ているようで、陸斗は歩きながらひとりで少しだけ苦笑した。手にはコンビニと駅前のスーパーで買った袋が下がっている。缶ビールが二本、惣菜がいくつかと、征司が好きだと言っていた少し固めのプリン。高級な手土産でも何でもない。ただ、仕事帰りではない週末の夜に、部屋で食べるものを買っていく。それだけのことなのに、こうして目的地があることが、まだ少しだけくすぐったい。一度きりなら、こんなふうにはならなかっただろう。何を持って行くかなんて考えもしない。行った先に何があるかも、朝になったらどうなるかも、気にしないで済む夜だった。けれど今は違う。今夜の先に明日があることを知っている。次の週末も、その次も、会おうと思えば会えることを、もう知っている。だから足取りは以前より落ち着いているのに、部屋へ向かう最後の曲がり角に差しかかるたび、胸の奥だけが少しだけ落ち着かなくなる。自分でも呆れる。もう何度も来ているはずなのに。オートロックを抜け、エレベーターを降りる。廊下は静かで、どの部屋の前も変わりない夜の気配しかないのに、この先だけが自分に関わる場所なのだと思うと、無意味に背筋が伸びた。インターホンを押して、ほどなくして開いたドアの向こうに征司がいる。部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っただけの姿だった。ネクタイも革靴もないぶん、会社で見るよりいくらか柔らかく見えるのに、本人はその自覚がまるでなさそうな顔をしている。「遅かったな」第一声はそれだった。特別に甘くもなく、咎めるほどでもない、いつもの低い声。「スーパー寄ったので」陸斗が袋を少し持ち上げて見せると、征司はそれを一瞥してからドアを大きく開けた。「寒かったか」「外、まだちょっと冷えます」「入れ」その自然さに、陸斗はまた少しだ
朝の空気はまだ冷たかった。三月の終わりだというのに、吐く息は薄く白く、路肩に寄せられた雪はまだ完全には消えていない。けれど真冬の白さとは違っていた。雪解けの水が縁石に沿って細く流れ、夜のあいだに凍りかけたそれが、朝の弱い光の中で少しずつほどけていく。空も、冬の底で見上げていた重い灰色ではなく、どこか奥のほうで色を戻しかけている。春はまだ遠い。けれど、冬だけに閉じていた時間は終わりに向かっている。陸斗はコートの襟を指で整え、しばらく立ち止まって空を見た。胸の奥にあった迷いは、ここ数日で何度も形を変えた。欲しかったはずのものを前にして足が止まったことも、自分でも信じがたかった。以前の自分なら、考えるまでもなかったはずだ。本社へ戻る。東京へ戻る。名誉を取り返す。失敗を上書きする。そういう言葉だけで、十分に救われたと思えただろう。それでも今の自分は、そこへ手を伸ばせない。伸ばせない理由を、最初は征司ひとりに押しつけかけた。あの人がいるから迷うのだと、そう言ってしまえれば楽だった。けれど違うと、ここまでの時間が何度も思い知らせてきた。支社の机。冬の朝のコピー機の音。水沢の足音。斎賀の短い確認。久住の大きな声。朝比奈フーズの工場の匂い。冷凍倉庫の白い息。雪の中を走る便の遅れ。電話越しの、現場が静かに嫌がる温度。そういうものをひとつひとつ知ってしまったあとでは、戻ることはもう、ただ「上」へ戻ることではなくなっていた。今の自分が、どこで立ちたいのか。問うべきはそれだけだと、ようやく腹の底で分かり始めている。陸斗は歩き出した。靴底が薄く濡れた舗道を踏む。まだ刺すような冷たさの残る朝だったが、今日はそれが不思議と嫌ではなかった。決めなければならないことがある朝の空気は、妙に澄んでいる。支社へ入ると、いつもの音が迎えた。コピー機が一度低く唸り、誰かの引いた椅子の脚が床を擦る。水沢がファイルを抱えてカウンターの向こうを横切り、久住の「その便、先に押さえといてくれ」という少し大きめの声が奥から飛ぶ。斎賀が電話口で短く要件だけを切っている。暖房の名残の乾いた空気の中で、もう四月を前にした慌ただしさが
夜の支社は、昼間よりずっと広く見えた。日中は誰かの声や電話やコピー機の音で埋まっていた空間が、定時を過ぎると急に余白ばかりになる。暖房の残り香と、長く使われた紙の乾いた匂いだけが、机と机のあいだに薄く残っていた。窓の外はもう暗い。駐車場の端に寄せられた雪の山は黒く沈み、その足元で雪解けの水だけが街灯を拾って鈍く光っている。春は近いはずだった。天気予報はそう言い、日中の光も少し前よりやわらかくなっていた。けれど夜になると、空気はまだ容赦なく冷たい。吐く息が白く見えるほどではないが、指先に触れる風は、冬の終わりを簡単には信じさせてくれなかった。陸斗は自席の画面を落として、ゆっくりと息を吐いた。この数日、頭の中のどこかにずっと、あの夜の会話が引っかかっている。選ぶのはお前だ。そう言われた瞬間の痛みは、まだきれいに抜けていない。少しでも引き止めてくれたら楽だった。残れと言ってくれたら、その言葉を言い訳にできた。けれど征司はそうしなかった。今の自分なら、自分で選べるはずだと、逃げ道ごと差し出さずに返してきた。それが信頼だと、頭では分かっている。分かっているからこそ、痛い。誰かのせいにできなくなった選択は、思っていたより重かった。仕事中はそれを忘れていられる。資料を見ていればいい。電話を取ればいい。朝比奈フーズの確認事項を詰めていれば、余計なことを考えずに済む。だが、人が減り、音が減り、夜が深くなると、どうしてもそこへ戻される。自分は、どこで立ちたいのか。戻れる場所がある。それは本気で魅力的だ。昔の自分なら、考えるまでもなかった。なのに今は、その魅力と同じだけ、この支社の机や、現場の声や、雪の中で組み直してきた仕事の手触りが胸に残っている。そして、その中心に征司がいることも、もう見ないふりができない。鞄へ手を伸ばしかけたとき、部長席のほうで椅子が動く音がした。顔を上げると、征司が立っていた。ジャケットを椅子の背へ掛け、袖口を一度だけ直す。その何でもない所作に、陸斗の胸がまた少しだけ狭くなる。最近はこういう些細な動きほど、目に入ってしまう
会議が終わっても、陸斗の中では何ひとつ終わっていなかった。資料の束が閉じられ、椅子が引かれ、会議室の空気がゆるむ。斎賀は何事もなかったように次の書類を抱えて立ち上がり、水沢はメモをまとめながら、午後の電話の段取りを口にしている。誰も再会の衝撃に取り残されていない。取り残されているのは、陸斗だけだった。窓の外は相変わらず白い曇り空で、春の明るさだけが空へ薄く貼りついている。暖房の残りが少し乾いた空気を作っていて、喉の奥がやけに渇く。会議室の中は特別に暑くも寒くもないのに、陸斗の内側だけが妙に熱を持っていた。成田征司は、もう次の仕事へ視線を向け
会議は、驚くほど何事もなく始まった。陸斗の内側では、ついさっきまで息の仕方すら分からなくなるほどの衝撃が走っていたのに、会議室の空気はそのどれひとつとして拾わない。資料が机に置かれ、椅子が引かれ、誰かがノートを開く。曇った午前の白い光が窓に貼りついたまま、室内を平たく照らしている。暖房の残りが少しだけ乾いた空気を作っていて、それが喉の渇きを余計に強くした。成田征司は、会議室の端に立ったまま資料を一度めくり、必要な箇所だけを目で追った。動きに無駄がない。急ぎもせず、もたつきもしない。周囲の人間がそれを待つことに慣れているのが分かる。視線を落と
「部長、戻られました」その一言が落ちた瞬間、会議室の空気がほんの少しだけ締まった。誰かが手元の資料を揃える。椅子の脚が床を擦る音が短く鳴って止む。さっきまで執務室のほうから聞こえていた電話の声も、ここまで来ると遠い。曇り空の白い光が窓に薄く貼りつき、会議室の空気を平板に照らしている。春の午前の明るさのはずなのに、色温度は低いままだった。暖房の名残が少しだけ室内に残っていて、それがかえって喉の奥を乾かせる。陸斗は資料の束を手にしたまま、自分でも分からないうちに背筋を伸ばしていた。理由のある緊張ではなかった。まだ顔を見てもいない
席に着いてしばらくしても、陸斗はまだこの職場の流れの中へ自分が入れていないことを、嫌というほど思い知らされていた。パソコンは立ち上がっている。支給された内線表も、フロア図も、今日の簡単な流れを書いた書類も机の上に並んでいる。名刺は左手側、筆記具は右、資料は手前から読む順に揃えた。整えすぎだと自分でも思う。思うのに、そうしていないと落ち着かない。手元の角度だけでも正しておかなければ、自分だけがこの場で浮いている感覚に耐えられなかった。曇り空の光が窓から白く差し込んでいる。春の明るさではあるのに、空気の色はどこか冷たい。フロアの照明と混じったそ







