Mag-log in悠人は目を細め、信じられないといった顔で、しばらく黙り込んでいた。「そんなことで、そこまで冷たくなれるのか。俺が1600万、お前に払わせた件か」そう言ってスマホを取り出すと、2千万の振込を完了させた。「……これで足りるか」平手打ちが悠人の顔に飛んだのは、その直後だ。場がしんと静まり、自分の鼓動だけが耳に響く。悠人は苛立ちを顔に浮かべたが、それでもまだ怒りを爆発させはしなかった。「じゃあ、別の理由か。言え。説明してやる。それでわがままをやめよう」昔ならそうだった。どれだけ喧嘩をしても、一日も経てば元通りになると、彼は本気で思っていた。だが今の私は、もう二度と許さない。私は苦く笑った。「気持ちが離れてる証拠なら、いくらでもある。でも、もういい。今さらそんな話をしても、意味がない」「離れてない!」食い気味に否定する声が飛んでくる。「なんで俺が気持ちを離したことになる。これだけ必死なのに、伝わらないのか」ふっと息を吐いて、玲衣のSNSに保存していた投稿を開き、画面を突きつけた。どうやら私だけが見られる設定にしてあったらしい。「私より、ずっと玲衣に入れ込んでたじゃない」投稿の数々に目を走らせた悠人の表情が、見る間に強張っていく。「ちが……違う。説明させてくれ」私は手を挙げて、その先を遮った。「やめて。これ以上話すほうが、見苦しいよ」反論させないうちに、背を向けて階段を上がった。それからの数日、悠人はずっとホテルの入口で待っている。何も言わず、ただ私が出かけ、帰ってくるのを見つめるだけだった。かつて心をときめかせた思い出は、今では吐き気がするだけのものに変わっていた。玲衣から電話がかかってきたのは、そんな日だった。「ひとみ、お願い。社長にとりなして。私、この仕事を失うわけにはいかないの。父の借金もあるし、うちの事情、ひとみも知ってるでしょ」声はこれまでにないほど細く、縋るような響きがあった。昔からそうだ。何か失敗するたびに、私に泣きついてくる。私はいつも、それでも許してきた。でも、その許しも繰り返すうちに、とっくに限界を超えていた。「私たち、もう友達ではいられないって、わかってるでしょ」電話の向こうで一瞬の沈黙。それから、濡れた声になった。「じゃあ、私の味方はしてくれない
あれから3か月が経ち、新しい職場での仕事は順調だった。悠人から、あの1600万円が口座に戻されていた。短いメッセージが添えてある。【濡れ衣を着せて悪かった。いつ帰る?】今さら謝られても、何の意味もない。返信せず、そのまま仕事に戻った。穏やかな午後、ウェディングプランナーからまた電話がかかってきた。「星河さま、ウェディングドレスの細かいご要望を改めてお伺いしたく、デザイナーに指示を出しますので」わけがわからず、問い返す。「式はキャンセルしたはずですが」電話の向こうは構わず続ける。「ですが、綾瀬さまが式は予定どおり進めるとおっしゃっていて。ちょっとした喧嘩をしただけで、すぐに仲直りするからと。綾瀬さま、本当に熱心に準備を見てらっしゃいますよ。星河さまはお幸せですね」思わず、笑いがこぼれた。あの男と一緒にいることが本当に幸せだったなら、あの場所を捨てて、こんな遠くまで来ていない。私は一言一言、はっきりと告げた。「私はもう彼とは結婚しません。式は誰と挙げても構いません。私にはもう一切関係ありません。そう、あの男に伝えてください」そう言って電話を切った。だが、すぐに同じ番号から着信がある。出てみれば、相手は悠人だった。「ひとみ、今の話はどういう意味だ。誰と挙げても構わないって?俺が結婚したいのはお前だけだ。そこらの誰かじゃない。俺のことをなんだと思ってるんだ」私の声は冷めきっていた。「こっちが聞きたいくらい。私のことをなんだと思ってるの。私はあなたが結婚したいときに結婚すればいいような存在じゃない。そういう独りよがりなことは、もう結構。ありがた迷惑です」電話の向こうで少し間が空いた。それから、かすれた声が絞り出された。「ここまで言ってやってるのに、まだわからないのか。今どこにいる。早く戻ってこい」悠人は、私が無条件に彼を愛することに慣れきっていた。いつでも自分の掌の上にいると信じて、好き勝手に距離を取ったり縮めたりしてきたのだろう。だが、それは私が彼を愛していたときの話だ。自分の声が、驚くほど落ち着いているのがわかった。「私たちは別れたの。もう二度と、そんな命令口調で話さないで」受話口から何か言い返すより先に、通話を切った。プランナーからは、ドレスのサンプル写真がメールで届いていた
悠人の頭がまっ白になった。まさか、ブロックされたのか。「そんなはずは……」信じられず、何度かかけ直してみた。結果は同じだった。メッセージも送った。【ただの誤解だ。そこまでするか?ちゃんと話そう】送信できても、既読がつくことはない。「ひとみ……」玲衣は一瞬、口元をゆるめた。それを必死に押し隠しながら、声を潜めて言う。「どうやら本気で怒ってるみたいね。今夜、あなたの家に行って謝る。あの子は心が広いから、きっと許してくれるよ」悠人の耳には、その言葉すら入っていなかった。ひとみにブロックされたことも、これほど長く無視されたことも、今まで一度もなかった。退勤後、玲衣が当たり前のように悠人の車に乗り込んでくる。「私がきちんと謝れば機嫌も直るよ。でも仕事の件だけは許して。私、本当にこの仕事を失うわけには……」悠人はさらに苛立ちを募らせ、もう一度、はっきりと言い渡した。「決めたことは変わらない。誰が何と言おうと。お前、よくもあんな真似ができたな」怒りの矛先を玲衣に向けたまま、帰路を急ぐ。途中、車を停めてケーキ屋に寄った。店主が愛想よく声をかけてくる。「綾瀬さん、また彼女にケーキですか。お幸せですね!いつものマンゴー味にしますか」胸がざわついた。長い間、玲衣にマンゴーケーキを買うのが習慣だった。だが、ケーキが好きだったのはひとみで、彼女はマンゴーを食べられなかったのだ。「マンゴーはいらない。イチゴで」ケーキの箱を手に家へ着く。靴を脱ぎながら、すでに謝罪の言葉が口をついていた。「ひとみ、ブロックするなんてひどいだろ。あの件は俺が誤解してた。悪かった。玲衣もわざわざ謝りに来てるんだ。機嫌を直せよ。ケーキも買ってきた……」そう言いながら寝室のドアを開けて、その場に立ち尽くす。――いつも物で溢れていた部屋が、がらんとしている。ひとみの私物が、きれいに消えていた。「ひとみ……」手に持っていたケーキの箱が、床に落ちた。物音に気づいて駆けつけた玲衣が、わざとらしく驚いた顔を作る。「ひとみ、家出しちゃった?」「そんなはずはない!」悠人の声が、急に大きくなる。「こんなことで家出をするもんか。あいつはそんな理不尽な真似をする奴じゃない!」昔のひとみなら、食ってかかってきても、黙って消え
玲衣からプロジェクトの説明を受けている間、悠人は上の空だった。玲衣が咳払いをする。「まだひとみのこと、気にしてるの?」「……ああ」声はひどくかすれていた。「俺は、あいつを誤解したんじゃないか。これまでずっと会社に尽くしてきた奴だ。本当に裏切るような真似をすると思うか」無実を訴えるひとみの姿が、頭から離れなかった。玲衣はぎこちなく笑ったままだったが、その目は冷めている。「私も、ひとみがあんなことするなんて思わなかった。でも、私があの子のポジションを奪ったから、恨んでるのかもしれないね……」「お前にはお前のキャリアプランがある。それが悪いわけがない。それに、俺とひとみはいずれ結婚するんだ。あいつは家にいたほうが楽だろう」玲衣の笑みが、一瞬だけ引きつった。そこへ、警察がオフィスに踏み込んできた。「この会社で窃盗事件が起きたと通報がありました」玲衣は一瞬息を止めたが、すぐに慌てて前に出た。「この件はもう社内で解決しています。お引き取りください」先頭の刑事が淡々と告げた。「星河ひとみさんからの通報でしてね。身に覚えのない窃盗の罪を着せられ、さらに1600万円を脅し取られたと」悠人は眉をひそめた。「ひとみが、通報を?」玲衣がしつこく帰そうとするのを、少しの間を置いてから遮る。「やはり調べていただきたい。お願いします」捜査が進んだあと、刑事たちの視線は玲衣に注がれた。「社外秘資料室に出入りし、御社のライバル企業と頻繁に接触していたのは、星河ひとみさんではありません。彼女は濡れ衣です」悠人は愕然として、監視カメラの映像と通話履歴を確認した。こそこそと社外秘資料室に出入りしていたのは、ほかでもない、玲衣だった。「どうして……どうしてお前が?」玲衣は激しく手を振って否定した。「本当に私じゃ……」だが、その目の奥に走った動揺を、悠人は今度こそはっきりと見て取った。信じられないというように、彼女を見つめた。「なぜひとみに罪を着せた?なぜ、あいつが盗んだと言い張れたんだ!?」刑事が口を挟んだ。「ご本人たちで話をつけますか、それとも署まで来てもらいますか」玲衣は慌てて断った。「こちらで解決しますので、どうかお引き取りください」オフィスに静けさが戻る。玲衣は泣きじゃ
翌日、言われたとおり退職届を持って、悠人のオフィスへ向かった。扉の前には同僚たちが集まっていて、一様に訝しげな目を向けてくる。執務机の後ろに座った悠人の顔は、見たこともないほど暗かった。何が起きたのかわからず戸惑っていると、玲衣が焦れたように私の腕を掴んだ。「今まであんなに仲良くしてきたのに、どうして私を落とそうなんて思ったの?ひとみが機密情報を流してるって、私に話してくれれば、警察に通報なんてしなかったのに」私はその手を振り払った。「何の話?私がいつ、そんなことをしたっていうの?」次の瞬間、悠人が勢いよく机を叩いて立ち上がった。「まだとぼけるつもりか。お前以外に誰がいる。玲衣がお前のポジションを引き継ぐのが気に入らず、彼女のプロジェクトを一晩で台無しにしたんだろう!」一瞬、頭が真っ白になり、怒りで何も考えられなくなった。「盗んだとしたら、それがどうした?あのプロジェクトは私が作り上げたものよ!」悠人は、私が逆上して白状したと受け取ったらしい。口元に、嘲るような笑みが浮かんだ。「身体検査をしろ」言い終わるが早いか、警備員が動こうとする。私は叫んだ。「自分でやる!」驚愕に目を見開く全員の視線の中で、私はブラウスの三つ目のボタンに指をかけた。オフィスの冷房がやけに強くて、指先が震えるほど寒かった。「そこまでだ!」最後のボタンに手をかけたとき、悠人が突然、声を張り上げた。「これ以上、恥を晒すつもりか」玲衣がすかさず上着を私の肩にかけ、集まった社員たちに向かって深々と頭を下げた。「今回の件での損失は、すべて私が一人で責任を取ります。皆さん、どうかお許しください」その言葉に、悠人の目に憐れみがまたひとつ、深く刻まれる。「玲衣のせいじゃない。玲衣に責任を取らせるわけにはいかない」言い終えると、悠人は社長の顔で、私の前に立ちはだかった。「ひとみ、お前まとまった金を持ってるだろ。それを出して、皆の損を埋め合わせろ。同僚にお前の責任を負わせるわけにはいかない」私ははっと顔を上げた。彼がどの金のことを言っているのか、すぐにわかった。「それは母が遺してくれたお金よ!」一番苦しかった時期でさえ、その口座には一度も手をつけなかった。私が素直に従わないのを見て、悠人の残りわずかな忍耐もつ
悠人は一瞬言葉を失い、目を見開いた。しばらく私の顔をじっと見つめていたが、やがて冷たい笑みを浮かべた。「それがお前の駆け引きか。俺には通用しない。ここしばらくはやることが山ほどある。結婚のことを考えてる余裕はないし、ましてやお前に付き合って騒ぐ時間なんてない」たしかに彼は忙しい。玲衣と一緒に話題の店を巡り、あちこち旅行に飛び回っている。なのに、正真正銘の恋人である私は、喧嘩ひとつするのにも順番を待たなければならない。そう思うと、怒りを通り越して笑えてきた。悠人は、私がもう怒っていないと判断したのか、声のトーンをほんの少しだけ和らげた。「今のは聞かなかったことにする。この話は終わりだ。すぐに会議がある。秘書を迎えに行かないと」その秘書が誰なのかは、言うまでもなかった。私は背を向けて荷物をまとめ、実家へ帰る準備を始めた。そんなとき、ある女性社員が、社内LINEのグループに誤ってゴシップを流した。【さっき社長が白瀬さんと下着屋にいるの見ちゃった。試着室でホックを留めてあげてた!】メッセージはすぐに削除された。その直後、玲衣がグループに「否定」の写真を投稿した。そこには、髪が下着のホックに絡まった自分と、後ろでそれをほどく男の姿が写っている。【社長がわざわざ株主総会をずらしてまで来てくださって、窮地を救ってくれただけです。みなさん、どうか変な誤解はしないでくださいね。誰かさんが機嫌を悪くするといけないので】その写真が、何よりの証拠だった。社員たちは一斉に囃し立てる。【玲衣さんと社長って、やっぱり特別な関係なんですね。社長が会議を飛ばしたの、初めて見ました】【ひとみさんとは彼氏をシェアできるくらい仲がいいんだね】玲衣は照れた顔文字をひとつだけ送り、それを暗黙の承認とした。その写真を、私は長い間見つめていた。心が完全に壊れる瞬間は、こんなにも静かなんだな、と思った。翌日、いつもどおり出社すると、私のデスクはすでに玲衣の私物で埋め尽くされていた。「これ、どういうことですか」部長が言いづらそうに口を開いた。「社長の指示で……リストラをしなければならなくて」渡されたリストラ候補の名簿に載っていたのは、私だけだった。あまりにも馬鹿げた話で、怒りがこみ上げてきた。すぐに悠人に電話をかけた。だが