Masukすぐに戻ってきた渚の手には、ふわふわとした可憐な花柄のタオルが握られていた。
「はい、これ使って」「ありがと……」 受け取ったタオルに顔を埋めると、お日様の匂いと、微かに渚のものと同じ甘い香りが鼻腔をくすぐった。それだけでまた心臓が跳ねるのを隠しながら、濡れた髪や首筋を拭う。「気持ち悪かったりしない?」「うん。熱中症にはなってないから大丈夫」「よかった」 ホッとしたように胸をなでおろし、いつもの柔らかい笑みを浮かべる渚。玲はタオルを首にかけ、目の前の少女を眩しそうに見つめた。「渚は暑くない? いつも長袖だから」「うん。陽に焼けたくないから」「そっか」 確かに、渚の肌は透き通るように白い。けれど、もし健康的に日に焼けた渚がいたとしても、それはそれで絶対に可愛いだろうな、と玲は内心で愚直な感想を抱いていた。「あ、これ! お土産」 渚が思い出したように、大切に抱えていた小さな紙袋を差し出してきた。家を出て通学路を歩き、最初の角を曲がったところで、見覚えのある人影が立っていた。真央だ。 玲は視線すら合わせず、そのまま横を通り過ぎようとする。「玲」 名前を呼ばれても無視して歩みを進めるが、続く彼女の言葉に足を止めざるを得なかった。「相良さんと、付き合ってるの?」 玲はゆっくりと足を止め、振り向いた。その瞳には一切の温度がなく、まったく笑っていない。「……関係あるか? ないよな、お前に」「最近、男子たちが『玲の付き合いが悪くなった』って言ってるよ」 渚が苦手な男性のタイプは、男らしくてガサツで、騒がしいやつらだ。だから、そういうクラスメイトの男子たちとは学校以外での付き合いをすべて切った。セフレ関係も全員清算し、連絡先も着信拒否にしている。 もちろん、目の前にいる真央だって例外ではない。「俺たち受験生なんだから、遊んでる場合じゃないだろ」 冷淡に言い放ち、玲は真央の元から立ち去ろうとした。 しかし、不意に腕を引っ張られ、真央に手を掴まれた。「なにすんだよ」 玲は底冷えするような眼差しで彼女を睨みつけ、その手を強引に払い除ける。けれど真央は怯む様子もなく、玲を絶対に逃さないと言わんばかりに、再び力任せに手首を掴んできた。「なに?」 苛立ちを隠さず低く問い詰める玲に対し、真央は伏し目がちに、ボソッと何かを呟いた。 蝉の鳴き声に掻き消されて聞き取れず、玲は不快そうに眉間に皺を寄せる。 すると真央はゆっくりと顔を上げ、今度ははっきりとした、どこか狂気すら孕んだ声で言った。「玲には無理だよ」 一瞬、言われた意味が理解できず、玲の思考が凍りつく。 真央はゆっくりと口元を歪めた。「玲は、宮原さんで満足できない」「玲は、私に戻ってくる」 胸の奥にドス黒い毒を注ぎ込まれるような、気味の悪い呪いのような言霊。「……は?」 ゾッとするような寒気が背筋を走り、玲は吐き気を催しながら今度こそ激しくその手を振
※ ※ ※「父さん、夏休みに車の免許取りたいんだけど」 朝食のテーブル。新聞を開いていた父親が、パラリと紙面を下げて顔を上げた。「大学は東京なんだろ? なら、わざわざ車なんて乗らんだろ。免許なんて取る必要ないじゃないか」「あっても困らないって。それに、あったら身分証にもなるし……お願い」 向かいのキッチンで味噌汁をよそっていた母親が、呆れたように振り返る。「ちょっと玲、まだ受験すら終わってないのよ? 受かってから言いなさい受かってから」「……俺が大学落ちると思う?」 不敵に口角を上げてみせると、父親は「ははっ!」と痛快そうに声を上げて笑い、新聞をパタンと畳んだ。「だな! よし、いいぞ。費用は出してやるから受講の手続きしてこい」「あなたったら、甘いんだから……」 呆れる母親を横目に、玲は「サンキュー」と言ってトーストをかじった。――東京の大学に進学する理由はただ一つ。 渚が東京のデザイン科がある女子大を志望しているからだ。 渚の両親からは県外の大学へ進学することを最初は心配されたらしいが、「このままでは前に進めないから」と必死に説得し、合格したら一人暮らしを許されたと聞いていた。引っ越し先も女子専用マンションにするつもりだと言っていた。 渚が県外へ行くなら、俺も行く。 大学は違っても、東京にいればいつだって会える。渚の近くのマンションに部屋を借りよう。 そして、夏休みに車の免許を取る本当の理由。それも渚が同じタイミングで教習所に通うからだ。同じ教習所を選べば、一緒に講義や技能教習を受けられる。 それに、免許を取れば人混みを避けて渚をどこにでも連れて行ってあげられる。「教習所は、うちの近くのところで申し込むのよね?」 台所で片付けをしながら母親が聞いてくる。玲は指定の教習所の名前を口にした。「えっ……そこ、うちからだとかなり遠いわよ」 母親が渋い顔をする。
「ごめんなさい。私は玲とは付き合えません」 渚の声は震えておらず、はっきりとしていた。「私は汚い、ずっとそれが頭から離れないの。私は汚い」 その口から壊れたように零れ落ちる「汚い」という自虐の言葉。玲は衝動的に渚の両手を強く掴み取っていた。 渚が驚いて目を見開き、恐怖に身体を強張らせて怯む。けれど、今の玲にはそんな恐怖の視線すらどうでもよかった。 玲にとって、今この瞬間に何よりも重要なのは、ただ一つだけだった。「汚くない! そんなはずないだろ!」 玲は張り裂けんばかりの声で叫んだ。「俺は思わない!」 そのまま、渚の華奢な身体を強く抱き寄せた。 腕の中で、渚の身体がビクッと大きく強張るのが分かった。男性への恐怖からくる拒絶の反応。けれど、今の玲にはどうしても腕の力を緩めることができなかった。渚が自分自身を否定する言葉が、責める言葉が、どうしても許せなかった。彼女は何一つ、責められることはない。責められるべきなのは渚を傷つけた変質者であり、そいつに会わせてしまった自分だと玲は思った。あの日、この公園に約束通りに行っていれば、砂場で上級生に歯向かったように渚を守ることが出来ていたはずだから。「俺が好きな渚を、渚自身が自分のことをそんなふうに言うなよ! 傷つけるな!」 玲の胸に顔を押し付けられたまま、渚が短く喉を鳴らした。 直後、「うわーん」と、堰を切ったような大きな泣き声が公園の空気に響き渡った。 それは、かつてこの場所の砂場でお城を壊されたときに聞いた、幼い渚の泣き声よりもずっと不格好で、まるで泣き方を忘れてしまったかのように歪んでいた。 あの日から今まで、渚が声すら出さずに一人で涙を流し続けてきた孤独な時間を想像して、玲の胸は引き裂かれるように苦しくなる。 玲は渚の後頭部に手を回し、さらに強く自分の胸へと引き寄せた。コートの肩口が、見る見るうちに彼女の熱い涙で濡れていく。そんなことは少しも気に留めなかった。 だらりと力なく落ちていた渚の両手が、ぎゅっと玲の背中の生地を掴んだ。まるで唯一の命綱に縋り付くように、激しくしがみついてくる。(―
「男性全体が駄目なの。犯人に似ていないのに、お父さんでさえ身体が強張っちゃって、息が苦しくなるの。カウンセリングにも通ったけど、自分の体験を言葉にするのが嫌で、やめちゃった」 そこまで言って、渚はふっと力なく笑った。 何が面白いのか、玲には全く分からなかった。面白いことなんて、何一つとしてないのに。(――あの日、俺が約束の場所にいかなかったからだ) 自分が約束を破らなければ。自分が彼女を一人にしなければ、渚がこんな地獄に突き落とされることはなかったはずだ。 何も知らずに、渚は約束を破った自分に怒っているのだと思っていた。だから、謝罪の手紙を一日も欠かさず彼女の家のポストへ入れ続けた。 渚が再び学校へ来た時に困らないよう、その日にあった出来事も書き連ねた。「仔犬を見に行こう」「夏祭りに行こう」と、待ち合わせ場所まで指定した。 けれど、返事などあるはずがなかった。渚がそこへ来られるはずもなかった。 何も知らず、渚に許してもらおうと必死だったあの行動は全て間違いだった。 自分の行動が悲劇を生み出し、そして渚は引っ越していった。その理由を知らないまま、渚を探し求めていたのだ。 全ては、自業自得だった。 渚に好かれているかもしれないなどという淡い期待は、ただの身勝手な幻想だった。(俺のせいで渚は傷ついた。俺は渚に恨まれるに値する人間だ) 渚と再会した当初、彼女があれほど怯えていた本当の理由がようやく分かった。男性という存在そのものが、恐怖の対象だったのだ。玲の胸に、容赦のない罪悪感が突き刺さる。あまりの申し訳なさに、もう渚の顔を見ることすらできなかった。「人混みが苦手なのも、男性と身体が近付くのが無理だから。汗の臭い、口の臭いが全て無理なの。電車はいまだに一人じゃ乗れない」 そんな深刻な傷を抱えた彼女が、玲に会うためだけにここまで来てくれたのだ。タクシーを使い、忌まわしいトラウマが生まれたこの町へ戻ってくることに、どれほどの恐怖と勇気が必要だっただろうか。「この話をしたのが、玲で二人目」 その言葉を聞いた瞬間、玲の脳裏にふと綾乃の姿が思い浮かんだ
暫く、重い無言が二人を包み込む。 何を切り出せばいいのか分からない玲を前に、先に静かに口を開いたのは渚だった。「あのブランコでさ、二人でどっちが高くブランコを漕げるか遊んだよね」 目の前のブランコを見つめる渚の視線を追って、玲もそちらを見た。 よく覚えている。かつてあの場所で並んで座り、必死に地面を蹴って高く、もっと高く、まるで一回転するくらいの勢いで漕ぎ合った記憶。結局一回転なんて出来なかったけれど、ただそれだけで楽しかった頃を思い出し、玲の口元に自然と笑みが浮かぶ。「あの砂場でお城を作ったけど、上級生に壊されて……私が泣いちゃったのを見た玲が、上級生に向かって行ったの。勇敢だった」 結局、上級生の方が身体が大きくて玲は簡単に飛ばされてしまった。渚以上にギャン泣きしてしまい、彼女に慰められた情けない思い出。「ジャングルジムで、どっちが天辺まで早く上がれるか、とか、滑り台を滑り続けるだけで一日を潰すとか」(忘れるもんか) 渚との思い出は何一つ忘れたことはない。玲と渚は毎日一緒に過ごした。雨の日もわざわざ傘を差してこの場所に向かい、公園の中心にあるゾウのシェルター遊具に潜って、雨宿りをして過ごし、地面を叩く雨を眺めている時間でさえ楽しかった。 渚も同じように覚えていてくれたんだ、という喜びよりも彼女の懐かしい思い出を一つずつ拾い集めるような言葉は、二度と戻らない遠い過去を惜しむような、寂しい響きを帯びていた。「渚……」 玲が思わず声をかけようとすると、渚はそれを遮るように、玲を見ることなく正面を見つめたまま言った。「黙って聞いていてほしいの」「うん」 玲は頷き、拳を握り締めて、彼女の次の言葉を待った。 そのまま、渚と同じように正面を向き、かつて二人で漕いだブランコを見つめた。 隣で、渚が何度も何度も深呼吸を繰り返す音が聞こえる。何かを必死に吐き出そうと、喉を震わせている気配が伝わってきた。 そして、静寂を切り裂くように、渚の口から信じられない言葉が溢れ出た。「私、小学
※ ※ ※ 土曜日。玲は約束の一時間前には、すでにあの公園に立っていた。 かつて幼い自分が、渚を置き去りにして待たせてしまった場所。あの日の身勝手な自分を責め立てるように、玲は何度も何度も、同じ景色を、同じ足元を確認せずにはいられなかった。(ここでいいはずだ。渚が言ったのは、間違いなくこの場所だ) 時間が進むにつれ、心臓の奥がじわじわと冷たい不安に侵食されていく。(本当に、渚は来るのだろうか) やはり来ないかもしれない――直前になって怖気づき、約束を白紙に戻してしまったのではないか。そんな最悪の想定が頭をよぎり、足元がぐらりと揺らぐ。 それでも、玲はその場を頑なに変えようとはしなかった。一歩たりとも動くつもりはなかった。 幼い頃は、自分が渚を待たせた。だから今度は、玲が待つ番だった。どれだけ長くても、たとえ陽が落ちようとも、彼女が来るまでここで待ち続ける。その決意だけが、玲の身体をその場に縫い留めていた。 約束の時間が近付いたその時、公園の入口近くに一台のタクシーが滑り込んできた。 人混みが苦手な渚がここまで来るための手段がそれだったのだと、玲は瞬時に理解した。 ドアが開き、車内から見覚えのある小さなシルエットが降りてくる。(……本当に、来た) 胸の奥から、堰を切ったような猛烈な感動が突き上げてくる。夢じゃない。自分に会うために、渚がここまで来てくれた。その事実だけで、玲の心は破裂しそうなほどの歓喜で満たされる。 しかし、ゆっくりとこちらへ歩いてくる彼女の表情を見た瞬間、玲の歓喜はすっと不安へと色を変えた。 見えてきた渚の顔には、かつてのはにかんだ微笑みは一切なかった。きつく結ばれた唇と、何かに耐えるような硬い眼差し。自分に何かを告げようとする、強い覚悟に満ちたその表情に、玲の背筋には再びあの冬の日のような冷たい戦慄が走った。 玲の前まで辿り着くと、渚はふっと笑顔を見せた。 けれど、それはあまりにもぎこちなく、引き攣ったような、無理やり作った笑顔なのだと玲は瞬時に悟ってしまう。「急に呼び出してご
※ 玲が渚と初めてセックスしたのは、高校三年生のクリスマスイヴだった。 渚が手編みのマフラーをくれた。「重いよね、ごめんね」と謝った渚に、強く首を振った。渚は知らない。玲にとって、渚から貰えるなら何でも嬉しいことを。 (あのマフラーは今でも使っている) 解れるたびに渚が手直しをしてくれる。冬になると、渚に毎日抱きしめられているような気分になる。 (あのデートも、セックスも、全部覚えてる) ――こんな、安っぽいホテルではなかったのは確かだ。 消毒液の匂いが混じったラブホテルの室内。 「ほら、ちゃんと力抜いて」 優しく言っている筈なのに、声は低く、逃げ道を塞ぐ響きを持っていた
(あぁ……嫌だ。どうしよ……)職場のトイレで相良 渚は手洗い場の鏡の前から動けずにいた。鏡に映るのは、薄化粧を施した顔。肩にかかるくらいのミディアムストレート。丁寧に整えれば、綺麗に見える筈なのに、どこか少しだけ不揃いで、自分のために髪を整えることに、まだ慣れていない。 そんな渚の表情は両眉が情なく下がり、胸の前で指をずっと弄っている。 「どうしよ……」 一週間前、渚が働く化粧品会社に事業部長が海外本社から異動してきた。本社で実績を残し、日本支部も盛り上げるため、という理由での異動。 異動自体は珍しくない。渚が新卒で入社した時の事業部長は半年後に海外に転勤になったくらいだ。よくある
渚とばかり遊んでいたことをクラスメイトに囃し立てられ、思春期特有の照れ隠しから、好きじゃない、と否定した。それを証明するために渚との約束を連絡なしにすっぽかし、クラスメイト達と校庭でサッカーをして遊んだ。その次の日からだ。渚が学校に登校しなくなったのは。プリントを毎日届けても、渚の母親しか対応してくれず。話したい、とお願いしても「風邪をうつすと悪いから」と門前払い。二階の渚の部屋のカーテンは固く閉じたままだった。いつも玲が遊びに来ると必ず、あの窓から顔を見せてくれるのに。渚を怒らせてしまった、と玲は思った。体調が悪いのは本当かもしれない。でも、自分が家の外から渚を呼んでも返事さえ
滑らかな肌、掌に吸い付く肌触り。 躰の線を指先で撫でれば、小刻みに震え、甘い吐息を漏らす愛しい人。 宮原玲はフェザータッチから徐々に手の動きを大胆にしていき、大きな掌で、薄い腹に触れた。 その手に驚いたのか、玲の下にいる相良渚の腰が跳ねた。 玲は渚の反応にすぐに手を止めた。 両眉を八の字に下げて、彼女を心配そうに見下ろす。渚は頬を赤く染め、瞳が潤んでいた。 「ごめん、驚かせた。大丈夫?」 答えの代わりに、渚は玲の背中に手を回した。遠慮がちに触れるだけ――爪を立ててくれても良いのに。血が出るほど、消えない痕を残







