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第3話

Author: 抹茶の時間
渉へはただ一言、【離婚】とだけ返した。

離婚協議書にサインを済ませたあと、私は拓海のオフィスの外に隠れ、ぶるぶると体を震わせた。

【渉さん、私はもう、帰る場所がなくなっちゃうみたい】

両親も、兄も、それに大好きだった愛犬ももういない。

その上、拓海までいなくなってしまう。

これからどうすればいいの?

だから、渉からこんな返事が来るとは思ってもみなかった。

【俺と、結婚してくれないか?】

部屋の中からは、からかうような笑い声が次から次へと聞こえてくる。

「冗談だろ。あの女が拓海さんと離れたら、何もできなくなる。本気で離婚届なんて出すわけないよ」

「そうそう!本当に離婚するってなったら、きっと役所、号泣しちゃうんじゃないか?」

「そうか?」

拓海は、フッと鼻で笑った。

ライターをテーブルに投げ捨て、彼は言い放つ。「あいつがどんなに泣きわめいたって、結局は俺の言いなりになる犬でしかないんだよ。

俺が来いと言えば来るし、あっち行けと言えば行く。そういう女だ」

ドアの隙間から見えたその男は、まるで知らない人のようだった。私は呆然として、彼を見つめた。

【いいわ】と渉に返信した。

渉は、私にリストを作ってくれた。

1ヶ月以内にやるべきことだ。

ビザの申請や弁護士探しは、もちろんリストに入っていた。

でも、驚いたことに、なんとその中にはおすすめのレストランまでがびっしりと書かれていた。

【海外だと、美味しい​和食はなかなか食べられないから】

【本当だよ】

私はそのアドバイスを、素直に受け入れた。

渉が作ってくれたリストを頼りに、一軒ずつお店を巡った。

一人で過ごす毎日は、思ったほどつらくはなかった。

毎日美味しいものを食べて、買い物をして、それから荷造りをする。

拓海と暮らした家から引っ越す日、彼から突然メッセージが届いた。

【電話の1つもしてこないなんて。俺に会いたくないのか?】

拓海は百合を連れて旅行に行っていた。

「世間知らずなあの子に、色々見せてやるんだ」とかなんとか言っていた。

【本当は寂しいんだろ?】

またメッセージが来た。

続いて、一枚の写真が送られてきた。

【ここ、良いところだぞ。3周年の記念日に、君も連れてきてやろうか?】

百合を無視した時のように、拓海のことも無視してしまいたかった。

でも、熟慮期間後に役所にもう一度離婚届を出しに行かなくちゃいけないから、思いとどまった。

それから2週間かけて、海外に持っていくには荷物になるから、手元にあったアクセサリーやバッグを処分した。

病院へ行って、検査も受けた。

妊娠していないことを確認するためだ。

最後に、拓海がこれまでの間に私に管理を任せていた資産を、すべて整理した。

役所へ行く前の晩、拓海が帰ってきて、電話をかけてきた。

「明里、引っ越したのか?」

電話越しに私が黙っているのに慣れているのか、彼はひとりで笑い出した。

「明里、君って本当にかわいいな。

ただの芝居だって、ちゃんと言っただろ」

拓海はとても機嫌が良さそうで、こう続けた。

「どうせなら芝居をやり通そうぜ。明日、俺と役所に行って離婚届を出すか?」

私はスマホを握りしめた。

「明里、心配するな。これはただの……」

「いいわ」と私は言った。

「おぉ!」

電話の向こうから、やじを飛ばす声が聞こえてくる。

「ごめん、もう切るね」と言って私は電話を切った。

そして時間を指定して、拓海にラインを送った。

翌日、私は朝早くに起きた。

拓海は、約束の時間に遅れてやってきた。

拓海の唇の端には、浅いのに、目立つ噛み跡が残っていた。きっと百合がわざとつけたのだろう。

彼はそのことに気づかないふりをしていた。

私も見えないふりをした。

手続きは、前回よりもずっとスムーズに進んで、5分もかからなかった。

「明里、明日はサプライズを用意してるからな」

拓海が、私の肩をぽんっと叩いた。

私は携帯をしまいながら言った。「拓海、今夜、時間はある?」

彼の目を見て話し続ける。「あなたに話したいことがあるわ」

拓海はきょとんとした。

結婚以来、こんなによそよそしいのは初めてだ。

次の瞬間、彼は目を細め、答えた。

「いいぜ」

この1年の拓海がどんなにひどい人だったとしても、私は過去の彼まで否定したくはなかった。

長年そばにいてくれたこと、昔は私を大事にしてくれたことには、感謝している。

だから本当は、何も言わずにいなくなるつもりなんてなかった。

でもこの日の夜は、雨が降っていた。

雷が鳴り、稲妻が光る。

私は、こんな夜が怖かった。

あの交通事故が起きたのも、こんな激しい嵐の夜だったから。
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