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第4話

まってて
「家政婦」――その一言が毒針のように突き刺さり、紬希の顔から血の気が引いた。

視線が、弦夜の顔に釘付けになった。

かつて永遠を誓ったはずの男は、唇を引き結び、他人行儀な声で言った。「紬希、お前ここで何してる」

紬希はふっと鼻で笑った。目の奥に、冷たい光が灯る。

「何してるかって?決まってるじゃない、男を引っかけに来たのよ」

ありもしない罪を着せるなら、いっそその芝居に乗ってやる。

冷めた目で抱き合う二人を一瞥し、声の温度を限りなく落とした。

「でも私みたいな家政婦が誰に近づこうと、お二人には関係ないでしょう?」

弦夜は拳を白くなるほど強く握り込み、怒りで肩を震わせた。だが怒りを飲み込み、邪魔者を払うように手を振る。

「用がないならさっさと行け」

紬希はもうその顔を見る気にもなれず、二人の脇をすり抜けてエレベーターに乗り込んだ。

ドアが閉まる寸前、外の二つの視線をまっすぐ受け止めて、迷わず中指を立ててみせた。

屈辱も、怒りも、全部この指一本に込めて。

……

家に着いたのは、深夜だった。

バッグの中でスマホが狂ったように震えている。着信画面には、病院の名前があった。

紬希は嫌な予感に胸を鷲掴みにされながら、急いで出た。

「白石さん、澪璃に適合する骨髄が見つかりました。ただ――」医師の言葉が、そこで途切れた。

そのわずかな沈黙が、鈍い刃のように胸を抉った。

「ただ、何ですか。早く言ってください!」

「一時間ほど前に、黒川様からお電話がありまして……移植手術のキャンセルを申し出られました。枠はすでに別の患者さんに回っています。ただ、やはりお伝えしておくべきだと判断しまして……」

その先は、一言も耳に入らなかった。

スマホを握る手が止まらないほど震え、全身から力が抜け落ちていく。涙が、堰を切ってあふれた。

なぜ。弦夜はどうして、こんなことをしたのか。あの子は――彼自身の血を分けた娘じゃないか。

電話を切った瞬間、すぐに弦夜へかけ直した。

つながった途端、半狂乱で叫んでいた。「弦夜!どうして澪璃の移植をキャンセルしたの!あなたの娘でしょう!どうしてそこまでできるの!」

弦夜の口調には諦めのような色が混じりつつも、どこか強硬さがにじんでいた。「紬希、落ち着け。骨髄ならまた見つかる。だが今夜お前は凪紗を怒らせた、その落とし前はつけてもらう。今後お前は――」

紬希は言葉を待たずに通話を切った。

膝から力が抜け、その場にくずおれる。氷のような絶望が背筋を駆け抜け、あまりの痛みに床にうずくまって身をよじるしかなかった。

その夜、紬希は一睡もできないまま朝を迎え、心に渦巻いていたのは絶望と憎しみだけだった。

翌朝。スマホにメッセージが飛び込んできた。凪紗からだ。

【弦夜の家政婦さんでしょう。央州山手通り三十二番地に来なさい】

紬希は無視した。

今はただ、手続きが済むのを待って、澪璃を連れてこの街から逃げ出し、海外でもっといい治療を受けさせること――それだけしか頭にない。

だが次の瞬間、弦夜から着信が入った。

拒否しようとした指が、誤って通話ボタンに触れてしまった。

「紬希、凪紗からのメッセージ見たか。支度してすぐ来い」

昨夜の絶望と憎しみが胸の中で絡みつき、紬希の声は凍りつくほど冷たかった。

「弦夜、どうして私があなたの言いなりにならなきゃいけないの」

電話の向こうで一瞬、間が空いた。弦夜の声が、すっと柔らかくなる。

「紬希、頼む。凪紗が言ったんだ。お前が来れば、篠原家の力で澪璃に合う骨髄を探してくれると。一回だけだ、頼む」

澪璃、その名前を出された途端、紬希が必死に保っていた強がりの壁があっけなく崩れ去った。

目を閉じ、しばし沈黙する。

――結局、歯を食いしばって、頷くしかなかった。

……

央州の冬は容赦がない。刃のような風が吹き、雪が横殴りに降っていた。

紬希はコートの前をきつく合わせ、タクシーで央州山手通りへ向かった。この一帯は、選ばれた者だけが住む最上級の住宅街だ。

別荘の門をくぐると、無表情な使用人がリビングへ通した。

凪紗はソファに深くもたれていた。両脇でネイリストが二人、丁寧に爪を整えている。

ちらりと紬希に目をやり、すぐにまぶたを伏せた。まるでそこに誰もいないかのようだ。

紬希はそのまま踵を返そうとした。

だがその一歩より先に、大柄なボディーガード二人が進み出て、両腕をつかんでその場に押さえ込んだ。

紬希は咄嗟に身をよじりながら声を上げた。「篠原さん、これはどういうことですか」

凪紗が、苛立たしげに眉をひそめた。

「うるさい」

すかさずボディーガードが彼女の口を塞ぎ、凍てつく庭へと引きずり出した。

……

二時間後。

凪紗がようやく、ゆったりと家の中から姿を現した。

仕上がったばかりのネイルを眺めながら、紬希の前まで歩み寄る。施しでもくれてやるような声だった。

「白石さん、これは昨日私を不快にさせた分よ。

今日呼んだのは、もうひとつ頼みたいことがあるの」

凪紗は紬希を別荘の裏手へ連れ出し、薄く氷の張った湖の前で足を止めた。

「あなた、前にプールのインストラクターのバイトをしてたんですって?なら泳ぎは得意よね」

視線を湖面に落とし、わざとらしく小首をかしげてみせる。

「私の婚約指輪、この中に落としちゃったの。潜って取ってきてくれる?」

紬希の顔が一瞬で蒼白になった。薄い氷の下に広がる真っ黒な水を見つめ、全身が芯から冷えていく。

凪紗はその恐怖に気づかないふりをして、軽く付け足した。

「いい?見つかるまで、上がってこないでね」
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