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第5話

作者: まってて
真冬の寒空の下、潜水装備もなしに凍った湖へ飛び込めというのか。

紬希は信じられない思いで、目の前の女を見据えた。

「もし断ったら?」

凪紗の赤い唇が、ゆっくりと弧を描く。

「あなたに拒否権なんてないの」

彼女がそう言い捨てるが早いか――

鈍い水音とともに、紬希の体は容赦なく湖に突き落とされていた。

凍えるような水が口と鼻に一気に流れ込む。全身に無数の針を突き立てられたような激痛が走った。水を吸ったコートがみるみる重くなり、体を底へ底へと引きずり込んでいく。

必死にもがいて岸へ這い上がろうとするが、見張りのボディーガードに何度も水中へ押し戻された。

凪紗は岸辺で腕を組み、薄く笑っている。

「そういうの、得意なんでしょう?見つけられるわよね」

そう言い残し、ハイヒールの音を響かせて去っていった。

遠ざかる背中と、湖畔で目を光らせるボディーガードたち。紬希の胸に、冷たい絶望が押し寄せた。

もう手を引くと決めたのに。全部捨てて消えると決めたのに。どうしてこの人たちは、まだ自分を放してくれないのか。

悔しさ、屈辱、弦夜への失望――あらゆる感情が絡み合い、息もできない。

紬希は歯を食いしばり、水を含んで鉛のように重くなったコートを引き剥がすように脱ぎ捨てた。そして一気に湖底へ潜る。

肺の空気が尽きかけると、もがきながら浮上して息を継ぐ。

潜っては浮き、潜っては浮き。凍えきった体はとうに感覚を失っていた。

それでも、やめるわけにはいかない。

澪璃が待っている。

ママがいなくなったら、あの子はどうなるの。

どれほど経っただろう。暗い湖底にふいに、かすかな光が走った。

――指輪だ。

ようやく岸に這い上がり、ボディーガードの前に指輪を差し出すように落とした。濡れそぼった体を寒風が容赦なく切りつけ、歯の根が合わない。

湖のほとりにうずくまったまま、意識がゆっくりと遠のいていく。

暗闇に沈む直前、弦夜が血相を変えてこちらへ走ってくるのが見えた気がした。

……

目を開けると、鼻先をかすめたのは覚えのある消毒液の匂いだった。

「紬希、やっと目が覚めたか!」

紬希が目を覚ましたことに気づくや否や、弦夜がいきなり力任せに抱きしめてきた。息が詰まるほどの強さだ。

紬希は彼を両手で突き飛ばし、冷めた目で男を見た。

充血して真っ赤な目。げっそりこけた頬。顔を覆う青黒い無精ひげ。いつもの整った姿は影も形もない。

けれど、自分をこんな目に遭わせたのは全部、この男のせいだ。

弦夜は、罪悪感に苛まれているような顔でうつむいた。

「紬希、お前を守れなかった。俺が悪い。

わかっただろう、力がなければ何も守れない。凪紗と結婚すれば、俺はお前と澪璃を守れるんだ」

紬希は自嘲気味に冷たく笑った。「守る?まだ結婚もしていないのにこの有様で、結婚したら次は殺されるの?」

弦夜は唇を震わせ、長い沈黙のあと、ようやく絞り出した。「紬希……そんなこと言うなよ。

今夜、篠原家の屋敷でパーティーがある。凪紗がお前を名指しで来いと言っている」

紬希は呆れて鼻で笑った。「『家政婦』の私が行って何をするの。また辱めを受けに?」

弦夜の顔色が変わった。「行かなければ、あいつは澪璃に手を出す」

――心臓を鈍器で殴りつけられたような衝撃だった。

紬希は弦夜を睨みつけ、震える声で言った。「弦夜、あんたそれでも父親なの!?自分の娘を脅しの道具に使うなんて……!」

弦夜はうなだれた。「……俺だって、好きでこうしてるんじゃない」

「出てって。今すぐ出て行ってよ!」

紬希は手当たり次第に枕やコップなど、掴めるものすべてを弦夜に投げつけた。

弦夜は首を振り、やりきれないという顔で病室を出ていった。

がらんとした部屋に、紬希だけが残された。両膝を抱え込み、ついに声を上げて泣き崩れた。

わからない。自分が何を間違えたのか。

どうして愛した人に裏切られ、見ず知らずの女に踏みにじられ、娘の命まで脅かされなければならないのか。

どれだけ泣いたかわからない。スマートフォンの着信音が、泥のように沈んでいた意識を引き戻した。

通話ボタンを押すと、低い男の声が聞こえた。

「白石さん。手続きがすべて完了しました。いつでも出発できます」

この声は――克海だ。

紬希は必死に嗚咽を押し殺したが、声の端がどうしても震えた。

「……はい、ありがとうございます」

克海はすぐにその異変に気づいた。

「白石さん、何かあったんですか。手を貸しましょうか」

「いえ……大丈夫です」

紬希は急いで電話を切った。

澪璃の、あの屈託のない笑顔が頭に浮かぶ。

まだ倒れるわけにはいかない。紬希は重い体を引きずるように起き上がった。

家に戻って着替えを済ませ、パーティー会場へ急ぐ。

会場は篠原家が所有する古い洋館だった。

招待客たちは華やかなドレスやスーツに身を包み、シャンパングラスを片手に談笑している。凪紗の個人的なパーティーで、集まっているのは若い名家の子弟ばかりだった。

地味な服装の紬希が足を踏み入れた途端、あちこちから蔑むような視線が突き刺さった。

やがてパーティーが始まり、凪紗が優雅に壇上へ上がった。

「皆さん、こんばんは。今夜は私と弦夜の、結婚前最後の独身パーティーです」

そこで一度言葉を切り、視線をまっすぐ紬希に向けた。

「でもその前に……皆さんにちょっと特別なお友達をご紹介させていただきますね。

こちらは白石紬希さん。ご職業は納棺師です。ご存じですか?亡くなった方のお顔やお体を整える――あの、納棺師ですよ」

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