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第3話

Penulis: まってて
その言葉が、錆びた刃のように紬希の胸を深く抉った。息が、できない。

ずっとこらえていた涙が、堰を切ったようにあふれ出した。

弦夜は途端にうろたえ、慌てて駆け寄って彼女の涙を拭おうとした。

「紬希、泣くなよ。ただの名分じゃないか。俺の心にいるのは、本当にお前だけだ」

名分。

紬希は心の中で自嘲した。

今は「ただの名分」。この先の長い年月、自分に何が残るというのか。

人の心は移ろうものだと、この結婚生活で嫌というほど思い知らされた。

娘を連れて出ていくと決めた以上、この機会に澪璃のための備えを少しでも多く引き出しておくべきだ。

紬希はこみ上げる嗚咽を押し殺した。

「……わかった、信じる。でも、お医者さんに言われたの。澪璃の移植手術に備えて、資金を先に用意しておかないといけないって。もし適合する骨髄が見つかったら――」

言い終わらないうちに、弦夜の携帯が震えた。

画面に浮かんだ「凪紗」の二文字をちらりと見るなり、弦夜は素早く電話に出た。声が、別人のように甘くなる。

「もしもし、凪紗?どうした?」

短い通話を終えると、その場でスマホを操作し、紬希の口座に二千万円を送金した。

それから、ソファの上着をひっつかんで玄関へ向かった。

「急な用だ。遅くなる」

ドアがバタンと閉まる。

紬希はスマホに表示された入金通知を見つめ、力なく自嘲の笑みを浮かべた。

――さすが、大富豪の令嬢に取り入っただけのことはある。

かつては澪璃に少し値の張る粉ミルクを買うだけで、半日うじうじ悩んでいた男だ。それが今では、二千万円を躊躇いもなく振り込んでくる。

笑っていたはずなのに、いつの間にかまた涙がこぼれ出していた。

五年前。弦夜が紬希を黒川家の屋敷に連れていった日。弦夜の母が吐き捨てた言葉が、今も耳にこびりついている。

――毎日死体に触っているような女が、うちの敷居を跨げると思っているの。

自分のために家を飛び出し、狭いアパートで小銭を数えるような暮らしをしながら、いつも笑って「お前がいればそれでいい」と言ってくれた男。その男が、結局は心変わりした。

紬希は乱暴に涙を拭い、机の上のカレンダーに目を向けた。印をつけた日付に、指先が止まる。

あと六日。たった六日耐えれば、澪璃を連れてここから出られる。弦夜の世界から、完全に消える。

午後、見知らぬ番号からの着信が静けさを破った。

「白石さんでしょうか。篠原社長の秘書を務めております」

声にはかすかな焦りがにじんでいた。

「篠原社長のお怪我がまだ完治しておらず、犯人も依然として逃走中のため、くれぐれも内密にお願いしたいのですが――先ほど篠原社長が少し具合が悪いと仰いまして。

私がどうしても手を離せない状況でして、大変恐縮なのですが、しばらく篠原社長のそばについていただくことは可能でしょうか」

紬希の胸の内がざわついた。

あの二百億円と「死」の手配――篠原家への借りは、ずっと心のどこかに引っかかっていた。少しでも返せるなら、気持ちが楽になる。

夜。すっかり寝入った澪璃を確かめてから、秘書に教えられた住所へ向かった。央州市内でも指折りの高級住宅街だ。

暗証番号を打ち込んでドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは――ソファに崩れるように倒れた篠原克海(しのはら かつみ)の姿だった。顔が、怖いくらい赤い。

紬希は急いで駆け寄り、額に手を当てた。焼けるような熱さに、思わず息を呑む。

次の瞬間、骨が軋むほどの強い力で、いきなり手首を掴まれた。

痛みに顔を上げると、暗く深い瞳とまともにぶつかった。

相手が紬希だと気づいた途端、克海の全身からすっと力が抜け、ゆっくりと手が離された。

紬希は赤くなった手首をさすりながら、静かに訊いた。

「熱が出たようです。解熱剤はどこですか?」

熱のせいだろう、克海の声はかすれて低かった。

「テレビ台の、二段目」

薬と水を持ってきて差し出すと、克海は受け取らなかった。わずかに顎を上げ、紬希の手から直接、薬を口に含んだ。薄暗い明かりの中で喉仏がゆっくりと動き、不思議な緊張感がその場に漂った。

紬希はなんとなく目をそらし、少し慌てて話題を変えた。

「ごはんはまだでしょう。冷蔵庫を見てきます」

克海は何も言わず、ただじっと紬希を見ている。

冷蔵庫を開けると、中はほとんど空っぽだった。トマトがひとつと、素麺がひと束。紬希はあり合わせでさっぱりとした温かい素麺を作り、克海の前に置いた。

克海が食べ終えるのを待って食器を片づけ、帰ろうとドアに手をかけたとき。

背中に、低くかすれた声が届いた。

「――ありがとう」

紬希は振り返り、小さく微笑んだ。

――噂に聞く、冷たくて気難しい央州の御曹司。案外、そうでもないのかもしれない。

けれどドアを引いた瞬間、外の廊下の光景に体ごと凍りついた。

エレベーターホールで、弦夜が凪紗を抱き寄せ、むさぼるようにキスをしている。

凪紗がけだるげに目を上げ、紬希をちらりと見た。

「弦夜、あなたのところの家政婦さん、なかなかしたたかじゃない。ここ、どこの馬の骨ともわからない人間が出入りしていい場所じゃないんだけど」
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