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第8話

Author: 鳳あん
離婚届の手続きはすんなり終わった。恵梨が車に乗り込むと、ちょうど俊哉から電話がかかってきた。

「恵梨、全部手配できたよ。ただ、向こうが少し急いでいるんだ。できるだけ早く現地の環境に慣れてほしいって。明日出発になりそうなんだけど、大丈夫?」

「うん、大丈夫」

恵梨の声は少し弾んでいた。

「もう準備はできているから」

「よかった。じゃあ明日、駅で待ってる」

電話を切ると、恵梨はもうじっとしていられなくなった。

近くのショッピングモールで子どもたちに渡すおみやげを買っていこうと思い、運転手には「一度帰ってていいから、買い物が終わったらまた迎えに来て」と伝えた。

ところが、戻る頃になっても運転手の電話がまったくつながらない。仕方なく、恵梨は自分でタクシーを拾って帰宅した。

家に着くなり、お手伝いがあわてて駆け寄ってくる。

「奥様、やっとお戻りになりました!白石様が事故に遭われました!旦那様が、至急病院に行ってほしいとおっしゃっています!」

状況がのみ込めないうちに、ボディーガードたちが恵梨の腕を抱え、そのまま病院へと連れて行った。

恵梨が病院に着いたとき、詩月はベッドに横たわり、胸を引き裂くような叫びをあげていた。

「五年前、私は自分の将来のためにあなたのもとを離れた。あれは私の間違いだった!悪かったってわかってる、もう後悔してるの!償うために戻ってきたのに、どうして……どうして神さまは、私たちの子どもを奪ったの!

もう私のこと憎まないで、圭吾。お願い、許して、許してよ!」

圭吾は詩月の手を強く握りしめ、声を詰まらせながら言う。

「憎んでなんかない、もう憎んでない、詩月。お前に再び会えたその瞬間から、俺はもう憎むことなんてできなかったんだ。詩月、愛してる。俺はお前を愛してる!」

「嘘、きっと嘘よ。そんなの、私が子どもを失ったから同情してるだけでしょ!いらない、出て行って!あなたの奥さんが私の子を奪ったのよ!もうこれで私があなたに負ってたものは全部返したわ!」

詩月は錯乱したように圭吾を突き飛ばそうとする。だが、圭吾は彼女を強く抱きしめ、離そうとはしない。

「違う、もう二度とお前と離れたりしない。俺たちは、これからもずっと一緒にいるんだ。詩月、子どもがいようがいまいが、そんなことどうでもいい。俺にはお前さえいればいい!」

「牧原様、奥様がいらっしゃいました」

恵梨は半ば押し込まれるように部屋へ入った。圭吾がゆっくりと振り返り、赤く濁った目で恵梨を見据えた。

次の瞬間、詩月はベッドから身を起こし、思いきり恵梨の頬をはたいていた。

「朝倉さん、どうして私の赤ちゃんを殺したの?圭吾の妻になりたいなんて、一度も思ったことない。あなたのものを奪うつもりなんて、最初からなかったのよ。なのに、あなたが子を失ったからって、私にも同じ痛みを味あわせたいの?」

恵梨は腫れ上がる頬を押さえ、呆然としたまま口を開く。

「何を言ってるの?まったく意味わからないわ」

「まだとぼけるのね!」

詩月がもう一度手を振り上げ、容赦なく平手打ちを浴びせた。

怒りがこみ上げ、恵梨はためらうことなく手を振り上げた。そして勢いよく、詩月の頬を打ち返した。

「恵梨、間違ったことをしておきながら、詩月を殴るなんて!」

圭吾は力任せに恵梨を突き飛ばし、詩月を庇うように抱き寄せた。

「誰か!彼女を押さえろ。動かすな。詩月の気が済むまで、好きなだけ殴らせろ!」

その言葉と同時に、恵梨は床に押さえつけられた。

詩月の手が振り下ろされる。一発、また一発。

恵梨の頭は殴られすぎてぼんやりとし、頬は見る影もないほど腫れ上がっていた。それでも詩月の手は止まらなかった。

やがて恵梨が意識を失うと、圭吾は人に命じて冷水を浴びせさせた。

「水を持ってこい。ぶっかけて起こせ」

次の瞬間、冷たい水が容赦なく彼女に浴びせかけられる。

「げほっ、げほっ……」

頬は焼けつくように痛み、体も痛みで震えている。

圭吾が恵梨の前に歩み寄り、彼女の顎を乱暴につかんだ。

「お前、自分の子を失くしたからって、運転手に詩月を轢かせたんだな?同じ痛みを味わわせようとしたのか?恵梨、お前いつからそんなに性根が腐った?」

恵梨はやっとのことで言葉を絞り出す。

「……何のことを言ってるのか、私にはわからない」

「まだ言い逃れする気か?お前、運転手を使って詩月を轢かせたんだろう?それに罪を隠すために、同じ車種の新車にまで替えて、俺が気づかないとでも思ったのか?」

圭吾の目が冷たく光る。

「今日からお前はここを出ろ。郊外に別荘を買ってある。そこに住め。詩月が流産後の療養を終えるまで、戻ってくるな」

恵梨は寂しげに笑った。もう、何を言っても届かないのだとわかったからだ。

ならば、もう、認めるしかない。

「わかったわ。あなたがそう決めつけるなら、私は何も言わない」

「誰か!恵梨を家まで連れていけ!」

ボディーガードたちに腕を取られて外へ出されるとき、恵梨は一度だけ圭吾を振り返った。

「詩月、これは俺が自分で作ったスープだ。つらいのはわかってるけど、少しでいい、飲んでくれ。心配するな。俺がついてる。もう二度と誰にも傷つけさせない。子どものことも、約束する。俺たちには、きっとまた、二人目も、三人目も授かる」

その瞬間、恵梨の中で圭吾に対する最後の愛も、跡形もなく消え去った。

――そこまでして詩月との子どもが欲しいなら、どうぞお幸せに。

家に戻るころには、もう夜が明けていた。

ボディーガードたちは恵梨の荷物をまとめ、郊外の別荘へ運ぼうとしていた。

けれど、恵梨は彼らの手からスーツケースをつかみ取った。

「いいわ。自分で行くから」

「奥様、そんなこと……私たちは困ります。どうか大人しくなさってください。しばらくの間だけでも、牧原様の前から姿を消していただけませんか?」

「心配しなくていい。郊外の別荘へは自分で行くから。圭吾にも伝えて、これから先、私は二度と彼の前には現れないって。それに、彼と白石さんの幸せを、心からお祈りしてるって」

そう言って、恵梨は一通の書類をその場にいたお手伝いに渡した。

「これ、圭吾が帰ってきたら渡して」

それだけ告げると、彼女は振り返りもせずタクシーに乗り込んだ。

駅に着くと、俊哉はすでに彼女を待っていた。

朝の光の中、彼の姿は金色の縁をまとったように見える。

「恵梨、来たんだね……その顔、どうしたんだ?」

恵梨は首を横に振った。

「大丈夫。もうすぐ電車が出るんでしょ。行こう」

彼女は俊哉と並んで駅の構内へと歩いていった。電車に乗る直前、恵梨は圭吾からもらったスマホをゴミ箱に放り込んだ。

――これで終わり。

圭吾とは完全に縁が切れた。彼女は、ようやく自由になった。
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