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第2話

Author: あめちゃん大好き
車内で、静香は颯真の上着を羽織りながら、窓の外を流れゆく景色を無言で眺めていた。

颯真は片膝をつき、彼女の足首の傷口に薬を塗った。動作は丁寧で、眼差しには愛情がこもっていた。

「静香ちゃん……もう二度と、こんなことしちゃダメだよ」

口調こそ咎めるようだったが、その声はどうしようもないほど優しかった。

彼女は、タクシーでお母さんに会いに来たけれど、うっかりスマホをなくしてしまったと話した。

「うん……」と答えた静香は、ふと颯真を見つめ、目に涙が浮かんだ。

その様子に、颯真は動揺し、長い腕を伸ばして彼女を抱きしめた。

普段は冷酷で決断力に満ちた男が、この時ばかりはうろたえ、まともに言葉も出せなかった。

「ごめん……言い方がきつかったかな。怒ってるわけじゃないんだ。ただ、すごく心配だったんだよ。

次にまたお母さんに会いに行きたいときは、ちゃんと俺に言ってね。付き添うから」

静香は彼の言葉を遮った。

「私は……怒ってない」

「分かってるよ」

颯真は彼女の肩を優しく抱きながら言った。

「君はお母さんが恋しかったんだね。大丈夫、俺がいるから。ずっと大切にするし、愛し続ける。いつか、君を霍見家の妻に迎えるよ」

それを聞いた静香は、強烈な皮肉を感じた。

本当に、彼の胸を切り開いて、その心がどんな形をしてるのか、見てやりたい気分だった。

昨日あんな酷い言葉を吐いた男が、翌日に「愛してる」「妻に迎える」なんてよくも言えたものだ。

颯真は話題を変えた。

「それとね、静香ちゃん……俺たちの関係、まだ君のお父さんには言わないでおこう。まだタイミングが分からなくて……」

彼女は分かってる。それは静乃を驚かせたくないということ。だがもし彼女と別れたら、彼は静乃に近づく口実を失う。

胸の奥に鋭い痛みが走り、それが手足の先まで広がっていった。静香の手のひらがじんわりと痺れた。

それでも彼女は、何も言わず、おとなしく頷いた。

夜、白川家の本邸。五人が食卓を囲んでいた。

威成は颯真に向かってグラスを掲げた。

「颯真、この数年、本当にありがとう。静香のこと、よく面倒を見てくれた」

颯真もグラスを持ち上げ、微笑んで返した。

「恐縮です、白川社長。当然のことをしたまでです」

静香はちらりと颯真の顔を見上げた。流れるような輪郭、整った顔立ち。それを見た彼女は、まるで心に蜂が刺さったような鋭い痛みが走った。

確かに、よく「面倒を見て」くれた。ベッドの中まで、しっかりと。

その考えが胸を締めつけ、虚しさが込み上げてきた。

隣に座る静乃が彼女の袖を引っ張った。「お姉ちゃん、海外にいたとき、ずっと会いたかったのに、なんで会いに来てくれなかったの?」

父が咳払いをした。

「君の姉さんは、君みたいに遊んでばかりじゃないよ。会社の経営で、毎日忙しいんだ」

静乃は不満げに口を尖らせた。

「パパはいつもお姉ちゃんばっかり!お姉ちゃんは会社を任せてもらえるのに、私はダメなんだもん!」

颯真は目を細め、笑みを含ませて言った。

「では、白川社長、静乃さんの願いを叶えてあげてはどうでしょう?」

その言葉に、静香は驚き、颯真を見た。

颯真は彼女の視線に気づき、茶化すように言った。

「静香さんは、まさか反対するの?」

本当は「反対したい」気持ちでいっぱいだった。

だが、今はまだ取締役会の前、父が最大株主である以上、波風を立てるわけにはいかない。

こうして、静乃が会社に入ることは、既成事実となった。

静香は皿の中の料理をつついていたが、まったく食欲がわかなかった。

「お姉ちゃん、これイタリアから空輸されたステーキよ!柔らかくて新鮮なの!」

そう言って静乃が彼女の皿に肉を取り分けたが、静香は「ありがとう」とだけ冷たく返した。

食後、静乃は静香の皿の上の残った牛肉を見て、気まずそうな顔をした。

その後、彼女はマンゴープリンを手に、静香の部屋へやって来た。

「お姉ちゃん、これ私が作ったの。食べてみて?」

目をキラキラさせ、期待に満ちた声だった。

静香は反射的に手で制止しようとし、引っ張り合いの末、プリンが床に落ちた。

「あっ、ごめん。わざとじゃないの。私、マンゴーにアレルギーがあるの」

静乃は泣き出した。まるで花が雨に濡れたように、悲しげに泣いた。

「お姉ちゃん、私とママのことを恨んでるのは知ってる……でも、私は本当に仲良くなりたいって思ってるの。お願い、そんなに冷たくしないでよ……」

静香は、なぜ彼女が急にそんなことを言うのか理解できなかったが、ドアのところに立っている颯真を見て、すべてが腑に落ちた。

颯真は怒りを抑えながら口を開いた。

「静香さん……君はいつも優しくて賢いのに、さっき料理を取ってもらったのに食べなかったよね?彼女、がっかりしてたじゃない?今だって、せっかく手作りのデザートを……わざと落としたなんて、ちょっと酷いんじゃないか?」

「……牛肉もマンゴーも、私がアレルギーだって、霍見さんは知ってたでしょ?」

颯真の声色が変わった。

「アレルギーっていっても、少し気分悪くなる程度だろ?死ぬわけじゃないし」

その一言に、静香はまるで心に深く刃を突き立てられたように、呆然と立ち尽くした。

彼女は颯真が追いかけてきたばかりの頃のことを思い出した。彼は彼女の好みや生活習慣をメモ帳に書き留め、いつも持ち歩いていた。彼女にアレルギーのある食べ物は決して口にさせなかった。

ある時、レストランで料理に牛肉が混入していて、彼女がじんましんを出したとき、颯真は激怒し、テーブルをひっくり返して店の全員を土下座させたほどだったのに。

それなのに今は、「死ぬわけじゃない」だと言うなんて……

彼女の顔から血の気が引いていくのを見て、颯真はようやく自分の失言に気づいた。

「いや、そういう意味じゃない……君に傷ついてほしくなかったんだ。彼女は君と仲良くしたがってる。なのに君はあまりにも冷たい……」

笑ってしまうほどだった。

空港で出迎えて以来、彼の視線は静乃から一度たりとも外れたことがなかった。

怒りとも悲しみとも言えない感情が胸を塞ぎ、息が詰まりそうだった。

静香は深く息を吸い、静かに言った。

「……はい。霍見さんの言う通りにするよ」

その態度に颯真は驚いた。静香がこんなふうに彼に返事をしたのは、初めてだった。

だが、彼はそれ以上深く考えようとはしなかった。
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