Share

第8話

Author: 風待
ゆいはそのまま、外で一夜を過ごした。

冷たい雨に、ずぶ濡れのまま――朝日が昇り始めるまで、ずっと。

スマホのバッテリーが尽きかけた頃、ようやく彼女は足を動かし、無意識のようにタクシーを拾って別荘へと戻った。

全身が濡れそぼった彼女の姿を見て、使用人たちは目を丸くして慌てふためいた。

すぐに熱いお湯を用意し、体を温めるよう促してくれた。

でも――意識は朦朧としていて、まともに階段も登れない。

心配したひとりの使用人がそっと額に手を当てると、そこには火のような熱が宿っていた。

驚愕したその人は、すぐに誠士へ連絡を入れた。

連絡を受けた誠士は、まるで命に関わる緊急事態かのように家へ飛び帰った。

そのとき、ゆいはすでに高熱で意識を失っており、どんなに名前を呼んでも、何の反応も返ってこなかった。

誠士は迷わず彼女を抱き上げ、そのまま車に乗せて病院へと直行した。

薬が効いて、ようやくゆいが目を覚ましたとき――

最初に見えたのは、彼女のベッドのそばに座り込む誠士の姿だった。

目の下には濃いクマ、顎には無精ひげ――明らかに一睡もしていない顔。

彼は彼女の点滴がついていない手をそっと握り、自分の頬にあてがって、喜びを抑えきれない声で言った。

「よかった……やっと、目を覚ましてくれた……」

その日一日、彼は片時も彼女の側を離れなかった。

喉が渇けば水を運び、空腹になればスプーンで一口ずつ食べさせる。

看護師たちですら「こんな優しい旦那、見たことない」と驚くほどの献身ぶりだった。

――けれど、夜になると不思議なことが起きた。

彼の姿はふいに病室から消え、どこへともなくいなくなるのだ。

この階には他に入院患者はいない。

だからこそ、深夜の病院はひときわ静まり返る。

そんな中、たまたま通りかかった看護師たちの会話が、まるで囁き声のように耳へ届いてきた。

「聞いた?あの奥さん、熱出したって。で、旦那さんがこの階、まるごと貸し切ったんだって」

「しかもね、上の階には妊娠してる子がいて、その子のためにも誰かが階を貸し切ったらしいの。二人とも、超絶イケメンで超お金持ち。うらやましいよね」

「ほんと、うらやましいよね~。でもさ、ちょっと不思議じゃない?こっちの階の朝倉さんは昼間しか見かけないし、上の階のあの男の人は夜しか現れないんだよ?」

「まあ、お金持ちの趣味なんて、私たちにはわからないよね」

……

――看護師たちの会話は、足音とともに病棟の奥へと消えていった。

ベッドの中で、まだ眠れずにいたゆいは、そのすべてをはっきりと聞いていた。

口元を引きつらせるように笑ってみたけど、そこには何の感情も乗っていなかった。

ただ、苦い苦い気持ちが胸の中を満たしていく。

……人って、本当に、同時に二人を愛せるんだ。

そして、またある夕暮れ――

夕食を食べ終えたゆいは、そのままベッドに横たわり、目を閉じた。

誠士は特に気にする様子もなく、「今日は疲れてるんだな」と勝手に納得し、布団を丁寧にかけてやったあとも、しばらくその場に座って彼女の寝顔を見守っていた。

彼女は呼吸を整え、静かに眠っているふりをする。

まもなく、ゆったりとした寝息が室内に広がった。

彼は小声で何度か名前を呼んだが、反応がないとわかると、そっと彼女の額にキスをして、静かに部屋を出ていった。

足音ひとつ立てずに、階上へと向かう。

彼は急ぐように早足で歩いていた。

だから気づかなかった。

その背後に、もう一人の影が忍び寄っていることに――

ゆいはそっと誠士のあとを追った。

彼が廊下を何度も曲がり、やがて一つの病室の扉を開けて入っていくのを、黙って見届けながら。

ドアの小窓からそっと中を覗くと、そこにはさっきまで自分の看病をしていたはずの彼の姿があった。

彼は、また違う誰かのために、同じように優しく動いていた。

手には温かいお粥の入った器。

そして、穏やかな声で語りかける。

「ね、もうちょっと食べよ。赤ちゃんのためだし、君のためでもあるんだから」

その口調、その目の優しさ――

それは、かつて彼が自分に見せていたものと、まったく同じだった。

……もう、見たくなかった。

ゆいはその場から目を背け、足早に階段を降りて自分の病室へ戻った。

扉を閉めた直後、スマホが音を立てて通知を表示する。

差出人は――すみれ。

【ねえ、どうして途中で帰っちゃったの?前は一晩中、私たちの声を聞いてたくせに。あのときは、さすがにもう私たちの関係を暴くかと思ったのに、意外と我慢強いんだね。もしかして……まだ社長があなたを愛してるって思ってる?】

【でも残念。私が彼の子を妊娠してるってこと、あなた知らないのかな?一年間、ずっと私を囲ってたのよ。三百六十五日、ほぼ毎日一緒にベッドの中。あなたの誕生日も、出会った記念日も、結婚記念日も、あなたのもとを離れて、私のところに来てた】

【彼は私の身体に夢中なの。八十二の体位、全部私のために使ってくれたわ】

【誠士さんって本当にすごいのよ。ホテルでも、オフィスでも、マイバッハでも、クラブでも、そして――あなたたちの新居でも、何度も何度も、抱き合った】

【そうそう、この前ね。ある男が私に言い寄ってきたの。誠士さん、それを知って大激怒。相手の男を半殺しにして、その晩、私を何度も求めてきたの。「他の男なんて見るな」「ずっとオレだけを呼べ」って……その日、あなた熱出して寝込んでたよね?彼、あなたを置いて私のとこ来たのよ】

【今、私は彼の子をお腹に宿してる。だから――そろそろ「奥さん」の座を空けたらどう?今ならまだ、自分で身を引けるチャンスがある。でも、もし赤ちゃんが生まれてからも居座るなら……その時はきっと、あなたの方が家から追い出されるわよ】

……

――ポン、ポン、ポン。

立て続けに届くメッセージ。

それはまるで、鋭い針が何本も心に刺さるようで、ゆいの胸を容赦なく貫いていった。

涙が勝手に溢れてくる。

震える手で何度拭っても、止まることはなかった。

……誠士。

……誠士。

「絶対に裏切らない」って、言ってくれたよね。

「一生、愛し続ける」って、何度も何度も誓ったよね。

「この先、他の女なんて目にも入らない」って。

――その全部、全部、嘘だったんだ。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 夢の中で枯れた薔薇   第24話

    彼女は手早く残りの家電を所定の場所に設置し終えると、にっこり微笑んで、さっき開けたばかりの椅子を引き寄せ、テオドールの隣に腰を下ろした。彼女が加わったことで、開封作業のペースが一気にアップ。気づけば、最後の一つまであっという間に終わっていた。ゆいはぐーっと背伸びをして、大きく伸びをしながら、くるりと彼に視線を向け、柔らかく微笑んだ。「テオドール、本当にありがとう。あなたがいなかったら、今日は絶対こんなにスムーズに終わらなかったよ」そのお礼の言葉はとても丁寧だったけれど、不思議と距離は感じさせなかった。テオドールは涼しい顔を装っていたけれど、耳の先がほんのり赤く染まっているのを、彼女はしっかり見逃さなかった。その赤みは、白い肌にくっきり浮かんでいて、思わずゆいは首をかしげた。「……暑い?窓、開ける?」最初は疲れて熱がこもったのかなと思ったけど――彼の耳が彼女の声に反応するようにさらに赤くなったのを見て、ゆいの胸がドクンと跳ねた。彼が一歩、こちらへ足を踏み出そうとしたその瞬間、彼女はハッと我に返り、バタバタと立ち上がってキッチンへと逃げ込んだ。「そ、そうだっ、ね、ねぇ、お腹空いてない?ほら、今日いろいろ食材も買ったし、前に私の国の料理が好きって言ってたよね?今日は腕ふるっちゃう!」明らかに話をそらしてる。でも、その気持ちには気づいたけれど、テオドールはそれを追求しようとはしなかった。ほんの少しだけ残念そうな顔をしたけど、すぐに彼女の話に乗ってあげた。「うん、たしかにお腹空いたかも。さっきからずっと動きっぱなしだったし……手伝おうか?」ゆいも、彼がそばに来るのを拒むことはしなかった。だけど、同じ空間にいるというだけで、なんだかそわそわしてしまい、手元がやたらと落ち着かない。小さいころからずっと料理をしてきたはずなのに――今日に限って、やけに不器用。包丁の使い方もぎこちなく、何度か手を切りそうになってしまった。それを見かねたテオドールが、彼女の手からそっと食材を受け取り、苦笑混じりに言った。「僕がやるよ」そして、夕食が一段落すると、今度は彼がキッチンに残ろうとするのを、ゆいが強引に押し出した。その勢いに、彼は両手を上げて降参のポーズ。「はいはい、わかったよ」と一歩後ずさって、彼女にキッチ

  • 夢の中で枯れた薔薇   第23話

    スーパーでの戦利品を抱えて、ゆいとテオドールは無事に帰宅した。あの大きな買い物袋も、結局最後まで彼が持ってくれた。支払った金額こそなかなかだったけど、身体的には彼女が一番ラクをしていたことは間違いない。ちょうどいいタイミングで帰り着き、ゆいが買ってきた食料品を冷蔵庫に詰め終えたそのとき――ピンポーン。玄関のチャイムが鳴った。ゆいが「出なきゃ」と思った瞬間には、テオドールがすっと足を伸ばして、すでにドアの前に立っていた。開けると、ちょうど予約していた宅配便が届いたところだった。家具や家電が次々とリビングに運び込まれていき、あっという間に部屋が荷物でいっぱいに。「わぁ……今日の収穫、すごいかも」そんなリビングを見渡して、ゆいは思わずつぶやいた。こんなに一気に買い物をしたのは初めてだったけれど、並べられた箱やアイテムは、どれも生活を彩る新しい一歩みたいで、不思議と胸が躍った。でも――その「楽しさ」も束の間。箱の山を見た瞬間、現実に引き戻された。そう、全部開けなきゃいけないし、組み立てなきゃいけないし、出た大量のゴミだって処理しなきゃいけない。はぁ……思わずため息が漏れた。「どうしたの?ため息なんてついて。なにか困ったことでも?」テオドールが、不思議そうに金色の瞳をぱちくり。声に混じるわずかな心配が、彼の優しさをにじませていた。その一言が、まさにタイミング良く、ゆいの心に灯をともした。ぱちぱちとまつ毛を揺らしながら、うるうるした瞳で彼を見上げる。――その一瞬。テオドールの胸が、ドクンと跳ねた。――ヤバい……なんでこんなに可愛いんだ、この子……まるで動くお人形みたいに、愛らしさが溢れ出していて、彼は一瞬、本気で魂を持っていかれそうになった。「え、えっと……なにか、お願いでもあるの?」照れ隠しにちょっと首を傾げながらそう尋ねた彼に、ゆいはこくりと頷いた。スーパーでのやり取りもあって、彼女の中でほんの少し、距離の壁が溶けはじめていたのだ。「テオドール……お願いがあるんだけど」そっと口を開くと、彼は何も聞かずに即座に答えた。「もちろん。なんでも言って!」その返事に、ゆいは嬉しいような、でもちょっとだけ申し訳ないような顔を浮かべた。そして、部屋の奥に積み上げられたダ

  • 夢の中で枯れた薔薇   第22話

    メルボルン。 ゆいは、テオドールの紹介で、彼の隣にある小さなマンションを購入した。 広さはさほどではなかったけれど、一人で住むにはちょうどいい。とはいえ、まだ引っ越したばかりで、足りないものが山ほどあった。 ちょうど近所には大型のスーパーがあって、テオドールの案内で一緒に買い出しに行くことにした。 そのスーパーはとにかく品揃えが豊富で、生活に必要なものは何でも揃っていた。わざわざあちこち回らなくても済むのが嬉しい。とはいえ、つい買いすぎてしまい、荷物の量にゆいは少し困ってしまった。 「心配しなくてもいいよ。このスーパーには1時間以内の宅配サービスがあるんだ。少しだけ配送料がかかるけどね」 眉をひそめる彼女の表情に、テオドールは思わず微笑んで、そう説明した。 その声に、ゆいはふいに彼を振り返る。むっとしたように頬を膨らませて睨むその姿が―― ――かわいすぎる…… テオドールの頭の中には、その言葉しか浮かばなかった。 あまりにまっすぐな視線に気づいたゆいは、顔を少し赤くして、軽く咳払いを一つ。 「……ちょっと、行ってくるね」 そう言って足早にスタッフのもとへと向かい、宅配サービスの手配について相談を始めた。 配達してもらうのは、主に家具や家電。細かいことまできちんと話をつけてから、彼女はテオドールに「ちょっと食品売り場行ってくるね」とだけ告げて、再びカートを押して歩き出した。 引っ越したばかりで冷蔵庫の中はほぼ空っぽ。まだ新しい生活には慣れていない。しかも、今回の家探しから購入まで、テオドール一家には本当にたくさん助けてもらった。それに少しでもお礼がしたいと、彼女は思っていた。 店内をあちこち見て回りながら、目に入ったものをどんどんカートに入れていく。野菜、肉、スナック、果物、ジュース――気づけば、テオドールが押しているカートはすっかり山盛り。 重たいものばかりで、さすがにカートがあっても力が要る。特にコーナーを曲がる時には、かなり苦戦していた。 ゆいが振り返ると、そこには重そうなカートを押すテオドールの姿があった。 ――えっ、いつの間に?? どうやら、自分のカートが彼の手に渡っていたことにまったく気づかなかったらしい。 「わ、ごめん!また手間かけさせちゃって……」 顔を赤らめながら謝る

  • 夢の中で枯れた薔薇   第21話

    その夜、誠士はすぐに帰国し、A市に戻ってきた。そしてナビを頼りに車を走らせ、今のすみれがいる療養院を訪れた。 着いた瞬間、誠士の第一印象は――「古くて、汚くて、うるさい」。 高級ブランドのスーツを身にまとった誠士が足を踏み入れた瞬間、周囲の視線が一斉に彼に注がれた。 無理もない。ここにいる誰よりも、彼はあまりに場違いだった。 この療養院に来るような人は、たいていお金もなく、家族に面倒を見てもらえず、自分の生活すらままならない。だからこそ、こうした場所に送られてくるのだ。 でも彼は、見た目からしてまるで別世界の人間だった。 彼が札を数枚ひらりと差し出すだけで、看護師たちは途端に媚びへつらい始める。「どなたに会いに来たんですか?」と訊かれ、「中は汚いから、面会なら呼び出しますよ」と勝手に提案された。 「藤崎すみれに会わせてくれ」 冷たくそう告げ、彼は彼女らの申し出をばっさり断って、無言のまま中へ進んでいく。 その名前を聞いた瞬間、担当の看護師が小走りで前に出てきた。彼女は鋭い目で誠士の表情をじっと見つめ、その態度から彼がすみれにどんな感情を抱いているのかを探ろうとしていた。 なにせ、すみれという女もただ者ではなかった。かつては金持ちの愛人で、妊娠をきっかけに本妻を追い出そうとしたが、結局その男の怒りを買い、ここに押し込まれたらしい。 目の前の男――その顔立ちと雰囲気は、まさにその「金主」に見えた。 でも、もし本当にただ彼女の落ちぶれた姿を見たいだけなら、こんなところまでわざわざ来る必要なんてないはずだ。 看護師は前を歩きながら、こっそり口元をゆがめた。 ――やっぱり、金持ちの考えることなんて、私たちには理解できない。 彼もきっと、ろくでもない奴なんだろう。 もし本当にすみれを愛していたのなら、なぜあれほどまでに追い詰められるのか。 だが愛していないと言うには、妊娠させ、正妻まで家を出させた現実がある。 矛盾だらけの行動。 それでも、彼は何ひとつ間違っていないような顔をしている。 その男の心なんてどうせ理解できるはずがない――そう割り切った看護師は、もう何も考えず、すぐに彼をすみれの病室前まで案内した。 「藤崎さんはこちらです。窓際のベッドですよ」 そう言いながら、彼女はお世辞たっぷり

  • 夢の中で枯れた薔薇   第20話

    誠士の顔から、見る見るうちに血の気が引いていった。ゆいの言葉が一つ、また一つと突き刺さるたびに、彼の表情はますます蒼白になっていく。首を横に振ることしかできなかった。「違うんだ……違う……」そう口を動かしていたが、言葉にならない。そんな彼の姿を見て、ゆいはふっと鼻で笑った。「何?まだ『愛してる』なんて言うつもり?――他の女と子どもを作りながら、私を『愛してる』って?……だったら、あんたの『愛』って、どれだけ安いんだろうね」その言葉が落ちた瞬間――誠士の顔からは完全に血色が消え、唯一赤く染まっていたのは、涙を湛えた目だけだった。「……ちがう、ちがうんだ……」かすれた声で、必死に言葉を紡いだ。「オレ、あいつに子どもなんか産ませてない……病院に連れて行って……堕ろさせたんだ……そのあと、本当に連絡もしてない。もう一切、関係ない。だから――だからお願いだ、ゆい……信じて……」だが、ゆいの答えは冷たく、はっきりしていた。首を小さく横に振りながら、目には深い嫌悪の色が宿っていた。「……信じるわよ。あなたが本当にあの子を堕ろさせたことも、その後二度と連絡を取らなかったことも。でもね、誠士。そういうあなたが――いちばん、人をうんざりさせるのよ。全部の始まりは、あなたが既婚者であるにも関わらず、他の女に手を出したことからだった。誰よりも先に壊したのは、あなた自身なの。家庭も、信頼も、相手の未来も。そして、自分のしたことに気づいて、騒ぎになってから――ようやく手のひらを返す。被害者を「処理」して、「もう終わった」って顔をして――全部、なかったことにするの。私はね、あなたの番号をブロックした。でも、彼女の連絡先は、ずっと残してたの。だから知ってるの。彼女がどうなったか。『誠士に見限られた女』ってレッテルを貼られ、会社を追い出され、『心が汚い女は二度と雇わない』って、公の場で言い放たれて。子どもを失って、仕事もなくなって、上流社会からも見捨てられた彼女が、どんな目にあったか。笑われて、蔑まれて、追い出されて……産後の身体で、街に放り出された彼女が、どうやって生きたか知ってる?精神を病んで、今じゃ正気を保てるのも『たまに』だけなんだよ。……ねえ、誠士。あなた、すごいよね。冷たく

  • 夢の中で枯れた薔薇   第19話

    二人の言い合いの中で、少しでもゆいの表情に不安が滲んだなら――テオドールは、何も言わず彼女の手を引き、すぐにその場から連れ去っていただろう。彼にとって、目の前の男――ゆいの過去に関わった誰かの言葉なんて、どうでもよかった。「……ゆい。どうか、今回だけは許してくれないか?」誠士の声は、かつてないほど必死だった。「オレ、本当に反省してる。絶対にもう同じことはしない。すみれとは、もう完全に関係を切った。会社からも追い出した。だから……もう怒らないで。お願いだ。家に帰ろう、一緒に――」その一言一言は、きっと彼なりの精一杯だった。知らない人が見たら、きっと「そんなに後悔してるなら許してあげたら」と言うかもしれない。――でも、テオドールだけは違った。言葉こそ全部は理解できなかったけれど、「離婚していない」「許してほしい」「一緒に帰ろう」――そんなキーワードが、彼の耳にもはっきりと届いていた。そして、瞬時に状況を把握した。目の前で「涙を浮かべて懺悔している」男の正体。――浮気しておいて、今さら許しを乞う、典型的なクズ。テオドールは冷ややかな目を誠士に向け、鼻で笑った。「……」そして、露骨に白い目を向けた。誠士もその視線に気づき、顔を歪めた。だが、いま最優先すべきはゆいの気持ちを取り戻すこと。目の前の「第三者」なんて、どうでもいい。だから彼は、テオドールの反応にはもう反応しなかった。けれど――その期待も、すぐに打ち砕かれる。目の前の彼女は、何の感情も見せなかった。懐かしさも、怒りも、悲しみも、愛しさも。ただ、ひとつの冷たい言葉を返した。「あなたが誰と一緒にいようと、私にはもう関係ないわ」その声には、一片の迷いもなかった。「私はもう、この国でのすべての身分情報を消したの。だから――あなたが離婚届にサインしてようがしてなかろうが、私たちはもう『何の関係もない』の」彼女の宣言は、まるでナイフのように鋭く、誠士の胸をえぐった。二人の間に流れる、取り返しのつかない距離。その現実が、ついに彼を飲み込もうとしていた。「……それから、藤崎さんのことだけど」彼女の声は冷え切っていた。「あなたと彼女のことも、私にはもう何の関係もないの」その言葉を残し、ゆいはテオドールの手

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status