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第9話

Author: 風待
退院の日――

誠士は姿を見せなかった。

代わりに届いたのは一通のメッセージだけ。

【今日は用事があって行けない。運転手を向かわせたから】

ゆいはそのメッセージに返信しなかった。

だって、その前にすでに届いていたから。

すみれからのメッセージ。

添付されていたのは、ある一枚の写真だった。

スーツ姿の誠士が、社長とは思えない気さくな様子で、彼女の荷物を手際よくまとめている姿。

そして、短い一言が添えられていた。

【もう待たなくていいよ。今日は彼が、私と赤ちゃんを家に送ってくれる日だから】

ゆいは誰にも何も言わず、自分で荷物をまとめて、ひとりで別荘に戻った。

――それからというもの、すみれからのメッセージは、まるで剥がれない呪いのように、毎日届くようになった。

今日は誠士が足を揉んでくれてる写真。

明日はエビの殻を剥いてくれてる写真。

その次は、オフィスで二人が甘く絡んでいる写真――

そして、ゆいが何も反応しないと、怒ったように追い打ちが来る。

【ねえ、どうして返信しないの?どうして誠士に何も言わないの?こんなに我慢できるの?もうすぐ私たちの子が生まれるっていうのに、あなたは何も知らないふりでいられるの?】

でも、ゆいは沈黙を続けた。

その代わりに、彼女はその写真を一枚一枚プリントアウトして、裏に、丁寧に、ペンを走らせた。

「一日目。彼女が送ってきたのは、桜の木の下でキスしてる写真。昔、彼もあの場所で告白してきたっけ。告白七十八回、私が断ったのも七十八回。『冷たい女』って言われたけど、それはね、間違うのが怖かったから。身体の傷は癒える。でも心を傷つけられたら、一生癒えない。だから、私は負けたくなかった。でも今ならわかる。誠士、あなたに賭けた私は、見事に負けたの」

「二日目。二人で花火を見ている写真。彼女の指に指輪をはめる彼……あの頃の彼は、こう言った。『花火は、本当に好きな人としか見ない。指輪も、本当に好きな人にしか贈らない』って――今の彼は、全部忘れちゃったのね」

「三日目。二人が身体を重ねる写真……もし、彼が『他に好きな人ができた』って言ってくれてたら、私はもちろん傷ついた。泣いたと思う。でも、執着なんてしなかった――裏切られたことじゃなくて、騙されたことが、何よりも、つらいの。誠士……心が、痛い。とても、痛い。だから――私は、行くね」

……

七日目。

ゆいは弁護士と相談の上、離婚協議書の内容を整えた。

これまでの写真。

録音されたあの夜の音声。

そして、署名済みの離婚届。

それらすべてを一つのギフトボックスに詰め込み、彼女は静かに蓋を閉じた――

その瞬間、スマホの着信音が鳴り響いた。

「朝倉様、個人情報の削除が完了しました。これより、この世に『朝倉ゆい』という人物は存在しません」

――その言葉に、真っ白な顔にかすかな笑みが浮かぶ。

やっと、終わる。

「ありがとうございました」

そう呟いた直後、部屋の扉が突然開かれた。

「何を、削除って?」

振り返ると、そこにいたのは、しばらくぶりに顔を見せた誠士だった。

けれど、さっきの会話を聞いた様子はなかったようで、問いもただの興味本位のものに過ぎなかった。

ゆいは何気ないふうに口元を動かし、こう返した。

「なんでもないよ。聞き間違いでしょ」

誠士はそれ以上追及せず、代わりに長い腕で彼女を抱き寄せた。

「ごめんな、最近全然そばにいられなくて。でももうすぐ落ち着くから。そしたら、ずっと一緒にいられる」

彼はそのまま、やさしく髪にキスを落とした。

けれどその瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは――すみれから送られてきた、親子コーデの写真。

目の奥に浮かんだのは、冷たい嘲笑。

「そんなに忙しいのに、どうして今日に限って帰ってきたの?」

誠士は彼女の鼻を指先で軽くつついた。

「忘れた?明日、結婚記念日だよ。君にサプライズを用意してたんだ」

ゆいは首を横に振り、隣に置いてあったギフトボックスをそっと手渡す。

「忘れてなんかないよ。私も、君に『サプライズ』を用意してあるの」

その言葉に、誠士の顔がぱっと明るくなった。

嬉しそうに蓋を開けようとした、その時――

突然、スマホの着信音が鳴った。

ちらりと光った画面に、はっきりと映っていた名前。

――すみれ。

ゆいの視線が、ほんの一瞬、鋭く光る。

一分後。

電話を終えた誠士が戻ってきた。

「なあ、ゆい……会社のほうでちょっと急用があって」

彼女はまるで、すべてを予想していたかのように、微笑すら見せずに静かにうなずいた。

「大事な仕事でしょ。行ってきて」

その言葉に、誠士の足が一瞬止まった。

――かつてなら、彼女がこうして見送るとき、たとえ「公事優先」と口では言っても、目には寂しさが滲んでいた。

今のように、何の感情もなく、ただ淡々と背中を押すことなんてなかった。

でも彼の脳裏には、さっき電話で聞いたすみれの言葉がちらついていた。

一瞬だけ躊躇したあと――彼は行くことを選んだ。

「ゆい……すぐ戻る。帰ったら、お互いのサプライズを交換しようね」

その背中が遠ざかっていく。

彼女は、追わなかった。

彼のサプライズが自分にとって「驚き」かどうか、それはわからない。

けれど――自分の贈り物は、きっと彼にとって「衝撃」になる。

車が完全に見えなくなったのを見計らって、ゆいは部屋に戻り、あらかじめ準備していたスーツケースを手に取った。

中身は多くない。

だから転がす音も静かで、屋敷の誰一人、彼女の出発に気づく者はいなかった。

タクシーに乗り込み、あの家から離れていく。

窓の外に広がる風景の中で、家は次第に小さく、やがて見えなくなった。

その瞬間、ふと彼女は振り返った。

――そこには、十七歳の彼が立っていたような気がした。

泣きそうな顔で、それでも優しく笑いながら、彼は言った。

「ゆい、あいつを許しちゃダメだよ。もう、戻っちゃいけない」

彼女は視線を前に戻し、赤く染まった目元のまま、ほんの少しだけ微笑んだ。

――そして、もう二度と、振り返らなかった。

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