LOGIN廊下の照明が、不規則な点滅を繰り返している。明かりがちらつく中、私はゆっくりと顔を上げて大輔を見た。「それで?それで、最初から私を騙して、結婚式で私を置き去りにして、周りの人たちが好き勝手に広めた噂を止めなくなって。それで薬を飲ませて、私と結婚しているのに元カノを家に連れ込んで、それで……」「もういい!」大輔は怒鳴った。その声は疲れきっていて、顔色も悪かった。「美穗、どうしてこんなことにならなくちゃいけないんだ?俺が悪かった。償えるなら何でもする。君が望むなら、俺は何だってしてあげる」大輔は彼の誠意を示そうと、私と目を合わせた。ああ、この光景には見覚えがある。まるで、あの夜のようだ。大輔は言った。「美穗、凛は最近精神的に不安定なんだ。それも俺たちのせいだから、償いをしなくちゃいけないんだ。だから、彼女を家に連れてきてしばらく面倒を見てもいいかな?」その「償い」って、なんて安っぽいんだろう。「償い?」私は笑った。「大輔、あなたが他の誰かを好きになるのは、別にいいわ。でも、私たちにとって一番大事な年に、あなたが私の知らないところで、別の女とあんなことを誓ったなんて!陣内さんと約束したんでしょ。彼女の生活が落ち着くまで、私との子どもは作らないって!私がどれだけ子どもを欲しがってたか、あなたは知ってたはずよ、分かってたはずでしょ!大輔、私ね、どうしてずっと子供ができなかったんだろうって何度も考えたの。でも、答えは分からなかった。だって、少なくともあの頃のあなたは、本気で私たちの家庭を大事にしてるって信じてたから!」今日はもう、散々泣いた。それにもかかわらず、涙が枯れることなく溢れ出てきた。私はありったけの力で大輔を叩いた。今までの恨みと不満を、全部ぶつけるみたいに。最後には、自分の声もよく聞こえないくらいに泣きじゃくった。あの夜、私がどれくらい涙を流し続けたのか、もう覚えていない。大輔がいついなくなったのかも、分からなかった。私は床の上に一晩中座り込んで、窓から差し込んだ朝日の光にも気づかなかった。2年前、雲の切れ間から差し込む光に包まれながら、私たちは結婚を決めた。しかし2年後の今になって、この関係はバラバラに崩れた。この日を境に、私の日常から大輔という存在がいなくなっ
大輔と私は、二人とも子供が大好きだった。でも結婚して、どれだけがんばっても、赤ちゃんはできなかった。病院で検査しても、結果はいつも異常なし。専門医にも頼ったし、どれだけ苦い薬だって、言われた通りに全部飲み干した。神社に行って、お守りをもらってきた。思いつく限りのことは、全部試した。陰性を示す一本の線が入った妊娠検査薬を片手に、ソファーで落ち込んだ時のことを今でも覚えている。大輔はそんな私を抱きしめて、つらそうに言った。「美穗、別に、俺、そこまで子供が好きってわけじゃないんだ。俺たち、二人だけでも十分に幸せだよ」大輔が私を慰めてくれてるのは、わかってた。だって、私たちは二人とも、早くに両親を亡くしているから。誰よりも、自分の子供が欲しいって思ってたんだ。凛の笑みが、だんだん深くなっていく。「もう話すことは何ない。帰るぞ」大輔は強引に凛の肩を抱き、有無を言わさずこの場から連れ去ろうとした。私は、二人の前に立ちはだかった。「どうしてです?」大輔は、私から目をそらした。あれだけ一緒にいた人だ。大輔のその表情は、罪悪感と、嘘をごまかすためのものだってことは、すぐにわかった。大輔には、私に言えない秘密があるのだ。「一体どうしてですか!」思わず声を大きくした。「言ってくださいよ!」大輔は、気まずそうに顔を横に向いた。そしたら、凛がケラケラと笑い始めた。「あんたたちが結婚した日、大輔は私の家に来たのよ。私が命を絶とうとした日ね。大輔は私を抱きしめて、ずっと泣いてたわ。私の家から救急車の中、病院に着くまで、ずっとね。私が目を覚ました時、あんたとは結婚しちゃダメって言ったの。でも、大輔は聞いてくれなかった」凛は私の方に体を乗り出し、まるで悪魔みたいに、どんどん声を低くして言った。「だから私は言ったの。私の気が済むまで、あんたたちの間に子供は作らせないって。病院で出してもらった薬、美味しかった?」あの日、私は警察署の前で泣き崩れた。本当に、気持ち悪い。周りの反対を押し切って、すべてをかけて手に入れた愛は、結婚したその日から、もう腐りきっていたなんて。私は一日中、街をさまよった。通りの角を曲がった時、ふと懐かしい歌が聞こえてきた。それは、昔大好きだった曲で
1時間くらいして、アルバイトの子が声をかけてきた。大輔たちは、もう帰ったようだった。その子が笑いながら話しかけてきた。「さっきのお客さん、奥さんのことすっごく好きなんですね。火を使った作業は、奥さんがやけどしたら危ないからって、全部ひとりでやってあげてました」私は思わず、右の人差し指の腹をさすった。昔、そこをやけどしたことがある。大輔は、私との思い出の中で、別の誰かを愛すための方法を覚えたのだ。その日の夜、お店のレビューサイトに、一件の低評価がついた。【接客が最悪。店長がうちの夫に気があるみたいで、すごく不愉快だった。ありえない】誰がこれを書いたのか、すぐにわかった。対応に悩んで、返信欄に反論を書いては消した。しかし、結局正論を書くのはやめて、スマホの画面を消した。次の日の朝。店のシャッターを開けたとたん、バケツ一杯の真っ赤なペンキを頭から浴びせられた。店の前には50代くらいの主婦たちが大勢集まっていて、私の顔を指さした。「泥棒猫!人の家庭を壊すな!」私は袖で、顔にかかったペンキをぬぐった。そして、目の前でいきり立つ主婦たちを、冷たい目で見返した。2年前の、大学で凛と対面した時の光景がよみがえる。でも、私はもう昔の私じゃない。私は店の入り口にある防犯カメラを指さし、冷静に言った。「あなたたちの顔、全部録画されていますから。名誉毀損と傷害罪、誰も逃げられませんよ」けれど、主婦たちは堂々と立ったままで、怖がるそぶりも見せなかった。「家庭を壊す女にこれくらいして何が悪いの?世間だってあんたみたいなのを許さないのよ!」と、逆に息巻いている。私が電話で友人の弁護士を呼ぶと、状況は一変した。主婦たちの顔に、ようやく不安の色が浮かんだ。ぶつぶつと文句を言いながら解散する中、彼女たちの口から出たのは、やはり予想通りの名前だった。……警察署で顔を合わせると、大輔は不満そうな顔をしていた。「美穗、こんな大騒ぎにする必要があったのか?」私は大輔の方を見ずに、顔をそむけた。彼は眉をしかめて、疲れたような声を出した。「美穗、いい加減にしてくれ。やきもちをするのはわかる。でも、離婚したいと言ったのは君の方だろ。慰謝料だって払った。君が望むものは全部あげたはずだ。これ以上、
私たちはお互いに納得して、静かに離婚した。想像していたように泣き叫ぶことも、憎み合うこともなかった。ただ、心にぽっかりと穴が空いてしまっただけ。冷たい風に吹かれ、胸が締め付けられるように痛んだ。離婚届の受理証明を眺めていると、少し笑いたい気持ちになった。入籍した日、大輔は私を抱きしめて、永遠に大切にすると言ってくれた。「永遠」という言葉にも、ちゃんと終わりがあるようだ。「美穗、俺は……」大輔は、何かを言いかけて口をつぐんだ。彼が昔、凛にだけ抱いた罪悪感のようなものが、今、瞳の奥にうっすらと浮かんでいるように見えた。私は、大輔の言葉を遮った。「大輔。そんな顔で私を見るのはやめて……気持ち悪いから」財産分与は、驚くほどあっさりと決まった。私は、多額の慰謝料をもらったのだ。家を出る日、私は玄関で長いこと立ちつくしていた。玄関に置いてある可愛い置物は、二人で旅行に行ったときに買ったものだ。ベランダの草花は、毎週のように花屋に寄って、二人で一つ一つ、時間をかけて選んだんだ。ソファも、カーテンも。テーブルや椅子、それに小さな置物まで。すべてに、私たちの思い出が詰まっていた。この部屋は隅から隅まで、全部二人の手で作り上げた空間だった。少し前までは、猫を飼おうだなんて話した。行き先が決まらなかったから、私はホテルで1ヶ月ほど過ごした。そして大輔と凛の結婚式の3日前に、大輔から式の招待状を渡された。「美穗。凛が、君に来てほしいって。君が来てくれないと、凛はたぶん、一生俺たちのことを引きずることになる」大輔は息を深く吸い込んで言った。「昔は、俺たちが凛を、深く傷つけたんだ。だからこれは、その……」私は招待状を受け取った。「わかった。これで最後ね。これでもう、私が彼女に償うべきことなんてなくなるから」結婚式当日。私が案内されたテーブルには、知らない顔ばかりだった。私は黙って、彼らの会話に耳を澄ませていた。どうやら二人の大学の同級生らしい。「なんだかんだ、結局あの二人なんだな」「当時は、浮気されて別れたんじゃなかったっけ。そうでなきゃ、あの二人が別れるわけないしな」「大輔も、やっと目が覚めたってことだな」「まあ、あれだけ長く付き合ってたんだし。誰か
大輔は婚姻を終わらすつもりがなかった。彼は、最近私と一緒にいる時間が明らかに少なくなっていることに気づいてくれたようだった。私が入院している数日間、大輔はすごく優しくて、とても献身的に世話をしてくれた。私が好きな料理を作って、私が楽しみにしていた雑誌の新刊も買ってくれた。面白い動画を見つけては見せてくれたり、スマホでできるようなミニゲームで一緒に遊んだりして過ごした。甘い言葉をささやいて、自分たちの子供が生まれる生活を想像して語り合った。彼に向けられた愛情は、本物そのものだった。「凛」という名前が、まるで私たちの生活から消えてしまったかのようだった。私が幸せな気持ちのまま家に帰ると、キッチンに凛が立っていた。私のエプロンをつけて、楽しそうに何かを作っている。彼女はこちらを振り向きもせず、明るい声で言った。「大輔、今日は帰りが早いのね?今日、何を作ってるか当ててみて。当たったらご褒美あげる!」その時、私はようやく気づいた。私は今でも大輔の妻で、私の病室は、彼にとって1つの居場所として存在できた。しかし、凛と一緒に暮らすこの空間は、「居場所」ではなく「家」なんだ。そしてそれは、もう「私と大輔の家」ではなくなった。あの日、私が何かを問いただすより先に、凛が私の顔を見てパニックを起こして、鍋いっぱいの料理を床にぶちまけた。大輔はゴム手袋をして、床に落ちたものを拾い上げた。料理はよく煮込まれていて、ゴミ箱にたどり着く前に、ほろほろと崩れて床に散らばった。慌てて後始末をする大輔の姿を見つめながら、私はふと思った。いつから私は、大輔をゴミ箱にでも捨ててしまいたいと思うようになったのだろう、と。凛とまだ別れてもいないのに、嘘をついて私を抱いたあの夜から?それとも、私たち夫婦の家に、平気で別の女を連れてきた時から?キッチンの床は、すぐに元通りに片付けられた。まるで最初から凛しかここに立ったことがなくて、私がいたことなどなかったかのように。「美穗、退院したばかりなんだから、少し休んでろよ」私は大輔の手を振り払った。「大輔。今日の午後、離婚届を出しに行こう。本気よ。後悔なんてしない」私はそう付け加えた。以前、大輔と喧嘩して別れ話を持ち出すたびに、彼はいつも余裕そうな笑みを浮
大輔は言った。凛には精神疾患があるって。普段からすごく繊細で、日々緊張しながら過ごしているから、彼女を刺激しないようにって、注意されたこともあった。私はできるだけ、彼女の気に障らないように暮らした。しかしある朝、念のために複数かけたアラームのことを忘れて、けたたましく鳴り響く音を即座に止めることができなかった。すると、凛は近くにあった花瓶を掴むと、まっすぐに私の方へ投げつけてきた。「きゃあっ!」凛は頭を抱え、両耳を塞いで、甲高い悲鳴をあげた。「早く消して!もう耐えられない!」私はその場で呆然と立ち尽くした。やがて、生ぬるくて、ねっとりした液体が、視界を遮った。とっさに凛を抱きしめて慰めていた大輔は、その時ようやく、床に倒れている私に気づいた。意識が遠のく中、救急車のサイレンが聞こえた。その音を、なんだか昔も聞いたことがあるような気がした。両親が亡くなったあの夜。血だらけで倒れていた私を見つけたのは、親戚の人だった。何度も手首を切った痕は、ブレスレットがうまく隠してくれている。「うつ、また発作したのですか?確か2年前の検診の時には、もうだいぶ良くなってたはずなのに」「そうですね。その時、すごく素敵な彼氏さんができたって笑ってたんですけど」医師や看護師たちの声も、なんだか聞き覚えがあった。目が覚めると、大輔がベッドのそばにいてくれた。私は手を伸ばし、大輔の髪を優しく撫でた。付き合い始めてから、幸せな時間はたくさんあった。私が高熱を出した時は、一晩中そばにいてくれて、熱が下がったのを見届けてから、やっと安心して眠るような人だった。私が感情的になって、わがままなことを言っても、大輔は決して突き放したりしなかった。それどころか、優しく何度も私をなだめてくれた。私の本当の気持ち、その全部を、大輔はいつもわかってくれた。近所のキンモクセイが咲き誇っていた日のことも、よく覚えている。大輔は早朝に、その花を両手いっぱいに抱えて部屋に戻ってきた。まだ瞼が重い私を、秋の香りが包んでくれたのだ。そして、大輔がプロポーズしてくれたあの日。私は彼を連れて、両親のお墓参りに行った。墓石を拭いてくれている大輔を見つめながら、私は心の中で両親に語りかけた。安心してね、やっと、私をちゃんと愛して