Masuk小夜は、長い間、我に返ることができなかった。 これは単なる冒険漫画なんかじゃない。ここに綴られているのは、小夜の人生そのものだった。彼女と圭介の過去をなぞり、立場を逆転させた物語。彼女の過去のすべての悲劇が、この漫画の中では救済されていたのだ。 それは現実であり、同時に現実ではない。 現実と違う部分はすべて、あの男の「こうあってほしかった」という切実な願いだった。激しく求めながら深く悔い、悔いながらもまた求める。あの人自身の不器用な生き方のように、初めから終わりまで矛盾だらけだった。 読み終えた小夜の心に残ったのは、荒涼とした虚無感だけだった。 どんな感情を抱けばいいのかもわからないまま、小夜はページを閉じようとして、何気なくさらに下へスクロールした。そして、ぴたりと手が止まった。あの墜落のコマで終わりではなかったのだ。 数日前、あの惨劇の宴の前夜に、本当の最後の更新がされていた。 …… 翼が砕け散る。 小さなロボットは、暗い空から墜ちていった。 すさまじい勢いで海面に叩きつけられ、水面に映っていた美しい月を粉々に砕いて、夜の闇に染まった黒い海に呑まれ、深海へと沈んでいく。 冷たい波間に揺られながらロボットは見た。粉々に砕けた月が、揺れる海面で再び一つに姿を結んでいくのを。その瞬間――はっと悟ったのだ。 月は、ずっと自分のそばにいたということに。 ひとりきりで眠る夜も、月の光はいつも自分を優しく照らしていた。過酷な冒険で傷だらけになったブリキの身体を、まばゆいほどに包み込んでいた。たとえ厚い雨雲が空を遮った夜でも、必ずどこかから一筋の月光がこぼれ落ちてきていた。 空の月を追いかけ、月を摘みたいと狂おしく焦がれ続けた長い道のりの中で、月はずっと傍にいてくれたのだ。自分は最初から――月に、深く愛されていたのだと。 けれど、気づくのがあまりにも遅すぎた。 ロボットはどこまでも深海へと沈んでいく。完全な暗闇に呑まれる、その最期の瞬間。海面で揺らめく月光がふいに集まり、ひとりの女の輪郭を結んだ。顔はおぼろげだが、その髪にはレモンの花がいっぱいに飾られている。ロボットは最後の力を振り絞り、月光に向かって、月を追い続けた生涯で一番伝えたかった言葉を口にした。 それは、ロボットがずっと、月に伝えたかった言葉
赤いシルクハットをかぶった、ころんと丸い小さなブリキのロボット。ある賭けがきっかけで、「空に浮かぶお月様を摘み取ってみせる」と大見得を切り、えっへんと胸を張って家を飛び出した。それが、世界を巡る冒険の旅の始まりだった。 旅の途中、ロボットはたくさんの人と出会い、彼らに降りかかる不幸を知った。そして英雄のように現れては、出会った人々を苦しみから救っていく。家族からの虐待、愛する者からの裏切り、そして別離…… 描かれている数々の苦難を、小夜は嫌というほど知っていた。 漫画の中で救われる人々は、すべて彼女自身の過去の影だったのだ。空から降ってきた小さなロボットは、暗い部屋に閉じ込められ、飢えと暴力にさらされている少女を助け出し、食事も与えずに殴りつける身内を追い払った。 そして長い間そばに寄り添い、新しく温かい家が少女を受け入れるのを見届けてから、またえっへんと胸を張って去っていく。 去り行く背中に、少女は心から祈った。 ――あなたならきっと、お月様を摘み取れるわ。 また別の場所で、ロボットは家の者に無理やり花嫁輿に押し込まれた娘に出会った。輿のそばを通りかかった時、中から声にならない泣き声と、助けを求める気配を感じ取ったのだ。ロボットは婚礼の場に乗り込むと、命と金を賭けた大勝負の末、二十億円で娘の自由を買い取った。 自由になった娘は、心から祈った。 ――あなたならきっと、お月様を摘み取れるわ。 やがてロボットは、ある古い城の前を通りかかった。城の主に道を尋ね、立ち去ろうとした時、地の底から女の泣き叫ぶ声が聞こえた。迷うことなく地下牢へ飛び込むと、そこには冷たい鎖で繋がれた女がいた。 ロボットは女の悲痛な声に応え、城の主を打ち倒して、彼女を暗い地下から連れ出した。 光を浴びた女は、ロボットの冷たいブリキの身体にそっと口づけをし、心から祈った。 ――あなたならきっと、お月様を摘み取れるわ。 そしてロボットは、一人の美しい顔立ちの男に出会った。男は言った。 「俺はある女を愛して、結婚した。だが、彼女の心には別の男がいる。それが憎い。けれど、どうしても手放したくはない。そして何より……俺のこの愛を、彼女に知られたくはないんだ」 さすがの小さなロボットにも、どうしたらいいかわからなかった。 今度ばかり
夜が更けていた。 泣き疲れてうとうとと眠りに落ちた樹は、小さな手で小夜の黒い喪服の裾をきつく握りしめたままだった。青白い頬には、まだ生々しい涙の跡が残っている。 残った力を振り絞って樹をベッドへ運び、後回しにしていた葬儀の事後処理に取りかかろうとした。だが、裾を握る小さな指がびくともしない。悪い夢でも見ているのか、樹は目を閉じたままぽろぽろと涙をこぼし、かすかに唇を動かした。 「パパ、ママ……いかないで」 その姿にしばらく黙り込んだ後、小夜はパソコンを手元に引き寄せた。樹に裾を握らせたまま、ベッドのヘッドボードにもたれかかり、彰から送られてきたファイルをひとつずつ開いていく。 すべて、遺言に関する書類だった。 この時初めて知った。圭介が、かなり前から遺言書を用意していたことを。彼の死後、彼名義のすべての事業と株式は小夜に帰属し、樹の取り分も成人までは彼女が管理・代行する。 つまり今の小夜は、長谷川グループ本社において、筆頭株主として絶大な議決権を握っている。 病院で目覚めた時に、彰が傍にいたのもそれが理由だった。圭介亡き今、彼が最も信を置き、グループ内でも大きな発言力を持つ彰が、小夜を全力で支え、新体制の座を盤石にする――それが圭介の遺した絶対の指示だった。今後、彰に対する直接の指揮権は彼女に移る。 まるで、自分の死を見越していたかのようだった。 あの男は、すべての道筋を完璧に整えていた。受け入れさえすれば、小夜は何の障害もなく巨大な権力を手にし、これまでの立場を根底から覆すことができる。 本当の意味で、誰も手出しできない権力者になれる。 だが同時に、それを受け入れれば、小夜は生涯「長谷川家」に縛られることになる。何をしようと、どこへ行こうと、「長谷川夫人」の肩書は二度と外せない。頭の先からつま先まで、圭介の影が一生刻まれ続けるのだ。 あの男は死んでなお、こんなにも鮮やかに、自分の人生に居座り続けている。どこまでも、頑固で恐ろしい人だ。 何と言えばいいのかわからなかった。喪服の裾を握りしめたまま不安げに眠る樹の髪をそっと撫で、小夜は再び画面に目を落とした。遺言書に添付された、すべての個人資産ファイルを順に追っていく。 ――ポインタが、見覚えのあるアカウント名の上で止まった。 【夢路】 この名前に
――私は今、ここで何をしているのだろう。 ――圭介の、葬儀に出ている? あれほど強く、すべてを手中に収めていたあの男が、こうして冷たい土の下に眠っているだなんて……まるで、悪い冗談だ。 白い花が、静かに墓前へと供えられていく。 黒い喪服の小夜が、白い花を手に墓前に佇む――その姿は一枚の写真に切り取られ、「圭介が七年もの間、密かに結婚していた」という衝撃の事実と共に、一夜にして世間を駆け巡り、大騒ぎとなっていた。 だが、当事者であるはずの小夜は、何も感じていなかった。 葬儀を終え、再発行したSIMカードを挿したスマホの電源を入れると、大量の通知が画面を埋め尽くした。その中には、離婚申請が取り下げられたという通知もあった。小夜がひそかに国外へ出た翌日、圭介が自ら手を回して撤回させたものだった。 ――もう、どうでもいいことだ。 圭介が、もうこの世にいないのだから。 車窓を流れ去る景色をぼんやりと眺めながら、小夜はふと思い出した。つい少し前、あの男と何度も激しく言い争ったこと。感情の抑えが利かなくなり、「死んでしまえ」と口走ったこと。――まさか、それが本当になるなんて。 ――私はただ、自由がほしかっただけだ。誰かを死なせたかったわけじゃない。なのにどうして、物事はいつも望みとは逆の方へ転がっていくのだろう。 ――今、私は本当に、自由になったのだ。 ――笑って喜ぶはずだった。なのにどうして、声ひとつ出ないのだろう。 ――すべての声が消えてしまったようだ。 …… 夕暮れ時。車が長谷川邸に到着した。 ついてこようとする彰を手で制し、小夜は深く息を吸い込んだ。そして、かつて七年を過ごした――ひどく馴染み深いはずなのに、今はどこかよそよそしく感じられる邸宅へと足を踏み入れた。 家政婦の千代が、赤く腫らした目で出迎えてくれた。 「奥様……」 小夜は静かに首を振り、彼女の言葉を遮った。階段をゆっくりと上がり、樹の部屋の前で足を止める。 そっとドアを開ける。 中は暗かった。明かりはついていない。 耳を澄ますと、ごく小さな、押し殺したような泣き声が聞こえてきた。小夜は部屋に入り、背中で静かにドアを閉めた。闇がいっそう濃くなる。 記憶を頼りに、手探りで常夜灯のスイッチを入れる。 淡いオレンジ色の
――ただ……小夜はスマホに短い文字を打ち込み、傍らにいる彰に見せた。【どうしてこんなに早く火葬したの?通夜も安置も、まだだったんじゃないの?】いくらなんでも、早すぎる。数日前にローマで事件が起きた後、彼女は気を失った。次に目を覚ました時には、すでに国内の病院に戻っていた。彰の話によれば、コルシオの残党が引き続き彼らを狙ってくる危険があり、海外は敵の縄張りであるため、ヘリコプターを手配して最短ルートで帰国したのだという。今日退院してここにやって来たのは、最後にもう一度だけ、圭介の顔を見たいと思ったからだった。だが到着して聞かされたのは、遺体はすでに荼毘に付されたという残酷な事実だった。「旦那様のお父様のご意向です。旦那様のお母様のお耳に入る前にできる限り早く葬儀を終わらせ、この事態を速やかに収束させたいと、そうお考えのようです」彰は静かに説明した。小夜は口を噤んだ。――そうか。佳乃はまだこのことを知らないのか。当然、今回の葬儀にも出席しないだろう。……だが、これほど重大な事実をいつまでも隠し通せるはずがない。ましてや、彼女がお腹を痛めて産んだ息子なのだから。とはいえ、長谷川家を揺るがす異常事態だ。それも仕方のないことなのかもしれない。心の中で深くため息をつきながら、彼女は向き直った。黒い喪服の裾を翻し、純白の骨壺を胸に抱いて、火葬場の外へと大股で歩き出す。だが、外に出た瞬間。無数のカメラのレンズが、一斉に彼女へと向けられた。強烈なフラッシュが目を刺す。思わず目を閉じて顔を背けた瞬間、小夜は無意識に胸の骨壺を強くかばっていた。心の中に、強烈な怒りが沸き起こる。――ハイエナのようなマスコミども。こんな場所にまで嗅ぎつけてくるなんて!「高宮さん!あなたが長谷川代表と結婚して七年になるという噂は事実ですか!」「先日の海外での暴動事件で、あなたと長谷川代表の姿が撮影されています!拉致された妻を助けるために現場へ向かったと言われていますが、その『妻』とはあなたのことなのですか!」「高宮さん、長谷川代表がこれまで結婚の事実を隠していた理由を教えてください!」「以前、相沢家で隠し子のスキャンダルが出た際、長谷川代表は相沢家を強く支持し、多額の株式を譲渡するという派手な行動に出ました。あれは婚姻
「小夜」意識の底で、聞き覚えのある声がこだました。うっすらと目を開けると、目に刺さるような白い光が飛び込み、風にそよぐカーテンが視界に揺れる。そこは病室のベッドの上だった。小夜は、自分が意識を取り戻したことを悟った。ゆっくりと身を起こし、辺りを見回した。声の主はいない。部屋には自分一人だった。混濁した記憶が、少しずつ輪郭を取り戻していく。――そうだ。――圭介と一緒に、パーティーに出たのだ。――そして、銃声が鳴った。指が静かに握り込まれ、真っ白なシーツにくしゃりとシワが寄る。思い出した。――たくさんの血。どれだけ手で押さえても、指の隙間から溢れ出て止まらない血。――指先の下で、彼の体温が失われていった。不意に、病室のドアが開いた。「奥様、お気がつかれましたか」入ってくるなり、ベッドの上でぼんやりと座っている小夜を見て、彰は足早に近づいてきた。「どこか、お辛いところはございませんか」そう言いながら、彼はナースコールを押す。小夜はゆっくりと首を振った。奇妙だった。何も感じないのだ。悲しくない。苦しくもない。嬉しくもない。ただ、すべてが現実ではないような、ひどくぼんやりとした感覚がある。目に映るものも、耳に入る音も、薄い水の膜を一枚隔てているようだった。なにもかもが、ひどく滲んでいる。――そうだ、意識を失う直前、フランシスと彰が見えた。――圭介は、助かったのだろうか。口を開いて、聞こうとした。「あ……っ」しかし、喉から漏れ出たのは、かすれ壊れたうめき声だけだった。小夜は凍りついた。しばらくして、ようやく理解した。声が、出ない。言葉の出し方を忘れてしまったかのように。胸の奥が、重く息苦しく塞がっていく。彰もすぐに異変を察した。ナースコールの応答すら待たず、自ら病室を飛び出して医者を連れてきた。診察を終えた医者は、静かに首を振った。「心因性の失声です。薬では改善しません。ご本人の中で整理がついて、心のつかえがほどけるのを待つしかないでしょう。感情に大きな波を起こさないよう安静にしていれば、いずれ自然と声は戻るでしょう」医者が去った後、病室に重い沈黙が降りた。はじめは少し取り乱していた小夜も、今は不気味なほど静かだった。声を出そうとする衝動を諦め
恐怖と威圧。一ノ瀬千尋(いちのせ ちひろ)は怯えて首をすくめ、騒ぐのをやめたが、まだめそめそと泣き続けていた。小夜は何も言わず、顔に無理やり笑みを貼り付け、平静を装いながら衆人環視の中で千尋の手を引き、外へと歩き出した。これ以上、騒がせるわけにはいかない。……寮を出て。小夜はそこで初めて知った。来ていたのは千尋だけでなく、父親の高宮明孝(たかみや めいこう)、そして叔父まで揃っていたことを。明らかに、善意の訪問ではない。千尋が言っていたホテルには行かず、小夜は近くのレストランで個室を取り、彼らをそこへ連れて行った。先に二人で中に入る。個室に入った途端、千
真冬。帝都大学、研究所。プロジェクトの第一段階がついに完了し、オフィスは歓声と安堵の溜息に包まれていた。メンバーたちは今夜の打ち上げ場所をどこにするか、賑やかに相談している。だが、片隅にいたはずの小夜と、プロジェクト責任者である青山の姿はすでに消えていた。「みんなに黙って抜け出して、本当に大丈夫?」こっそりと逃げ出した小夜は、少し心配そうに尋ねた。「大丈夫だよ」青山は微笑み、慌てて出てきたせいで歪んでいた彼女の白いニット帽を、手で優しく直してやった。「帽子をちゃんと被って。風邪を引くよ。それに、助手にはもうボーナスを送金しておいたからね。責任者なんて、み
朝日が昇り、薄明かりが世界を包み始めた。雪山に囲まれ、奇岩が立ち並ぶ中、渓流のほとりの草地に、数張りの黒いテントが張られている。少し離れた場所では、数十頭のヤクが水を飲み、ゆっくりと歩き回っていた。テントの頂上から突き出た煙突からは、白い蒸気が立ち上っている。赤い民族衣装を身に纏った少年が、一つのテントから別のテントへと駆け込み、大声で叫んだ。「お義姉さん、甘いお茶があるってよ!」テントの中。小夜も同じく赤い民族衣装に身を包んでいた。航が入ってくるのを見て、少しぼんやりしていた瞳に光が戻る。差し出された、ミルクティーに似た温かいお茶を受け取り、一口飲む。熱い液体が喉
雨は上がったが、夜の冷気は骨身に染みるほど深かった。テントの中に縮こまっていると、外の岩肌から滴り落ちる水音や、得体の知れない動物の鳴き声が聞こえてくる。テントの中には暖色の灯りが点いていた。航が点けておきたいと言い張ったのだ。彼はあの泣き声を、小夜の高山病による幻聴だと断じていたが、実際には彼自身が怯えていたのだ。図体はでかいのに、オカルトめいたものをこれほど怖がるとは。小夜はそれほどでもなかった。不思議には思っていたが、意外にも恐怖は感じていなかった。ただ、時折針で刺されたような鋭い頭痛が走り、意識が朦朧として辛かった。考え事をしようとすると、頭が割れるように痛







