Masukスカーレットはごくりと唾を飲み込んだ。
「うん……大丈夫。ただ、今日は外が暑いから。ちょっと……気分が悪くて」
中庭にいる誰一人として、ダリウスを無視することはできなかった。
背が高く、目を奪われるほど端正で、ただそこにいるだけで圧倒的な存在感を放っている。何の努力もしていないのに、周囲の視線をすべて引き寄せていた。
洗練された黒いスーツに身を包んだ彼は、静かな高級感そのものだった。
隙のない佇まい。鋭い眼差し。そして、どこまでもよそよそしい雰囲気。
スカーレットが彼の顔をはっきりと見た瞬間、身体が凍りついた。
圧倒されるほど整った顔立ち。その表情には一切の隙がない。
ほんの一瞬、二人の視線が重なり、彼女の心臓が大きく跳ねた。
スカーレットは慌てて顔を伏せ、助手席のシートに身を縮める。
けれど、ダリウスの視線は彼女の上に留まらなかった。
彼は警備員に車の鍵を放り投げると、そのまま門をくぐって中へ入っていった。
本当に、ダリウスがあの夜の男なのだろうか?
もし勘違いだったら?
薔薇のタトゥーを腕に入れている男が、他にもいたら?
スカーレットの頭の中はぐるぐると混乱した。
確かめなければならない。
絶対に。
トビアスは意地を張るのを諦め、他の招待客と同じように列に並んだ。
正門側の駐車場はすでに車で埋め尽くされていて、仕方なく裏手のゴミ置き場の近くに車を停めることになった。
「中に行く準備はできた?」
そう言って、トビアスが手を差し出した。
スカーレットは一歩後ろへ下がり、距離を取った。
「一人で大丈夫だから」
トビアスは一瞬ためらったが、それ以上は何も言わなかった。
ここで騒ぎを起こしても面倒なだけだ。
「好きにしろ」
彼はそう呟いた。
***
晩餐会は、ダリウスが姿を見せることもないまま、長々と続いていた。
スカーレットは胸にのしかかっていた重圧が、少しだけ軽くなった気がした。
おそらく彼は自分の私室にいるのだろう。
家族の集まりのような社交の場を嫌っているという噂は、以前から耳にしていた。
もし彼がこの食堂にいたら、スカーレットはまともに息もできなかっただろう。
なぜここまで動揺しているのか、自分でも分からなかった。
まだ、あの夜の男がダリウスだと決まったわけではない。
それなのに胸が苦しい。
それとも、本当は心の奥底ですでに答えを知っていて、それを認めることを拒んでいるのだろうか。
会話が仕事の話に移ったところで、スカーレットはトイレに行くと言って席を立った。
けれど、実際には中へ入らなかった。
彼女はこっそり庭へ抜け出し、新鮮な空気を吸うことにした。
ここなら、家族がトビアスを好き勝手にこき下ろしていても、その場に巻き込まれずに済む。
庭にいても、メインホールからは笑い声や話し声がかすかに聞こえてきた。
この屋敷は、どこを見ても桁外れの富を感じさせた。
大理石の遊歩道に、立派な噴水。
トビアスが一族から認められようと必死になるのも無理はない。
スカーレットはあてもなく歩き続けた。
そして気づいたときには、道に迷っていた。
石造りの小道が複雑に入り組み、彼女は敷地の静かな一角へ迷い込んでしまっていた。
人目につかない池の近くから、激しい騒ぎ声が聞こえてきた。
怒鳴り声が木々の間に響いている。
好奇心に駆られたスカーレットは、そっと近づいた。
そして、思わず息を呑んだ。
二人のボディガードが、男の襟をつかんで引きずり、頭を水の中へ押し込んでいた。
男を溺れさせている。
男は必死にもがき、恐怖に引きつった声で、自分は何も知らないと叫んでいた。
パニックで声は震え、今にも泣き出しそうだった。
その周囲を、黒い制服を着た十数人の警備員が取り囲んでいる。
スカーレットは慌てて茂みの後ろへ隠れ、両手で口を覆った。
心臓が胸を突き破りそうなほど激しく鳴っている。
男が完全に水中へ沈む寸前、警備員たちは彼を水から引き上げた。
そして、ゴミでも捨てるかのように石畳の上へ放り出した。
「ア、アルダマ様、お願いします!」
男は水を吐きながら泣き叫んだ。
「本当なんです! 嘘じゃありません! あなたの部屋に入った女のことなんて知りません! 顔だって見ていません!」
警備員の一人が、男の顎を思いきり殴りつけた。
「アルダマ様に嘘をつくな! 殺されたくなければ、あの女が誰なのか吐け!」
「知りません! 本当に何も知らないんです!」
男は泣きながら必死に訴えた。
次の瞬間、石畳に耳を塞ぎたくなるような鈍い音が響き、男の絶叫が辺りにこだました。
警備員が男の指を一本、無理やり後ろへ折り曲げた。
ダリウスから答えを引き出すまで、残りの指も折るつもりなのだ。
スカーレットの身体が強張った。
冷たい汗が背中を伝う。
ダリウスだった。
彼はあの夜のことを調べている。
ということは、まだ彼女があの女だと気づいていない。
あの夜、彼は酔いすぎていて、彼女の顔を覚えていないのだ。
恐怖と安堵が入り混じった。
今すぐここから逃げなければならない。
ダリウスに、自分があの夜の女だったと知られてはいけない。
スカーレットは静かに立ち去ろうとした。
しかし、その前に二人の警備員が現れ、出口を塞いだ。
「旦那様、誰かいます!」
一人がそう叫び、彼女の腕をつかんだ。
スカーレットは凍りついた。
それでも無理やり笑顔を作る。
「わ、私はただ通りかかっただけです。何も見ていません。トイレを探していただけで……」
「誰だ?」
暗闇の中を、ダリウスの冷たい声が突き抜けた。
「トビアス様の奥様です」
彼女の腕をつかんでいる警備員が答えた。
中庭が静まり返った。
そこにいた全員の視線が、スカーレットへ向けられる。
「こちらへ連れてこい」
ダリウスが命じた。
反応する暇もなかった。
警備員たちが彼女を引っ張り、スカーレットはよろめきながら前へ連れていかれた。
喉が締めつけられる。
目を合わせるのが怖くて、彼女はずっと俯いたままだった。
「す、すみません……」
声が震え、頭の中が真っ白になる。
ダリウスは低い屋外用の長椅子に身体を預けていた。
黒いVネックのシャツに、濃い色のパンツ。
影が顔の一部を隠していたが、光に照らされた部分だけでも、その造形の美しさははっきりと分かった。
彼の視線がスカーレットに向けられる。
怯えた彼女は小さく見え、長いまつ毛が恐怖で震えていた。
そんな無防備で弱々しい姿を目にして、ダリウスの胸の奥に、かすかな感情が芽生えた。
「顔を上げろ」
彼は静かに言った。
スカーレットはドレスをぎゅっと握りしめ、唇を噛んだ。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
ダリウスの顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
「なぜここにいる?」
彼は淡々と尋ねた。
「夫はこの辺りにはいないはずだが」
「迷ってしまったんです……」
スカーレットは小さな声で答えた。
「邪魔するつもりはありませんでした。ただ、トイレを探していて……」
「迷った?」
彼の声が冷たくなる。
「それとも、トビアスに命じられて俺を探りに来たのか? 俺の動きを監視しろとでも言われたか?」
「違います!」
スカーレットは慌てて首を振った。
「トビアスに言われたんじゃありません。そんなこと、絶対にしません。誓います」
彼女が片手を上げる。
しかし、ダリウスの鋭い眼差しは少しも和らがなかった。
やがて彼は手首をわずかに動かした。
それだけで、警備員たちに彼女を放せという合図が伝わった。
スカーレットはほっと息をついた。
震える足で二、三歩後ろへ下がる。
その瞬間、胃が大きくひっくり返るような感覚に襲われた。
突然、吐き気が込み上げてきた。
妊娠による、予期せぬ症状だった。
彼の椅子の近くに、大きな石造りのゴミ箱があるのが目に入った。
スカーレットはそこへ駆け出した。
しかし、足が石畳の段差に引っかかった。
身体のバランスを崩した彼女は、そのままダリウスの膝の上へ倒れ込んだ。
そして、彼の胸元に吐き気をこらえながらえずいた。
スカーレットの目が大きく見開かれる。
警備員たちが慌てて彼女を引き離そうとした。
だが、ダリウスが片手を上げて制した。
彼の表情が険しくなる。
スカーレットは何度か激しくえずいた。
けれど、何も出てこなかった。
波のような吐き気がようやく収まる。
「言ってみろ」
ダリウスが低く唸った。
顎が強くこわばっている。
「夫にここへ行けと言われたのか? 俺に自分から身体を差し出せとでも?」
ダリウスは彼女を石畳の上へ乱暴に押し戻した。
スカーレットは混乱したまま、彼を見上げる。
「そんなこと、絶対にしません……」
彼女は震える声で答えた。
「ただ、急に気分が悪くなっただけです。ごめんなさい。こんな事故まで私のせいだなんて思いませんよね? 私たちは家族なんですから」
その言葉を口にした瞬間、スカーレットは後悔した。
ダリウスが目を細める。
そして、乾いた、まったく笑っていない笑い声を漏らした。
「なるほど。なかなか頭が切れる女だな」
照明の向きが変わり、スカーレットの青ざめた顔がはっきりと照らされた。
「私はもう行きます……」
彼女はそう呟き、慌てて立ち上がった。
「失礼します、ダリウス叔父様」
二歩ほど進んだ、そのときだった。
ダリウスの手が素早く伸びた。
彼の手がスカーレットの手首を強くつかむ。
鋭く、瞬きひとつせずに彼女の目を見つめる。
スカーレットの胸が締めつけられた。
「彼は……私だと気づいた?」
「アルダマ様!」ヴァーニス・ヴィヴォリーが分厚い書類の束を両手でしっかり抱えながら、慌ててオフィスへ入ってきた。その目がスカーレットを捉えると、そこに得意げな光が一瞬浮かんだ。トビアスは爆発しそうになる怒りを必死に抑えた。「何だ?」静かな声で尋ねる。「メリディアン・インベストメント・パートナーズに断られました。招待状と一緒に、プロジェクトの資料もすべて返送されてきました」「役立たずめ!」トビアスは苛立たしげに吐き捨てた。スカー・バイアス・ホールディングスは、すでに倒産寸前だった。一方、ザ・Cアライアンスは担保に入れられている。残された資金はほとんどなく、選択肢もどんどん減っていた。もしメリディアン・インベストメント・パートナーズが手を差し伸べてくれれば、すべてが一瞬で変わる可能性がある。何より、そのトップはトビアス自身の叔父だった。トビアスは、叔父の人脈だけでも必要な支援を得るには十分だと確信していた。ヴァーニスは少しためらってから尋ねた。「アルダマ様、これからどうするんですか? すぐに資金を確保できなければ、スカー・バイアス・ホールディングスは終わりです」トビアスはスカーレットへ目を向けた。会社の大きな取引をいつも担当してきたのは彼女だった。冷静で、頭の回転が速く、決して諦めない。彼女なら、物事を実現させる方法を知っていた。トビアスはすぐにヴァーニスから書類をひったくると、スカーレットへ向かって投げた。「離婚したいんだろ? メリディアン・インベストメント・パートナーズをイエスと言わせることができたら、君の望みを考えてやってもいい」スカーレットは書類を受け取り、まっすぐトビアスを見つめた。「言ったことは本気なんでしょうね。あとになって約束を撤回するなんて、絶対にやめて」夫の返事を待つことなく、スカーレットは書類をまとめ、そのままトビアスのオフィスを出ていった。ドアが閉まった瞬間、ヴァーニスはすぐにトビアスへ近づき、その腕にしがみついた。「どうして彼女を頼るの? あなたでさえダリウス叔父様を説得できなかったのに、本当に彼女にできると思ってるの?」トビアスは彼女を押しのけ、睨みつけた。「仕事中にそんなふうに俺にしがみつくな。スカーレットに俺たちのことが知られたら、後悔させるぞ」ヴァーニスの顔が冷たくなり、やが
病院を出たあと、スカーレットはそのままスカー・バイアス・ホールディングスへ車を走らせた。彼女は、トビアスと二人で会社の名前を決めたときのことを今でも覚えていた。あの頃は、ただの夢に過ぎなかった。けれど、彼女の経営手腕と鋭い戦略のおかげで、会社は急速に成長し、トビアスを一気に上流階級の仲間入りへと押し上げた。ゼネラルマネージャー室へ近づくと、廊下にくぐもった笑い声が漏れてきた。明るく楽しげな笑い声に続いて、女の甘くからかうような笑い声まで聞こえてくる。スカーレットはノックする気にもならなかった。そのままドアを大きく開け放った。そこには、トビアスの前でヴァーニスが膝をついていた。何をしているのか、想像するまでもない姿だった。スカーレットの姿を見た瞬間、ヴァーニスは慌てて立ち上がり、急いで後ろへ下がった。ブラウスは途中までボタンが外れていて、大きく開いた襟元から胸元が露わになっている。頬は赤く染まり、髪は乱れていた。それでも彼女は、甘ったるい笑みを浮かべた。「アルダマ夫人、いらしたんですね」その声には、わざとらしいほど甘く、媚びた丁寧さが滲んでいた。トビアスは勢いよく妻へ振り向いた。顔から血の気が完全に引いている。「ハ、ハニー?」スカーレットはドアのところで立ち尽くしたまま、冷たい目で目の前の光景を見つめた。胃の奥から、強い嫌悪感が込み上げてくる。「何か邪魔しちゃった?」乾いた声で尋ねる。「二人が終わるまで、あとで出直したほうがいい?」「え? いや、違う。ペンを落としただけだ。彼女は拾おうとしていただけだ」トビアスは慌てて前へ出ると、ヴァーニスへ振り返った。「出ていけ。さっき言った仕事を終わらせろ」ヴァーニスはそれ以上何も言わなかった。スカーレットの横を通り過ぎると、彼女の後にはどこか聞き覚えのある香水の香りが残った。ここ数週間、トビアスから何度も感じていた、あの花の香りと同じだった。その意味は、あまりにも明白だった。トビアスは何事もなかったように振る舞おうと、グラスを手に取り、水を注いだ。「ハニー、来てくれて嬉しいよ。実はすごく腹が減ってるんだ。君のお気に入りの店で昼食を食べよう。話したいことがたくさんあるんだ」「昼食を食べに来たんじゃないわ、トビアス。離婚について話しに来たの」トビアスは息を呑んだ。
「ハニー!」少し離れたところから、トビアスの声が聞こえてきた。ダリウスはわずかに眉をひそめ、それからスカーレットの手首を放した。「行っていい」そう言うと、スカーレットはためらわずにその場を離れた。ただ、庭の木々が揺れる音に紛れて二人の声が聞き取れる程度に、歩く速度だけを少し落とした。一人のボディガードがダリウスのもとへ歩み寄り、ハンカチを差し出した。「旦那様、大丈夫ですか?」ダリウスは布を受け取り、無言のままゆっくりと指を拭った。その表情からは何も読み取れない。「何でもない。さっき、一瞬だけ彼女が見覚えのある女性に見えた。あの夜の女に似ていたんだ。私の勘違いだったようだ」「ご心配なく。少し時間をいただければ、あの方の部屋に忍び込んだ女性を必ず見つけ出します」「分かった」ダリウスの視線が暗闇の向こうへと流れていく。その顔には、遠い記憶を思い返すような表情が浮かんでいた。どうしても、あの夜の記憶を振り払うことができなかった。彼女はまるで何も知らないように無垢で、彼の手の下で震えていた。頬には涙が静かに伝い落ちていた。澄んだ瞳は明るく輝き、何の努力もせずに彼を惹きつけていた。前方では、スカーレットが敷地内を見回しているトビアスの姿を見つけた。彼女は緊張を落ち着かせるために深く息を吸ってから、彼の視界に入るように歩み出た。「ねえ。ここにいるわ」静かに声をかける。トビアスは急いで駆け寄ると、両手で彼女の肩を強くつかんだ。「どこにいたんだ? 何かあったのかと思った。心配でたまらなかった」スカーレットは反射的に一歩後ろへ下がり、二人の間に距離を作った。「私は大丈夫よ」トビアスは何かまだ言いたそうに彼女の後ろへ視線を向けたが、スカーレットはすでに出口へ向かって歩き出していた。これ以上話すつもりはなかった。***その夜、スカーレットはまったく眠れなかった。ベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、頭から離れないダリウスの顔に苦しめられていた。ホテルの部屋で出会ったあの見知らぬ男が、まさかトビアスの叔父だったなんて、想像したこともなかった。そのことを考えるだけで、胃がむかむかした。スカーレットはダリウス・アルダマについての噂を聞いたことがあった。冷酷な男で、競争相手を何のためらいもなく潰してしまうような人物。誰も逆らおうとはしない
スカーレットはごくりと唾を飲み込んだ。「うん……大丈夫。ただ、今日は外が暑いから。ちょっと……気分が悪くて」中庭にいる誰一人として、ダリウスを無視することはできなかった。背が高く、目を奪われるほど端正で、ただそこにいるだけで圧倒的な存在感を放っている。何の努力もしていないのに、周囲の視線をすべて引き寄せていた。洗練された黒いスーツに身を包んだ彼は、静かな高級感そのものだった。隙のない佇まい。鋭い眼差し。そして、どこまでもよそよそしい雰囲気。スカーレットが彼の顔をはっきりと見た瞬間、身体が凍りついた。圧倒されるほど整った顔立ち。その表情には一切の隙がない。ほんの一瞬、二人の視線が重なり、彼女の心臓が大きく跳ねた。スカーレットは慌てて顔を伏せ、助手席のシートに身を縮める。けれど、ダリウスの視線は彼女の上に留まらなかった。彼は警備員に車の鍵を放り投げると、そのまま門をくぐって中へ入っていった。本当に、ダリウスがあの夜の男なのだろうか?もし勘違いだったら?薔薇のタトゥーを腕に入れている男が、他にもいたら?スカーレットの頭の中はぐるぐると混乱した。確かめなければならない。絶対に。トビアスは意地を張るのを諦め、他の招待客と同じように列に並んだ。正門側の駐車場はすでに車で埋め尽くされていて、仕方なく裏手のゴミ置き場の近くに車を停めることになった。「中に行く準備はできた?」そう言って、トビアスが手を差し出した。スカーレットは一歩後ろへ下がり、距離を取った。「一人で大丈夫だから」トビアスは一瞬ためらったが、それ以上は何も言わなかった。ここで騒ぎを起こしても面倒なだけだ。「好きにしろ」彼はそう呟いた。***晩餐会は、ダリウスが姿を見せることもないまま、長々と続いていた。スカーレットは胸にのしかかっていた重圧が、少しだけ軽くなった気がした。おそらく彼は自分の私室にいるのだろう。家族の集まりのような社交の場を嫌っているという噂は、以前から耳にしていた。もし彼がこの食堂にいたら、スカーレットはまともに息もできなかっただろう。なぜここまで動揺しているのか、自分でも分からなかった。まだ、あの夜の男がダリウスだと決まったわけではない。それなのに胸が苦しい。それとも、本当は心の奥底ですでに答えを知っていて、それを認めることを
「私の部屋から出ていって!」スカーレットはベッドの上に立ち上がり、ドアを真っ直ぐに指さして叫んだ。「出ていってよ、トビアス!」彼の表情が一瞬で変わった。それまでの謙虚でなだめるような態度は消え去り、露骨な苛立ちへと変わる。「大げさに騒ぐのはやめてくれないか、スカーレット? 怒る気持ちはわかるけど、君のヒステリーに付き合い続けるのは無理だ。僕の忍耐にも限界がある」スカーレットの脳裏に、結婚前に二人で描いていた将来の夢がよみがえった。子どもは二人、日曜日は家族で過ごし、年に二回は海外旅行へ行く。すべて計画していたのだ。だが今、その約束はひとつ残らず灰となった。ただの空疎な言葉にすぎなかったのだ。「あなたの忍耐なんてどうでもいいわ! 耳が聞こえないの? 出ていって!」彼女の声は途切れることなく、むしろより大きく、鋭くなった。「出ていくの、いかないの?!」トビアスは苦々しいため息をつき、顔を手で覆った。「スカーレット、僕たちは夫婦だ。君が何を見ようが何を聞こうが、それは過去のことだろ。二度としない。僕は変わる。僕たちのこと、家族のことを第一に考えるよ」浮気癖のある奴なんて路上のゴミと同じだ、とスカーレットは冷ややかに思った。一度嘘をついた奴は、どれだけ約束を重ねようと一生嘘をつき続ける。彼女はマットレスから枕をひったくった。彼の隣で眠ることを想像するだけで、鳥肌が立った。彼はすべてを壊したのだ。絶対に許すつもりはなかった。「あなたが出ていかないなら、私が出ていくわ。客室で寝る」トビアスは拳を握りしめ、怒りで顎を固くした。以前なら、一言謝れば許してもらえた。だが、もう違う。スカーレットはついに思い知ったのだ。「好きにしろよ。どこででも寝ればいい」これ以上言葉を交わすことなく、彼女は彼に背を向けた。デスクへ向かい、携帯電話とノートパソコンを手に取ると、足早に部屋を出た。背後で、彼がマットレスに身体を投げ出す音が聞こえた。敷居をまたいだ瞬間、暗がりを切るように彼の声が響いた。「明日の親族の晩餐会を忘れるなよ。みんな君が来るのを待っている。君はもうアルダマ家の一員なんだ。自分から無理やり連れて行かせるようなマネはさせるなよ、スカーレット。僕を怒らせるな」彼女は答える気にもならなかったが、その顔に浮かんだ軽蔑の色だけで十分だった。彼の命令に従って行くわけで
「アルダマ夫人、おめでとうございます。妊娠2週目ですよ」妊娠2週目……その言葉が、スカーレットの頭の中で何度も激しくリフレインしていた。妊娠している。自分の体の中に小さな生命が宿っているのだ。だが、その子の父親は、夫ではない。診察室を出た彼女の手は、検査結果の紙を握りしめたまま震えていた。膝から崩れ落ちそうになり、突然突きつけられた絶望的な衝撃に脳の理解が追いつかない。4年間付き合った彼氏と結婚して、まだたったの1か月。それなのに、あろうことか結婚当日の夜、彼女は彼の浮気発覚という事実に直面した。彼のスマホには、見知らぬ女との親密な写真が大量に保存されていたのだ。受け入れられるはずもなかった。胸を抉られるような激痛だった。自分だけを愛すると、生涯の唯一の女性にすると誓ってくれたはずなのに。彼はその約束を、あっさりと裏切ったのだ。悲しみに暮れた彼女の足は、その夜、会員制のバーへと向かっていた。浴びるようにお酒を飲み、泥酔した挙句、間違ったホテルの部屋に入り込んでしまった。翌朝目が覚めると、隣には見知らぬ男が横たわっていた。暗がりの中で、その男の顔はほとんど見えなかった。覚えているのは、息が詰まるほどの圧倒的な存在感と、自分を飲み込まんばかりの広大な部屋の記憶だけ。恐ろしさと激しい後悔に苛まれ、彼女は振り向きもせず静かに部屋を抜け出した。まさか、たった一度の過ちで、見知らぬ男の子どもを身ごもることになるなんて、夢にも思っていなかった。どうすればいいのか、完全に途方に暮れていた。不安と焦燥感に押しつぶされそうで、一刻も早くこの状況から逃げ出したかった。もし他の男の子どもを妊娠したなんて知られたら、取り返しのつかない大騒動になる。携帯電話のバイブレーション音が響き、彼女はハッと現実へと引き戻された。夫のトビアスからのメッセージだった。「ハニー、病院の外で待ってるよ。もう終わった?」スカーレットは画面をじっと見つめた後、携帯をポケットに押し込み、無言でエレベーターへと向かった。ここ数日、熱っぽくてめまいが続いていたが、ただの体調不良だと気に留めていなかった。だが耐えきれなくなって病院を訪れた途端、この青天の霹靂とも言える知らせを突きつけられたのだ。建物の外に出ると、真っ先に路上に停められたトビアスの黒い車が目に入った。彼女は深呼吸をひとつして、足早







